肯定的映画評論室・新館

一刀両断!コラムで映画を三枚おろし。

『ブロークン・フラワーズ』、観ました。

2007-01-31 21:24:22 | 映画(は行)


 『ブロークン・フラワーズ』、観ました。
中年、独身、お金持ち、盛りを過ぎた女ったらしのドン・ジョンストンのもとに
届いた差出人不明の手紙は、彼の知らない19歳になる息子の存在を告げていた。
おせっかいな隣人ウィンストンに背中を押され、ドンは手紙の手がかりを求めて、
アメリカ全土に散った20年前の恋人たちを訪ねることに…。 
 良くも悪くも“ジム・ジャームッシュ”らしいロードムービー。シュールな笑いと
気だるいような時間の流れ、そして、シーンとシーンを繋ぐ“特徴的な余白”の
使い方。例えるなら、それは車のハンドルでいうところの“あそび”みたいなもの。
普段から急(せ)かされて生きることに慣れてしまった我らには“不思議な
落ちつき感”を与えてくれる。しかし一方で、一向に思わせぶりなヒントばかりで
明確なる解答が見えてこない“のんびりした展開”は、観る人によっては“ある種の
じれったさ”を感じるのかも。まぁ、知らない人には、そういうのも全部含めて
“ジャームッシュ”だと思って受け入れるしかない(笑)。人生の空虚感だとか、
心に吹くすきま風だとか・・・、オイラ的にはこれはこれで理解出来ないことは
ないのだけどね。
 さて、物語はある日突然、主人公の元へ差出人不明の手紙が届き、果たして
その差出人は誰なのか、順々にかつての恋人たちに再会していくというもの。
勿論、そこには全てのジャームッシュ作品、共通テーマとなる“自分さがしの
旅”が根幹にあって、元カノたちとの再会を通して、これまで“自分が歩んできた
人生”を見つめ直していくわけだ。ただ、ここで注目したいのは、彼との再会を
歓迎する者、一定の距離を置こうとする者、怒りをあらわにする者…、それぞれ
反応は様々だが、唯一、共通している事がひとつある。それはその娘であったり、
その秘書であったり、その夫であったり、その用心棒であったりが邪魔をして、
なかなか2人きりになれないのだ。つまり、彼女たちはすでに“あの頃”と違った
“今”を生きていて、もう昔の日々には戻れないってこと。もはや彼にとって、
手紙の主が誰だったのかとか、自分に隠し子が居たとか居ないとか、そんな事は
どうでも良い。過ぎ去った過去は消すことはできないし、先々(未来)を考えたって
仕方ない。ならば、真実を受け入れ、“今”を大切に生きるしかないのだと。いや、
むしろ、それはこう考えることが出来ないか‥。この主人公がそのまま“ジム・
ジャームッシュ自身”だと。かつて若き日の絶頂期から新しいスタイルを探す形で
模索して、本来のフォームを崩していたジャームッシュ。しかし、今作では再び
“自身のルーツ”に帰って、見失っていた自分を取り戻したかのように思えてくる。
ラストシーン、ひとり路上に立ち尽くした主人公は、もしやジャームッシュ自身…。
これから何処に進めば良いのか分からない。確かなことはただ一つ、“今”を
信じて、“自分らしく”生きていくしかないのだと。

