肯定的映画評論室・新館

一刀両断!コラムで映画を三枚おろし。

『明日の記憶』、観ました。

2006-12-28 21:30:29 | 映画(あ行)


 『明日の記憶』、観ました。
広告代理店の仕事にも脂が乗り、夫婦も円満、一人娘は結婚間近と、今まさに
人生の“円熟期”を迎えたばかりの50歳・佐伯雅行。そんな彼が突然、若年性
アルツハイマー病を宣告される…。
 あの“世界のケン・ワタナベ”が凱旋帰国して、久々に出演した日本映画。
更に、今作では初めての“プロデューサー業”にまで進出して、例の『ラスト・
サムライ』
で共演した“トム何とかサン(?)”さえ彷彿させる活躍ぶり(笑)。
それにしても、これが数年前に大病を患(わずら)って、この世の地獄を見た
人間なのかと思うと、人生の運と不運なんて何処に転がってるのか分からない
ものだと、改めて痛感する。
 さて、映画は、ある時フッと湧いたように不治の病を宣告された主人公の
戸惑いと苦悩を描いている。恐らく、渡辺謙にしてみれば、病名の違いこそ
あれど、物語の主人公を自分自身に置き換えて共感し、どうしても(自分が
プロデューサーを買って出たとしても)映画にしたい衝動に駆られたんだろう。
あるいは、かつては想像すらし得なかったこの役柄が、今の自分なら演じる
ことが出来ると確信したのかもしれない。そして、この映画の特徴として、
挫けそうになる主人公を、陰で支えたり励ましたりする妻や会社の仲間達の
様子が、たっぷり時間を割いて描かれている。これは渡辺謙本人が実体験を
通じて身に染みて感じたこと…、病を克服するには、家族を含めた周囲の
サポートが絶対不可欠であるを訴えているのかもしれない。
 ただ、彼の美談は一先(ひとま)ず置いといて、これを一本の映画として
観た場合には、うーん、いまひとつ心に響くところまではいかないかな。
例えば、上に挙げた“周囲の人々”も単発的で、それぞれが描ききれていないし、
これでもかと流れる感動的な音楽が押し付けがましく感じちゃう。かと思えば、
不似合いな洋楽がBGMに使われたりと、全体を通してテレビ的な演出が目立つ。
確かに、渡辺謙の孤軍奮闘ぶりは必見だが、裏を返せば、彼の演技以外には
特に観るべきものはない作品になってしまった。例えば、同じアルツハイマー
病を扱った『半落ち』の方が、ボクはテーマもハッキリしていて、考えさせ
られるものがあったように思うのだが。



『隠された記憶』、観ました。

2006-12-24 19:27:53 | 映画(か行)


 『隠された記憶』、観ました。
テレビの人気キャスターであるジョルジュと美しい妻アンは、息子ピエロと共に
幸せな生活を送っていた。だがジョルジュの元に送り主不明のビデオテープが
不気味な絵と共に何度も届くようになる。映し出されるのはジョルジュの家の
風景と家族の日常。やがてジョルジュは遠い日の記憶を呼び覚ます…。 
 これで今年も100本近く映画を観てきたわけだが、その中でもとりわけ難解で、
観終わった後の解釈が無限に広がっていくのが、この映画なのかもしれない。
ぶっちゃけ、レビューを書く立場からしても、大変困るんだよなぁ、こういう
映画って(笑)。アタマは使うし、(内容を)整理する時間は掛かるし…。はて??、
何から書き始めて良いのやら。
 で、これから観る人のために忠告しておくと、コイツ(この映画)を“単なる
サスペンス映画”と思っていたら痛い目にあう。盗撮したビデオは送られて
くるものの、事件は一向に進展しないし、結局、最後まで犯人が誰だったのか
さえ明確にされないまま、映画はエンディングを迎えちまう。僅かに犯人を
特定するヒントがあるとすれば、首を刎(は)ねられた鶏の絵と、ラストシーンの
学園のキャンパスで、意味深に話し込む2人の少年の姿だろう。まぁ、ここまで
書けば、必然的に(容疑者として)残るのはアノ人か、コノ人しか居なくなる
わけだが…、いや、この際、そんな“犯人当ての推理”なんてどうでも良い。
むしろ、この映画では、一見平穏そうにみえる家庭の裏側に潜む秘密と、
その実態の脆さについて描かれた“家族のドラマ”として観た方が良さそう。
あるいは、人が人として生きる上で必ず背負わなければならない“罪の重さ”
について描いた“自責と呵責(かしゃく)のドラマ”と言っても良いかもしれない。
そして、このサスペンス映画では、ナイフを持った殺人鬼が、家族の命を
奪いに来るのではない、主人公の“隠された過去の記憶”が蘇り、かつて自分が
犯した“罪の重さ”に押し潰されるのだ。それは、彼に限らず、ボクに限らず、
アナタに限らず、誰に限らず持っている“若さゆえに犯した罪の記憶”‥‥、
その苦しみからどんなに逃げても追ってくる、どんなにもがいても抜け出せない。
すがるように絡みつき、影のように付きまとうのだ。


