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◆見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

2017年04月19日 05時49分11秒 | 聖書
(マタイ二七・五一)
丈夫な厚い幕が裂けるというのは、考えられない奇蹟である。しかしそれは、単に力を誇示するためになされたのではない。この中には多くの教訓がある。
古い律法の儀式は廃止されて、着古した着物のように裂かれ、捨てられた。イエスが死なれた時に、犠牲はことごとく終わりを告げた。なぜならすべてが彼のうちに成就されたからである。それゆえ、その儀式の場所がもはや不用になったことが示された。
幕の裂けたことは、古い時代に隠されていたすべてのものがあらわにされたことを意妹する。贖罪所も今は見えて、神の栄光がその上に輝き始めた。主イエスの死により神が私たちに明らかに啓示されたのである。なぜなら主イエスは、「モーセが……顔におおいを掛けたようなことはしない」からである。不死のいのちが今や明るみに出され、世の初めから隠されていたものが彼の中に現された。
年ごとに行われてきた贖いの儀式はこうして廃止された。これまで年に一度ずつ幕の中で贖いの血が注がれたが、今や大祭司により最終のものがささげられたため、象徴的に儀式を行ってきた場所は粉砕された。もはや雄牛や小羊の血は必要ではない。イエスがご自身の血を携えて幕の中に入られたからである。
キリスト・イエスを信じるすべての信者に、神に近づくことのできる特権が与えられた。もはや狭い隙間から贖罪所をのぞいて見る必要はない。聖所の幕は上から下まで真二つに裂かれた。私たちは、はばかることなく天の恵みの御座に近づくことができる。
主の最後の絶叫により、不思議にも至聖所が開かれたのは、主のご苦難のゆえに、天国の門がすべての聖徒のために開かれたことの型であると言えないだろうか。血を流された私たちの主は、天国のかぎを持っておられる。主が開くなら、だれもそれを閉じることはできない。
主と共に天国に入ろうではないか。そして私たちの共通の敵が主の足台とされるまで、そこに主と共にとどまろうではないか。
 
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