この告白は、今言ったように普遍的であるが、また個別的でもある。「おのおの、自分かってな道に向かって行った。」私たちはみな、個人的に罪をもっている。すべての人は罪人である。しかし各自は他の人にはない特別な悪をもっている。真の悔い改めの特徴は、他の悔い改めた人々と同じ仲間になるが、また弧独の立場をもとるということである。「おのおの、自分かってな道に向かって行った」というのは、各自が自分に与えられた光に対して罪を犯した、言い換えれば、他の人には見られない悪をなしたという告白である。
この告白は無条件である。その力を弱めるようなことばや言いわけのことばは一つもない。この告白は、自分を義とするすべての訴えの放棄である。それは罪を意識している人々(憎むべき罪、弁解の余地のない罪を意識している人々)の宣言である。彼らは反抗の武器をこなごなに打ち砕いて叫ぶ。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」と。
しかし、この罪の告白に悲痛な響きはいささかもない。なぜなら、これに続く節は、この罪の告白を歌としているからである。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」これは三つの部分のうち最も哀調を帯びた節であるが、また慰めに満ちあふれている。不思議にも、苦悩が極度に達するところで、あわれみが支配し、悲哀がクライマックスに達するところで、疲れたたましいは休息を見いだす。
傷つけられた救い主は、傷ついた心をいやされるのである。見よ。最もへりくだってする悔い改めは、ただ十字架上のキリストを仰ぎ見ることによって、揺るがない確信に至ることを。