肯定的映画評論室・新館

一刀両断!コラムで映画を三枚おろし。

『サマータイムマシン・ブルース』、観ました。

2006-03-31 20:02:27 | 映画(さ行)

サマータイムマシン・ブルース【プレミアム・コレクターズ・エディション】 ◆20%OFF!

 『サマータイムマシン・ブルース』、観ました。
とある大学のSF研究会の部室には、前日にクーラーのリモコンが壊れ、猛暑に
悩む部員たちがいた。ところが彼らは部屋の隅にタイムマシンがあることを発見。
「昨日に戻ってリモコンを取ってこよう」ということになり、軽い気持ちで
乗り込んでみるが……。
 日本映画史上、ほとんど初めて(?)と言っていい“SFナンセンスコメディ”の
快作だ。ボクは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』よりも断然面白かった。
ハリウッドの大作映画ではありえない…、およそチープな作りと、貧相な登場
人物たち…(笑)、僅かに馴染みの顔といえるのは『スウィングガールズ』
ヒロイン上野樹里チャンくらいで、残りのみんなは悲しいほどに華がないッ(笑)。
いや、しかし、そもそもよく考えてみれば、我らが日本映画と、天下の(?)
ハリウッド映画様を比べてみれば、制作費の段階から0(ゼロ)の数が2つも3つも
違うわけで、まともに戦ったんじゃ勝てるはずなどありゃしない。だったら、
それを逆手(さかて)にとって今回は、徹底的に“安い作り”と、“コアで
マニアな発想”で勝負してみましょうか…、そんな逆転の発想から生まれたのが、
きっとこの映画、『サマータイムマシン・ブルース』なんだ。
 まず、映画のミソとなるのは、その(世紀の大発明??)タイムマシンを
手に入れちゃったのが、事もあろうにSF研究会…、呆れるくらいに能天気な
大学男子5人組なのでアル。でもって、奴らのカラッポの頭じゃ過去に遡って
“人類創世の謎”を探るとか、未来に出向いて“人類最期の時”を見届けるとか、
そういった高尚な考えは毛頭なく、とりあえず思い付いたのは、昨日に戻って、
壊れる前のクーラーのリモコンを持ち帰ること(笑)。しかも、その途中経過で、
あっちじゃ意味なく“ハリキリスタジアム”ネタに大騒ぎ??、こっちじゃ何故か
“ギンギン(ペンギン)”騒動に大忙し??、そっちじゃ結局“ヴィダルサスーン”
事件に振りまわされ??、挙句にゃ“カッパのたたり”に遭遇し??、どうにも
収拾がつかない状態なのダ(笑)。それつけても、ヤッコさん達の大学生活は
バカバカしいほど楽しくて、くだらない冗談にハイテンションで盛り上がり、
恋の悩みにアタマを抱(かか)える。何だかとっても懐かしくて、本当に
自分がタイムマシンに乗って20数年前に戻ったような…、そんなカンジでした。

 


『カナリア』、観ました。

2006-03-28 21:17:51 | 映画(か行)

カナリア ◆20%OFF!

 『カナリア』、観ました。
少年の名は光一、12歳。母に連れられてカルト教団《ニルヴァーナ》の施設で
妹とともに数年を過ごしたが、カルト崩壊後、関西の児童相談所に預けられた。
だが祖父は、光一より4つ年下の妹、朝子だけを引き取っていく。母の行方は
分からないままだ。光一は偶然助けた少女・由希とともに、引き離された妹と
母を取り戻すため、東京にいる祖父の元へと向かう‥‥。
 かつて『誰も知らない』を観た時に、もう耐え難いほどに辛かった…、そして、
この映画も同じ。子を持つ“ひとりの父親”として、大人の都合を持ち込んで、
子供の“清い心”が犠牲になっていくのは何とも観るに耐えない、心が痛む。
 映画は、オウム真理教の諸事件をモチーフに、主人公の少年が大人社会の
“見えない圧力”によって追い詰められ、“狂信的な宗教”に走るしかなかった
様(さま)を描いている。観ながらボクが震撼し恐怖したのは、その宗教団体が
家族の愛も、母子の絆も引き裂いて、彼から“信じられるもの”をひとつひとつ
奪い去っていく。手段を選ばぬこの卑劣なやり方に、子供だけはなく、多くの
大人までが騙されてしまったという事実。そして、洗脳された信者の口からは
「逆らえば“地獄”に堕ちる」、「“来世”こそは…」というキーワードが
呪文のように繰り返される。ただ、よく考えてみれば、この事件の背景には、
物資が溢れ、豊かになった生活の一方で、何故か心だけは満たされない。
未来に対する不安や、社会への不信感が拭い去れないまま、“心の弱さ”を
露呈する。だからこそ、助けが欲しくて“何か”に頼り、“誰か”にすがる。
(この映画では、それが“宗教”だった。)本当は、ボクたち大人のひとり
ひとりが“大人としての自覚”を持ち、少しでもこの世界を良くしてなくちゃ
いけないのに。しかし、現実の社会では、氾濫する幼児虐待や援助交際‥‥。
そんな自分自身の“良心”さえ信じられない大人たちを見て、彼ら子供たちは
一体何を思うのか??、今、彼らは声にならない声をあげ、助けを求めている。
果たして、その静かな叫びに、今のボクたち大人は、傾ける耳を持っているの
だろうか。すべての子供たちは、すべての大人を見ているんだ。

