座間コミニティー

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◆私たちはこの方の栄光を見た。

2017年05月10日 15時18分51秒 | 聖書
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ一・一四)
信者よ。あなたはキリストが父なる神のひとり子であり、また死者の中から最初によみがえられたことを証しできる。あなたはこのように言うであろう。たとえ全世界の人がすべて主を人間と見ても、主は私にとって神である。神以外にできないことを、主は私のためになしてくださった。私のかたくなな意志を征服し、石のように堅い心を溶かし、青銅のとびらを開き、鉄のかんぬきを断ち切ってくださった。私の悲しみを笑いに、わびしさを喜びに変えられた。罪の奴隷であった私を導いて主のものとし、私の心を言い表せない喜びとあふれるばかりの栄光で満たされた。私にとって、主は御父のひとり子である。御名はほむべきかな。
主は「恵みに満ちておられる」。おお、もし主が恵みに満ちておられなければ、私は決して救われていなかったであろう。私が主の恵みから逃れようともがいていた時、主は私を引き寄せ、ついに私が、罪を宣告された犯罪人のように、震えながら恵みの御座に来ると、「あなたの罪は多かったが、すべて赦されたのだ。しっかりしなさい」と告げられた。
また、主は「まことに満ちておられる」。主の約束はまことであって、一つでもむなしくはならなかった。
私は証言する。私の救い主にまさる救い主を見いだした罪人はなく、私の霊にとって良い慰めであられるキリストよりも、良い慰め手を見いだした悲しんでいる人はない。私は主のほかに、何ものも必要としない。私が生きている時、主は私のいのちであり、死ぬ時には私の死であられる。私の貧しい時、キリストは私の富であり、病める時には私の床をのべてくださる。私が暗やみの中にある時、主は私の星であり、光の中にある時、主は私の太陽であられる。
イエスは私にとって怒りではなく全き恵みであり、全きまことであって虚偽ではない。そして、まことと恵みにおいて主は無限の満たしであられる。
私のたましいよ。心から「ひとり子」をあがめよ。
 

「彼は、前は役に立たない者でしたが、

2017年05月10日 15時18分05秒 | 聖書

今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています」(ピレモン11)

パウロがオネシモに会ったのは獄中だった。オネシモは逃亡奴隷だった。
主人の物を盗んでローマに逃げて、何かで捕まり投獄されていた。
獄中でパウロに出会い、回心してパウロに仕えていた。

当時、主人には逃亡奴隷を死刑にする権利があった。
しかし、パウロはそのオネシモのためにとりなす。
主人のピレモンにかけた損失分を自分が支払うので、オネシモを赦してくれるよう頼んでいる。
赦しを乞うパウロは、ただピレモンに赦すように言うのでなく、自らが犠牲を負い、払った。

ピレモンはパウロによって救われ、パウロに恩義があるはずだ。
又、パウロは使徒として命令する事もできた。
が、強いる事も命令する事もしなかった。
主が十字架上で、「父よ。彼らをお赦し下さい」と祈られた時も、流された血潮、裂かれた身体により、自ら犠牲を払って、御父に祈って下さった。

オネシモは、獄中という最悪の状況でパウロに出会った。
パウロとの出会いにより、最悪が最善に変わった。神に出会い救いに入れられ、罪が赦された。
そして、パウロのとりなしにより、主人ピレモンのもとへ帰ることができるようにされた。

あなたの状況は今、最悪だろうか。まるで獄中だろうか。
それが最善へと導かれる事を信じよう。
神に完全なご計画がある事、すべてが益とされることを今一度思い起こそう。
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最悪のところで神様に出会う。
役に立たない者、落胆している者に希望が与えられ主のために仕える者に変えられる。
なんと感謝な事だろう。どんな状況であれ、ご計画の中だ。



今日の聖人の記念日

2017年05月10日 08時09分31秒 | キリスト教

聖アントニーノ大司教

1389年-1459年

 アントニーノは、イタリアのフィレンツェに、公証人ピエロッチの子として生まれた。彼は小さくておとなしかったので、人々からアントニーノ(小さいアントニオ)と呼ばれた。

 学問や美学の才能に恵まれ、16歳のときにドミニコ会に入る。後に、イタリア各地のドミニコ会の院長および総長を40年間務めた。彼の教会法の学識は高く評価され、1439年のフィレンツェ公会議に神学顧問として列席し、1446年にフィレンツェの大司教になった。生活は質素で、お金や食べ物などを貧しい人々に与え、ペストが流行したときにはその援助に尽くした。