『寝ずの番』、観ました。

2006-12-19 21:01:20 | 映画(な行)


 『寝ずの番』、観ました。
上方落語界の重鎮・笑満亭橋鶴は、今まさに臨終のときを迎えようとしていた。
弟子たちが見守る中、師匠に最期の願いを聞く。「そ、そ○が見たい」。師匠の
驚くべき回答に、皆はあっけにとられるが、一番弟子の橋次は弟弟子の橋太に
指示を出す。橋太の嫁の茂子に白羽の矢が立ったのだ……。
 どこを切っても出てくる、出てくるY談&エロ話、まさに、コイツは下ネタ
映画の金太郎アメ(笑)。けどね、コレが男どもの欲望だけ満たす“ピンクな
映画”かと言えば、それとも違う。むしろ、Y談ベース仕立ての“人情喜劇”。
陰気臭い通夜の晩を、明るく楽しく、酒とエロ話でカラッと笑い飛ばそう。
たかが人生、されど人生…、だから気取らず構えず、最後もみんな笑顔で
締めくくろうよ、ってね。まぁ、実際のところ、映画自体はゲラゲラ腹を
抱えて大笑いするほどの一撃はなかったのだけど、この頃、気が滅入ることの
多かったオイラにとって、良い気分転換にはなったかな。うん、少しだけ…、
気分が軽くなりました。
 さて、映画構成は、あの、黒澤明監督『生きる』を思わせる…、(あるいは、
伊丹十三『お葬式』を思わせる…)葬儀の酒談の席で、故人の思い出話に花が
咲き、語られる複数のエピソードによって、生前の彼の人柄と、その周囲との
温かい人間関係が見えてくる。ひとつ、オイラがこの映画で意外だったのは、
物語が“師匠の死”だけに留まらず、その一番弟子の死、更には、師匠の妻の
死へと続く“三部構成”になっていること。恐らく、作り手は“単調”になる
ことを嫌って、このような構成にしたと思うが、ボク個人は特に前半部分の
雰囲気が気に入っていたので、それ以降のパートは蛇足のように感じられた。
実際、2部・3部のエピソードは、1部である“師匠のパート”に組み込めない
ものではないし、その3つを1つにして“長い一夜”にした方がスッキリして
観易いものになったと思うのだが、如何だろうか。
 最後に、これが監督デビュー作となるマキノ雅彦(津川雅彦)は、いろいろ
趣向を凝らし、存分に監督業を楽しんでいるのがよく分かる。しかし、同時に、
観る側からすれば、その“小細工のし過ぎ”が気になるところ。技巧派の投手が
コーナーばっかり狙い過ぎてカウントを悪くして、自らを苦しくしてるみたい。
ホントは、シンプルに撮る方が(こねくり回すより)ずっと難しいんだけどね。



『グッドナイト&グッドラック』、観ました。

2006-12-16 22:00:01 | 映画(か行)


