座間コミニティー

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◆人の子も、

2017年03月26日 17時11分12秒 | 聖書
父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには……。(マルコ八・三八)
もし私たちがイエスの辱しめにあずかるならば、主が再び栄光のうちに現れる時、主を囲む光にもあずかるものとなる。愛する友よ。あなたはキリスト・イエスと共にいるか。主と生ける結合をしているか。では、今日、辱しめをも主と共にしているのである。主の十字架を担い、キリストの辱しめを身に負って、宿営の外に出て、みもとにいる。あなたは十字架が栄冠に変えられる時にも、疑いもなく主と共にいる。しかし、今夜自分自身を調べてみよ。もしあなたが新生において主と共にいないならば、主が栄光のうちに来てくださる時にも、あなたは主と共にいないからである。もしあなたが、交わりの暗い時に逃げるならば、主がすべての聖なる御使いたちと共においでになる明るい幸いな時を理解することはできないであろう。
主は「御使いたちとともに」来られるのか。しかし、主は御使いを引き上げられるのではなく、アブラハムのすえを引き上げてくださるのである。わがたましいよ。おまえが真に主に愛される者ならば、主から遠く隔てられているはずはない。主の栄光を見るために、主の友人や隣人が呼び集められる時、おまえが主と結ばれているならば、遠く離されていることがあろうか。否、御使いたちと親しくし、おまえを花嫁とされた主の御心から、おまえが遠く隔てられるはずがない。たとえさばきの日であろうとも……。
おお、わがたましいよ。主はおまえに「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ」とは言われなかったか。主のくちびるが「わたしはあなたをめとる。わたしの喜びはあなたのうちにある」と告げなかったか。ただ主の友であり隣人である御使いさえも、主と共にいるとすれば、主の愛するヘフツィ・バハであり、主の喜びである者が主に近くあり、その右に座すことは、疑う余地がない。ここに、あなたにとって、希望となる明けの明星がある。そのすばらしい輝きは、最も暗い荒れ果てた経験さえも照らし出す。
 

「また、みことばを実行する人になりなさい・・

2017年03月26日 17時10分14秒 | 聖書

こういう人は、その行ないによって祝福されます」(ヤコブ1:22)

ある人が二度目の国家試験に臨んだ。志を同じくする友人も一緒だった。
その間も生計を立てねばならず、アルバイトをしながらの受験だったが、全力を尽くして備えた。
これ以上できないほど勉強した。今度こそ合格と思えた。

結果発表の日、不合格だった事がわかった。ガックリと落胆した。
一緒に勉強した友人は合格した。
心は沈み、羨ましい気持ちがあり、正直なところ、とても祝福などできなかった。
しかし、これでいいはずはないと、正直に祈った。

すると、御霊は、喜ぶ者といっしょに喜びなさいと言われる。
祝福の言葉をかけるよう促される。自分はしたくないし、出来ない。
でも、主に従いたいと思った。
主に助けを求め、決心して「おめでとう、良かったね。」と短い言葉だが、祝福のメールを送った。

すると、自分の心のモヤモヤがすっきりして、平安になった。
この祝福に、相手は思った以上に喜んでくれて、とても感動したようだった。
自分はバイトも全部辞めてしまい、又、探さねばならず、これからどうしようかと思っていたが、何とその相手が、高額のバイトをそっくりそのまま譲ってくれたのだ。

主に従うことの祝福を経験した。御霊の促しに従おう。
そのために「できません。助けて下さい」と祈ろう。従えるように助けて下さる。
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絶対出来ない、無理、では、いつまで経っても何も変わらない。
主に従いたいとの思いで助けを求め、肉には出来ないことを表して行こう。
主の祝福、励ましを経験する。


今日の聖人の記念日

2017年03月26日 07時59分05秒 | キリスト教

聖ルドゲーロ司教

742年-809年

 ルドゲーロは、オランダで生まれた。ユトレヒトの聖グレゴリオ(707ごろ-776)のもとで教育を受け、後にイギリスに渡って哲学と神学を学び、767年にヨークで助祭になった。777年にケルンで司祭となり、フリースラント、ザクセンで宣教活動に力を注ぎ、多くの人々を信仰に導き、教会を建てた。

