座間コミニティー

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◆イエスは言われた。

2013年09月23日 14時46分30秒 | 聖書

「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ九・二三)

ある人の息子が悪霊につかれていた。その父は、弟子たちが息子をいやすことができないのを見て、キリストに対してもほとんど、あるいは全く信仰をもっていなかった。だから、イエスが子どもを連れて来るように命じられた時、「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言った。あわれな震えおののく父は、この「もし」ということばの置き場所を間違えた。そしてイエス・キリストは、「もし」を取り消すことをお命じにはならず、正しい場所に置かれた。イエスはこのように言おうとしておられたようである。「わたしの力、またはわたしが喜んでなすことに関して『もし』はいりません。『もし』は別な所につけるのです。もしあなたが信じることができるならば、信じる者には、どんなことでもできるのです」と。父親の信頼は強められた。彼はへりくだって、不信仰な私をお助けくださいと祈った。イエスがただちにことばをかけられると、汚れた霊は追い出され、イエスは二度と入るなと命じられた。
ここに私たちの学ぶべき教えがある。私たちはこの父親のように、常に「もし」を誤った場所において失敗をくり返す。もしイエスが私を助けられるなら、もし誘惑に勝つ恵みを与えられるなら、もし私に赦しを与えられるなら、もし私を成功させられるなら、と。しかし、もしあなたが信じることができるならば、主はなすことがおできになるのであり、むしろ、なすことを願っておられるのである。あなたは「もし」を間違った場所に置いている。あなたが大胆に信頼することさえできるなら、すべてがキリストにとって可能であるように、あなたにとってすべてが可能なのである。
信仰は神の力の中に立ち、神の尊厳をまとう。王の衣をまとい、王の馬に乗る。それは王があがめられることを喜ぶ恵みだからだ。すべてをなしてくださる聖霊の栄光に取り巻かれつつ、それは神の全能にあって大いなることをなし、勇敢に立ち向かい、力強く耐える。信じる者はすべてを無制限にすることができる。

 


ヨシュア記24章14-15節

2013年09月23日 07時11分41秒 | 聖書

24:15 「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」


この箇所は、賛美で「わがやとわれは主に仕えん」と歌われているところで、よく知られた箇所です。

ヨシュアは晩年になり、いよいよ天に召されていく時になってなお、自分の決意を述べて、私はどんなことがあっても、主に仕えると語っています。

 ヨシュアは、今まで主の導きの下で、民を導いてきました。

そこでは、その導いてくださった多くの主の恵みを覚えることができました。

そうした中で、改めて民に、あなた方は誰に仕えるのかと決断を促したのです。

彼は民に、それぞれが自分が仕えるべき神を決めなさいと告げました。

彼は、そのことで強制はしませんでした。

しかし告げたことは、真の神はこの天と地を造られた主のみであられるということでした。

そしてこの方に従っていくところのみ、真に豊かな祝福があることを告げたのです。



◆真 理 を 買 え

2013年09月23日 07時10分07秒 | 聖書

真理を買え。それを売ってはならない。
知恵と訓戒と悟りも。       (箴言二三23)

私は、このことばを読んですぐ、イエス・キリストのなさったたとえ話を思い出しました。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ一三44)。持ち物全部を売り払っても買いとるべき、人生の宝とは何でしょうか。イエス・キリストはそれを「天の御国」と言い、この箴言では「真理」と言っています。
岡井久子さんという方は、現代のヨブとでもいうべき方です。脳性麻痺とてんかんと筋ジストロフィーの三つの病気を負っておられます。幼い時に父に捨てられ、唯一の友だった亀にも死なれ、ただ一人のたよりだった母親にも先立たれました。天涯孤独となって、施設のベッドに横たわるだけの人生でした。
ところが、この岡井久子さんが病床で、一つの真理を発見したのです。神がいらっしゃる。神が愛していてくださる。私を生かして、尊い使命を与えていてくださる。やがて神が、苦しみも暗やみも涙もない、永遠の輝く御国に自分を連れていってくださる。――キリストにあってこの神の愛の真理を見いだした時、岡井さんは絶望をふりすてて、希望を手にしました。うらみや嘆きに代えて歌をとりもどしました。無為に過ごす代わりに、祈りを与えられました。病床でつづった数々の輝かしい詩は、『ヨブの涙』という本になって出版され、療養者文学賞まで獲得しました。イエスが言われたとおり、岡井さんを「真理が自由にした」(ヨハネ八32参照)のです。
この無上に尊い真理は、金や努力や知識で買うのではありません。神なき自我の道からまわれ右して信じるという、悔い改めと信仰という値を払えば、金なくして、だれの手にも入るものなのです。

