座間コミニティー

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◆全うされた……。

2017年05月15日 16時18分46秒 | 聖書
(ヘブル一二・二三)
クリスチャンに必要な完全には二通りあることを覚えよ。イエスのご人格による義認の完成と、聖霊によってなされる聖化の完成である。新生した者の胸にも、現在なお腐敗が残っている。経験は、ただちにそのことを私たちに教える。私たちのうちには、なお肉欲や悪がある。しかし私は、神がお始めになったわざを完成される日の来るのを知って喜ぶ。神は私のたましいを、キリストにあって全きものとされるだけでなく、御霊によって全きものとし、しみや、しわや、そのようなものの何一つないものとされるのである。
このあわれな罪深い私の心が、神が聖であられるように聖となるとは、真実であろうか。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」としばしば叫ぶこの霊が、罪と死を免れることがあり得るのか。
ああ、幸いな時よ。早く来てほしい。聖化のみわざは、私がヨルダン川を渡る時完成されるであろう。その時まで私は、自らの完全を要求しないであろう。私の霊はその時、聖霊の火による最後のバプテスマを受けるであろう。私は、天国に導き入れられる最後のきよめを受けるために、死をさえ願う。御使いといえども、その時の私の状態よりきよくない。なぜなら、私は二重の意味において、「私はきよい」と言うことができるからである。すなわち、イエスの血と御霊のみわざによって二重にきよい。おお、ほむべきかな。私たちをこのように天の父なる神の御前に立つにふさわしくされる御霊の力は。
しかし、将来においてきよめられる望みがあるからと言って、現在の不完全に満足していてよいだろうか。そうであってはならない。そのようであるなら、私たちの望みは真のものではない。よい望みは、現在においてもきよめるものだからである。恵みのみわざは、現在においても私たちの中になされなければならない。そうでないなら、後の日に完成されることはない。私たちが義の実を豊かに結ぶことができるように、「聖霊に満たされる」ことを祈り求めようではないか。
 

「彼のことばがそのとおりになる時まで、

2017年05月15日 16時17分57秒 | 聖書

主のことばは彼をためした」(詩編105:19)

私たちの願いやビジョンが御心であっても、すぐにスムーズに願い通りには成就しないで、試練を通りながら、試されながら、実現して行くということであり、今までも経験した事だろう。

御心でないのでなく、御心であって、尚且つ成就するまでに、悩みや苦しみを通ると御言葉は言っている。
御心を行なうなら、物事がスムーズに、順風満帆に行くと思っていないだろうか。
なぜかわからないがそう思っている。

それで、御心に進み、悩みや苦しみに出くわすと、これは御心では無かったのか、御心を誤ったのか、怪しみ、悩む。
しかし、御心を間違ったのではなく、成就するまでに、紆余曲折があるということだ。
主の約束は、「試し」となって私たちに臨む。
それは私たちの心に潜んでいて、普段は現れることもなく、気づかない「不信仰」を見せられる。

霊に憑かれた息子の父親が、主のもとに来た時に、「できるものなら、と言うのか、信じる者にはどんなことでもできる」と言われ「不信仰な私をお助け下さい」と叫んだ。
不信仰な自らを助けて下さいと、主に頼った時に、息子はいやされた。

ヨセフは約束与えられながら、幾多の試練を通り、患難が忍耐を生み、忍耐が練られた品性を生み、造り変えられて行った。
主は私たちを訓練され、信仰を成長させ、御言葉を成就される。
その時、神の栄光が素晴らしく現れる。
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救われ信仰を持ったなら、いつの日にか奇跡のように信仰が成長するのではない。
紆余曲折を通らされ、試されふるわれながら訓練される。
けれど試練の時も主は同伴されている。感謝だ。



今日の聖人の記念日

2017年05月15日 06時28分53秒 | キリスト教

聖イシドロ農夫

1070年-1130年

 スペインのマドリッドの貧しい農家に生まれたイシドロは、幼いころから父の農業を手伝っていたが、一家の貧窮を救うために裕福な地主のもとで働くようになった。彼は熱心に働いたので、毎日、教会の中で祈る時間をもらうことができた。休まずに働いている他の人より、イシドロが耕す田のほうが収穫が多かったのである。

