座間コミニティー

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◆ 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

2017年04月03日 17時28分00秒 | 聖書
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ五三・六)
これは神の選民のすべてに共通した罪の告白である。彼らはみな堕落していた。したがって、最初に天国に入った者から最後に入る者まで、異口同音に「私たちはみな、羊のようにさまよい……」と言うのである。
この告白は、今言ったように普遍的であるが、また個別的でもある。「おのおの、自分かってな道に向かって行った。」私たちはみな、個人的に罪をもっている。すべての人は罪人である。しかし各自は他の人にはない特別な悪をもっている。真の悔い改めの特徴は、他の悔い改めた人々と同じ仲間になるが、また弧独の立場をもとるということである。「おのおの、自分かってな道に向かって行った」というのは、各自が自分に与えられた光に対して罪を犯した、言い換えれば、他の人には見られない悪をなしたという告白である。
この告白は無条件である。その力を弱めるようなことばや言いわけのことばは一つもない。この告白は、自分を義とするすべての訴えの放棄である。それは罪を意識している人々(憎むべき罪、弁解の余地のない罪を意識している人々)の宣言である。彼らは反抗の武器をこなごなに打ち砕いて叫ぶ。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」と。
しかし、この罪の告白に悲痛な響きはいささかもない。なぜなら、これに続く節は、この罪の告白を歌としているからである。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」これは三つの部分のうち最も哀調を帯びた節であるが、また慰めに満ちあふれている。不思議にも、苦悩が極度に達するところで、あわれみが支配し、悲哀がクライマックスに達するところで、疲れたたましいは休息を見いだす。
傷つけられた救い主は、傷ついた心をいやされるのである。見よ。最もへりくだってする悔い改めは、ただ十字架上のキリストを仰ぎ見ることによって、揺るがない確信に至ることを。
 

「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて・・

2017年04月03日 17時26分56秒 | 聖書

走り続けようではありませんか」(ヘブル12:1)

今、重荷があるだろうか。又、まとわりつく罪に手を焼いているだろうか。
足もとにまとわりついていては、決して走る事ができない。

あなたのまとわりつく罪は何だろう。
競争相手への嫉妬、敵対心、傷つけた相手への恨み、憎しみ、性的な罪、噂話や悪口、怠惰、イライラ、批判、さばき、口やかましい事・・それらはいつも主に告白して悔い改めては、繰り返してしまうだろうか。

いつも、とがめが心にあって辛く苦しくなるだろうか。
それなら「心が元気を失い、疲れ果てて」しまう。
信仰生活、走るどころか、疲れてヨタヨタ歩きだ。
こんな時には一人で戦うのでなく、一緒に祈ってもらうと良い。

「互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです」互いに罪を告白し合い、祈り合う時、祈りが聞かれ、主の大きな力が働く。
そして「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」

今も何を見ているだろう。目の前の苦しい状況か、その大変さ、厳しさか。
それなら落ち込むだけだ。心が暗くなり、ネガティブになり、真っ暗な底に沈んで行く。
「イエスから目を離さないでいなさい」目の前の大変さでなく、主を見上げる時、どんな時も希望があり、新しい力が湧く。
主から目が離れていたなら、今、見上げよう。
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罪を犯した時サタンは罪の咎めを持って、見るべき神様から目をそらさせる。
正しい悔い改めに導かれ、また走り出せるように、互いに祈りあうことは大きな力だ。
サタンに一人で立ち向かっては、いけない。
御言葉、祈り、正しい導きのもとで、もう一度主を仰ごう。



今日の聖人の記念日

2017年04月03日 06時31分54秒 | キリスト教

 聖シクストゥス1世教皇

在位115?~125?

 この時代、教皇はギリシア語の名前を付けるのが通常だった。「シクストゥス」という名は「第6番目」という意味で、聖ペトロの次の教皇から数えて6番目にあたるのでこう呼ばれたのかもしれない。また、ギリシア語の同じ音で「ひげを剃った」という意味もある。彼の時代、ローマ人の間ではひげをたくわえるのがはやっていたので、彼の特徴としてこの名がついたのかもしれない。

 当時、キリスト信者たちは厳しい迫害を受けていた。教皇になれば、殉教が待っていることは間違いなかった。こういう状況の中で、教皇となったシクストゥス1世は勇気ある人である。彼は典礼に力を入れ、司祭が感謝の賛歌を唱えるとき、全信徒が司祭と一緒に唱えるべきであると主張した。教皇として10年間を治め、127年に殉教したと言われている。


◆まっすぐに歩め

2017年04月03日 06時30分27秒 | 聖書

まっすぐに歩む者の歩みは安全である。
しかし自分の道を曲げる者は思い知らされる。(箴言一〇9)
選挙運動中に、つとめて政見放送を聞いていると、「正直者がばかを見る社会でなくしたい」と、多くの候補者が判で押したように言いました。さて、「正直者はほんとうにばかを見ている」のでしょうか。
ある国から帰ってきた人が、こんなことを言っていました。「どろぼうはつかまっても、警官に盗品の半分をやればゆるしてもらえる。盗んだ品がたとえ届けられても、警察署の中でドロンと消えてしまう。」そういう事情ですから、道路工事をしてもダム工事をしても、みんな食い物にされています。結局、みんながめいめい好き勝手なしたい放題をしているこの国は、いつになっても、貧しい乱れた国情から脱出できないでいるというのです。
そうです。長い目で見る時、「自分の道を曲げる者は思い知らされ」ています。昭和の初めにあんなに力を誇ったドイツのナチ政権は、どこに行ったでしょうか。ごまかしと暴虐と不義がそのまま続いて繁栄したという歴史上の事実はありません。ナポレオンはこう言ったといいます。「私の帝国は滅びた。しかし、イエス・キリストの愛の王国は今も前進を続けている。」神は生きておられます。そして、見ておられます。あなたや私や私たち人類の不義・ごまかし・暴虐を見守っておられます。悪者は滅びるのです。
神の前に悔い改めなければなりません。十字架のイエス・キリストの死こそ、この人類――あなたと私――の罪の清算であり解決です。罪をゆるされ、神に従うまっすぐな道を歩みましょう。そこに、ほんとうの安全があります。
「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる」(箴言一四34)。
 