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『バベットの晩餐会』、観ました。

2007-01-28 20:07:46 | 映画(は行)
Babetto
出演: ステファーヌ・オードラン, アイザック・ディネーセン

 『バベットの晩餐会』、観ました。
とあるデンマークの漁村に、亡き父の遺志を継ぎ、伝導活動を続ける老姉妹が
住んでいた。そこへ身寄りのない亡命者バベットが訪れ、老姉妹はバベットを
家政婦として雇うことに‥‥。時は流れて14年後、偶然にも手に入れた大金で、
バベットは老姉妹のために豪華な晩餐会を開こうと決意する‥‥。
 観終わって、“自分の良心”ってやつに気付かされる。それに“心の安らぎ”と、
今自分が居る“この世界の美しさ”にも。まぁ、そんな風に書くと、“神”だとか、
“信仰”だとか、説教臭いイメージを抱くかもしれないが、この映画に限って
そんなことはこれっぽちもないのだよ。物語は、ひっそりとしたデンマークの
寒村で、使用人バベットが老姉妹に対する“感謝の気持ち”を込めて晩餐会を
催(もよお)した、ただそれだけのこと。しかし、そこにはバベットの心が
通った料理の数々が並び、 その“温かな料理”に心癒されていく人々がいる…、
もはや余分な説明も台詞もいらない。春になって積もった雪が溶けるように、
緊張感で引きつった顔と顔とがみるみる笑顔でゆるんでいく。そんな彼らの、
“幸せそうな顔”を見ているだけで胸がいっぱいになった(涙)。人は誰でも
多くの財産を築き、大きな家に住み、高価な車に乗りたいと願う。しかし、
それは自分の見栄を満足させ、自分の満たされない心を隠すための外殻にしか
過ぎない。「本当の幸福」とは“豊かな心”を持ち、“豊かな時間”を過ごすこと
なんだね。
 更に、それに関連したことで、この映画ではもう一つ、目には見えない“心の
安住”について語っている。例えば、亡き父の教えと姉妹の人生、姉マーチーネと
若い士官ローレンス、あるいは、妹フィリパとオペラ歌手パパンの恋、バベットと
その母国フランスへの想い…、それらは肉体では離れながらも、心ではしっかりと
絆で繋がっている。それは、今回、映画を観終わるまでは、考えもしなかった
“幸福のカタチ”…。やっと今、ボクにもその感覚がほんの少しだけ分かる。
彼女たちは不幸じゃない、孤独でもない。だって、愛する人がそこに居なくても、
その人を愛し愛されている“確信”があるのだもの。そして何より、彼女たちは
人々に笑顔を与える喜びを知り、その人々の優しさに包まれているのだもの。
きっと、今も彼女たちは生きている、この広く美しい世界のどこかで…。何だか
そんな不思議な想像にかきたてられる・・・。

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『SPY_N』、観ました。

2007-01-25 21:25:35 | 映画(さ行)






監督:スタンリー・トン
出演:藤原紀香, アーロン・クォック

 『SPY_N』、観ました。
国際都市・上海。妖艶な魅力でマフィアの首領Mr.マーに近づく謎の日本人美女
NORIKA。そんな矢先、公衆の面前でマーの部下が殺害され、現場からすばやく
立ち去ったNORIKAを上海警察の新人コンビ、ダレンとアレックスが追う…。 
 中国が舞台なのに、台詞はほとんど英語。明らかに東洋人なのに、何故か
名前は“アレックス”‥‥、確か以前にもこういう映画を観たような‥‥(笑)。
内容的にも「そんな事、あるわけねぇだろ~」とツッコミたくなる箇所、数知れず。
しかし、それを承知の上で観ているオイラも、やっぱり“共犯の責任”アリ??
ハイ、確信犯デス(笑)。
 藤原紀香‥、藤原紀香‥、藤原“ノリカ”は爆発ムスメ。反則スレスレ、
お色気衣装に身を包み、男の視線はワタシのものよと、ノリカのスーパーボディが
火を吹くゼ! すねにキズ持つ危険なヤツらにまわし蹴り。
ノリカが走り、ノリカが回り、ノリカが飛んで、ノリカが落ちた‥‥(笑)。
ガラスの上でのアクションは、上に行ったり、下に来たりのシーソーゲーム。
命を賭けたスタントシーンと分っちゃいるけどボクには何故か大笑い。
いや~、ホント楽しめました。うん、確かに部屋で一人観るにゃ~ちとツライ。
でもね、例えば友達集めて大勢で観るならもってこいの映画かも(笑)。
ワイワイ、ガヤガヤ、ゲラゲラ、オホホ‥‥ 盛り上がること請け合いデス(笑)。


