座間コミニティー

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◆私のたましいに言ってください。

2017年03月05日 16時04分14秒 | 聖書
「わたしがあなたの救いだ。」と。(詩篇三五・三)
この聖句は、何よりもダビデが疑いを抱いていたことを示す。そうでなかったら、「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」と祈る必要はなかったであろう。それで私は勇気を出したい。自分の信仰の弱さを嘆くのは、私だけではないからだ。もしダビデが疑いをもったとすれば、私は決して「私は疑いをもっているから、もうクリスチャンではない」と結論する必要はない。
この聖句は次のことを思い起こさせる。ダビデは疑いと恐れをもった時そのままにせず、確信を求めて、ただちに恵みの御座に行った。そこを純金のように尊んでいたからだ。私もまた、愛する御子に受け入れられたとの確信を得るまで祈り続け、その愛がたましいに注がれるまでは喜びを抱いてはならない。私の花婿が私のもとを去られる時、私のたましいは断食する。
また、ダビデが全き確信を得ることのできる場所を知っていたことを学ぶ。彼は祈りにおいて神のもとに行き、「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」と叫んだ。もし私がイエスの愛をはっきりと悟ろうとするなら、ひとりで神と親しく交わることをさらに努めなければならない。祈りをやめるならば、私の信仰の目は衰える。
ダビデは神からの確信を得なければ満足しなかったことも見ることができる。主よ。「私のたましいに言ってください。」神の証言以下のものは、真のクリスチャンを満足させることができない、と。
さらにダビデは、彼の確信を自分のものにしなければ安心しなかった。「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と。」主よ。このみことばがすべての聖徒に告げられても、私に告げられなければ、私にとってそれは無益です。私は罪を犯したので、それをあえて嘆願する勇気をもちません。私のようなたましいにも、「わたしがあなたの救いだ」と告げてください。私があなたのもので、あなたが私のものだという、確かな意識を与えてください。
 

「この病気は死で終わるだけのものではなく、

2017年03月05日 16時03分16秒 | 聖書

神の栄光のためのものです」(ヨハネ11:4)

ラザロが病気になり、マルタとマリヤは主のもとに使いを送った。
きっと主はすぐに来て下さると思ったろう。気が気ではなかった。主さえ来て下されば、ラザロは助かる。

しかし、主は来て下さらず、ラザロは死んでしまった。主が来られたのは、死後4日目だった。
マルタ達の思いとは異なり、主にはご計画があった。病気を治す事でなく、よみがえらせる事を意図されていた。

けがや病気なら治る、壊れた対人関係でも回復の可能性はある、しかし、死だけはどうにもならない。
誰もどうにも出来ない。絶対無力、限界、絶望だ。
その死をも支配する神の御力を現わすため、そして「あなたがたが信じるため」だった。

将来よみがえる事は、教理としては頭で容易に信じられる、しかし、今、目の前の事が信じられない。
現実だからだ。頭では理解し、山ほどの聖書知識もあるが、目の前の実際は信じる事ができない。私達の姿だろうか。

「その石を取り除けよ」心に石があり、見える所、常識で不可能だと結論づけている。
まず自分の心にある、「無理」「不可能」という不信仰の石を認める事だ。

「不信仰な私を助けて下さい」と主に向かう時、主は信仰を与え、みわざをして下さる。
心で、無理、不可能と決めつけていないか、諦めてしまっていないか、心探ってみよう。
主は目の前の苦しみ、悲しみ、どうにもできない、墓の中にあるような事態を通して、主の栄光が現われるようにして下さる。
信じて行こう。

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石を取りのけた時、ラザロのよみがえりを見、素晴らしい神の栄光を拝した。
信じていない、信じようとしない自分を認める時、御霊は助けて下さる。
妨げている諦めの石、不信仰の石を悔い改め、取り除こう。
神のみわざを見て行く。


今日の聖人の記念日

2017年03月05日 08時47分53秒 | キリスト教

聖フリドリノ司祭

?-538年

 フリドリノは、アイルランドの貴族の家に生まれた。若いころから、司祭となって神に生涯をささげたいと望んでいた。司祭になると、ゴールやドイツ、スイスなどを巡って説教をし、多くの人々を信仰に導いた。そのため「さまよう人」とも呼ばれた。フリドリノは多くの修道院を設立した。また、バンダル族によってフランス、ポアティエ市の修道院が破壊されたときに失われた聖ヒラリオ(1月13日 参照)の遺体を発見し、同地に聖ヒラリオの記念聖堂を建てた。