◆そのとき、イエスを、

2017年04月03日 06時29分45秒 | 聖書
十字架につけるため彼らに引き渡した。(ヨハネ一九・一六)
主は終夜苦しみの中にあり、未明にカヤパの邸宅を出てピラトのもとに送られ、ピラトからへロデに、ヘロデから再びピラトのもとへと引き立てられた。したがって主の体力は極度に衰えていた。しかも食物も休息も与えられなかった。彼らは血に飢え渇いていたので、主を殺すために十字架を負わせて引き出した。エルサレムの娘たちが泣き悲しんだのも当然である。私のたましいよ。おまえもまた泣け。
尊い主が引き出されるのを見て、私たちは何を学んだらよいだろうか。私たちはいけにえのやぎに影として示された真理を見ないであろうか。すなわち祭司長がいけにえのやぎを引いてきて、その頭に手を置き、民の罪を言い表し、それによってその罪をやぎに負わせて民を救うということが行われた。それから係りの者がやぎを荒野に導き、民の罪を担わせて去らせる。こうして罪は行方知れずとなる。同様にイエスも祭司や役人の前に引き出され、彼らによって罪ありと宣告された。神ご自身が私たちの罪をイエスの上に転嫁されたのである。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」すなわちイエスは私たちの罪の身代わりとして、その肩に、十字架によって象徴される私たちの罪を負われた。大いなるいけにえのやぎは、このようにして役人によって連れ去られた。
愛する友よ。あなたはイエスがあなたの罪をもち去られたことを確信するか。あなたが主の肩に十字架を見る時、それがあなたの罪を表すと思うか。あなたの罪がもち去られたかどうかを示す方法はただ一つある。手を主の頭に置き、あなたの罪を告白して主にゆだねる時、あなたの罪はキリストに転嫁され、もはやあなたの上にはない。そして主はそれを十字架よりも重い荷として肩に担われたのである。
この絵姿を、あなたが自分の救いを喜ぶまで失わないようにせよ。そしてさらにあなたの不義を担われた愛する贖い主をあがめることができるように。
 

詩篇28篇2-9節

2017年04月03日 06時27分54秒 | 聖書


28:7 主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。
28:8 主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救 いのとりで。



私たちは時に、主がいつ祈りに答えてくださるのかと考えて、不安になることがあります。

しかし主は、主にある者の祈りを聞いてくださる方です。

いつその願いを、また祈りをお聞きくださるのか、私たちにはわかりません。

だからこそ、私たちは祈るのです。

主の助けは、思いがけない時に訪れることがあります。

それがあまりに突然であるために、私たちはいぶかります。

しかし、その思いがけない時であるということこそが、主の助けのあり方です。

なぜなら、主は一方的に、御自分の意志に従って、私たちを憐れんでくださり、助けを与えてくださるからです。

 ですから、そのことをいつも覚えて、主に祈り続けようというのです。

主こそ私たちの力、また砦です。

困難な時の、「いと近き助け」なのです。



エレミヤ34章11節(ローマ6章)

2017年04月03日 06時25分12秒 | 聖書


★しかし、彼らは、そのあとでの心を翻した。


■O:今日のコラム
エレミヤ34章では、ゼデキヤ王に対しての主の預言があります。それは、「奴隷制度の撤廃」を行うようにという神からの促しでありました。
そこで、ゼデキア王は、目の前に迫る国の危機に主のことば通り奴隷を解放しました。そのとき、主の介入があり、バビロンの支配が一時的になくなりました。しかし、事態が好転した直後、ゼデキア王は心を翻し、解放したはずの奴隷を再び働かせることとなります。 
状態が困難なときに、主のことばに聞き従うこと、またゼデキア王のように自分の所有物である奴隷を解放することは、容易くはないもののの、どうにか状態を変えてほしいと言う一心で聞き従うことができるやもしれません。
しかし、一旦状態が好転し、心が緩むとその反対の面が顔をだし、もう一度悪を重ねるという弱さが自分の人生を振り返ってもあることを認めざるを得ません。
今日のみことばの箇所にある「翻し」という言葉ですが、原語や日本語の意味をみると、「背中を向ける」や「反対の面が出る」等の解説が記載されていました。
状態がよくともわるくとも、私の心が裏表なく、向ける背中がなくなるくらい、反対の面がない一枚岩の心で、主のことばに聞き従うものとなりたいと願います。

■:A 考えてみよう
私たちの裏面すらも主に向けるとき、それは光に照らされもはや裏面ではなくなることを感謝します。どんなことも、どんなときも、背中を向けず、裏表ない心で向き合ってくれる主との出会いが今週も私たち一人一人に豊かにのぞみますように。

■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


4月2日(日)のつぶやき

2017年04月03日 01時29分23秒 | キリスト教