『それでもボクはやってない』、観ました。

2007-01-21 20:00:39 | 映画(さ行)
Soreboku
監督:周防正行
出演者:加瀬亮、瀬戸朝香、役所広司

 『それでもボクはやってない』、映画館で観ました。
フリーターの金子徹平は会社の面接へ向かう途中、痴漢に間違われ、そのまま
警察署に拘留されることに。罪を認めれば相手と示談の上、すぐに釈放されると
聞かされるが、自分の無実を主張し続け、ついには検察から起訴されてしまう…。 
 もしかしたら、この世の中で最もやっかいなものは、“人の勝手な思い込み”
かもしれない。身に覚えのないことで非難を受け、こちらの言い分にはまったく
耳を貸そうとしない。冷静に考えればすぐに分かる事なのに、それすらしようと
しないで、最初から結論ありきでこちらを悪だと決めつける。実は最近、ボクの
回りでも同じようなことがあったからね。分かるのサ、主人公の…、「それでも
ボクはやってない」という“痛切なる叫び”がね。だから、今こそボクも声を
大にして言いたい事がある、「そして“ボクも”やってないし、これっぽっちだって
悪くない」ってね。
 さて、周防正行監督11年ぶりの新作は、日本の司法制度にメスを入れた法廷劇。
シュールな笑いと、エンターテイメント性に富んだ2面性は、いつもの周防作品と
相も変わらず。ただ、『シコふんじゃった』とか…、『Shall We ダンス?』とか…、
これまでの周防作品に溢れていた明るいイメージと、胸躍るようなトキメキ感は
そこにはなく、本作では全体に陰気で重苦しい雰囲気が漂う。それは、この11年の
歳月の中で移りゆく”周防正行の変化”なのか、あるいは、加速度的に病んでいく
日本社会の歪み、その“時代の変化”なのか…、ボクにはそれが“後者”のように
思えて仕方ない。一方、本作、その内容についてはどうだろう…。ややもすると
(裁判について)説明過剰な部分もあるのだが、それによって映画全体のテンポが
損なわれることはない。印象としては、ストーリーでぐいぐい引っ張っていくと
というよりも、レポートの中でまとめ上げ、観客に“日本の裁判制度の実状”を
より知ってもらおうという感じ。その視点は、常にひょうひょうとしながらも、
不可思議な、この裁判制度への痛烈な皮肉が込められているのだ。
 ただ、ここでひとつ、見誤ってはいけないことがある。主人公の怒りの矛先は、
自分を犯人に思い込んだ少女にはない。もちろん、公平性を欠いた刑事や検察、
裁判官とも違う。それはこの国の裁判制度全体‥‥強いては、日本の社会構造に
向けられているってこと。“国家”という強大な権力によって、司法が成すべき
ことが成されない。個人の権利が踏みにじられる。そして、更に怖いのは、今尚、
それ(日本の司法)を清いものだと信じて疑わない“我らの勝手な思い込み”なのだ。

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『大いなる幻影(1937年)』、観ました。

2007-01-18 20:53:18 | 映画(あ行)