◆心のたくらみ

2017年05月10日 08時08分24秒 | 聖書

悪をたくらむ者の心には欺きがあり、
平和を図る人には喜びがある。   (箴言一二20)
かっとなって人を刺してしまったというようなことも、ままあります。裁判では、犯罪が計画的にたくらまれた場合にはその刑罰は重く、出来心や衝動的な時には情状酌量がされるようです。
人の心はよくたくらみ、計画するものです。どんなコンピューターよりすばらしく働きます。つり好きの人は、常に魚やつり場の情報を集め、虎視たんたんとつりに出かけるチャンスをねらい、スケジュールをつくり、出かけてしまいます。音楽好きの私の息子は、高校生時代から少ないお小遣いをやりくりし、まことに計画的にステレオを買い入れました。
あなたは、何も仕事がなく、ぼんやりしている時、何を考えるでしょうか。そんな時、あなたの心のたくらみが何かがよく分かります。ある人は、いつも酒や異性のことを考えます。ある人は、いつも競争相手をねたんだり憎んだりします。
聖書は、悪をたくらむ心の欺きと、平和を図る心の喜びとを対照させています。あなたの心や私の心はどちらでしょうか。同じ泉から苦い水が出たり甘い水が出たりしないように、けがれた心からはけがれたたくらみしか出ません。
さて、「平和を図る心」とは人の悪を思わない心です。復讐心・ねたみ・うらみ・うらやみからきよめられています。自分中心でなく、他の人々の幸せを心から求め、そのために祈り、人といっしょに泣き、喜び、そのために心の中に親切な計画を立てる愛の心です。こんな人の人生には、ほんとうの喜びがあるのです。イエス・キリストは、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ五9)と言われました。こんな心の持ち主となるために、あなたは愛の神が必要だとはお思いになりませんか。愛の心は人の力ではなく、神のわざだからです。
 

◆しかし、今やキリストは……

2017年05月10日 08時07分39秒 | 聖書
死者の中からよみがえられました。(Ⅰコリント一五・二〇)
キリスト教の全体は、「キリストは死者の中からよみがえられた」という事実に基づいている。なぜなら「もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる」のだからである。
キリストの神性はその復活により疑う余地なく証明された。主は「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」とあるからである。さらにキリストの主権もよみがえりに基づく。「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」なお私たちの受けたすばらしい約束の一つ、義認も、死と墓に勝たれたキリストの勝利と関連している。なぜなら「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたから」である。否、それだけでなく、私たちの新生も主の復活とつながっている。「神は……イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにして」くださったからである。また私たちの最後のよみがえりも確かにここに基づく。なぜなら、「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」と記されているからである。もしキリストがよみがえられなかったら、私たちもよみがえることはない。しかしよみがえられたならば、キリストにあって眠る者は滅びず、やがて肉体をもって必ず神を見ることができる。
こうして復活の銀の糸は信者のすべての祝福につながり、新生より永遠の栄光に続いて、それらを互いにつなぎ合わせる。復活の輝かしい事実はきわめて重要であり、かつ大いなる喜びである。
 

詩篇37篇10-11節

2017年05月10日 08時06分03秒 | 聖書


37:10 「ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。
37:11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」


悪者、つまり主を礼拝せず、主の御心に逆らった歩みをしながら自分の利益のために歩む人は、たとえその人がこの世で繁栄して、栄えるようなことがあったとしても、その栄光は瞬時だと語っています。

たとえそれが、その人がこの世に存在している全生涯に渡っての繁栄であったとしても、その期間はこの世で生きる期間だけであって、主の前に置ける、後の世の神の前に置ける、永遠の命の期間とは比較にならない短さだからです。

それは、しばらくだけのことなのです。

この世で主に従って歩むことによって、人々から受ける迫害が大きく、それによって貧しい者とされても、その人が天において神様から受ける報いは大きいと語っています。

なぜなら、その人は、神の国を受け継ぐからです。

どちらを選ぶのか、私たちは考えるべきなのです。



★マタイ8章8節

2017年05月10日 08時04分14秒 | 聖書


「しかし、百人隊長は答えて言った。『主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」

■O:今日のコラム
イエス様はマタイ5-7章の山上の説教を「権威ある者のように教えられた」(マタイ7章29節)とあります。マタイ8章に入り、そのことばの権威が実際に働き、天の御国がこの地上にあらわされることを私たちはみることが出来ます。

今日の箇所に出てくる百人隊長は、ローマ皇帝の権威の下で、100人の兵士を統括するリーダーであり、ことばの権威をよく知っている者でした。彼はイエス様に「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」と言いました。直訳では「一言だけおっしゃってください。」です。イエス様は彼の信仰をほめられました。なぜなら、彼は、イエス様のことばには権威がある、力があるということを心から信じ、信頼していたからです。

私たちも百人隊長のような神様のことばに対する信仰をしっかりと持ちたいと思います。信仰の土台は御言葉であり、私たちが祈る時「あなたの御言葉を下さい。」と求めながら祈っていくことが大事です。今起こっている状況や問題、これからの計画以上に、神様のことばを、まず求めるようにしていきたいと思います。そして、同時にその御言葉が実際にあらわされる!成し遂げられる!と信じる信仰を持っていきたいです。

イエス様は百人隊長に言われました。
「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」(マタイ8章13節)

私たちが信じたとおりになる、ということを覚えます。なぜなら、神のことばは生きており、私たちが信じるならば、「この神のことばは、信じる私たちのうちに働いている。(第1テサロニケ2:13)」からです。そして、神のことば、それはイエス様ご自身であり、この方にいっさいの権威が与えられているからです。
「わたしには、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28章18節)

■A:考えてみよう
百人隊長のように、「ただ、おことばをください。」と求めているだろうか?今起こっている状況や問題、これからの計画以上に、神様のことばを、まず求めるようにしていきましょう。そして、同時にその御言葉が実際にあらわされる!成し遂げられる!と信じる信仰を持っていきましょう。
もし、何か諦めてしまった祈り、御言葉を受け取っても、そうならないと思ってしまったなら、悔い改め、もう一度御言葉を信じて祈りましょう。神のことばを信じる信仰が回復しますように!

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11章3節)

私たちに与えられた御言葉が、イエス様ご自身が、今日!今!この瞬間!生きて働いて下さることを信じます。

■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


5月9日(火)のつぶやき

2017年05月10日 02時29分31秒 | キリスト教