座間コミニティー

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◆いつまでも、

2017年04月15日 16時21分49秒 | 聖書
彼らを高めてください。(詩篇二八・九英訳)
神の民は高められることを必要とする。彼らは元来たいへん身が重い。翼をもっていない。たとえもっていてもそれはひなの翼のようなもので、神の恵みによらなければ、銀色の翼、金色の羽をひるがえして空高く舞い上がることはできない。火の紛は上に向かって飛ぶ性質をもつ。罪深いたましいは下へ落ちる。ダビデ自身は「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます」と言った。そして彼はここで、他の人々のたましいも彼のように高められる必要があると感じている。あなたが自分のためにこの祝福を求める時、他の人々のためにもそれを求めることを忘れてはならない。
神の民が高められなければならない三つの面がある。まず、その品性である。主よ。彼らを高めてください。あなたの民をこの世の民のようにさせないでください。世は邪悪の中に横たわっています。彼らをその中から高めてください。世の人々は金銀を求め、自らの快楽を追求し肉欲を満たすことを求めます。しかし主よ。あなたの民をそうしたすべての上に高めてください。彼らの心が、よみがえられた彼らの主、天の相続財産の上に置かれるようにしてください。
さらに信者は、戦いにおいて勝利を得る必要がある。たとえ彼らが倒れるように見える時も、おお主よ、彼らに勝利を与えてください。たとえ敵の足が、しばし彼らの首を踏みつけることがあっても、彼らを助けて、御霊の剣を取らせ、ついに勝利を得させてください。主よ。戦いの日にあなたの子どもたちの心を高め、彼らがちりの中に座して、いつまでも嘆くことのないようにしてください。敵が彼らをひどく悩ませ、彼らをいらだたせることのないようにしてください。彼らがハンナのように迫害される時も、彼らに救いの神のあわれみを歌わせてください。
そして私たちは、最後に主が彼らを高めてくださることを祈る。彼らを家に連れ帰ることによって、彼らを高めてください。彼らの肉体を墓より高め、彼らのたましいをあなたの永遠の国の栄光にまで高めてください。
 

「主は私を緑の牧場に伏させ、

2017年04月15日 16時20分59秒 | 聖書

いこいの水のほとりに伴われます」(詩編23:2)

ある人が、ある時期、仕事が非常に立て込み、深夜帰宅、早朝出勤が続いた。
身体もくたくたで、心身疲れ果て、祈る時間もない日々だった。
心は渇いて、通勤電車の中で座って、又、ある時はつり革を握り立ったままで、祈りの時とした。

心の中で祈った。
主はあわれんで下さって、心が守られた。イライラ、ピリピリ、トゲトゲして、荒んでいた心が、人々で混雑の中で、目を閉じ、主に集中し心の内を告げていると、心を静めて下さり、平安と交換して下さった。

安堵が心に広がった。ある主婦は、多忙の中、やむなく草刈りの必要が生じ、時間を取られる事に落胆した。
しかし、心を主に向け、目の前の作業を受け入れ、主への礼拝行為として、この仕事をしますと祈った。

単純作業であり、草を刈りながら、その時間を祈りの時とし、主と交わった。
多くの執り成しの祈りまで出来て、仕事が終わった時には、畑は見事に綺麗になり、心もすっかり新たにされ、主との交わりで喜びに満ちていた。

ある人は昼休みに職場の屋上で、近くの公園で、しばしの交わりを持った。
主は、あなたの多忙な状況をご存じだ。ほんの数分でも、主に心を向けてみよう。
霊が主に触れる時、新たにされ息を吹き返す。
多忙の中で、しばし、心を主に向けて、祈ってみよう。
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多忙だからこそ祈り、主との交わりの中に少しでもいられる事が恵みだ。
イライラしてます、トゲトゲしていますと主に告げる時、必ず主が助けて下さる。
慰めを、平安を下さいと祈ろう。