 彼は、「私は、植えるが、成長させるのは神である。植える者も水を注ぐ者も取るに足りない。ただ尊いのは成長させてくださる神である」という信念から、労働に祈りを合わせていった。温かい心の持ち主で、ある雪の降る日、小麦を製粉所に運んでいく途中、小鳥が食べ物がなく震えているのを見て、小麦の半分を与えた。減っているはずの小麦が、製粉所に着くまでに奇跡的にいっぱいになっていたという。農業の保護者である。


◆正しい者の光

2017年05月15日 06時27分40秒 | 聖書

正しい者の光は輝き、
悪者のともしびは消える。      (箴言一三9)
「正直者はばかを見る。」「正しくやっていたのでは成り立たない。」これが、現代人の考え・生活哲学ではないでしょうか。
しかし、神はすべてを見ておられます。やがて正しくさばかれる時、正しい者には必ず報いてくださいます。これが、聖書の教えです。そして聖書は、「不正直はその場かぎりだ」と言うのです。小さなともしびが初めは明るくともっていたのに、だんだん小さな火になり、やがて消えてしまう、そのようなものだと言うのです。
私の子どものころ、私の町によく見世物小屋がかかりました。「親の因果が子に報い、首が二つ、手が四本、あわれなお化け娘でござーい。」そんな口上で、人々を呼びこんだわけでした。入ってみると、全くのいんちきです。こんな見世物小屋は祭りの間だけで、長く営業はできません。だれも、二度と見に行く人はありません。それと同じように、不正直なごまかしはその場かぎりです。やがて、人の前でもだめになり、もちろん、神の前にはさばかれるのです。
ビリー・グラハム博士にお会いした時、グラハム博士が、私の上着のえりに銀色のバッジをつけてくれました。それには、「トライ・ゴッド(神を試してみよ)」と書いてありました。それは、神の言うことに誤りはない。あなたの生涯をかけて、神の言われることが正しいか、それとも世の中の人の言うことが正しいかを試してみよというチャレンジのことばだったのです。
私たちは、安易な道をとらず、神の示す正しい道に従い、いわば神を試してみる勇気を持つべきです。そのように勇気をもって神に従う時に、その人生は輝き、いよいよ輝きを増していくのです。
 

◆信じる者はみな、

2017年05月15日 06時27分00秒 | 聖書
この方によって、義と認められるのです。(使徒一三・三九欄外注)
キリストを信じる者はただちに義と認められる。信仰はだんだんに義の実を結んでいくのではなく、今、実を結ぶのである。義認は信仰の結果であるから、たましいがキリストに近づき、キリストをすべてのすべてとして受け入れた瞬間に与えられる。神の御座の前に立つ者は、今、義と認められているのであろうか。そうだ。そして私たちも同様に義と認められている。
私たちは、白い衣をつけて歩み、天上のたてごとに合わせて美しい賛美を歌う彼らと同様に、真実に、また明白に義と認められている。十字架上の犯罪人は、信仰の目をイエスに向けた瞬間に義と認められた。そして長年伝道のために辛苦の生涯を送った老パウロでも、何の奉仕もしなかった犯罪人以上に義とは認められなかった。
私たちは、今日愛する御子によって受け入れられ、今日罪を赦され、今日神の法廷から無罪放免されているのである。ああ、心の躍る喜びではないか。エシュコルのぶどうの木には、私たちが天国に入るまでは取ることのできないふさがある。しかしこの恵みは、塀を越えて外に出ている枝である。これは、私たちがヨルダンを越えなければ食べることのできない穀物ではなく、荒野の中のマナであり、あちこちと旅をする私たちに神が与えてくださった食物である。
私たちは、今という今、罪を赦され、今、罪を取り去られ、今、これまで一度も罪を犯したことがないのと同じ状態で受け入れられている。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」神の書の中には、神の民を断罪する罪は今は少しもない。
あえて神の民を告発しようとする者はだれか。義とされて神の民となった以上はだれであっても、全地のさばき主の前に一点のしみもしわもない。この今の特権が、私たちを今の義務に目覚めさせてくださるように! この世に私たちが生きている限り、自分の生涯を愛する主のために使い果たそうではないか。
 