 『大いなる幻影(1937年)』、観ました。
第一次大戦のさなか、ドイツ軍の捕虜となるボアルデュ大尉とマレシャル中尉。
様々な階級の人間の集う収容所で、一緒になった連中とも打ち解けないまま、
やがて脱走計画が企てられるが…。
 “反戦映画へのアプローチ”は十人十色。戦争の現実を知るには、まず
戦場からといって“戦闘シーンのリアルさ”に拘(こだわ)る人もいるし、逆に、
そういったものは一切封印し、戦争を人の心の中にある“内なるもの”として
捉える人もいる。例えば、本作のジャン・ルノワールは、その後者の最たる
部分で、単純に善と悪とを分けることの出来ない“戦争の複雑さ”について…、
又、敵味方を超えた“相手に対する敬意”について…、彼ならではの戦争論を
展開している。では、もう少し詳しく説明しよう。つまり、ここでいう国同士、
フランスとドイツは敵対関係にあるわけだが、個々の人間同士が憎みあって、
戦っているのではない。言わば、彼らは国から与えたれた使命を果たしているに
過ぎないのだ。だとしたら、フランスで生まれたからフランス人で…、ドイツで
生まれたからドイツ人で…、それ以外に一体何の違いがあるんだろう。いや、
そもそも、その国境でさえ端から地球に白い線が引いてあったものじゃない、
人間が勝手に頭の中で作り上げた“幻影”に過ぎないのだ。例えば、それを
象徴するのに、こんなシーンがある。収容所を脱走した主人公のフランス兵が、
かくまってくれたドイツ人未亡人の牛舎にて一人呟く、「祖父の牛と同じ匂いだ、
大好きだよ」と。勿論、それ(その台詞)が意味するものが、単なるノスタル
ジックなんかじゃなく、人間の愚かさと、この戦争の無意味さを嘆いた痛烈な
皮肉に聞こえるのは、きっとボクだけじゃないはずだ。
 一方、ともすれば、この映画が、戦争をさも“紳士的なもの”に描き過ぎた
感じ方を抱く人も多いかもしれない。敵兵の戦死を手厚く葬ったり、ドイツ人
所長とフランス人捕虜の間に友情が芽生えたり、ラストシーンでドイツ兵が
国境を越えた脱走兵に銃を向けなかったり…、うん、確かにそれも一理ある。
でも、ボクは思うんだ。監督のルノワールは、それらをすべて承知の上で、
“戦争の本質”から目を逸(そ)らしたのではなく、あえて“人間の本質”に
向かい合おうとしたのだと。剣を向け、殺し合うのではない。互いに尊敬し、
理解し合うこと。それは、如何なる時でも人が人であるために…。
 もしも、国境という“大いなる幻影”が戦争を引き起こす元凶だとしたら、
いつかその戦争が世界から消えてなくなるという“大いなる幻影”を、今はまだ
見ていたい。ラストシーン、雪山の彼方に歩を進める主人公たちは、まるで
その“大いなる幻影”に向かっているようだった。

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『マイアミ・バイス』、観ました。

2007-01-16 20:44:24 | 映画(ま行)


 『マイアミ・バイス』、観ました。
マイアミ警察の特捜課(バイス)で働くソニーとリカルドは、敵の懐に入り込む
危険な潜入捜査で名をはせてきた。今度の任務は合衆国司法機関の極秘捜査が、
ドラッグ密輸コネクションに漏れてしまい、その漏洩ルートを突き止めること。
ふたりは早速ドラッグディーラーになりすまし、南米の密輸コネクションに
接近するが…。
 TVシリーズの「マイアミ・バイス」は、オイラが高校生だった頃、夢中になって
観ていた番組だ。今にして思えば、内容どうこうじゃなく、マイアミのジリジリ
焼け付くような熱帯気候と、麻のカジュアルスーツをさり気なく着崩した(?)
主演ドン・ジョンソンのカッチョ良さだけが、強烈な印象として残ってる。
 さて、そんなオリジナルを知っているにはギリギリの年代と思われる(ただ今
39歳)オイラとしても、今回の映画化はどうなんだろう…、正直、あんまり
ピンと来ないのデス。第一、出演者が丸っきり違うし、物語自体も別に“マイアミ
バイス”の名を使わずとも、普通の刑事アクションとして充分成り立つもん(笑)。
むしろ、ここでは“マイケル・マン監督ならでは”のクールな視点から描き
出されるスタイリッシュな映像の中、男同士の友情と、2組の男女の情愛とが
切なく激しく燃え上がる、艶やかでハードボイルドな世界が広がっている。
中でも、今回、メインとなる男性の刑事コンビ以上に、コン・リーの魅力には
すっかりヤラれちまった。孤独を隠し、重たい過去を引きずりながらも、気丈に
生きていこうとする、そんな彼女の姿が痛々しい。この際、作品中で、コリン・
ファレルと目が合った瞬間に恋に落ち、その日のうちにベッドインしちゃう
(ちと強引な?)展開には目をつぶろう。だって、彼女はそれを云わせぬくらい
ミステリアスで、その憂いを孕んだ横顔を見たら誰だって、思わず哀しくなって
しまう筈だから。で、気がつけば、いつしかTVシリーズ「マイアミ・バイス」の
懐かしさなど当に忘れて、かつて(10年くらい前かな)その出演作を片っ端から
ビデオで観た“コン・リーへの想い”が再熱してしまったカンジ(笑)。思うに、
コン・リーの魅力は“ハリウッド女優の華やかさ”とは明らかに違っていて、
例えるなら、原っぱの片隅にひっそりと咲く野花のよう。雨風に打たれてなお、
大地に根を張り、一つの小さな花を咲かせる、そんな逞(たくま)しいほどの
美しさだ。