 『グッドナイト&グッドラック』、観ました。
1954年、アメリカ。共産党員を告発するという建前のもと、マッカーシー上院
議員による“赤狩り”が多くの国民から職を奪い、恐怖が全米を覆っていた。
マスコミが報復を恐れ批判を控える中、言葉を武器に権力に立ち向かった
ひとりのニュースキャスターがいた。その男“エド・マロー”と若き記者達の
熱き6ヶ月を描く‥‥。
 もしも、ボクがアカデミー会員で、昨年度の作品賞に投票権があるのなら、
『クラッシュ』『ブロークバック・マウンテン』も選ばない。選ぶとしたら、
この映画、『グッドナイト&グッドラック』だ。スタイリッシュなモノクロ
画面の映像から、ジリジリ焼け付くような“緊張感”が伝わってくる。冷静を
装い、話すキャスターの表情から、権力に立ち向かう“強い意思”が見て
取れる。真の報道のあり方とは…?、正義とは…?、自由とは…?、人権とは…?、
ニュースジャーナリストを父に持つジョージ・クルーニーだからこそ描く事の
出来る“放送業界”の裏側と、その責任の重さがズッシリと胸に響く。そして、
そこには如何にも商業的で映画的なクライマックスシーンは存在せず、映画は
ただストイックに“一つのテーマだけ”を追っていく。そのスタイルは、まるで
映画の主人公が、スポンサーや視聴者に媚を売ることなく、最後まで貫き通した
ジャーナリストとしての“信念の固さ”にダブってみえた。
 さて、映画は、“アカ狩り(=非同調者捜し)”旋風の吹き荒れるアメリカ
50年代を舞台として、法が人を裁くのではなく、権力が法を支配する“資本主義
社会の病巣”を描いている。科学の英知が「テレビ」という媒体を生みだし、
様々な情報を発信する。しかし、その、真実であるべき情報が“ある理由”から
偽の虚像へと変わった時、テレビは人々に恐怖を与える“ただの機械の箱”に
変わってしまう。そして、それは「ジャーナリズム」も同じ。そこに“公平性”が
損なわれれば、人々の心を煽り、操作するだけの“巨大な権力”へと変貌する。
一つ言えることは、テレビも、ジャーナリズムも、そこに“人の力”が加わって
初めて動き出し、“人のモラル”の上に存在するってこと。この映画を観ながら、
数日前に新聞記事で読んだ“内村鑑三の言葉”を思い出した。「文明は蒸気に
あらず、電気にあらず、憲法にあらず、科学にあらず‥‥、人の心の状態なり。」


『硫黄島からの手紙』、観ました。

2006-12-11 21:14:37 | 映画(あ行)






監督: クリント・イーストウッド
出演: 渡辺謙, 二宮和也 監督: クリント・イーストウッド

 『硫黄島からの手紙』、映画館で観ました。
5日で落ちるとされた硫黄島戦を、36日間にも及ぶ死闘へと変貌させた日本軍。
この時代に異彩を放ったアメリカ帰りの指揮官・栗林中将のもと、寄せ集めと
いわれた硫黄島の日本兵は、最後までどう生き、どう戦ったのか‥‥。
 硫黄島の激戦を日米両側から描いた戦争二部作。もしかしたら、C・イースト
ウッドが本当に作りたかったのは、アメリカ側の前作よりも、むしろ、こちらの
『硫黄島からの手紙』の方ではあるまいか。うん、確かに前作『父親たち~』
“独自の視点”で優れた戦争映画ではあるのだが、いかんせん、戦闘シーンが
激しくて、肝心の人間ドラマの方にノッていけなかったオレ。一方、本作では、
前作よりも戦闘シーンの激しさは抑制され、暗い洞窟の中で“来たるべき死の
瞬間”を怯えながら待つ、日本兵の心理がリアルに伝わってくる。当初オイラは
「5日で終わるとされた戦いを、36日間、戦い抜いた男たちがいた」という
宣伝コピーからして、 日本人特有の死をも厭(いと)わない“特攻精神”や、
その“忠義心”を褒め称える映画かと思っていた。しかし、実際のところは
その逆で、ここ(この映画)で我らが目にするものは、彼ら(日本兵)が勇敢に
戦って死んでいく姿ではなく、古い伝統や格式に囚われ、自らの命を絶つ…、
あるいは、無謀な作戦の前に倒れていく…、そんな無数の大切な命があった。
前作『父親たち~』で「戦争に勝者はなく、ヒーローも存在しない」と言った
イーストウッドだが、打って変わって今作では、このように戦争を比喩している。
「戦場で“国に捧げた死”だとか、“潔い死に方”とか言ってみても、所詮は
“ただの無駄死に”でしかないんだ」とね。
 さて、本作で、その根幹となって描かれるのは、兵士それぞれが“戦場にて
思うもの”。それは、残してきた母であり、妻であり、娘であり、強いては、
“家族の温もり”だったりする。映画は、登場人物にとっての“それら”を
手紙形式で綴りながら、暗い洞窟の中、誰にも看取られず死を待つ無念さと、
遠く離れた故郷を思う郷愁感とが、フラッシュバックで交錯する。物語終盤、
「家族のために戦うことを誓ったのに、今、その家族を思って、死をためらう
自分がいる」という台詞の場面は、3年前の自分ならピンとこなかっただろう。
が、しかし今、最愛の娘がいるオイラには、その言葉の重さがよく分かる(涙)。
そして、自決を拒否し、逃げ続け、生き延びた若い兵士に、主人公司令官が
いう台詞が胸に残る、「君は立派な兵士だ」と。そうだ、“戦うこと”は死ぬこと
じゃない、殴り合うことでも、殺し合うこととも違う。苦しくても生きること、
生き続けることなんだ。