 フリドリノが建てたライン川近くの教会の周辺には人々が集まり、セッキンゲンという町となり、今日に至るまで彼への崇敬が盛んである。


◆真実のない愛

2017年03月05日 08時46分49秒 | 聖書

さあ、私たちは朝になるまで、
愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう。
夫は家にいません。
遠くへ旅に出ていますから。   (箴言七18―19)
何という絵のような情景描写でしょう。聖書は、現実を知らない学者が書いたものではありません。聖書は、現実を知り、ちまたの実際の出来事を見通しているお方が書いた本です。
この世には耳を傾けるなら、神の声が満ちています。花も鳥も星も、神を語り、私たち一人一人の良心も、神の細き声を語りかけ、聖書は、はっきりと神のみこころを伝えます。
しかしこの世には悪魔の声も満ちています。きょうのことばも、悪魔の甘言・甘いささやきのサンプルです。この悪魔の甘いささやきの中心は、他の何もかも無視して、欲望に酔いしれて楽しめということです。
性欲という欲望は、神が備えてくださった最もうるわしいものの一つです。男と女が引き合い、愛が生まれ、愛が育ちます。男と女が引き合わなかったら、この世はどれほど砂漠のようだったことでしょう。
しかし、神のみこころという枠をはずれて、欲望第一主義に走ってごらんなさい。欲におぼれてごらんなさい。食欲なら、食べすぎて体を壊し、太りすぎて早死にするでしょう。遊びすぎては、貧しくなり不健康になります。性欲の野放しは、家庭を壊し、個人をだめにし、人間関係をめちゃめちゃにします。憎み合い軽蔑し合い傷つけ合う様は、人間の没落がここにあるという感じがします。
性欲という欲望は、神のデザインされた結婚というみこころの枠の中で楽しむべきなのです。聖書は、「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです」(ヘブル一三4)と、警告しています。
 

◆ほかの人々のように眠っていないで、

2017年03月05日 08時46分07秒 | 聖書
目をさまして、慎み深くしていましょう。(Ⅰテサロニケ五・六)
クリスチャンの目を覚まさせる方法は種々ある。その中でも、クリスチャンが神の道について語り合うことを強く勧めたい。バニヤンの『天路歴程』の中で、「クリスチャン」と「希望氏」の二人が、天の都へ旅をする途中で互いに語り合うところがある。彼らは「眠気をもよおすことがないように有益な話をしようではないか」と言う。「クリスチャン」は「兄弟よ、それではどこから始めようか」と言う。すると「希望氏」は「神が私たちに始められたところから」と答える。それから「クリスチャン」は次のように歌う。
 聖徒よ。眠気をもよおしたら、ここに来て
 二人の巡礼が語るのを聞け。
 そうだ。どうしても、彼らから学ぶのだ。
 まどろむ目を開くことを。
 聖徒の交わりを正しくもつなら
 目を覚ますだろう。地獄をよそに。
他人と離れてひとりで旅をする信者は、眠気をもよおしやすい。信仰の道づれを求め、それによって、目を覚まし、力づけられ、天への旅路を早く進むようにせよ。また、あなたが神の道について麗しい話をする時は、その話題が必ず主イエスであるように心せよ。信仰の目をもち、絶えず主を見つめ、主によってあなたの心を満たせ。あなたのくちびるをもって主を語れ。
友よ。十字架に近くあれ。そうすれば眠ることはないだろう。あなたの行く先の価値を深く心に刻むように努めよ。もし天国へ旅していることを覚えるなら、途中で眠ることはない。後ろに地獄があり、悪魔が追いかけてきていることを考えれば、道草はできない。殺人者が、逃亡の機会を目前にして、復讐をねらう者とともに居眠りをするだろうか。
主にある友よ。真珠の門が開かれ、天使の歌があなたの参加を待ち、黄金の冠が準備されているのに、あなたは眠っているのか。否、聖い交わりの中に目を覚まし、祈り、誘惑に陥らないようにせよ。
 

詩篇20篇1-2節

2017年03月05日 08時44分45秒 | 聖書


20:1 苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。
20:2 主が聖所から、あなたに助けを送り、シオンから、あなたをささえられますように。


人には苦しみがあります。

その苦しみは短いこともありますが、長いものもあります。

また、近くに希望が見えるような苦しみもありますが、何も希望が感じられない、苦難の時もあります。

それぞれの苦しみは、長さも深さも、私たちにとっては異なるものとなっています。

ダビデも、同じような苦しみと痛みを受けました。

その苦しみの深さは、並大抵なことではありませんでした。

だからこそダビデは、苦しんでいるあなたに、「苦難の日に主があなたにお答えになりますように。」と祈るのです。

罪と汚れのあるこの世界には、苦難が訪れないことなどはないというのです。

しかしその時に、自分たちの心を癒やし、また慰め支えてくださるのは、主であられるというのです。

その主からの慰めを、み言葉を通していただく時、心に平安と希望が訪れるというのです。


エレミヤ5章2節

2017年03月05日 08時42分14秒 | 聖書


あなたがたは、わたしを恐れないのか。ー主の御告ー
それとも、わたしの前でおののかないのか。

★24節
彼らは心の中でも、こう言わなかった。『さあ、私たちの神、主 を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる』と。

