座間コミニティー

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◆アーメンである方……。

2017年04月19日 16時05分51秒 | 聖書
(黙示録三・一四)
アーメンということばは、これまで語られたことを厳粛に肯定することばである。イエスは偉大な肯定者であられる。あのすべてのお約束におけるアーメンは、永遠に変わることがない。罪人よ。私はこの思いをもってあなたを慰めたい。イエス・キリストは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われた。もしあなたが神のもとへ来るならば、主はあなたのたましいの中でアーメンと言われるだろう。主のお約束はあなたにとって真実なものとなる。肉体をとって地上におられた時、主は、「いたんだ葦を折ることをしない」と言われた。打ちひしがれ傷ついた心よ。もしあなたが主のもとへ行くならば、主はアーメンと告げられるだろう。それは、過去の無数の場合と同じように、あなたのたましいにも真実である。
救い主のくちびるから出たことばが、かつて一言でも撤回されたことがないのは、大きな慰めである。天地は滅び去るであろうが、イエスのことばは立つ。神の約束を信じないために、神のみことばから来る慰めの多くを破壊する人々があることに注意せよ。
主はかつて、赦し聖める祭司であられ、今もなお祭司としてアーメンであられる。その民にとって主は統治の王であり、力強い御腕をもって彼らを守られた。そして、今もなお王としてアーメンであられる。主は昔の預言者であり、来るべき良きことを預言されたが、今も預言者としてアーメンであられる。主はご自身の御血のいさおしに関してアーメンであり、主の義についてもアーメンなのである。その聖なる衣は、この自然が朽ちる時にも美しく輝くものとして残る。主の称号はアーメンである。あなたの夫として主は決してあなたに離婚を求められない。主はあなたの友として、あなたの兄弟より近く、あなたの羊飼いとしては、暗い死の谷間にも共にいてくださる。
主こそあなたの助け、救い主、城、また高いやぐら、あなたの力の角、頼み、喜び、そしてあなたのすべてのすべてであり、あなたのアーメンであられる。
 

「イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、

2017年04月19日 16時05分03秒 | 聖書

人についてのだれの証言も必要とされなかったからである」(ヨハネ2:25)

「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた」が、「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった」。
多くの人が主を信じたが、主は、彼らを信じられなかった。信用されなかった。

多くの人々が群れをなして、主について回ったが、主を追いかけているのは、主を求めてでは無かった。
自分に利益になるものを求めて、追い回していた。
「あなたがわたしを捜しているのは、パンを食べて満腹した」の通り、自分の欲しいものが得られたからだ。

信じたと言っても、自分に都合の良い限りは、願望が満たされている間は、ついて行くが、それが満たされなければ、手のひらを返したように、主から離れ去る。
御利益信仰だ。利用に価するので、信じているだけで、価値が無くなれば捨て去る。

主を追いかけていた多くの群衆はそうだった。
ユダもローマ帝国をくつがえして、主が天下を取るとの思い込みがはずれ、自分の思い描いた主でないことに失望した。
そして主を捨てた。

私たちは、何のために主について行っているのだろう。主は信頼に足る信仰を探しておられる。
信頼できる信仰に、ご自分を委ねようと思っておられる。
主を利用するのでなく、主に自らを明け渡して、従って行こうとする信仰を探し求めておられる。
主が私たちにご自身を委ねられるなどとは、何という驚くべきことだろう。
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ああして欲しい、こうして欲しいと祈るのもいいが、けれど御心のまま・・が最善との信仰がなければ虚しい。
自己中心、自己実現のために主に付いて行っているのだろうか。


今日の聖人の記念日

2017年04月19日 05時51分08秒 | キリスト教

聖アルフェッジ大司教

954年-1012年

 聖アルフェッジ大司教は、イングランド、ウェストンの高貴な家庭に生まれた。後に修道士となり、聖ベネディクトの会則に従って共同体を作った。

 彼は、984年にウィンチェスターの司教、1005年にはカンタベリー大司教に任命された。教会や修道院の規律の改革、貧しい人びとの救済に献身した。10世紀末、イングランドはデーン人(バイキング)に攻撃され、彼はカンタベリーで捕らえられた。多額の身代金を要求されたが、彼は小教区の貧しい信徒たちが払うのを望まず、7ヶ月間監禁された。拷問の末、1012年4月19日、復活祭の日、斬首によって殉教した。

