座間コミニティー

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◆彼は……心を尽くして行ない、

2017年03月15日 15時40分12秒 | 聖書
その目的を果たした。(Ⅱ歴代三一・二一)
心を尽くして仕事をする人が栄えるのは、道徳の領域では原則である。そして、心をこめないで仕事をする人が失敗することも確かである。神は怠惰な人には収穫を与えられず、あざみを与えられるだけである。また神は、隠れた宝を見いだすため畑を掘ろうとしない人に富を与えることを喜ばれない。
繁栄を望む者が勤勉に家業にいそしむことは、広く認められている。信仰においても同様である。あなたがイエスに仕える働きで成功することを望むならば、あなたは心を尽くして働かなければならない。あなたが家業に打ち込むように、あなたの力、精力、誠意、熱意をキリストの事業に打ち込め。なぜなら、それは家業よりもはるかにやりがいがあるからである。
聖霊は私たちの弱さを助けてくださる。しかし、私たちの怠惰を奨励することはなさらない。聖霊は活動的な信者を愛される。教会で最も役立つ人はだれであろう。心を尽くして神のために仕事をする人々である。教会学校で最も良い成績をあげる教師はだれであろう。最も才能のある者か。否、最も熱心な、火のように心の燃えている人たちである。彼らは、主が堂々たる救いの進軍をなさるのを見る。
不屈の努力をしているということは、全心を打ち込んでいる証拠である。最初は失敗するかもしれない。しかし熱心な働き人は言うであろう。「それは主のわざである。ぜひ成し遂げなければならない。私の主が私になせと命じられる。そして私は、主の御力によってそれを成し遂げる」と。主にある友よ。あなたはこのように「心を尽くして」あなたの主に仕えているか。イエスの熱心を思え。主がどれほど心を尽くしてそのわざをなされたかを。主は「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と言うことがおできになったのである。主が血の汗を流された時、その肩に負われるべき荷は決して軽くはなかった。そして主が心を注ぎ出し、その民の救いのためになされた努力は決して小さくはなかった。イエスがこのように熱心であられたのに、私たちがなまぬるくあってよいだろうか。
 
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「この世と調子を合わせてはいけません・・

2017年03月15日 15時39分18秒 | 聖書

心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)

この世の価値観と調子を合わせてはならない。
自分の物の見方、価値観は非常に重要だ。
それによって大きな事、些細な事、すべてにおいて左右されてしまう。
根にある価値観のメガネで、物事を見てしまう。
いつも否定的、悲観的なら、どうだろう。

「だめだ」「うまく行くはずがない」という思考が根にあると、そのメガネで物事を見る。
そして、だめだと確信させる情報ばかりを収拾してしまう。
というより実は自分が否定的、悲観的情報を集めて回る。

悲観的情報しか目につかない。逆に「行ける」「きっとうまく行く」なら、その情報ばかりがどんどん集まって来る。
「自分はだめだ」「どうせ何をしても失敗する」が根にあるか。
それとも「主が共にいて下さるなら、大丈夫」「行ける」との信仰的思考だろうか。

自分の根にある価値観は何だろう。そこが重要で、その思考パタンが変化すると、行動が変化し、行動が変わると習慣が変化し、習慣が変わると人格が変わり、人生が変わる。

漠然と人が変わることはない。底にある自分に培われている価値観を知り、そこを神の言葉に、つまり神の価値観に、置き換えて行くことが成長だ。
とっさの反応はどうだろう。いつもそこに帰り着く根深い思考パタンは何だろう。
御霊に探って頂こう。主は私たちを信仰的、肯定的な者に変えて下さる。
--------------------
変える事の出来ない自分の思考、根にある価値観は、どこだろう。
一つ一つ、そこに気づけるよう、御言葉を読む時も、礼拝のメッセージの中でも、変わりたいとの思いであずかって行こう。

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おはようございます。

2017年03月15日 06時44分43秒 | 日記

今日も1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年03月15日 06時44分10秒 | キリスト教