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『X-MEN ファイナルディシジョン』、観ました。

2007-01-11 21:55:59 | 映画(あ行)


 『X-MEN ファイナルディシジョン』、観ました。(ネタバレ有り)
ミュータントを人間に変える新薬“キュア”が開発され、「人間として生きるか、
ミュータントであるべきか」という究極の選択を迫られるX-MENのメンバーたち。
また、悲劇的な最期を遂げたジーン・グレイの謎に満ちた復活。そこに世界崩壊を
企むブラザーフッドと人間たちの思惑も絡み最終決戦へと突き進んでいく‥‥。
 くしくも、この映画の直前に観たのがブライアン・シンガーの『スーパーマン
リターンズ』
。以前、その彼が監督した『X-MEN』と『2』は、数あるアメリカン
コミックの映画化でも屈指の傑作だったわけだが、今回、監督が変わっただけで、
そのパート3がこんなにも薄っぺらく見えてしまう。改めて、一人の監督が作品に
及ぼす影響の大きさについて考えさせられると同時に、彼が何故、本作ではなく、
『新スーパーマン』を選んだのか、今になってやっと分かるような気がした。
 というのも、本来、今シリーズを通してその根幹に流れるものは、能力や
姿形が異なるだけで差別され、抑圧された者の哀しみ、そして怒りだったはず。
それが今作では、対決シーンや特撮シーンばかりに重点を置き過ぎて、肝心の
テーマとなる部分が霞んで見えてこない。例えば、映画クライマックス、もはや
自身の“悪の側面”が暴走し、止められなくなったジーンが、一瞬我にかえって
主人公のウルヴァリンに《救い》を求めるシーン。結局、彼はジーンを自らの
手で殺してしまうわけだが、それまでの(ジーンが助けを求めている)展開からして、
嘘でもここは彼女の魂を救済しなくちゃいけないのでは?、だって、ウルヴァリンは
他の人の反対を押し切ってまで、彼女と戦うことを拒んだのだから。いや、仮に、
殺す選択しかなかったとしても、それはジーン自らが“死”を受け入れてこそ。
だとしたら、ここで彼女がウルヴァリンに言うべき言葉は「SAVE ME(助けて)」
じゃない。「KILL ME(殺して…)」の方がピッタリくると思うのだが。
 まぁ、そうは言っても、お顔全体からニョキっと出ててくるハリセンボン、
ただただ呆れるばかり(?)怪力男のバカ力、極めつけは巨大ブリッジを宙に
浮かせてアルカトラズ島に架けてしまう突拍子のない発想など、ミュータントの
兵(つわもの)どもが、我こそはと自慢の超能力を見せてくれる場面は楽しい。
なるほど、みんなゲイ達者だ(笑)。“お正月”ということで“かくし芸大会”
あたりでやったらウケそう。マチャアキもこれにはビックリ仰天だろッ??(笑)

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『スーパーマン リターンズ』、観ました。

2007-01-08 20:16:11 | 映画(さ行)


