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「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、

2015年01月07日 17時50分05秒 | 聖書

かえって仕えるためであり…自分のいのちを与えるため」(マタイ20:28)

弟子達の関心は、誰が一番偉いかであった。
それが常に関心の的であった。
ゼベタイの子、ヤコブとヨハネが栄光の座で右と左に座らせて欲しいと願った。
母親まで出て来て子達のために願ったのだ。
主がこの世界の王となられた暁には右大臣左大臣にと。
すると主は的はずれな求めに、何を求めているかわかっていない、これから飲む杯を飲めるかと問われた。
「できます」と、主は十字架の事を言われたが、彼らは勝利の祝杯だと思っただろうか。
そして、残りの10人も同じものだった。
なぜなら、ヤコブとヨハネの事で腹を立て怒ったのだから。
人の上に立ちたい、支配したい、人の下ではありたくない、
これは誰しもにある欲望だ。なぜなら、エデンの園でアダムとエバが蛇に誘惑され、選び取ったものが、これだったのだから。
「神のようになり」たいと。
主はそんな彼らに、又私達に仕えるため、命を与えるために来たと言われた。
主が仕えて下さる。
人を支配したい思いが、自分にもある事を認めることだ。
どうにもならないその罪のために、主がへりくだり、仕え、十字架で決着を着けて下さった。
へりくだれない私のために、主がへりくだって下さった。
この主の御前に悔い改め、従って行く時、仕える者と変えて下さる。
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肉はどこまでも自己中心で、へりくだりたくないし、誰にも干渉されず、自分の好きなようにしていたい。
ましてや仕えるなど出来ない。
そんな者が主に従って行く中で変えられて行く。
主の奇跡だ。


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