 


『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』、観ました。

2006-03-26 20:52:21 | 映画(あ行)

ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!

 『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』、映画館で観ました。
年に一度のお祭“巨大野菜コンテスト”まであとわずか。発明家ウォレスと忠犬
グルミットはプロの害獣駆除隊《アンチ・ペスト》として畑を荒らすウサギから
野菜を守っていた。しかし、ある夜、巨大ウサギが畑を荒らしまわる事件が
発生する‥‥。
 あの『チキンラン』から丸5年、今か今かと待ちわびたニック・パークの最新作。
しかも、オイラが愛してやまない「ウォレスとグルミット」の“続編”映画版と
きたもんだ。気持ちがはやるゼ(笑)。だけど、こんなときに限って我が家は
お忙しくて、やっとこさ、公開一週間も経った昨夜に観れたのだが、やっぱり
映画は期待通りに楽しくて、優しくて、温かい。さすが、本年度オスカーで
『ハウルの動く城』『コープスブライト』を破って、最優秀の長編アニメ賞を
受賞。単純に子供が観る“エンターテイメント”としてもバツグンだし、動物
愛護の精神に、人間のエゴと傲慢(ごうまん)さを絡めた“風刺映画”としても
堪能できる。老若男女、誰が何処から見ても楽しめるクレイ(粘土)アニメに
仕上がった。
 さて、映画は、コンテスト用の巨大野菜を大事に育てる人間サマと、隙あらば
それらの野菜を食い荒らそうとする極悪(?)ウサギ軍団との対決かと思いきや、
実は○○○が犯人だったという衝撃事実が待ち受ける。人間のエゴから野菜を
巨大に改良し、人間の迷惑だからとウサギの嗜好さえも改良する。ところが、
その過程で“恐ろしいモンスター”を作り出してしまうという皮肉。それは
“行き過ぎた科学”から人類が“神の領域”に足を踏み入れ、知らぬ間に人間
自身を危険にさらし、築き上げた文明の全てを破壊してしまうやもしれぬという
警告に思えてくる。しかし、よく考えてみれば、この皮肉な構図はそのまま
“現在の映画界”にも当てはまる。日々デジタル化が進む昨今の映画界にあって、
本作ではまるで、その流れに逆行するような一コマ一コマを動かしてのストップ
モーション撮影、、その拘(こだわ)りの“手作り感覚”こそが、観る者の心を
豊かに、やわらかい気持ちにさせてくれる。きっと、ニック・パーク映画の原点は
そこにあるんだろう。そして、その“映画作りのスタンス”は、すべての映画人が
見習わなければならないと思う。

 


『ザ・フォッグ』、観ました。

2006-03-24 20:43:58 | 映画(さ行)

ザ・フォッグ(デジタルニューマスター版) ◆20%OFF!

 『ザ・フォッグ』、観ました。
カリフォルニアの小さな漁港で百年祭を迎えたその夜、100年前に難破した船の
乗組員たちが亡霊となって戻ってきた。 町は“恐怖の霧”に包まれる‥‥。
 以前のレビューにも書いたのですが、ボクのパパの妹であるフミヨ叔母さんは
チョ~楽観主義者で大のホラー映画好き(※『ゴースト・シップ』レビュー参照)。
今作はそんなフミヨ叔母さんのために、ボクが自らレンタル屋さんをいくつも
ハシゴして借りてきたホラー映画の一本だ。今はもう遠く…千葉の奥地(?)に
帰ってしまった彼女を思い出し(笑)、今再びこの映画を観る。50歳を過ぎて
なお“独身”。「理想のタイプは『13金』のジェイソンよ」と言い張るフミヨ
叔母さん。早く“そんな理想の彼氏”と巡り会えれば良いのになぁ(笑)。
 霧の中に“何か”がいる…、今作の面白さはそこに凝縮されている。この映画を
観るボクたちはその“何か”が100年前の亡霊だとは分かっても、その正体を
最後まで映像として観ることが出来ないのだ。《見せないことの怖さ》‥‥つまり、
観客は見えないからこそ“不安”になり、小さな“想像”が生まれ、大きな
“妄想”へと変わっていく。しかも、映画はその“見えざる敵”を形を持たぬ
「霧」として描き出し、灯台の上から霧の行方を伝えるDJの存在を〈目〉の
役割として‥、一方でDJの指示を受けて行動する男性の存在を〈足〉の役割
として‥、両者の視点から“見えざる恐怖”を掻きたてる。確かに物語としては
古臭い。しかし、描き方ひとつで映画は“無限の広がり”を持っていく。
さすが…、ジョン・カーペンター初期の“隠れた大傑作”だ。