 『スーパーマン リターンズ』、観ました。
5年ぶりに地球に戻ったスーパーマン(クラーク・ケント)。しかし、恋人ロイスは
幼い息子を抱え、婚約者リチャードと生活。一方、宿敵レックス・ルーサーは、
スーパーマンのクリスタルを奪い、全米を標的にした破壊計画を進めていた…。
 意外にもオイラにとって“スーパーマン”は縁(ゆかり)の深い作品なのだ。
何を隠そう、中学2年の時、映画館で生まれて初めて観た洋画が、今シリーズ
『スーパーマンⅡ 冒険編』だったのだ。まぁ、(映画について)ド素人同然
だった“当時”と、多くの映画を観て体験し、その引き出しの増えた“今”とを
単純比較することは出来ないが、少なくとも当時は、スクリーンに映し出される
飛行シーンの迫力に大感激したのを覚えてる。で、一方、本作はそんな当時の
感動を呼び覚ますべく、ブライアン・シンガーらしい娯楽性とドラマ性を兼ね
備えた良質な仕上がり。今回、何の予備知識を持たぬまま観たオイラは、これを
単なる旧作をリニューアルしただけのリメイク映画とばかり思っていた訳だが、
どっこい、物語は完全オリジナル、正規の続編だった。
 さて、今作がこれまでのシリーズと明らかに違うのは、一つに、このところの
数年間、スーパーマンが一度も姿を現さず、故郷のクリプトン星を探しに旅を
していたということ。二つに、その留守中にスーパーマンの愛する女性ロイス・
レインが婚約し、子供を産んでいたということ。そして、帰還したスーパー
マンは“ロイスの変化”に驚き、2人の関係は今まで以上に“微妙なもの”に
なっていくわけだ。当初、オイラはこの設定に“不自然さ”を感じつつも、
では何故、ロイスはスーパーマンを愛していながら、別の男と婚約したのか??、
(いや、言い換えれば、何故、ロイスはスーパーマンを待てなかったのか??)、
そして何故、彼女は“スーパーマンは必要ない”という新聞記事を書いたのか??…、
映画を観ていく途中で、更なる疑問が増していく…と、その時だった。オイラに
電流が走ったように、ある人物の存在が浮かび上がってくる。それはロイスの
婚約者リチャードの存在だった。勿論(スーパーマンほど)腕力があるわけ
じゃない、とりたたてハンサムというわけでもない。“優しい”だけが取り得の
“平凡な男”‥‥。しかし、いつも“家族の支え”となり、(息子にとっての)
“父”であってくれる。つまり、その時、彼女が欲しかったのは、鋼鉄の身体を
持ち、万人から崇拝される“英雄”なんかじゃない。息子の成長をいつもそばで
見守ってくれる“家族としての父親”だったんだ。そう思えば、ロイスにとって
リチャードの存在は、単なる婚約者ではなく、家族の絆を築く上で“重要な
パートナー”だったのかもしれない。うーん、そこに至るまでの過程は複雑で
想像すら出来ないが、(婚約した)彼女のその決断は、同じ1人の子を持つ親の
立場として、オイラにも理解出来ないはずはない。

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2006年を振り返って 《洋画ベスト5》

2007-01-04 19:43:52 | ★独断と偏見的シネマ・セレクション3

2006年 洋画ベスト5

06年の洋画は、邦画のソレとは対照的に若干の物足りなさが残る。
それでもやっと12月に入ってから
DVDで『グッドナイト&グッドラック』、
映画館で『硫黄島からの手紙』という秀作に出会えたので
最後にして何とか帳尻だけはあったかな(笑)。
※なお、ここでの「新作映画」とは、昨年劇場公開された作品に含めて、
“昨年レンタルリリースされた作品”も含まれています。
場合によっては「それは一昨年の映画だゾ」とお叱りを受けるかも
しれませぬが、その辺はどうかご了承くださいませ。

『グッドナイト&グッドラック』
②、『ある子供』
③、『理想の女(ひと)』
④、『ジャーヘッド』
⑤、『プロデューサーズ』
次点、『硫黄島からの手紙』

①は、抑制されたモノトーン映像の中、
報道の世界に生きる男たちの“熱いドラマ”が展開される。
一切の過激描写を封印して、
なお画面全体から迸(ほとばし)る緊張感に息が苦しくなってくる。
06年を代表する社会派サスペンスの傑作だ。
④について、世間的な評価は別にして、
ボクはイーストウッドの戦争2部作より感動した。
一切の戦闘シーンをカットして描くサム・メンデスの反戦は、
「暴力を使わずに暴力を批判する」という強い信念の表れだ。
これをアメリカ人の…、それも若い監督が撮ったということに感動を覚える。