 当初、ロンドンのセント・ポール大聖堂に埋葬されたが、1023年にはカンタベリー大聖堂に移された。当時から殉教者として敬われ、1078年、教皇グレゴリオ7世により列聖された。


◆他人をさげすむ者

2017年04月19日 05時50分02秒 | 聖書

 隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。
しかし英知のある者は沈黙を守る。(箴言一一12)
新聞に、非行少年の記事が出ているのを読んで、「どんな育て方してるんだ。親の顔が見たい」と言った人がいました。その時私も「そうだね」と言ってしまって、ハッとしました。私自身の心の中に、「私の子どもたちはそんなじゃない。ばかな親だな」という気持ちがあったことに、ふっと気がついたからです。もし、私たちがいつもまわりの人をけなし、自分はましだと思っていたとしたら、これは危険です。私たち自身に、大きな欠陥があると思わなければなりません。
あなた自身が人から軽蔑された時どう感じるか考えてごらんなさい。どうですか。もしあなたに人をさげすむ傾向があるとしたら、まず第一に、あなたは冷酷で自分中心だといえます。神が造り、いのちを与え、個性を与えていてくださる私たちお互いです。人には、私たちが判断しきれないほどの深さ・尊さがあります。しかも、一人一人が背負いきれないほどの重荷を持って生きているのです。それなのに人をさげすみ、見くだす人は、自分自身をよく知らない人です。隣人の人格をよく知ろうとしない愛のない人です。その人は神を恐れないし、神を知りません。そして、他人を軽蔑ばかりしている人は、最後には必ず、自分で自分をみじめにする孤独な人になるのです。
他人の欠点を見ても軽蔑しないで、だまってその人のありのままを受け入れ、ゆるし、祈り、愛する人は、人生で一番大切な英知を持っている人といえましょう。
あなたの弱さ・欠点・ずるさ・きたなさ・罪を知りながら、愛し、ゆるし、だまって待っていてくださる方が一人いらっしゃいます。それは、あなたの天の父である神です。そのお方が、あなたを愛し、守り、支えていてくださるのです。この神を、いつも知っていこうではありませんか。
 

◆見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

2017年04月19日 05時49分11秒 | 聖書
(マタイ二七・五一)
丈夫な厚い幕が裂けるというのは、考えられない奇蹟である。しかしそれは、単に力を誇示するためになされたのではない。この中には多くの教訓がある。
古い律法の儀式は廃止されて、着古した着物のように裂かれ、捨てられた。イエスが死なれた時に、犠牲はことごとく終わりを告げた。なぜならすべてが彼のうちに成就されたからである。それゆえ、その儀式の場所がもはや不用になったことが示された。
幕の裂けたことは、古い時代に隠されていたすべてのものがあらわにされたことを意妹する。贖罪所も今は見えて、神の栄光がその上に輝き始めた。主イエスの死により神が私たちに明らかに啓示されたのである。なぜなら主イエスは、「モーセが……顔におおいを掛けたようなことはしない」からである。不死のいのちが今や明るみに出され、世の初めから隠されていたものが彼の中に現された。
年ごとに行われてきた贖いの儀式はこうして廃止された。これまで年に一度ずつ幕の中で贖いの血が注がれたが、今や大祭司により最終のものがささげられたため、象徴的に儀式を行ってきた場所は粉砕された。もはや雄牛や小羊の血は必要ではない。イエスがご自身の血を携えて幕の中に入られたからである。
キリスト・イエスを信じるすべての信者に、神に近づくことのできる特権が与えられた。もはや狭い隙間から贖罪所をのぞいて見る必要はない。聖所の幕は上から下まで真二つに裂かれた。私たちは、はばかることなく天の恵みの御座に近づくことができる。
主の最後の絶叫により、不思議にも至聖所が開かれたのは、主のご苦難のゆえに、天国の門がすべての聖徒のために開かれたことの型であると言えないだろうか。血を流された私たちの主は、天国のかぎを持っておられる。主が開くなら、だれもそれを閉じることはできない。
主と共に天国に入ろうではないか。そして私たちの共通の敵が主の足台とされるまで、そこに主と共にとどまろうではないか。
 

