肯定的映画評論室・新館

一刀両断!コラムで映画を三枚おろし。

『大いなる幻影(1937年)』、観ました。

2007-01-18 20:53:18 | 映画(あ行)


 『大いなる幻影(1937年)』、観ました。
第一次大戦のさなか、ドイツ軍の捕虜となるボアルデュ大尉とマレシャル中尉。
様々な階級の人間の集う収容所で、一緒になった連中とも打ち解けないまま、
やがて脱走計画が企てられるが…。
 “反戦映画へのアプローチ”は十人十色。戦争の現実を知るには、まず
戦場からといって“戦闘シーンのリアルさ”に拘(こだわ)る人もいるし、逆に、
そういったものは一切封印し、戦争を人の心の中にある“内なるもの”として
捉える人もいる。例えば、本作のジャン・ルノワールは、その後者の最たる
部分で、単純に善と悪とを分けることの出来ない“戦争の複雑さ”について…、
又、敵味方を超えた“相手に対する敬意”について…、彼ならではの戦争論を
展開している。では、もう少し詳しく説明しよう。つまり、ここでいう国同士、
フランスとドイツは敵対関係にあるわけだが、個々の人間同士が憎みあって、
戦っているのではない。言わば、彼らは国から与えたれた使命を果たしているに
過ぎないのだ。だとしたら、フランスで生まれたからフランス人で…、ドイツで
生まれたからドイツ人で…、それ以外に一体何の違いがあるんだろう。いや、
そもそも、その国境でさえ端から地球に白い線が引いてあったものじゃない、
人間が勝手に頭の中で作り上げた“幻影”に過ぎないのだ。例えば、それを
象徴するのに、こんなシーンがある。収容所を脱走した主人公のフランス兵が、
かくまってくれたドイツ人未亡人の牛舎にて一人呟く、「祖父の牛と同じ匂いだ、
大好きだよ」と。勿論、それ(その台詞)が意味するものが、単なるノスタル
ジックなんかじゃなく、人間の愚かさと、この戦争の無意味さを嘆いた痛烈な
皮肉に聞こえるのは、きっとボクだけじゃないはずだ。
 一方、ともすれば、この映画が、戦争をさも“紳士的なもの”に描き過ぎた
感じ方を抱く人も多いかもしれない。敵兵の戦死を手厚く葬ったり、ドイツ人
所長とフランス人捕虜の間に友情が芽生えたり、ラストシーンでドイツ兵が
国境を越えた脱走兵に銃を向けなかったり…、うん、確かにそれも一理ある。
でも、ボクは思うんだ。監督のルノワールは、それらをすべて承知の上で、
“戦争の本質”から目を逸(そ)らしたのではなく、あえて“人間の本質”に
向かい合おうとしたのだと。剣を向け、殺し合うのではない。互いに尊敬し、
理解し合うこと。それは、如何なる時でも人が人であるために…。
 もしも、国境という“大いなる幻影”が戦争を引き起こす元凶だとしたら、
いつかその戦争が世界から消えてなくなるという“大いなる幻影”を、今はまだ
見ていたい。ラストシーン、雪山の彼方に歩を進める主人公たちは、まるで
その“大いなる幻影”に向かっているようだった。

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