 しかし、ザクセン人の王ウィッキンドが侵入して教会を破壊し、すべての宣教師を追放したため、ルドゲーロもモンテ・カッシーノ修道院に逃れ、2年ほど滞在しなければならなかった。その後、カール大帝の保護を受け、フリースラントとヴェストファーレンで宣教した。795年、司祭たちを組織して修道院を設立した。これがミュンスター(修道院の意味)の始まりである。804年にミュンスターの初代司教に任命されて熱心に司牧活動にあたった。

 ルドゲーロは、亡くなる直前まで説教を続け、キリストの愛に生きた。


◆父の喜び・母の悲しみ

2017年03月26日 07時58分06秒 | 聖書

ソロモンの箴言
知恵のある子は父を喜ばせ、
愚かな子は母の悲しみである。    (箴言一〇1)
あるご夫婦から、待ちこがれた最初の赤ちゃんが生まれた喜びの手紙をいただきました。それは、「子どもが生まれると親も生まれます。今までは夫婦でしたが、これからは両親になりました」という喜びいっぱいのあいさつでした。この気持ちはよーく分かります。子についての親の喜びや悲しみは、純粋だと思います。
親は子どもについて、いろいろな希望をいだきます。「えらくなってほしい」「美しくあってほしい」「よい学校へあがってほしい」「自分の仕事をついでほしい」など、限りがありません。しかし、ぎりぎりに煮つめると、わが子が健康で、まっとうな子であってほしいと願います。生まれる何か月も前には、「男がほしい」「いや女がほしい」、あるいは「鼻の高い子がほしい」「目のぱっちりした子がいい」なんて言います。しかし親は、根本的に、わが子が正しいきよい子になってほしいと思っているのではないでしょうか。
正しい人になるために、人は神を知らねばなりません。きよい生活をするために、人は神が心の中まで見ておられることを悟らなければなりません。神を知っていると、どんな時にも、病気になったり貧しくなっても、「七ころび八起き」、勇気をもってまっすぐ歩くことができるのです。世間的にいうと、父親として私は、一坪の土地も子どもに残してやれないダメオヤジかもしれません。しかし、息子も娘も神を知り、神に従って歩いていこうと心を定めています。このことの中に、言うことのできない親としての喜びを感じています。
親が子どものことで心から喜ぼうとするなら、親も子も神を知るべきです。子どもを教会の日曜学校にやり、自分も出席しているうち、一家そろって神を知るようになり、喜びに満ちているご家庭があります。
 

◆イエスは答えられた。

2017年03月26日 07時57分17秒 | 聖書
「……もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」(ヨハネ一八・八)
わがたましいよ。イエスが試みの時においてもなお、ご自身の羊を顧みられたことに注意せよ。死に臨む時、人の本性は現れるものである。主はご自身を敵の手にゆだねられたが、力あるみことばをもって弟子たちを去らせようとされたのである。主は自らのためには、毛を刈る者の前で黙っている羊のように口を開かれなかった。しかし弟子のためには、全能の勇気をもってお語りになった。ここに愛がある。決して変わることのない、自己を忘れた忠実な愛がある。ここに、表面に現れているよりもはるかに深いものがあるのではないだろうか。このみことばに、贖いの神髄が現れてはいないだろうか。良い牧者は羊のためにいのちを捨てた。羊が自由になることをお求めになったのである。保証人が捕えられているのだから、彼が身代わりになっている者は釈放されねばならない。
イスラエル人がエジプトに捕えられた時、「この人たちはこのままで去らせなさい」とのことばが、全能者のことばとして語られていた。罪とサタンの奴隷から贖われた者は、釈放されなければならない。失望の牢獄のすべての部屋に「この人たちはこのままで去らせなさい」との声が響き渡り、落胆者と臆病者が解放される。サタンは聞き慣れたその声を耳にすると、踏みつけている者の首から足をのける。死がそれを聞けば、死者をよみがえらせるために墓がその門を開く。彼らの道は進歩、聖潔、勝利、そして栄光である。だれも彼らを止めることはできない。その道には獅子もいないし、またいかなる猛獣も道をさえぎることができない。すばらしい毛並みの一頭の雌鹿が出て、狩人の注意を引いたため、最も臆病な野の子鹿や他の鹿は愛のゆりの中で、全く平和に満たされて草を食べる。雷雲がカルバリの十字架上にたれこめた。そのためシオンの巡礼は天罰の落雷に打たれることがない。
わがたましいよ。贖い主がおまえのために確保された赦しを喜び、終日また日ごとに主の御名をほめたたえよ。
 

詩篇25篇16-22節

2017年03月26日 07時55分58秒 | 聖書


25:16 私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。
25:17 私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き 出してください。



私はただ一人で悩んでいます、とダビデは言います。

人に言うことができない。

また、どうしたら良いのかわからないというのです。

その苦しみは次第に大きくなって、心は不安と恐れに満ちるようになりました、と言っています。

主にあって、主と共に歩んでいる時は、楽しく明るい。

しかし、この世では尚、神に逆らう人々の思いが人の心の内にある。

またその悪い思いは、親しい人の内からも出てくることがある。

そうした時、自分は真に悩みと恐れに満たされるというのです。

どこに助けを求めにいったら良いのだろうと思う、というのです。

 しかしダビデは、こうした現実があるからこそ、私は主の方に顔を向け、主に祈るというのです。

祈りをもって、主と交わるというのです。

それは、主こそが自分の真の助け手であることを覚えるからだ、というのです。


使徒26章14節

2017年03月26日 07時53分34秒 | 聖書


★私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』

■O:今日のコラム
おはようございます。今日も十字架の勝利が与えられていることを感謝します。どんな状況でも、最終的に勝利を取るのは、イエス様です。

パウロさんの証は、ほかの個所でも述べられていますが、今日の個所では、詳しく述べられており、「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」という表現はここだけで使われています。パウロさんにとってのとげのついた棒とは何でしょうか?イエス様です。パウロさんは熱心に教会や信徒を迫害していました。しかし、それは実は神ご自身を蹴り返そうとし、神に背く愚かなことであると主ご自身が示してくださったのです。

私たち自身も救われた者ですが、信仰生活を歩む中で、神様の義ではなく、自分自身の義を選び取ってしまい、主に背く弱さがあります。しかし、自分の義を選び取るなら、そこには死が待っています。

『もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。』(ローマ8:13a)

肉に従って歩むことは、結局は私自身にとって痛いことなのです。

また、私たちが「主よ。主よ。」と言う者であっても、主の目に義とされなければ、それは何の意味もなく、「不法をなす者ども。私から離れていけ。」といわれてしまうのです。主の御心を行う者でなければ、どれだけのことをして御国に入ることはできないのです。

人間は弱いですから、罪を犯したり、自分の義を選び取ってしまうのです。とげのついた棒を蹴り続けることは、結局私たち自身を痛みつけ、死という滅びへと招くのです。
では、罪深い私たちはこのまま滅んでしまうのでしょうか?

『さあ、今、あなたがたの行いとわざを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されるでしょう。』(エレミヤ26:13)

悔い改めは、なんという恵みでしょうか。今日も悔い改めを通して、とげのついた棒を蹴るのではなく、主の御心を選び取っていきましょう!!

■A:考えてみよう
今日、自分の一つ一つの奉仕や行動や心が、主の前に喜ばれるものとなっているだろうか?
喜ばれないものがあるなら、それを認め、悔い改めをもって、主に喜ばれるものに立ち返りましょう!

■P:祈り
主よ。今日新しく、私があなたの御心にかなう歩みをすることができますように!あなたの願いを祈ることができますように!
そのために、あなたの御心を悟らせてください!
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。


3月25日(土)のつぶやき

2017年03月26日 01時31分09秒 | キリスト教