 聖ルイーズ・ド・マリアック

1591年-1660年

 ルイーズは、フランス、パリの貴族の家に生まれた。ドミニコ会の修道院で教育を受け、その後ラテン語と哲学を学んだ。21歳のとき、アントワーヌ・ル・グラ伯爵と結婚し、一子に恵まれた。夫に先立たれてから、聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭(9.27参照)の指導を受けて、祈りと貧しい人々の世話、福祉事業に励み、彼のよき協力者となった。 当時、パリは内乱と伝染病の流行により、多くの病人と孤児、避難民が出ていた。その人々に献身していたルイーズのもとに、志をともにする娘たちが集まり、1633年に「愛徳姉妹会」を創立した。

 ルイーズは、児童の初等教育を推進し、またビンセンチオとともに国家の福祉事業を発展させていった。

 会はフランス全土に広がり、世界各国に発展していった。

 同会は1933年に来日し、大阪、神戸、和歌山、東京などに修道院をもち、保育園、幼稚園、養護施設などを経営し、福祉事業に奉仕している。

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◆神の計画とイエス

2017年03月15日 06時42分58秒 | 聖書

山が立てられる前に、丘より先に、
わたしはすでに生まれていた。
神がまだ地も野原も、
この世の最初のちりも造られなかったときに。
神が天を堅く立て、
深淵の面に円を描かれたとき、
わたしはそこにいた。      (箴言八25―27)
「わたしはそこにいた。」これは実にイエス・キリストのことばなのです。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ二八20)。そうです。世の初めから終わりまで、イエスはそこにおられます。
ある年の夏に、バケツをひっくりかえすような激しい雨が降った時、小学校三年生の娘のルツが「お父さん。ノアの時の雨のよう。こんな雨が四十日続けば世界は滅んじゃうわね」と言いました。そうです。神の造られた大自然の前に立つ時、私たちの小ささ・弱さ・無力さを感じます。
もし、この世が運命とか機械的な法則だけで動いているとしたら、私たち人間などは、その運命の歯車の間で無残に、またいとも簡単に押しつぶされてしまうでしょう。事実、そのように運命を感じつつあきらめている人もおられませんか。
しかし、違うのです。運命がこの世を支配しているのではありません。血も涙もない規則が動かしているのではないのです。「わたしはそこにいた」=神の愛と知恵、イエス・キリストがそこにおられました。神の愛と知恵がこの世を治めています。運命に祈っても、手ごたえがあるはずがありません。愛と知恵の神は、祈りに答えてくださる方なのです。
まるで、人生は真っ暗な森の中を歩くようで、独りでおどおどして生きている人もいらっしゃいましょう。違うのです。実は、世界も自然もあなたを愛で取り囲んでいるのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ八28)。
 
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◆わが子よ。

2017年03月15日 06時42分16秒 | 聖書
キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。(Ⅱテモテ二・一)
キリストは無限の恵みをもたれるが、それを出し惜しみされない。貯水池の水が鉄管の中に流れ入るように、キリストは恵みをその民の中に注ぎ込まれる。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
主は私たちに分け与えるために恵みをもっておられるように思われる。主は泉のように、絶えず恵みを注ぎ出しておられるが、そこへ行って、からの水入れと渇いたくちびるを差し出す者だけが満たされるのである。樹木が実を結ぶのは、単に実を枝に飾っておくためではなく、必要とする人に与えるためである。キリストの結ばれる実もそれと同様である。その働きが罪を赦すことであっても、きよめること、保つこと、強めることであっても、また啓蒙であっても、力づけたり回復させたりすることであっても、恵みはすべて主から自由に、価なくして与えられる。どのような恵みであっても、主がその民に与えられないものはない。
血液は心臓から流れ出るが、それは手足のものであるように、恵みの感化は、小羊に結ばれたすべての聖徒の財産である。キリストと教会の美しい交わりは、ここにあって、どれも同じ恵みを受けるのである。キリストは、その上に油の注がれる頭のようなものであるが、同じ油は衣のすそに伝わるように、最も卑しい聖徒といえども、頭から流れ落ちる高価な油を等しく受けるのである。恵みの樹液は幹から枝に流れ、また幹自体も枝を養う液によって養われているというのが真の交わりである。私たちが日ごとにキリストから恵みを受け、それがキリストから来るものであると確認するにしたがい、交わりの中に主をながめ、交わりの祝福を喜ぶようになる。
私たちの富を日ごとに用いるため、約束の主であるイエスのもとに行き、自分の財布から金を取り出すように、大胆にすべての必要を主から受けようではないか。
 