詩篇37篇21-22節

2017年05月15日 06時25分35秒 | 聖書


37:21 悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す。
37:22 主に祝福された者は地を受け継ごう。しかし主にのろわれた者は断ち切られる。


主は、主の御心に喜んで従って歩む人を祝福されます。

それらの人々は、人に対して情けを持ち、貧しく苦しんでいる人々に目を向けて、助けを差し出します。

しかし、主の御心を思わない人は、人から物を借りることによって恩義を感じても、その恩に報いることをしないで、反対にその借りた物を返すことをしないということまでするのです。

このような人は、主の御心を無視している人々であって、主はそのような人の歩みを喜ばないと告げています。

主の御心は、日常的な些細なことで、私たちには余り関心がないように思えることでも、その目はこうした小さな事にも注がれていると言っているのです。

私たちも、小さな事でも見ていて下さる主のお心を覚えて、人が見ていなくても、主に喜ばれることをしてまいりたいと思うのです。

主はコップ一杯の水でも、乾いている人に与える行為を喜んで下さると言っておられます。


マタイ13:44

2017年05月15日 06時23分37秒 | 聖書


★天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

■O:今日のコラム
多くの物を持たないことはとても幸せなことです。なぜなら、私たちは持っている物に支配されてしまうからです。かつて私は、物がある豊かな生活に憧れましたが、今はどれだけ減らせるか、人に与えられるか、どれだけ持たないか、所有しないかに価値を置いています。

私の夢は、自分の持ち物を一つのスーツケースに入る分だけに減らすことです。一時期は、それに近いと言ってもいいくらい少ない荷物でキープ出来たのですが、生活の変化や子供の成長などにより物が増えてしまいました。今ではスーツケース一つ分とはほど遠いものです。

あれはどこにしまったっけ、この引き出しには何が入ってるんだっけ…このように、物がどこにあるかが把握出来なくなったら、整理すること、物を減らしていくことを真剣に考えなければなりません。物を探すのに一日の多くの時間を費やしてはもったいないことです。私たちには、他に探すべき宝、時間をかけて見出すべき宝があるからです。

マタイ13章には7つの天の御国のたとえが書かれていますが、これら7つのたとえは、世の初めから隠されている奥義(35節)です。とても壮大な神のご計画ですが、その奥義の中心は「イエスキリスト」です。

4つ目の「畑に隠された宝」(44節)のたとえは、天の御国の中心部分となっています。畑に隠された宝を見出すなら、大喜びで持ち物全部を売り払う…とありますが、私たちは本当の宝、本当に価値あるものを見出すなら、喜んで犠牲を払い、自分の持ち物を手放すことが出来るのです。持ち物を売り払うとは、生き方そのものが変わることを意味しています。それほどまでに天の御国には絶大な価値があるのです。

御国を求めて祈ること、イエス様を熱心に捜し求めること、みことばをたくさん朗読すること、みことばに従うこと、異言で祈ること、自分の持ち物や時間を捧げること…多くの人がそのような歩みは価値がないと思うかもしれません。しかし、そのような地道な歩みの中にこそ、まことの命なる宝が隠されているのです。

「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:12~13)

人の目に大きく映るもの、また、賞賛されるような大きな働きは、魅力的に思えます。しかし、その報いは一時的であり、この世で得た賞賛はやがてすたれます。しかし、主を愛し、主のみことばに従うことは、いのちに至る道であり、永遠に残る報いとなります。
自分の宝を地上にたくわえるのではなく、自分の宝を天にたくわえようではありませんか。

「それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します。」(詩篇119:127)


■A:考えてみよう
教えの風(流行、ムーブメント)に流される群衆ではなく、しっかりと地に足をつけ、みことばにとどまり、みことばに生きる弟子となりましょう。

従う第一歩として、まず自分の自我を主の前に差し出しましょう。また、自分の持ち物を誰かに分け与えること、誰かを助けることを通して、今日、天に宝を積みましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


5月14日(日)のつぶやき

2017年05月15日 01時30分58秒 | キリスト教