座間コミニティー

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◆主は……

2017年05月31日 17時04分30秒 | 聖書
あなたのすべての病をいやし……。(詩篇一〇三・三)
この聖句は控え目に述べているが、しかし事実ははっきりしている。私たちはみな、多かれ少なかれ罪の病にかかっている。私たちの病気をいやすことができ、また喜んでそうしてくださる偉大な医者をもっていることを知るのは、なんという慰めであろう。
今夜しばらく主について考えよう。主のいやしは迅速である。主を一目見るだけでも力づけられる。主のいやしは完全である。主は病の根源を断たれる。だから主のいやしは確実である。主は決して失敗されることなく、病は決して再発することはない。キリストがいやされるならば、病がぶり返すことは決してない。主は患者に一時的な治療をされず、全く新しい人間に造り変えられるのである。主はまた、人々に新しい心を与え、彼らのうちに正しい霊を置かれる。主はあらゆる病の治療に熟練しておられる。医師にはそれぞれの専門があり、一つの病について、特に詳しく研究している。しかし、イエス・キリストは人間性のすべてに精通しておられる。主はどの罪人についても、その状態をよく知られ、決して治療の困難な例外的な場合に遭遇されることはない。主は、非常に複雑で奇妙な病を扱われなければならなかった。しかし主は一目見ただけで、どのような治療を施せばよいかをお知りになるのである。主は唯一の万能医師であり、主が与えてくださる薬は、すべての病をいやすことのできる唯一のものである。
私たちの霊の持病がどのようなものであっても、私たちはただちにこの医師である神に相談すべきである。イエスがいやすことのできない心の悲しみはない。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
主がちょっと手を触れられただけで、数えきれないほどの人があらゆる病からいやされた事実を考えてみよう。そうすれば私たちは、喜んで自らを主の御手にゆだねるであろう。私たちが主にゆだねるならば、罪は死ぬ。私たちが主を愛するならば、恵みは生きる。主を待ち望むならば、恵みは強くされる。私たちが主を目のあたりに見るならば、恵みは永遠に全うされる。
 

聖人の記念日

2017年05月31日 05時30分41秒 | キリスト教

聖母マリアの訪問

 

 聖母マリアのエリザベト訪問を記念する日。マリアが、天使から受胎告知を受けたころ、彼女の親族であるエリザベトも懐妊した。エリザベトは、長年子どもができず年老いていたので、マリアはエリザベトの懐妊を聞き、神の偉大な力に驚き賛美し、さっそく山里にあるエリザベトの家を訪ねる。マリアの訪問を喜んだエリザベトは「あなたは女の中で祝福された方です。……わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう……」と感動した。マリアは、神に感謝して祈った。この祈りが有名な「マニフィカト」である。

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
  身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。……」
     (ルカ 1.46~55)

 エリザベトを励まし手伝うマリアの行為は、神と隣人に対する愛の業である。



◆利 益 と 欠 損

2017年05月31日 05時29分41秒 | 聖書

すべての勤労には利益がある。
おしゃべりは欠損を招くだけだ。   (箴言一四23)
石油ショック以来、いろいろの国や国民や会社が石油問題で苦しんでいます。
ところで三年近く前のこと、ある産油国の様子をテレビで見ました。採掘や精製に使う設備が保全や修理がされないで、ほったらかしになっています。そこで、自分の国で使う灯油にまで事欠いて輸入しなければならない情況になるだろうと、くさったりさびたりした設備の写真が映し出された時には、心を刺されました。産油国であるその国にも、いろいろむずかしい複雑な事情もあることでしょう。しかし、石油でもうけて、なまけていて全く働かなかった結果を見せつけられたような気がしました。
勤労と労働は、人間に神が与えてくださった祝福です。
「働かざる者は食うべからず」(Ⅱテサロニケ三10参照)も、聖書のことばです。働くことをいやがったり憎んだりするのではなく、神からの贈り物とすることは、どんなに大切なことか分かりません。こう考えて、社会が必要とするものを骨身を惜しまずに生み出し、社会が必要とする仕事につく時、人は、自分の値打ちを認識できます。
そこには、働く喜びが伴います。自分のしていることが、教えることであれ生産であれ商売であれ、神の任命によっていることが分かり、生きていく力が与えられます。経済的な収入面ばかりではなく、目に見えないその他の点や目に見える多くの面で、利益・収益を得るのです。勤労と労働を尊ばない時、人生に必ず何かの欠損が生じるでしょう。
愛してくださる神のもとで、神から与えられ預けられた人生を、神から与えられた仕事のために労する勤労は尊いのです。
 