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『雪に願うこと』、観ました。

2006-12-08 19:33:50 | 映画(や行)

 『雪に願うこと』、観ました。
経営していた会社を倒産させ、故郷の北海道・帯広に戻った矢崎学。“ばんえい
競馬”の厩舎を運営する兄・威夫のもとで寝起きをするようになった学は、そこで
自分と同じようにお払い箱になる寸前の馬と出会う‥‥。
 ボクシングの試合で「ホームタウンディシジョン(地元びいき)」という
言葉がある。しかし、少なくとも、この作品が今年の東京国際映画祭で4冠を
達成したのは、そういったものではなかった筈。純粋にこの作品の素晴らしさが
評価されての結果だったに違いない。まず、主要キャストは勿論の事、脇役の
一人一人にまでスポットを当てた“丁寧な人間描写”。一方、朝の空気に
突き刺さる白い息を吐き、急な坂道をもがきながら登っていく巨大馬の躍動感。
例えば、同じ競走馬を扱った近年の『シービスケット』と比べてみても
映像における“線の太さ”は明らかだ。実は、これまでオイラはサラブレッドの
細くひ弱な脚を見るたびに、悲しくなってしまうのだが、ここ(この映画)に
登場する馬場(ばんば)の馬に、そんなものは微塵もない。そのゴツゴツした
太い脚に“生命の息吹”が宿り、その力強い足取りが“本来の馬があるべき
姿”を教えてくれる。それは荒々しく、それでいて、この上なく神々しい。
 さて、物語を一言で言えば、人生に挫折して、敗北感を味わう人々の“敗者
復活戦”だ。“人生の再生”への道は辛くけわしく、どこに行けば良いのか
分からない。「過去」という“重たい荷物”を引きずりながら、息を切らして
“人生の斜面”を上っていく…、まるで馬場の馬の姿そのままに。思うに、
人生(の目標)なんて…、いつかの、湖の下に“沈んだ村の橋”を同じだよ。
“人生の浮き沈み”の中で、目の前に現れたり消えたりする。しかし、
そのダウンの時、他人(ひと)は力を貸してくれず、“自分自身の力”で
新しい未来を切り開いていかなければならないんだね。例え、それがどんなに
惨めで、どんなに格好悪かったとしても…。そして、きっと多分、その時初めて、
周りの人は貴方を認め、貴方を優しく迎え入れてくれる。「雪に願うこと」…、
そのタイトルの意味が分かるのは、やっとラストシーンになってから。彼らは
それぞれの道を選び、再びそれぞれの人生に進んでいく…、互いの健闘を誓った、
その“願い”を胸に秘めながら。

 


『武士の一分』、観ました。

2006-12-03 21:23:52 | 映画(は行)