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詩篇22篇19-22節

2017年03月15日 06時39分55秒 | 聖書


22:19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
22:20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。



敵から受ける攻撃と迫害のために、ダビデは疲れ、苦しみの中でうめきます。

主よ、私から遠く離れないで、この苦しみもがく私を助けてください、と。

急いで助けてくださいというのです。

すぐにも潰れてしまいそうですから、と。

彼は、敵から受ける苦しみと不安に押し潰されそうになって、心の中から主に助けを求めています。

彼にとっては、自分を助けてくださるお方は、主しかおられません。

また、その助けができるお方は、この主なる神のみです。

ですから彼は、この主に寄り頼み、主に願って助けを求めるのです。

ダビデにとっては、恵みと憐れみに富んでおられる主のみが、真の助けであり、希望であるのです。

私たちも人知れず悲しみ、また苦しみもがく時があります。

その時、私たちはどこに行くのでしょう。

ダビデは、主こそが、私たちの助けですよ、というのです。

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エレミヤ15章16節

2017年03月15日 06時37分15秒 | 聖書


「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」

■O:今日のコラム
エレミヤは預言者として召し出されました。預言者は、主のことばを預けられた者であり、主が語れと命じることは、どのようなことでもすべて語らなければなりませんでした。
今日の箇所でエレミヤは「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました」と言っています。「見つけ出す」ためには、探さなくてはなりません。私たちは、ただみことばを朗読するだけではなく、みことばの中にある宝を探して「見つけ出す」ほどの飢え渇きが必要なのです。
「見つけ出す」という原語には「出会う」という意味もあります。私たちは、みことばを朗読する中で主ご自身と「出会う」ことを経験していきます。主と出会うことを経験するなら、私たちの飢え渇きはさらに強くなります。なぜなら「みことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなる」からです。

ダビデは詩篇でこのように言っています。
「あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」(詩篇119篇72節)

今私たちの手元にある聖書、みことばはどんなに価値のあるものでしょうか。私たちはどれほどみことばを尊んで朗読し、宣言しているでしょうか。私自身、みことば、主ご自身に対する飢え渇きがもっと欲しいと願い、祈っています。私の人生には、みことばが必要です!主ご自身が必要です!と。食べなければ飢餓で死んでしまうのと同じに、みことばを食べなければ、私たちは霊的に死んだ状態です。今日、聖霊様の助けによって、みことばに対する飢え渇きとみことばを悟る力が与えられるように祈りましょう。

19節には「もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる」とあります。「尊いこと」とは、主のことばです。私たちはこの口でどれだけ主のことばを語っているでしょうか。国々や教会に対して語る預言者ではなくとも、私たち一人一人は自分や自分が置かれている状況、場所に対して預言する(みことばを宣言、語る)ことが出来るということを今一度覚えたいと思います。私たちの口が主のことばを語る、主の御口のようになることを祈り求めていきたいと思います。

■A:考えてみよう
・毎日みことばを見つけ出し(みことばと出会い)、食べているだろうか?みことばは私にとって喜び、楽しみとなっているだろうか?
・私の口は尊いことを言う主の御口のようになっているだろうか?
今日、私たちの口をみことばによって洗い、イエス様の血潮によってきよめて頂きましょう。そして、この口を聖霊様に支配して頂いて歩めるよう祈っていきましょう!

■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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3月14日(火)のつぶやき

2017年03月15日 01時27分51秒 | キリスト教
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