詩篇39篇12-13節

2017年05月31日 05時28分59秒 | 聖書


39:12 私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。


ダビデは、自分は旅人であり、また寄留者であると語っています。

この地で旅人であるという事は、自分の故郷はこの地にはないということです。

しかし彼が、自分はこの地で旅人であると語る時、自分は一人でこの地を旅しているのではなくて、「あなたと共にいる旅人です」と語っています。

主と共に歩んでいる者だというのです。

つまり、たえず物事を主の御心を思って見、また主の導きと励ましに従って歩んでいると言っているのです。

 この地上を旅人として過ごしていましても、時に苦しみや悲しみが訪れる時があります。

その時に、ダビデは神様に助けを求めて、「私の叫びを耳に入れて下さい」と叫ぶ、というのです。

主と共に旅をすることは、いつも主のみことばに聞き、みことばに教えられ、希望を与えられつつ、歩むことです。

これが、私たちの人生なのです。


◆王はキデロン川を渡り……。

2017年05月31日 05時27分01秒 | 聖書
(Ⅱサムエル一五・二三)
ダビデは裏切りの子アブシャロムに追われ、悲しみのうちに部下とともに陰気な川を渡った。神のみこころを求めていた彼は、困難から除外されていたのではなく、むしろその生涯は患難に満ちていた。彼は主に油注がれた者であると同時に、主の悩みを負う者であった。それなのにどうして私たちが困難を免れることを期待できるだろう。悲哀の門の前で、最も気高い人々が灰をかぶって座していたのに、私たちは困難に際して全く予期しないことが起こったかのように不平を言うことができようか。
王の王も楽しい立派な道を歩まれなかった。エルサレムの汚物が流れているキデロンの濁流を渡られたのである。神は罪のない子をただ一人もっておられたが、むちを加えられない子は一人ももたれなかった。イエスがすべての点において私たちのように試みられたことを信じるのは、私たちにとって大きな喜びである。
今朝私たちの渡るべきキデロンは何か。不信の友か。悲しい死別か。中傷か。暗黒の前兆か。私たちの王はこれらのすべてを渡られた。肉体の苦痛、貧困、迫害、侮辱か。私たちの王は先に立ってこれらすべてのキデロンの上を行かれた。私たちの試練が特珠なものであるとの考えは、ただちに、また永遠に捨てなければならない。なぜならすべての聖徒のかしらなるお方が、そのご体験により、私たちが特別なものと考えているその悲しみを知っておられるからである。すべてのシオンの民は、インマヌエルがかしらであり隊長である名誉ある哀悼者の群れに加わらなければならない。
ダビデは一時卑しい身分に下ったが、やがて勝利を得て都に帰り、またダビデの主は勝利を得て墓からよみがえられた。だから私たちも勇気を奮い起こそうではないか。なぜなら、私たちもまたいつの日にか勝利を得るからだ。今しばらくの間は罪と悲しみの汚れた流れを渡らなければならないが、やがて喜びにあふれて救いの井戸から水をくむのである。十字架の兵士よ。勇敢であれ。王ご自身がキデロンを越えて勝利を得られた。あなたもまた同様に勝利を与えられる。
 

5月30日(火)のつぶやき

2017年05月31日 01時23分34秒 | キリスト教