聖ニニアノ司教
360年ごろ-432年ごろ
ニニアノは、イギリスのカンブリアの族長の家に生まれた。洗礼を受けた後ローマに行って学問を修め、アングロ・サクソン人たちへの宣教をしようと決心した。394年に教皇によって司教に叙階された。イギリスへの帰路、トゥールの聖マルティノと出会い、彼の影響を受けた。帰国後、ホイットホーンに自分の司教区を作り、石造りの教会を建てた。後にその教会は「白い家」と呼ばれて有名になり、マルティノが亡くなったとき彼にささげられた。ニニアノは近くに修道院を建て、グランビアンに住むピクト人たちが偶像崇拝をやめ、真の信仰を受け入れるように説いて各地を回った。この修道院は、6世紀にアイルランド人修道士たちのための霊性教育センターとなった。
彼は、ホイットホーンの使徒、またピクト人の使徒と呼ばれている。
聖コルネリオ教皇
?-253年(在位251-253年)
聖コルネリオはカルタゴ(現在のチュニジア共和国)に生まれた。キリスト教徒ではなかったが、成人してから洗礼を受け、司祭への道を志した。後に叙階され、249年ごろ、カルタゴの司教になった。謙遜で善良なコルネリオは、デキウス帝の迫害によって苦しむ信徒たちを心にかけ、司教として励ました。250年1月20日に教皇ファビアノが殉教し、14ヶ月後、コルネリオが教皇に選ばれた。
コルネリオの在位中、「大罪のゆるし」と「迫害のときに棄教した信徒の教会復帰」が問題となった。コルネリオは「司教によれば、大罪をゆるすことができる」と主張し、カルタゴの司教チプリアノがこれを支持した。しかし、ノヴァティアヌスはコリネリオの主張に反対し、自らが教皇であると宣言した(対立教皇)。
251年、コルネリオはカルタゴに司教たちを集め、棄教者がゆるしの秘跡を受け、償いのわざを行えば教会に戻ることができることを確認した。これによって、ノヴァティアヌス派は排斥された。
同じ9月16日に記念するチプリアノ司教は、教皇コリネリオをあらゆる面でよく助けた。チプリアノは、教会が一つであるために、使徒ペトロの後継者である教皇のもとに、司教、信徒たちが一致することの大切さを強調した。
デキウス帝の死後、ペストが流行し、民衆の不満は、キリスト教徒に向けられた。そのため、トレボニアヌス帝もキリスト教を弾圧し、コリネリオは捕らえられた。彼は、追放されたチェントゥリチェッレ(現在のチヴィタヴェッキア)で253年に亡くなった。
聖チプリアノ司教殉教者
?-258年
聖チプリアノは、カルタゴ(現在のチュニジア共和国)に生まれた。彼は高い教育を受け、修辞学の教師、弁護士をしていた。貧しい人に持っているものを施し、洗礼を受ける前から、貞潔の誓いを立てていた。254年、彼は洗礼を受け、2年後司祭に叙階され、その後カルタゴの司教になった。
当時、デキウス帝の迫害で棄教したキリスト教徒が、教会に戻ることが問題となった。教皇コルネリオは「司教によれば、大罪をゆるすことができる」と主張し、チプリアノがこれを支持して、ノヴァティアヌス派に対抗した。また、ノヴァティアヌスによって分裂した教会で受けた洗礼について、チプリアノはその有効性を認めなかった。
チプリアノ司教は、同じ9月16日に記念する教皇コリネリオをあらゆる面でよく助けた。チプリアノは、教会が一つであるために、使徒ペトロの後継者である教皇のもとに、司教、信徒たちが一致することの大切さを強調した。
ウァレリアヌス帝(在位253年-260年)の迫害のとき、チプリアノはチュニジアのコルバに追放され、投獄された。258年、「神に感謝」ということばとともに、斬首によって殉教した。彼は優れた著作家でもあり、『主の祈りについて』『善行と施しについて』などがある。