詩篇33篇1-5節

2017年04月19日 05時47分35秒 | 聖書


33:1 正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。
33:2 立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。
33:3 新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。



歌は心の喜びを表します。

しかし、その歌でも、主への賛美は特別です。

主を褒め称えるための歌は、正しい者達、つまり主によって罪許された人達が、主に向かって喜びと感謝を持って歌い、主の御名を覚えて、主を褒め称える歌です。

このような歌は、主にある者にふさわしい歌です。

ですから、主に特別な恵みに預かっている者として、心からの賛美と感謝を持って、主を褒め歌えと語っているのです。

その心の喜びを、主を称える歌を持って表していこうと言っているのです。

礼拝で主の御名を覚えて、一緒に主を褒め称える賛美の時があります。

また、一人で、その日の恵みを思い返したりして、主を称えることがあります。

こうした主への感謝の歌は、主にある者にとってこそふさわしい歌なのです。

心から、賛美しましょう。


エレミヤ書50章20節、30~32節

2017年04月19日 05時45分29秒 | 聖書


★その日、その時、-主の御告げ-イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ。」

★「それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士もまな、断ち滅ぼされる。-主の御告げ-高ぶる者よ。見よ。わたしはあなたを攻める。-万軍の神、主の御告げ-あなたの日、わたしがあなたを罰する時が来たからだ。そこで、高ぶる者はつまずき倒れ、これを起こす者もいない。わたしは、その町に火をつける。火はその回りのものをすべて焼き尽くす。」



ぺテロの手紙第二1章2~4節、20~21節

★神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

★それには何よりも次のことを知っていなければなりません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらせたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!4月18日の朝です。今日1日も、主をさらに知っていけるように求めて、御言葉を宣言していきましょう。主を知ることによって、恵みと平安が、今までよりも、ますます豊かにされるからです。

主イエス様は、僕らの罪、咎のために、十字架の上で裂かれ、尊い血を流されました。そして、天のお父さんは、イエス様のゆえに、僕らの罪、咎を赦してくださいます。それは、僕らを愛してくださっているからです。僕らが、自分勝手に生きるのではなく、神様と共に歩むためです。

僕らが、高ぶり、主を必要としていないならば、恵みと平安は去っていきます。高ぶる者は主から攻められ、罰せられ、つまずき倒れるからです。高ぶる者を支えるのは、自分の力だからです。自分の力には限界があります。

『なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。』『人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。』(詩篇37篇17,23~24節)

自分の弱さを認め、悔い改めて、イエス様の前に心の貧しさを伝えていくときに、僕らは、主の与えてくださる恵みと平安をますます豊かに与えられていきます。自分の弱さを見る時、主の助け、主の力、主御自身が必要だと知ることができるからです。主が、自分の罪、咎を赦してくださるという有り得ないほどの祝福は、その自分の罪や咎を知り、認めるときに受け取ることができます。

僕らが、自分にはイエス様が必要だと認めるときに、イエス様が神様としての御力によって、いのちと敬虔に関するすべてのことを与えてくださいます。僕らが、弱さを認め、主を求める時に、主イエス様の、主としての、全知全能なる神様としての本来の力を発揮なさるのです。

主は、僕らの高ぶりがつまずき倒れる時に、『その町に火をつける。火はその回りのものをすべて焼き尽くす。』のです。聖霊様の火が、僕らの内側に火をつけてくださいます。僕らの内側を焼き尽くしてくださいます。だから、聖霊様をますます求めていきたいです。

天のお父さんなる神様と主イエス様を知るためには、御言葉が必要です。そして、聖霊様から教えて頂かなければなりません。聖霊様は神様です。神様によって神様のことを、ますます教えて頂きましょう。

そして、与えられた恵みと平安によって、僕らは、自分のために生きるのではなく、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神様のご性質にあずかる者となるのです。だから、今日も、御言葉を求め、主に賛美を捧げ、悔い改めていきましょう。

■A:考えてみよう
御言葉を求めていきましょう。
主に賛美していきましょう。
悔い改めていきましょう。

「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがた(私、家族、友人、職場、学校、地域)の上にますます豊かにされますように。」と祈り求めていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


4月18日(火)のつぶやき

2017年04月19日 01時31分20秒 | キリスト教