 


“エンニオ・モリコーネ”三本締め

2006-03-22 20:56:01 | ★独断と偏見的シネマ・セレクション3

独断と偏見的シネマ・セレクション3 《監督・俳優編》“エンニオ・モリコーネ(作曲家)”

1、『マレーナ』
2、『続・夕陽のガンマン』
3、『ニューシネマ・パラダイス』

日活 マレーナ

続 夕陽のガンマン(BEST HITS 50) ◆20%OFF!

ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 SPECIAL EDITION

ボクが考える“優れた映画音楽”とは、
決して前に出過ぎないこと。
映画における“全体的な調和”の中で使用され、
いつのまにか流れていて、いつのまにか消えている‥‥
そんな風に、映像を引き立てるための
“助演俳優”でなければならないと思ってる。
だから、ボクの理想とする作曲家は、
『スター・ウォーズ』や『インディ・ジョーンズ』の
某有名作曲家なんかじゃなく、紛れもなく“彼”‥‥
エンニオ・モリコーネなんだ。

中でも1は、映画でその曲が流れ始めると、
途端に画面が光り輝き、ノスタルジックな気持ちに満たされる。
ボクにとっては、自分の披露宴の際にも使った“思い出の一曲”だ。

それから、最後に余談をひとつ。
テレビのワイドショーが言う事にゃ、
あの(?)小泉総理もモリコーネの大ファンだそうで、
先日、その小泉純一郎セレクションによる
モリコーネのベスト盤を発売したそうな。
モリコーネのファンが多いのは嬉しいし、納得出来るんだけど、
オイラが小泉総理と同じ好みだったとは、
ちょっと‥‥、いや、“かなり”不本意だなぁ(笑)。
   ↓↓↓↓↓

私の大好きなモリコーネ・ミュージック~小泉純一郎選曲チャリティ・アルバム
エンニオ・モリコーネ, ガストーネ・キアリーニ
BMGファンハウス

このアイテムの詳細を見る

 

 


『ブロークバック・マウンテン』、観ました。

2006-03-20 21:03:59 | 映画(は行)

ブロークバック・マウンテン

 『ブロークバック・マウンテン』、映画館で観ました。
1963年、ワイオミング州。20歳のイニスとジャックは、ブロークバック・
マウンテンに季節労働者として雇われる。大自然の中でひと夏を過ごす二人。
そこで助け合い芽生えた友情は、いつしか深い愛情へと変わっていく‥‥。
 きっと、好き嫌いが分かれるだろう、この映画。きっと、観る人を選ぶだろう、
この映画。果たして10年前の自分だったなら、どんな感想を持ったのか‥‥。
恐らく「ホモセクシュアル」に対する嫌悪感だけで、はなからここに描かれる
“愛の崇高さ”なんて分かろうとしなかったかもしれない。男同士の汗の匂い、
切ない息遣いと熱い指先、激しい鼓動と胸の高鳴り、そして何より、自分の
冷たい体を温めてくれた“あの男性(ひと)の優しさ”に、とうとう最後に
残った理性さえ夜の闇に溶けていく。観ながらオイラは、互いの“心の隙間”を
埋め合って、互いの“孤独”を慰(なぐさ)め合う、そんな彼らの一途な愛の
行方に息が苦しくなった。
 それにつけても、、家庭人の(?)オイラからすれば、まったく分からないし、
分かりたくもない…(笑)。ひとつの過ちから“禁断の愛”へとのめり込み、
手にした幸福(家庭)さえガラガラと音を立てて崩れ去っていく。彼らの
やり場のない怒りと、抑えきれない激情とが、監督アン・リーの抑制された
演出の中、気が狂わんばかりの“切なさ”となって観る側に押し寄せてくる。
結局、今の世界にそんな彼らを温かく迎え入れてくれる場所なんて何処にもなく、
二つの人生は“あの日”のまま…、静かに音を立てず止まっていた(涙)。
だとしたら、彼らにとっての“ブロークバック・マウンテン”は何だったのか??、
ラストシーン、主人公が二人の“愛の証(あかし)”と、一枚のフォトグラフを
(決して人目に付くことのない)タンスの奥にそっと仕舞いこむ。いや、恐らく
彼らにとってのブロークバック・マウンテンは、何人(なんぴと)も触れる事が
出来ない“二人だけの聖地”だったんだろう。その、フォトグラフに映るブローク
バック・マウンテンは、今も澄み切った青空の下、「偏見」とは程遠い“美しい
世界”にいるようだった。

 


『生きる』、観ました。

2006-03-17 20:51:07 | 映画(あ行)

生きる 【TDV-2690D】=>18%OFF!生きる

 『生きる』、観ました。
市役所勤めの勘治は勤勉な経歴の持ち主だったが、胃の具合が悪いため、
ある日初めて欠勤した。診察の結果、胃癌に冒されていることを知った彼は、
自分のこれまで無意味だった人生を振り返る‥‥。
 先日、ボクの友が逝った‥‥、癌だった‥‥。
妻と子供を残し、旅立つ彼の無念を察すると胸が詰まる(涙)。そんな時、
無性に観たくなったのは‥‥黒澤明の『生きる』。映画は、ある日突然、
胃癌を宣告された主人公が、残された僅かの人生に“生きる意味”を
見つけていく物語。『生きる』は、20歳の頃に一度観て、その“内容の
重さ”から素直に感動出来なかった記憶がありますが、今“友の死”を体験し、
この映画を観直してみれば、主人公の最期が“ボクの友”にダブって見えた。
涙溢れること数度、やはり『生きる』は名作だった‥‥。
 日本映画史上、燦然と輝く『生きる』は数え切れない名場面によって
成り立っている。オープニングの市民課の“絶望的”に積み上げられた
書類の山に始まって、“堕落”の象徴である作家との出会い、“希望”の
象徴である若い娘との出会い、そして今も語り草となる“お通夜”の
シーンまで‥‥。しかし、ボクが『生きる』で一番好きな場面は、
“死”の直前にして生まれ変わった主人公が、橋の上で歩くの止め、
“夕焼けの美しさ”に感動する場面。まさしく、その赤く染まった夕焼けこそ
“主人公の人生”‥‥。一日の最期にある美しい時間、ほんの一瞬だが
夕焼けは真っ赤に燃え上がる。人生終盤にして初めて“生の輝き”を知った
主人公を“ワンショット”で表現した感動的な名場面です。
 結局、主人公が作った公園に“彼の名”が刻まれることはなかった。
しかし、彼の“名”は残らずとも、人々の心にその“生き方”が残った。
そして彼は旅立っていったのです、大いなる“充実感”を胸に‥‥(涙)。

 


『スペースアドベンチャーコブラ 劇場版(寺沢武一)』、観ました。

2006-03-16 21:11:09 | 映画(さ行)

TVシリーズ全31話+劇場版を完全収録!ハピネット・ピクチャーズ スペースアドベンチャーコブラ...

 『スペースアドベンチャーコブラ 劇場版(寺沢武一)』、観ました。
辺境惑星の酒場で、コブラは賞金稼ぎの美女ジェーンと出会う。ジェーンは
死滅した惑星ミロスの王族の末裔で、三つ子の姉妹キャサリンとドミニクを
捜していた。彼女たちは惑星ミロス星に眠る強大な力をコントロールするのに
必要不可欠な人物なのだ。コブラは、ジェーンと共にふたりを捜し始める‥‥。
 まず最初に断わっておくと、今日のレビューは、左腕に銃(サイコガン)を
持つ男『コブラ』の映画版なのダ。「誰だ、そいつは??」と、首を傾げる人も
いるかと思うが、例え知らなくても今後の貴方の人生に何ら影響はないので
どうぞご心配なく(笑)。分かる人だけウンウン頷いてもらって、興味ない人は
そのままスルーしてもらってもOKだ(笑)。さてさて、それでもこんなオイラを
慕って、今もレビューを読んでる貴方のために、手短に寺沢武一原作、
マンガ版『コブラ』の魅力を説明しよう。一つに、チョー前向きで美女好きな
主人公コブラの性格と、二つに、女を酔わし、オイラを殺す、憎いほどに
キザな台詞。そして、三つ目にして最大の特長は、登場する女性キャラが皆、
ほとんど裸同然のコスチューム。しかも、全部が揃いも揃って“Tバック”
ときたもんだ(笑)。オイラのワイフはことあるごとに「何故に(女だけ)ここまで
露出させちゃうワケ??」と尋ねてくるが、オイラは「これが“武一の美学”なのさ」と
自信満々に答えている(笑)。
 オッと前置きはこれくらいにして、そろそろ肝心の本作について触れたいと思う。
ジェーン、キャサリン、ドミニクの美人三姉妹から、スノウゴリラのサンドラ、
クリスタルボーイまで、お馴染みのキャラクターが勢揃いして、ファンにとっては
嬉しい限り。ただし、原作では悪役だったサンドラが、コブラの味方になって
いるのは如何なものか?、欲を言えば、映画版だけのオリジナルキャラがあっても
良かったと思う。(まぁ、そんな事を言っても、『コブラ』の原作を読んでない人には
さっぱりチンプンカンプンなわけで(笑))、総括としては、まったく楽しめない
映画じゃないが、原作を思えばその面白さは半分くらい。やっぱり、オイラは
ねちっこい劇画タッチで、異常なまでに“女性のお尻”に執着をみせるマンガ版
『コブラ』をオススメするね(笑)。
 ちなみに、マンガ版『コブラ』で、オイラが特にお気に入りのエピソードは、
“異次元レースの流刑星”の巻。自分の心が弱気になった時は、必ず読んでます。

 


『メゾン・ド・ヒミコ』、観ました。

2006-03-14 20:48:19 | 映画(ま行)

メゾン・ド・ヒミコ 特別版【初回限定生産2枚組】 ◆20%OFF!

 『メゾン・ド・ヒミコ』、観ました。
ゲイである父親を嫌い、その存在を否定して生きてきた沙織は、春彦という
若い男から父がガンで余命いくばくもないことを知らされる。春彦は父が営む
ゲイのための老人ホームで働く、父親の恋人だった‥‥。
 きっとパリジェンヌだってズッコケそう…、いかにもアンニュイでお洒落な
タイトルからして、まさか“オカマの老人ホーム”とは思わなかった(笑)。
監督は『ジョゼと虎と魚たち』の犬童一心。だから当然、最初はしっとりとした
男女の情愛か、もしくは乙女のホロ苦い成長物語を期待して観始めたわけだが、
序盤からセクハラすれすれのホモネタ満載、その迫力に困惑気味のオイラは
チョット後ずさり(笑)。まぁ、時として、そのハイテンションに引いてしまう
こともあったのだけどサ。しかし、終盤になるにつれ、それが孤独な乙女を
優しく包む“家族の愛”のように思えてくる。彼らが社会に順応できずに
オカマとなり、人目を隠れて生きる“悲しみの一面”が見えてくる。終わって
みれば、さすが犬童一心監督らしい、コミカルとシリアスがバランス良く
配置された“人間喜悲劇”の秀作に仕上がった。
 一方で、ボクがこの映画で思わず泣きそうになってしまったのは、劇中の
合唱曲として使われる「母が教え給いし歌」の美しさだ。その歌によれば‥‥
子供の頃、母が私に“ある歌”を教えてくれた時、母は涙を浮かべていた。
そして今、自分が母となり、子供に“歌”を教える側になってみると、
私もあの日の母のように涙を流す‥‥、という歌の歌詞。そう、二人が流す
涙のわけは、亡き母の面影を偲んでいたんだね(涙)。結局、ボクがこの歌を
聴いて…、この映画を観て感じたことは、親はどんな時も子を愛し続ける。
例え、自分がオカマとなり、世間から後ろ指を差された後となってもね。
子が“その愛の深さ”に気付くのは、ずっと、ずっと後になってから。そして、
きっとその時はもう手遅れなんだ(涙)。それが痛切だったのはこの映画の
ワンシーン、(自分が捨てた)実の娘から、これまでの経緯と恨み辛みを
聞かされて、「私はアンタを許さない」と一言、その直後に(オカマの)父が
娘に言った言葉の重さ……。短いけれど、いつまでも胸に残る台詞だなぁ。

 


『エミリー・ローズ』、観ました。

2006-03-12 20:01:51 | 映画(あ行)

エミリー・ローズ

 『エミリー・ローズ』、映画館で観ました。
19歳の女子大生エミリー・ローズ。自分に何かが取り憑いていると確信した
彼女は、自らの運命を医学ではなくムーア神父に託すが、悪魔祓いの儀式の後、
命を落としてしまう。過失致死罪で起訴され、全国民が有罪と断言する中、
神父は法廷で、エミリーの身に起こったことを語り始める…。 
 何を隠そう、オイラだって元を正せば、こんなにも“無神論者”じゃなかったハズ。
今よりもっと穢(けが)れを知らぬその昔は、やっぱり神を信じ、悪魔を恐れる、
迷える子羊ちゃんだったのサ(笑)。まぁ、そんなオイラが今に至る経緯は
割愛させて頂いて(笑)、今回オイラがこの映画に惹かれた点が二つ。
まず、このオカルティックな“悪魔の存在”を、現代の裁判制度が(常識?、
正論?、医学?、科学?の見地から)どのように裁くのかという興味が一点。
続いて、二点目は何とこれが事実に基づいた“実話”であるというから驚きだ。
でもって、たった今さっき映画を観終わった結論は、さすがの(?)オイラをもって
しても全部“デタラメ”とは言い切れない、信じ込ませるだけの“説得力”が
ここにはある。恐らく、悪魔が少女にとり憑く内容からして、ウィリアム・
フリードキンの『エクソシスト』と比べられると思うが、出来はともかくとして
(悪魔の存在に対する)“真実味”ではこちらの方が上かもしれない。リアルな
恐怖が直に伝わる作品だ。
 さて、映画は“ホラー映画”としても楽しめるし、“法廷映画”として「宗教裁判」を
描いたものとしても充分堪能出来る。ボクがこの映画を観て感じたことは、
悪魔は自らが手を下して人を殺したり、傷付けたりはしない。人の“心の隙”を
狙って忍び込み、支配するのだ。そして、それに打ち勝つのは、神への信仰…、
すなわち、“強き信念”だということ。しかし、ここで見逃してはいけないのは、
実は本作の“もう一つの戦い”である「裁判」も、これによく似た構図になって
いるのだよ。弁護士であるヒロインが、自分の利益と名声のためにだけに
引き受けた裁判で、被告を“信じること”で劣勢をはね返し、上司の命令よりも
“被告の意思”を尊重した。度重なる“悪魔の恐怖”に怯えながらも、最後まで
逃げ出さなかったのは、その強い「信念」と「良心」に目覚めたからではない
だろうか。

 


『クラッシュ(ポール・ハギス)』、観ました。

2006-03-11 20:11:23 | 映画(か行)

クラッシュ

 『クラッシュ(ポール・ハギス)』、映画館で観ました。
クリスマス間近のロサンゼルス。黒人刑事のグラハムは、相棒であり恋人
でもあるスペイン系のリアと追突事故に巻き込まれる。彼は偶然事故現場
近くで発見された黒人男性の死体に引き付けられる……。
 ずっしりと重たい映画でありながら、観終わった後の…、この不思議な
清々しさは何だろう。さすが『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本家ポール・
ハギスが自らメガホンを取った“群像ドラマ”のサスペンス、、評判通りの
傑作だ。さて、普通、この手の群像ドラマでは、一人や二人は「アレ、この人
誰だっけ??」みたいな事があるのだけど、ことこの映画に限っては一切ない。
つまり、それだけ演出に無駄がなく、脚本がカンペキだということ。更に
付け加えるなら、本作で頻繁に使用される“人種差別”のキーワードに
大きな意味はなく、例えば、白人と黒人、中国人とメキシコ人とイラク人…、
そんな風に“キャラクターの色分け”の手段のように思えてくる。むしろ、
ここでは“人種差別”を含めた、もっと大きな問題について‥‥、肌や目の
色が違うというだけで、人は何故こうまでして互いに憎み合い、傷つけ合い、
殺し合わなければならないのか…、人間の愚かさや、醜さや、弱さについて、
時間を掛けて描かれているのではないのかな。
 次に、ボクが本作で、思わず叫び出しそうになった場面がひとつ。それは
黒人の鍵(かぎ)職人の一人娘が、逆恨みのイラク人によって銃で撃たれて
しまう場面だ。人が“世界で一番愛するもの”を失った瞬間の悲しみと叫び…、
観ながらボクは、自分の愛する娘にダブらせながら、その瞬間、自分の命も
一緒に消えてなくなるような錯覚を覚えた(涙)。そして、同時にボクが
感じたことは、それぞれの受けた悲しみが“怒り”となり、その怒りと怒りの
ぶつかり合い(クラッシュ)が、“人々の対立”を生んでいるんだということ。
だけど、ふと気がつけば、そんな病んだ世界にも“救い”があって、夫が
妻を愛するように…、父が娘を愛するように…、若者が友を愛するように…、
知らず知らずに人は“近くの誰か”を愛してるんだね。今のボク達に大切なのは、
感情の《ぶつかり合い》なんかじゃない、心と心の《触れ合い》なんだ。
ラストシーン、絶望と孤独の淵にいた黒人刑事が、土の中から小さな神像を
見つけ出す。もしかしたら、それは彼にとって「良心」という名の“救い”だった
のかもしれない。

 


『ティム・バートンのコープスブライド』、観ました。

2006-03-10 21:11:05 | 映画(た行)

ティム・バートンのコープスブライド 特別版【DL-59351】=>20%OFF!ティム・バートンのコープス...

 『ティム・バートンのコープスブライド』、観ました。(ネタバレ有り)
19世紀のとある村。結婚を控えた気弱な若者ビクターが、ふとしたことから
死体の花嫁(コープスブライド)に結婚の誓いを立ててしまい、死者の世界へと
連れ去られる……。 
 あの、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のファンなら、きっとお気に
召してもらえるはず…。“ドイツ表現主義”を駆使した幻想的な町並み風景と、
一癖も二癖もあるシュールでブラックな笑いがいっぱい。コワ面白くって
セツナ笑っちゃう。それから、本作でもすべてのティム・バートン作品共通の
テーマである“弱者へのオマージュ”が見てとれるのが嬉しい。観ながら
オイラが大感激してしまったのは、死者がある事情から現世に舞い戻り、
生き別れとなった家族との再会を果たす場面…、死んでしまったペットの犬も、
逝ってしまった爺ちゃんも、今はみんな“ガイコツ”なんだけど、現実の
世界にいる家族たちはそんな彼らを涙ながらにギュっと抱きしめる。思わず
オイラも大好きだった祖父を思い出し、涙がポロリ…。夢の中での再会を
果たしたような気がした(涙)。
 さて、このダークにしてハートウォーミングなドール(人形)アニメーション、、
無機質である筈の人形たちが、人間よりも人間らしい感情を持ち、時に“人間
喜劇”として、時に“人間悲劇”として、我ら人間社会を痛烈に皮肉っているのが、
何とも愉快、痛快だ。それが象徴的に描かれるのは、色彩豊かに描かれる
“死後の世界”で、表情豊かに踊り回るガイコツ達とは対照的に、モノトーン調で
暗く澱(よど)んだ“現実の世界”では、仏頂面で“表情のない人々”が
絶えず私腹を肥やさんと策略を練っている。そして、そんなエゴと欲にまみれた
社会の中で、“真実の愛”を模索する若い男女の姿が痛々しい。一方、死して
“捕らわれの身”となったコープスブライドが、ついに呪縛から解き放たれ、
蝶となって大空に舞い上がるラストシーンは、「自由」への旅立ちと「失恋」の
痛みが入り混じった不思議な余韻に満たされる。切なくも美しいエンディングだ。

 


『ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女』、観ました。

2006-03-06 20:46:24 | 映画(な行)

ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女

 『ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女』、映画館で観ました。
第二次大戦下のイギリス。ペベンシー家のピーター、スーザン、エドマンド、
ルーシーら4人の子供たちが迷い込んだ別世界ナルニア国。かつて偉大なる王、
アスランに創造されたその美しき国は、冷酷な白い魔女の支配によって春の
来ない100年の冬に閉ざされていた……。 
 これを“ポスト『ロード・オブ・ザ・リング』”を狙った二匹目のドジョウと
呼ぶのは失礼かい??(笑)、まぁ、単純な“善悪の対決”を基本線としたロード
ムービーであるのは変わらないわけで、両作品ともに物語の“深み”だとか
“奥行き感”だとかは、ほとんど感じないのだけどね。ただ、ボクが本作に
限って嬉しかったのは、言葉を話すアニマル勇者軍と、氷の魔女率いる悪の
軍団とが激突するその戦闘シーンに、首が飛び、手が引き千切られるような
グロテスクは存在せず、加えて、一滴の血さえも流れない…。うん、これは
子を持つ“親の立場”としてみれば、何よりも大切で重要なことなんだよ。
安心して我が子にみせられるエンターテイメント、、ディズニーが“本当の
ファンタジー”に拘った、その答えがこの作品なんだろう。この映画で、子供は
“夢の世界”に胸躍らせ、大人は“その良心的な映画作りの姿勢”を観て欲しい。
映画の出来はともかくとして、ボクは『ロード・オブ・ザ・リング』よりも、
この『ナルニア国物語』をオススメするね。
 さて、この映画を観ていて、次々浮かび上がるキーワードは、「家族」「戦争」
「勇気」‥‥、だけど、そのすべての根幹にあるものは《仲間への信頼と絆》では
なかろうか。例えば、映画では、おやつ欲しさに仲間を裏切った人間の子供を、
動物王のライオンが諭(さと)すように叱る場面が描かれる。実は、その“裏切りの
少年”こそが「現在の我ら人類」そのもので、大自然の掟について分かったようで
いて全く知らない“未熟な新入り”‥‥、つまり、目先の利益のために自然環境を
破壊する“人間の身勝手さ”なんだ。そして、その行為が(この地球で一緒に
暮している)仲間を危険に曝していることさえお構いなしで、更なる自然破壊を
繰り返す。ライオン王が少年を叱った時の悲しい目差しは、愚かな人間たちへの
“憐れみ”だったのかもしれないね(涙)。だからこそ、映画クライマックス、
そんな人間の子供たちが“自然界の一員”として、この世界のために戦う場面は
何とも言えない清々しい気持ちにさせられる。それは、まさに自然界のすべてが
待ち望む“夢の世界”なんだ。

 


『運命じゃない人』、観ました。

2006-03-04 20:52:05 | 映画(あ行)

運命じゃない人 ◆20%OFF!

