ネポムクの聖ヨハネ司祭
1330年ごろ-1393年
ヨハネは、南ボヘミアのネポムクに生まれた。幼いころから司祭になることを志し、プラーグで神学、特に教会法を学んだ。司祭になると、プラーグ教会の主任司祭として活躍し、彼の博学と徳の高さが評判となって、人々の間に広まった。
王の願いで、宮廷の聴罪司祭(罪の告白を聴き、ゆるしを与える務めをもつ)となる。しかし、王の信心は表面的で、事あるごとに民に対して横暴な態度をとるので、皇后ヨハンナが王のわがままをいさめようとしたが、かえって王の怒り招き、さらに側近からざんげんされ、無実の罪を着せられるという事件が起きた。そのとき王はヨハネに、皇后の罪の告白の内容を告げるように命令した。しかし、ヨハネは司祭として告白で聞いたことを他言することはできないと、告白の秘密を守る義務を貫いた。そのため、ヨハネは、王から残酷な仕打ちを受けて殺された。
1719年のヨハネの列聖調査のとき、彼の舌は腐食していなかった。人々は彼の神に対する忠実さを賛え、聖堂に遺物として保存した。