今日の聖人の記念日

2017年04月15日 07時38分29秒 | キリスト教

聖リドヴィナおとめ

1380年-1433年

 オランダの貧しい家庭に生まれたリドヴィナは、信仰厚く教育する父のもとで、背のすらりとした美しい娘に育った。ところが、15歳のときにスケートで転んで肋骨を折ったことが原因で次々と病を併発し、体じゅうが痛むようになった。生けるしかばねのようになったリドヴィナは次第に邪魔者扱いされた。そんな彼女を支えたのは、イエスの受難の黙想だった。人々の悩み苦しみを背負って十字架につけられたキリストにならい、リドヴィナも自分の苦しみを人々の救いのためにささげ、多くの人のために祈った。38年という長い間、彼女はベッドに釘づけられたままだったが、心は清くあり続け、復活祭後の火曜日に息を引き取った。

 かかりつけの医師は彼女の貧しい家の跡地に病院を建て、また彼女の墓地の上にも、現在美しい病院が建っている。


◆誠実さの価値

2017年04月15日 07時36分37秒 | 聖書

直ぐな人の誠実は、その人を導き、
裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。(箴言一一3)
この世の中で、安心して何かを任せられる人とは、いったいどんな人でしょうか。それは何といっても、正直な人・誠実な人です。
ところが、現代の病弊というか、人の悩み・恐れは、正直ではやっていけないのではないか、損するのではないかということです。結局、誠実なんてばかな生き方だという考えなのです。
人生の最大の財産はほんとうの友人だと、私は思います。「人は石垣、人は城」ということばがあります。いざという時、金も財産も経歴も教養も物をいわないけれど、ほんとうの友人こそあなたの城、あなたの石垣です。
成功した人の人生には、苦しくて何もかも放り投げてしまいたい時期も含まれています。しかし、そこを切り抜けていける何ものかがあるのです。そしてそれは、真実の友人である場合が多いのです。迷惑のほか、何も与えられない時さえ、真実の友は支えになってくれます。
ほんとうの友人は、どうしたらできるでしょう。心を開くこと・互いに誠実であることです。裏切り者に友はできません。「直ぐな人の誠実は、その人を導く。」まさにそのとおりです。
人の誠実さの根本にあるのは何でしょうか。神の感覚だと思います。神がいらっしゃって何もかも見ておられ、たより従う者に最後に報いてくださるという深い自覚です。神に対して心を開き、神に対して正直・誠実であり続けましょう。
神があなたの友となってくださる時、人生の力はどんなでしょう。パウロは、「神が私の味方であったら、何が私に敵対しえようか。私は圧倒的勝利者だ」と語りました(ローマ八37参照)。
 

◆わが神、わが神。

2017年04月15日 07時35分56秒 | 聖書
どうして、私をお見捨てになったのですか。(詩篇二二・一)
今、救い主は悲哀のどん底におられる。カルバリほどキリストのお悲しみをよく示す場所はなく、カルバリの出来事の中で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫された時ほど、苦痛に満ちた瞬間はない。この瞬間、肉体的弱さが、受けるべき恥辱から来る激しい精神的苦悩と結合した。主のお悲しみを項点まで達せしめたのは、主が父なる神の御前から離れられたことによる、言語に絶する霊的苦悩であった。これが主の恐怖の最暗黒の時であり、この時主は苦しみの深淵に下られた。主の叫ばれたことばを完全に理解できる者はだれ一人としていない。
ある人は、私たちは時には「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」と叫ぶと言う。たしかに、ある時期には父なる神の御顔の輝きが雲とやみに包まれることがある。しかし、神が私たちを全くお見捨てになることは決してないことを覚えようではないか。私たちの場合は神に捨てられたと思うだけだが、キリストは真に捨てられたのである。私たちは父なる神の愛が少し遠のいたことを悲しむが、現実に父なる神が顔を背けられた時の御子の苦悩をだれが推察することができよう。
私たちの場合の叫びはしばしば不信仰から来る。しかしイエスの場合、それは恐ろしい事実を表現したものであった。なぜなら、神はしばしの間、現実に御顔を背けられたからである。おお、かつては神の御顔の輝きの中に住み、今は暗黒にある貧しい悩めるたましいよ。神はあなたを見捨てられたのではないことを覚えよ。暗雲に包まれている時も、恵みの輝きの中にいる時も、神は同じようにいつくしみ深い私たちの神であられる。私たちが捨てられたと思うだけで、このように苦しむとすれば、救い主が「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時の苦痛は、どれほどであったことだろう。
 