 『運命じゃない人』、観ました。
典型的なお人好しの冴えないサラリーマン宮田武は、結婚を前提にマンションを
購入した矢先、肝心の恋人に突然去られてしまう。そんな宮田を見かねた親友の
神田は、待ち合いのレストランにて女の子をナンパしてみせる。ひとりで
食事していたその女、真紀はちょうど彼氏にフラれて今夜の泊まる家もなく
途方に暮れているところだった‥‥。
 あの、『パルプ・フィクション』以降は“この手の映画”‥‥、つまり、ひとつの
事件をオムニバス形式で追いながら、そのパートごとに主人公を変えていく
スタイルは、今や“犯罪映画の定番”になっているのだけど、とうとう日本でも
それを受け継ぐ形の“大傑作”が誕生したみたいだね。さすが本年度キネ旬
日本映画5位にランキング、小品ながらもニクい仕掛けと、思わずクスクス笑いが
止まらない小ネタがいっぱい。例えば、店内にて画面を横切るだけの人…、
夜道でぶつかりそうになった怖いオッチャン…、タクシーの後に信号を横切る
白い車などなど……、そんな一見何の変哲もないディテールが、映画後半には
二重三重にもなって複雑に交錯する。そして観終わって、その“相互関係”を
確かめるべく、改めてDVDの“巻き戻しボタン”を押してしまった人も多いのでは??、
更には、次第に物語の全貌が明らかになっていくその過程で、見え隠れする
「金の誘惑」と「邪(よこしま)な心」の“因果関係”が浮上して、それぞれの人生を
惑わせる。ハハハッ‥(笑)、そう思えば、人の出会いなんて“運命”のようでいて
“運命”じゃない。結局、この世は《金》よ。《金》こそすべて。《金》さえもらえば、
ハイ、おさらばネ‥‥‥と、笑い話で“オチ”つく(?)つもりが、最後の最後に
もう一転、、物語のエンディングにして「ピンポーン」と“玄関ベル”の音が鳴る。
それはいつしか暗雲に乗り上がり、止まりかけていた“運命”が、又再び走り出す
合図だったんだ。

 


『SHINOBI』、観ました。

2006-03-02 20:41:18 | 映画(さ行)

★SHINOBI特製携帯クリーナー付!SHINOBI ◆20%OFF!

 『SHINOBI』、観ました。
江戸時代、人里離れた2つの里には、かつて対立し合っていた忍達が暮していた。
互いに接触を避けている中、それぞれの後継者である弦之介と朧(おぼろ)は、
運命的な恋に落ちるが……。
 随分と思い切ったものねと椎名桔平(笑)。役柄とはいえ、あの無茶な(?)
メイクで、映画の表舞台に立たされる心境は、如何なものだったのかい??、
いや、いっそ、そのまま『妖怪大戦争』に出た方がお似合いだったのかも(笑)。
観ながら、笑っていいのか、笑っちゃいけないのか、様々な想いがアタマの中を
駆け巡り、相当に葛藤も繰り返したが、ある瞬間にとうとう吹っ切れた(笑)。
そもそもコイツは“時代考証を正確”にだとか、山田風太郎の“原作に忠実”に
だとかは一切お構いなしで、“深く考えちゃいけない映画”なんだとね(笑)。
そう思えば、オレの肩の力は抜け、途端に心の箍(たが)が外れたように
ゲラゲラゲラと笑い出す。まぁ、最終的にはこれが“おバカ映画”じゃないとは
分かったものの、何とも“異質な香り”が漂う映画ではあったかな(笑)。
 さて、映画は、幕府の“戦争兵器”となるためだけに生まれてきた“2つの
SHINOBI”、その両者の生き残りを賭けた戦いを描いている。ただ、ここで
ひとつ注目したいのは、その決闘が“従来の忍者活劇”とは違う、手が伸び、
顔が変幻し、幾度となく生き返る‥、もはやそれを“忍法”というには程遠く、
言わば“超能力”に近いということ。観ながらボクが感じたことは、意せずして
“グロテスクな殺人マシーン”となり、戦うことを余儀なくされた者の悲しみ‥、
つまり、この根幹に流れているテーマがブライアン・シンガーの『X-MEN』
登場する“新人類(ミュータント)”と同じかもしれないね。戦うための
“化け物”となり、利用され廃棄される彼らに行き場はなく、ただ“自らの
存続”を賭けて戦うのみ‥。そして、最後はあまりに残酷な結末が待ち受ける。
うん、“おバカ映画”なんてとんでもない、深く悲しい作品だ。惜しむらくは、
せめて“メイク”だけでも…、せめて“ヘアスタイル”だけでも…、椎名桔平が
マジメに演ずれば演ずるほど滑稽に見えてしまうのは、きっとオイラだけは
ないと思うのだが(笑)。