 


◆神はその愛する方によって私たちを受け入れてくださった。

2013年09月23日 07時09分18秒 | 聖書

(エペソ一・六英訳)

なんという特権だろう。これは神の御前における私たちの義認を含むだけではない。ギリシヤ語の「受け入れる」ということばは、それ以上の意味をもつ。神の満足の対象であること、否、神の喜びの対象であることをさえ意味する。私たちは虫であり、死すべき者、罪人である。それなのに神の愛の対象となるとは!
ある信者は、その経験において受け入れられているように見える。少なくとも、彼らはそう理解している。たましいが力に満ち、希望に燃える時、神に受け入れられていると思う。そのような時、自分が高潔であり、聖化され、俗事をはるかに超越しているように感じるからである。しかし彼らは、ちりあくたのようなものに心ひかれる時、もはや受け入れられていないのではないかと恐れおののく。けれども彼らが、彼らの崇高な喜びは彼らを高めもせず、失望落胆は彼らを低くするのでもなく、常に完全にして、傷も汚れもない神の愛する御子によってのみ受け入れられていることを知るならば、どれほど幸福に満たされ、また救い主をあがめることであろう。
だから、主にある友よ。喜べ。あなたは「愛する方によって受け入れ」られている。あなたは心のうちをながめて「受け入れられる何ものもない」と言うであろう。しかし、キリストを見よ。そこにおいてすべてのものが受け入れられていないか。あなたの罪はあなたを悩ます。しかしその罪を、神はご自身の後ろに捨てられた。あなたは義なる方によって受け入れられている。あなたは腐敗と戦い、誘惑と格闘しなければならないが、すでに悪の力を征服した方にあって受け入れられている。悪魔は誘惑するだろう。しかし、雄々しくあれ。悪魔にはあなたを滅ぼすことはできない。あなたは、すでにサタンの頭を砕いた方にあって受け入れられている。あなたの栄光ある地位を確信をもって知れ。すでに栄化されたたましいは、天国で、「愛する方によって」受け入れられている。そして全く同様に、あなたはキリストにあって受け入れられている。

 


ユダの手紙 1章3-4節、20-23節(ネヘミヤ記13章)

2013年09月23日 07時06分16秒 | 聖書

★  1:3-4  愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
 
  というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。

★  1:20-23  しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

  疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。

■O:今日のコラム

イエス様の兄弟でもあるユダがこの手紙を執筆した目的は、3節にもあるように「信仰のために戦う必要」がやって来たからだと言っています。

この当時、グノーシス主義という間違った信仰を持った人々が教会の中に忍び込んで来ました。
グノーシス主義は肉体を悪いものとして、霊的なことばかりを追い求めていました。

霊的な知恵の極みに達することが出来たなら、肉体における生活は放縦に生きても大丈夫と考え、肉の欲のままに生活をしていました。
このような神の恵みを放縦に変えてしまう異端は、現代に生きる私たちの周りにもたくさんあります。

私たちはこのような敵に対して常に目を覚ましていなければなりません。

ユダはこのような敵に立ち向かうために何と言っているでしょうか?

20節には「最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り」とあります。

最も聖い信仰を持つためにはどうすれば良いのでしょうか?

それは、私たちが毎日イエス様の臨在の中に留まるということです。

私たちがあらゆる偽りに惑わされないためには、本物であるイエス様ご自身を毎日見続け、多くの時間をイエス様と共に過ごす事が大事です。

聖霊様を歓迎しましょう。多くの時間を祈りに費やし、多くの時間を異言を持って祈りましょう。

神の言葉である聖書をたくさん読み、私たちの心に蓄えましょう。

また、22節に「疑いを抱いている人々をあわれみ」とありますが、私たちの教会の中でも、もし、神様の真理について疑問を持っている人々がいたら、裁くのではなく、あわれみの心を持って神様のことを正しく教えてあげましょう。またその人の為にとりなし祈りましょう。

■A:考えてみよう

私たちは常に祈り続けているでしょうか?

時が良くても悪くても祈り続けましょう!
祈りによってサタンの偽りに勝利することが出来ます。

イエス様の御名を常に宣言して行きましょう!

■P:祈り

イエス様ありがとうございます。

いつもイエス様を愛し、あなたの御心に従って歩んで行けるように助けて下さい。
また、私に聖霊の豊かな油注ぎをください!

感謝します。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン