座間コミニティー

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◆こうして、イエスはバプテスマを受けて、

2017年03月03日 16時03分04秒 | 聖書
すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。(マタイ三・一六)
神の御霊が教会のかしらなる主イエスの上に下ったように、御霊は主のからだなる教会を構成する一人一人の上に下る。
それは、しばしば非常にすばやい。私たちが知らぬうちに、前方に、すなわち御国のほうに私たちを推し進める。しかしそこには地上的な性急さはない。鳩の翼は速いが、また柔らかい。
静けさは、多くの霊的な働きに欠かせないように思われる。主はかすかな細い声の中におられ、露のように、沈黙のうちに恵みをしたたらせてくださる。
鳩は昔から純潔の象徴であった。聖霊も聖潔そのものであられる。聖霊が臨まれるところはどこでも「すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと」は豊かにされ、罪と汚れとは離れ去る。
聖なる鳩が力をもって下るところは、どこであっても平和が支配する。鳩は、神の怒りの海が静まったことを示すオリーブの若葉をくわえて来る。
温和は、一切を変化させる霊なる鳩の力によってもたらされる結果である。神の恵み深い感化を受けた心は、その時から永遠に柔和となり、謙虚となる。
他に危害を加えない。鷲や烏は獲物をあさる。鳩は自分を襲う害を忍ぶが、他に害を加えることはできない。私たちは危害を加えるものとなってはならない。
鳩は愛の化身である。鳩の鳴き声は愛に満ちている。そのように、幸いな御霊の訪れを受けたたましいは、神に対する愛に満たされ、ことにイエスに対する愛に満たされている。
深淵の上に漂う神の霊は、まず秩序といのちを生じさせた。そしてさらに、神の霊は私たちの心の中に新しいいのちを生じさせようとされる。
祝福に満ちた聖霊なる神様。私たちの贖い主の上に下られたように、今より後、永遠に私たちの上にお下りください。
 

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、

2017年03月03日 16時02分09秒 | 聖書

みなに仕える者になりなさい」(マタイ21:26)

ゼベタイの子達、ヤコブとヨハネの母が、彼らと共に主にひれ伏して願った。
主が王になった時には、自分の子達を右大臣と左大臣にして欲しいと。
そしてこの事を聞いた他の十人は、この二人の兄弟の事で腹を立てた。

結局、思いは同じであり、先を越された事に怒ったのだ。
弟子達の間では、互いの間に比較と競争が常にあり、関心の的は誰が一番かという事だった。
そして皆が思っていた。自分が一番だと。

この自己中心こそが、主を見えなくさせ、御心を見えなくしてしまう。
自分の価値観、自己中心のフィルターでしか、物事が見えないため、神の心がわからない。

主がこれから十字架にかかると告げられた、まさに「その時」の出来事だった。
何と的はずれな事だろう。自分の事しか無い。しかし、私たちもどうだろう。
祈りが答えられない時、自分の願ったものでない時、反抗と不満で一杯だろうか。

結局、神すら利用して、都合の良いように叶えてもらい、自分の思い通りに生きたいという自分。
人に勝ちたい、上でありたい、支配したいという欲望とプライド。

これが神の心を見えなくする。主の答えはどうか。仕える者になりなさい。
自己に死なない限り、人に仕える事は出来ない。肉は、人になど決して仕えたくない。
誰にも邪魔されず、自分の好きなように生きたい。

そのような自分の姿を認め、主に明け渡して行く時、主が仕える者に変えて下さる。
これは奇跡であり、神のみわざだ。
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誰にも邪魔されず、好きにやっている時は快適で、自己中心であることすら気づかない。
仕えなければならなくなって初めて自分の肉の強さに気づく。人に仕えられる者は哀れだ。


今日の聖人の記念日

2017年03月03日 06時37分49秒 | キリスト教

聖クネグンダ皇后

?-1033年

 クネグンダは、ルクセンブルクの貴族の家に生まれ、信仰深い両親のもとで育った。988年に、後のドイツ皇帝ハインリッヒ2世(7月13日 参照)と結婚した。祈りに励む一方、戦争に行って不在がちな夫の代理を務め、国を視察し、病人や貧しい人々に救いの手をのべた。

 1014年に彼女は夫ハインリッヒ2世とともに、教皇ベネディクト8世から「教会の擁護者」として戴冠した。その後、修道院を建築するなど夫に協力し、善政を行った。

 夫の死後、クネグンダは王位を親戚に譲り、自らはベネディクト会の修道院に入り、規則を忠実に守って神と共同体への奉仕に身をささげた。

 彼女は、夫ハインリッヒ2世の傍らに葬られた。王と王妃は、神に仕えるために終生童貞を守ったといわれている。


◆思慮に欠ける人生

2017年03月03日 06時36分28秒 | 聖書

女と姦通する者は思慮に欠けている。
これを行なう者は自分自身を滅ぼす。
彼は傷と恥辱とを受けて、
そのそしりを消し去ることができない。
嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、
夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。(箴言六32―34)
「ばかな人だ。思慮が欠けている」と批判されたら、あなたはどんな気持ちがしますか。「おれは物事を見通して、よく物事が読めている。ちゃんと物事を計算してやっている。仕事もきちんとしているし、収入だって相当ある。おれはばかじゃない」と反発されるかもしれません。
しかし聖書は、「女と姦通する者は思慮に欠けている」「ばかだ」と言いきっているのです。
イランではイスラム革命後は、どろぼうは昔のとおり手首を切り落とされるようになるかもしれません。隣の家から、米を一キロ盗んで、手首をちょんではたまりません。それでも盗むなら、正真正銘のばか者でしょう。
女と姦通する者は、大どろぼうです。だれが見ていなくても、だれに気づかれていなくても、「天知る地知る我知る」、いいえ、神はご承知です。きのうの箴言のことばのとおり、罰を免れません。姦通は自らを傷つけ恥辱を受け、自らを滅ぼします。手首を失うどころでない神の怒りが待っています。
女と姦通する者は、家庭から平和を盗む大どろぼうです。相手の家からも平和を盗み、自分の家庭からも平和を盗みます。平和のない家庭は、どんなに社会的地位が高くても、最低の環境でしかありません。妻も子どもも自分をも、みじめにするからです。
私たちは、「思慮に欠けた人」になりたくないと思います。自分の欲望だけに引きずられるばか者になってはなりません。神の愛ときよさといのちを知るべきです。
「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩篇五一10)。
 

◆わたしは悩みの炉であなたを試みた。

2017年03月03日 06時35分34秒 | 聖書
(イザヤ四八・一〇)
試みの中にある信者よ。この「わたしは悩みの炉であなたを試みた」というみことばをもって自らを慰めよ。このみことばは、炎の激しさをも和らげる春雨のようではないか。そうだ。このみことばは熱を防ぐことのできるよろいなのである。
悩みよ、来れ。神が私を選ばれたのである。貧困よ。おまえは私の家の戸口まで押し寄せている。しかし神はすでに私の家におられるのだ。神が私を選ばれたのである。病よ。おまえは私を襲うだろう。しかし私は霊薬を備えている。神が私を選ばれたのである。
主にある友よ。あなたが今、大きな慰めを必要としているならば、人の子があなたと共に炉の中におられることを思い出せ。あなたの静かな部屋には、これまで見たことはないが、常にあなたを愛しておられる方が、あなたのかたわらに座しておられる。たとえあなたが気づかなくても、その方は苦難のただ中にいるあなたのためにベッドを設け、枕を整えられる。あなたは貧しい。しかし寂しい家の中に、いのちと栄光の主が、しばしば訪れられるのである。あなたを訪ねるために、その方は喜んで荒れ果てた場所に来られる。その方はあなたに近くとどまられるのである。その方の御顔を見ることができなくても、あなたは手ざわりを感じることができる。あなたはその方の御声を聞かないのか。死の陰の谷の中であっても、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」と言っておられるのを。
クリスチャンよ。イエスがあなたと共におられる。火のような試練の中でも、主のご臨在はあなたの慰めであり保証である。主はご自分のものとして選ばれた者を、決して捨て去るようなことはなさらない。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」というみことばは、「悩みの炉」の中にある選ばれた者にとって力強い約束のみことばである。
それゆえ、キリストにしがみついて、こう言おう。「水の中でも火の中でも、もしイエスが導かれるならば、どこへでも従って行こう」と。
 

詩篇19篇9-10節

2017年03月03日 06時33分58秒 | 聖書


19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。



世の中の人や物は、それに頼っていけばいつでも頼りがいがあるということにはなりません。

人の心が変わり、また時代も変わるからです。

しかしダビデは、恐れを持って主を敬い、そこに生きる時、変わることがない真実を与えられると言っています。

なぜなら、その主がもたれる裁きと判断は真実であって、その導きは欺くことがないからだというのです。

ですから、主を恐れてそのみ言葉に聞き、主を敬いつつ歩むということは、この世の価値の極みである純金よりも尊く、甘さの極みである蜂蜜よりも甘いというのです。

箴言の作者も、「主を恐れることは知識の初めである。」と、語っています。

主の言葉を聞き、主と共に歩むことこそが、人にとって人生最大の価値であり、また真の知識と平安へと導かれる道であるのです。




使徒の働き 3章2節(エレミヤ3章)

2017年03月03日 06時31分32秒 | 聖書


★6 すると、 ペテロは、 「金銀は私にはない。 しかし、 私にあるものを上げよう。 ナザレのイエス・キリストの名によって、 歩きなさい」と言って、
7 彼の右手を取って立たせた。 するとたちまち、 彼の足とくるぶしが強くなり、
8 おどり上がってまっすぐに立ち、 歩きだした。 そして歩いたり、 はねたりしながら、 神を賛美しつつ、 ふたりといっしょに宮に入って行った。


■O:今日のコラム
みなさんは主の癒やしを体験したことがあるでしょうか。人のために祈る時、主が私を用いてくださり、リウマチで歩けなかった方が瞬時に癒され、教会の会堂を喜びながら走り回って喜ばれていたということや、長年悩まされていた精神病から直ちに開放されたという事を経験させて下さいました。
また、先日、私のドジな行動から手のひらを深く傷つけてしまうという過ちを犯してしまいました。鈍痛がする中、私は瞬時にイエス様のお名前で自分の手のひらの細胞に癒やしを宣言しました。すると、瞬時に痛みが消え、あんなに深い傷であったものが、わずか一日でふさがり癒やされました。ハレルヤ!癒やし主なる主のお名前を高らかにほめたたえます!
また、20年来煩わされていた花粉症から解放されました。依然として違和感やたまにやってくるかゆみはあるのですが、体が昨年と違うことが明らかにわかります。花粉に体が反応しにくくなっているのです!ハレルヤ!主は今も生きて働かれています!
このように、目の前で人々が癒やされたり、自分の体に癒しがおこると、本当に嬉しいものだというものを実感しています。嬉しすぎて、黙っていられず、回りの人に言わざるを得なくなってしまいます。

使徒の時代、このような癒やしは顕著に起こっていました。今日の聖書の箇所でもその事が明らかにされています。ペテロとヨハネは午後の三時に祈りのために宮に向かいます。(1節)すると、生まれつき足がなえた人に出会います。そこでペテロが語ったのが有名なみことばである次のことばです。

「金銀は私にはない。 しかし、 私にあるものを上げよう。 ナザレのイエス・キリストの名によって、 歩きなさい」(使徒3:6)

はたしてこの宣言の通り、足のなえた人は瞬時に癒され、「おどり上がって 歩きだした。」(8節)とあります。
少し前まであんなにおっちょこちょいで、イエス様を困らせていたペテロが、なぜこのような力強い働きができたのでしょうか。その鍵は2つあります。

(1)聖霊様の注ぎ
イエス様は十字架の後、助け主を送ると約束してくださっていました。

「しかし、 わたしは真実を言います。 わたしが去って行くことは、 あなたがたにとって益なのです。 それは、 もしわたしが去って行かなければ、 助け主があなたがたのところに来ないからです。 しかし、 もし行けば、 わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)

そして、本当に弟子たちが祈っていると御霊が注がれ、舌のように別れて弟子たちの上に留まりました。

「五旬節の日になって、 みなが一つ所に集まっていた。すると突然、 天から、 激しい風が吹いて来るような響きが起こり、 彼らのいた家全体に響き渡った。 また、 炎のような分かれた舌が現れて、 ひとりひとりの上にとどまった。すると、 みなが聖霊に満たされ、 御霊が話させてくださるとおりに、 他国のことばで話しだした。」(使徒2:1-4)

このことによって、弟子たちは力を受けました。この力はダイナマイトの語源であるデュナミスの力です。今までどうしようもないように思えた弟子たちを力強く立たせ、力ある働きをさせたのは聖霊様の力です。この御方無くしては私たちは働きを勧めていくことは出来ません。今日も聖霊様を私たちの人生に歓迎していきましょう。

(2)ナザレのイエス・キリストの名
御霊を受けただけでは私たちの力は外に現されません。御霊の力を受けたのであれば、それを人々に流しだしていく必要があります。
私たちは割りと簡単にこの「ナザレのイエス・キリストの名」を使うかもしれませんが、これは実はすごいことなのです。聖霊を受けたペテロが「ナザレのイエス・キリストの名」を使うことで足のなえた人が癒やされたからです。
これは、イエス様からダビデに渡された「天の御国の鍵」をはじめて使った瞬間でもありました。

「わたしは、 あなたに天の御国のかぎを上げます。 何でもあなたが地上でつなぐなら、 それは天においてもつながれており、 あなたが地上で解くなら、 それは天においても解かれています。 」(マタイ16:19)

イエス様がこの場所でペテロに渡した天の御国の鍵はイエス様のお名前を使うことができる代理権だったのです。
たとえば、皆さんが旅行をしてホテルを予約し、チェックインしてルームキーを受け取ったとします。鍵をもらったということは、その中のものもをすべて使うことが許されているということです。ルームキーを持っているのに「冷蔵庫は使わないで下さい」とか「バスルームは使えませんよ!」と言われたら、それはおかしなことです。
私たちは「すべての名にまさる名」(ピリピ2:9)であるイエス様のお名前を用いる権利を与えられています。この天の御国の鍵であるお名前を用いることにより、地でつなぐ(禁止する)ものは天でもつながれ、地で解く(許す・開放する)ことは天でも解かれます。

イエス様のお名前によって癒やされた足のなえた人を通して、ペテロはこの後人々に大胆に天の御国を述べ伝え、イエス様を証しします。これが力の伝道です。目の前で神様の力を目撃した人々に、これが神様のなさる愛の御業だと言うことをみことばの中から証したのです。

私たちに与えられている考えられないほどの特権であるイエス様のお名前を用いて、自分を、人々を癒やし解放するだけでなく、神の御国を力を持って大胆に述べ伝えていきましょう!


■A:考えてみよう
イエス様の御名の力を信じているだろうか。このお方に出来ないことはないと本当に信じているだろうか。
この信仰が必要です。自分には出来ないけど、神様にはなんでもできる。この事を信じ切った人は幸いです。
私たちが日々悔い改め、イエス様の血潮によってきよめられ続けるなら、主は私たちを通して大胆な御業を日本中で行ってくださるでしょう。イエス様の御名を用い、信仰を持って大胆に癒やしと解放を解き放っていきましょう。
今日、このマナメールを受け取った方に聖霊様によって力強い信仰が与えられ、主による癒やしが解き放たれることを宣言します!

■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたの送って下さった御子であるイエス様を感謝します。この罪なきお方の十字架の贖いによって、私たちの罪は赦され、永遠の命が与えられたことを感謝します。そして、あなたはみことばの約束の通り、聖霊様を送ってくださいました。聖霊様が今、私の中に住んでくださっていることを感謝します。
私は神の子どもであり、神の所有とされました。それゆえに、主は私にイエス様のお名前を用いる特権を与えてくださったことをありがとうございます。このお名前はすべてのお名前に勝るお名前です。このお名前の前にすべての被造物は従います。
私が天の御国の鍵を用いて、天の御国をこの地に解き放つ事を教えてください。全き愛によって恐れを締め出し、臆病の霊ではなく大胆な霊を与えて下さい。信仰を持って一歩踏み出す力を与えてくださいますように。
今日、私を通して主が素晴らしいことをなしてくださることを感謝します。あらゆる状況や場面において、イエス様のお名前を用いて勝利をすることができることを感謝します。
私の不具合は、肉体的な病、また精神的な病は、私が持っていてはいけないことを悟らせて下さい。それらは十字架にかけられ、イエス様がすべて担って下さいました。それゆえ、今、私の内にある病にすべての名に勝るイエス様の偉大なるお名前によって宣言します。
私の病よ、ナザレのイエス・キリストのお名前によって癒やされよ!
すべてのお名前に勝る愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


3月2日(木)のつぶやき

2017年03月03日 01時28分28秒 | キリスト教