監督:山田洋次
出演:木村拓哉, 檀れい

 『武士の一分』、映画館で観ました。
三村新之丞は、最愛の妻・加世とつましく暮らす下級武士。見果てぬ夢を
語りながらも笑いの絶えない新之丞の平和な日々は、藩主の毒見役を務めて
失明した日から暗転する……。
 きっとこの映画で、最初に評価が分かれるとしたら、それは主人公・木村
拓哉のキャスティングではあるまいか。スマートで今風のお顔立ちをした彼が、
果たして“(江戸)時代劇の空気”の中に溶け込めるのか否か。うん、確かに
出で立ちや風貌など、微妙な部分もあるんだけど、“少年”のような悪戯っぽさ、
“男”としての深さ・優しさ、“人間”としての弱さまで、“キムタクらしい”
役作りで、彼なりに作品をよく理解していると思った。一方、その妻役の
壇れいには、長らく忘れかけていた“日本女性としての心”みたいなもの…、
控え目だが“芯の強さ”を感じてしまう。そして、その彼女が情事の後の髪の
ほつれを直す仕草の“エロティズム”は、観ているオイラの理性を狂わせる(笑)。
単なる露出に頼らず、女性の“内なる色気”を描き出すあたり…、老いてなお
健在、山田洋次の演出、さすが。
 さて、映画は、若い主人公の侍が不慮の事故から盲目となり、すべて失って
しまう過程で、武士として…、人間として…、最後に守るべきは何なのかを
問いている。それは(主人公)自身の誇りのためじゃない、穢(けが)された
“妻への愛”のため…。彼は“圧倒的不利な果たし合い”に挑んでいくわけだ。
ただ、オイラとしては、主人公の、その気持ちが分からないではないけれど、
それで本当に妻が喜んだかどうかを考えたとき、彼の決断に100%の共感は
出来なかった。彼女は、どんなに惨めでも夫に生きていて欲しいと願ったはず。
それに、死んでいくことが“武士道”じゃない。例えば、『たそがれ清兵衛』の
時みたく、藩主の命に背けずに、心ならずも戦わねばならないならいざ知らず、
今作での果たし合いは、あくまでも“主人公の意思”だからね。
 それにしても、この映画しかり、かつてのチャン・イーモウ『至福のとき』
しかり、どうして盲目の主人公(あるいはヒロイン)が登場すると、決まって
ラストはチャップリンの『街の灯(1931年製作)』になってしまうんだろう。
改めて、チャップリンの凄さを感じると同時に、そうか‥、あの照れ臭いほどに
人情味溢れる山田洋次作品の原点は、チャップリンだったんだね。意外にも、
今回の映画を観て、一番感動してしまったのは、その事実だったりして‥(笑)。


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『サイレントヒル』、観ました。

2006-12-01 19:48:37 | 映画(さ行)

 

 『サイレントヒル』、観ました。
原因不明の悪夢に苦しみ、「サイレントヒル」とつぶやく娘シャロンを救うため、
旅に出た母親ローズ。薄闇の中、二人が辿り着いた街“サイレントヒル”で
シャロンは突然姿を消してしまう。ローズはシャロンの影を追って街の中を
彷徨い始めるが、そこは決して抜け出すことの出来ない恐怖に包まれた街だった…。
 仮想現実、謎から謎へ、さすがあの手この手で見せ場を作り、目まぐるしく
変化する展開は息つく暇もない。この原作が社会現象にまでなった人気ホラー
ゲームだというのも頷ける。確かにグイグイ引き込まれ、最後まで観てしまった。
ただ、そういう“映画の楽しみ方”とは別に、この作品を“映画的”とみるか、
はたまた“ゲーム的”とみるかは、やはり“後者”の方になるのでは。例えば、
通常の映画ではストーリー全体をひとかたまりとして、そこに“起承転結”を
付けていくスタイル。一方、本作『サイレントヒル』では、映画が始まるや
いなや、まるで恐怖の迷宮に迷い込んだよう。最初の(1ST)ステージを
クリアすると次なる(2ND)ステージ、更にその次の(3RD)ステージという
具合に、グレードアップしながら“新たな関門”が待ち受けている。そして、
注目したいのが“アイテムの使い方”。今作でも、懐中電灯、鍵の束、手錠、
ナイフなど、偶然手に入れた(あるいは取り付けられた)アイテムが、次なる
困難脱出のヒントとして重要な意味を成していく。いわゆる、このあたりは
“RPG(ロール・プレイング・ゲーム)の特徴”だものね。
 そんな感じで、映画はゲーム体験者が“あの感動をもう一度”と思って
観るなら差し支えないが、(ゲームの事を)何も知らないホラー映画ファン
にとってはチョット物足りないのかも…。オイラが観ながら不満だったのは、
テーマとなっている親子愛(家族愛)を、母が子を思う…、その片側からしか
描かなかったこと。それからヒロイン夫婦の関係も分かり辛いし、家族三人の
立場を明確にすることで、映画はもう一歩奥行きのあるものになったと思う
のだけど。