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2006年を振り返って 《邦画ベスト5》

2007-01-03 18:43:51 | ★独断と偏見的シネマ・セレクション3

2006年 邦画ベスト5

05年は、ベスト3さえままらない日本映画“不作の年”だったが、
変わって06年は、それが嘘のような充実振りで嬉しくなってくる。
こうして振り返ってみても、前年はどれを下から引き上げるか悩んだが、
今年は3本に選びきれずに、とうとうベスト5にしてしまった。
※なお、ここでの「新作映画」とは、昨年劇場公開された作品に含めて、
“昨年レンタルリリースされた作品”も含まれています。
場合によっては「それは一昨年の映画だゾ」とお叱りを受けるかも
しれませぬが、その辺はどうかご了承くださいませ。

『雪に願うこと』
②、『嫌われ松子の一生』
③、『博士の愛した数式』
④、『いつか読書する日』
⑤、『メゾン・ド・ヒミコ』
次点、『リンダ リンダ リンダ』

①は、定番のシナリオながらも、
力強いタッチの映像美と、丁寧で重量感のあるドラマ性が印象に残る。
挫折を味わい、人生に絶望する…、
しかし、どん底から這い上がり、再び新しい生き方を探していく。
そんな社会(人生)の厳しさに立ち向かう“人の強さ”に勇気をもらった。
②について、ボクは『下妻物語』より凄いと思った。
これでもかこれでもかと不幸が続く“救いのないお話”なのに、
観終わったボクの心は“不思議な幸福感”に満たされた。
今にして思えば、あのラストシーンしかありえない。
♪曲~げて伸~ばして、お星さまを掴もう~
すでに観終わって半年以上経つが、今尚あのメロディが頭から離れない。

最後に、挨拶が遅れましたが、明けましておめでとうございます。
そして、07年も日本映画が元気でありますように。

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『オーメン666』、観ました。

2007-01-01 20:13:56 | 映画(あ行)


 『オーメン666』、観ました。
6月6日午前6時、アメリカ人の若き外交官ロバート・ソーンは、ローマの病院で
妻ケイトが産んだ赤ん坊が死亡したことを聞かされる。すると、病院の神父が、
出産中に命を落としたある母親の赤ん坊を差し出し、その子を引き取るように
勧めてくる。その子の名はダミアン。幸せに育てられる…はずだったが。
 「リメイク映画」と聞いて、かなりの高確率で“駄作”を予感したアナタ…、
同じくオイラもその一人(笑)。だから、過度な期待は封印して、小学生の頃
観て震え上がった『オーメン』の、単なるノスタルジックとして観たわけだが、
映画は良い意味で派手さを抑えた“丁寧な作り”で感心した。まぁ、一般に、
この手のリメイク映画でよくある失敗例は、最新のデジタル映像やら、必要
以上の過激描写に走り過ぎてしまって、本来オリジナル版だけが持っていた
長所までぶち壊してしまうこと。ただ、今作では、そういったものやショッカー
描写にほとんど頼ることなく、大きな黒い犬、赤い車輪の三輪車、隙間なく
壁に貼り付けられた聖書のページなど、様々な小道具やシチュエーションを
使って“悪魔の見えない力”を演出する。そして、あどけない子供の仮面の
下に隠された“邪悪な悪魔の本性”がチラチラ顔を見せるたび、オレは体の
底から湧き上がる“底知れぬ恐怖”に震撼する。このあたりは見事に、本作が
オリジナル版の特長を受け継いでいるのがよく分かる。しかも、実はこの映画、
単なるコピーにあらず、オリジナルの三部作、最初の2作品をブレンドして、
良いとこ取りでコンパクトにまとめ上げたものだというから、尚の事、嬉しく
なってくる。こうなりゃ、いっそ、オリジナルでは“スカ”だった3作目を、
この監督、このキャスト、このスタッフで再びリメイク??…、いや、この際、
リメイクなんかに拘(こだわ)らず、大幅にストーリーを付け変えてでも
“本当の完結編”を作り直して欲しいくらい。だって、(すでにオリジナルを
観てて)分かっちゃいても、今回の、あのラストシーン…、改めて、その続きを
観たくなったのは、きっとオイラだけじゃないと思うのだが。