詩篇32篇1-2節

2017年04月15日 07時34分18秒 | 聖書


32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。



幸いな人というのは、主に祝福される人のことです。

では、どのような人が、主に祝福される人なのでしょうか。

それは、神さまに対する自分の背きの罪が許され、罪が覆われた人のことであると言っています。

ところが、人の内には神の前で罪が許され、罪を咎められない人というのは、いません。

神さまは聖なる方であり、人は罪に満ちている者であるからです。

ですから、罪と咎が許される人と言いますのは、神さまからの一方的な恵みによって、許しが与えられた人のことです。

そして、その一方的な恵みは、神の子であられるイエスさまによる、罪の贖いによっています。

ですから、この幸いな人というのは、イエスさまによる罪の贖いを信じて受け入れ、その罪の許しを受けている人のことです。

その罪の許しを受けることによって、その人は、神の前に恐れずに立つことができるのですから、これほど幸いなことはないのです。



1ペテロ2章23~24節

2017年04月15日 07時31分51秒 | 聖書


★ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

■O:今日のコラム
エジプトの地において、過ぎ越しの小羊を屠り、家のかもいにその血が塗られる事を通してイスラエルの民が死と災いから救い出された様に、主イエスはこの同じ時、ご自身を全ての人類の罪の為のいけにえとして神に捧げ、まるで屠り場に引かれて行く小羊の様に、ののしられ、訴えられても口を開くことなく、十字架で私達の罪をその身に負い、自らの命を捧げられました。今日、この日、主イエスの十字架を心に深く覚える時としましょう。

主イエスが十字架に付かれたのは、ユダヤ人指導者達の訴えによるのでも、ポンテオ・ピラトの権力によるのでも無く、自ら進んで十字架の道を行かれたのです。今日の箇所には「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」と書かれています。神の御子、ユダの獅子、王の王なるお方が、ご自分の全ての権威と力を投げ捨て、私達を罪から救い出す為に、自ら十字架に架かられた。ここに驚くばかりの愛があります。

そして、その十字架は私達を罪から自由にします。この事はただの神学や概念ではなく、実際的に私達は罪の生き方から自由にされるのです。罪の根源は「自己中心」であり、自分が神となって心の王座に座る事にあります。しかし、十字架を心に受け入れる時、主人が変わり、もはや私達が自分の人生の王なのではなく、主イエスが私達の心の王座に座し主となられるのです。そのようにして生きる時、聖霊様は私達が罪を離れ、義のために生きる恵みを与えて下さいます。主イエスの十字架は私達の人生の全ての領域において癒しを与え、回復をもたらす力があります。

さらに十字架にはもう一つの目的があり、私達に使命を与えます。それは「王であり祭司」という使命です。

「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国(王)とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」(黙示録1:5~6)

王は義を宣告し、祭司はあわれみ、とりなします。十字架の縦の棒は父なる神に義を貫き通した御子イエスの歩みであり、横の棒は、全ての人を赦し、救う為に広げられた、御子イエスのあわれみの姿です。この十字架を通してのみ、私達も、この地に神の義を宣言し、福音の剣によりこの世を勝ち取る王となり、また全ての失われた者にあわれみを抱き、この世を抱いてとりなし祈る祭司となる事が出来るのです。


■A:考えてみよう
今日、主イエスの十字架を見上げる時を持ちましょう。御言葉に記されている十字架の言葉を朗読し、また主イエスの血潮を告白して、十字架の恵みに与りましょう。また可能であるな、各家庭や置かれた場所において聖餐式を行い、主イエスの十字架による罪の赦しを覚え、神との契約に立つ時を持ちましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


4月14日(金)のつぶやき

2017年04月15日 01時30分34秒 | キリスト教