★使徒5章3節、4節、9節
「…どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
「…あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
…「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。」…


■O:今日のコラム
「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(箴言9:10)

今週から、旧約聖書は「エレミヤ書」に入りました。
エレミヤは、バビロン捕囚の直前、ヨシヤ王の時代から、その息子たちの時代、バビロン捕囚が行われた、まさにその時期に、主から遣わされた預言者でした。

イスラエルの民が、神様に対する不信仰、偶像崇拝、不誠実を重ねた結果、北はアッシリヤ王国に、南はバビロン王国に征服されて行きました。
その後半の時代に、南ユダ王国に対する警告と裁き、その裁きの中ですら生き残って繁栄するための具体的な知恵、そして、回復の希望の約束、これらがエレミヤの口を通して預言されました。
一方、使徒の働きの今日の箇所には、教会が建て上げられ成長する中で、主を恐れない、ある夫婦が神様を試みて裁かれる、という有名な事件が書かれています。

両方の話に共通する問題は、「主への恐れの欠如」です。
主を本当に愛する、とは、主への健全な恐れを持つことから始まります。

神様に対する恐れは、自分に危害を加えるものに対する恐怖心とは違います。
もし、神様が自分にひどいことをする、けちな意地悪なことをする。厳しすぎる罰を与える、束縛を与え、喜びや楽しみを奪う方だ、と思って恐れているのなら、それは主への聖い、健全な恐れではありません。

なぜなら、神様は良い方で、優しい方で、良いものを拒まない方で、ずっとそばにいたくなる、素晴らしい方だからです。

神を恐れる、とは、この聖なる素晴らしい罪のない方を傷つけ、悲しませることを恐れることであり、最終的に、神様から離れてしまうことを恐れることです。

「彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた」(イザヤ63:10)
「幾たび彼らは、荒野で神に逆らい、荒れ地で神を悲しませたことか。彼らは繰り返して、神を試み、イスラエルの聖なる方を痛めた。」(詩篇78:40-41)

これらの聖句の中に使われている言葉には、傷つける、痛める、苦しませる、傷つけ悲しませる
痛めつける、肉が裂け血が流れるような生傷をつける、という意味があります。

神様は人の悪によって、傷つけられ、痛められ、苦しめられるのです。悲しまれるのです。

エペソ5:29
「神の聖霊を悲しませてはいけません。」

文脈を読めば、悪い言葉を口から出すこと、無慈悲や憤り、怒り、叫び、そしり、悪意、人に親切にしないこと、赦さないこと、これらが、聖霊を悲しませると読み取ることができます。

また、何より、日々、祈りや礼拝、賛美を通して、主の臨在の中にとどまること、主の御顔を仰ぎ見ることを経験していくなら、御霊の促しによって、「あ、この否定的、批判的な言葉は、聖霊を悲しませている、この怒り、この苛立ち、赦さない心は、主の御霊を痛めている」と気づくようになり、御霊の恵みによって、罪を離れられるようになっていきます。

ローマ8:6
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」

神様の心を傷つけた、悲しませた、自分の罪(神様が良い方だと信じない不信仰、主を恐れない罪、神様の聖さを侮り、罪を平気で犯し続ける態度、自分は人より立派だ、と考える高慢、人を罪に定める態度、赦さない心…などなど)を、私たちが自ら認めて、その罪を捨て、向きを変えて、神様の元に帰る時、イエス様の十字架の代価により、私たちの罪は赦され、また主の御臨在の中に入り、主の全き愛の中に、戻ることができます。これが福音、良い知らせです。

残念ながら、エレミヤの時代のイスラエルの民にも、使徒5章のアナニヤとサッピラにも、この主への恐れが欠けていました。
彼らは、「聖なる方」を知りませんでした。
知識としては知っていたのかもしれませんが、神様が生きておられ、御言葉通りの聖なる方であり、私たちがひとりでいるときも、心の中に思うことも、すべてご存知の方で、すべてを正しく裁かれることを忘れてしまっていたのかもしれません。

昔書かれたことは、世の終わりに臨んでいる私たちのための教訓です。

バビロンに捕囚とされるまで、主を侮り続けたイスラエルの民、使徒たちの前で、御霊を欺こうとしたアナニヤとサッピラ、彼らの失敗から学びましょう。
聖なる方を知り、主を恐れることを、求めていきましょう。


■A:考えてみよう
詩篇51篇を朗読し、私たちの心に、聖なる方を知る知識が与えられ、聖い正しい恐れで、主を恐れる者となれるよう、求めていきましょう。

詩篇51:10-12
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。


■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


3月4日(土)のつぶやき

2017年03月05日 01時31分02秒 | キリスト教