肯定的映画評論室・新館

一刀両断!コラムで映画を三枚おろし。

『乱』、観ました。

2007-05-19 20:12:10 | 映画(ら・わ行)






監督:黒澤明
出演:仲代達矢 、寺尾聰 、根津甚八 、隆大介 、原田美枝子 、宮崎美子

 『乱』、観ました。
戦国時代、70歳になる一文字家の領主・秀虎は、ある日、3人の息子に家督を譲り、
城を1つずつ与えて引退すると告げた。真っすぐな性格の三男・三郎は父の弱気を
批判し、その場で秀虎に追放される。しかし、それがきっかけで親子兄弟の骨肉の
争いが始まった。権勢を誇った秀虎は発狂し、一文字家は破滅への道を辿る。
やがて、正気に戻った秀虎が見たものは‥‥。
 国内と国外で、これほどまでにその評価が分かれる映画も珍しい。多分それは…、
『乱』肯定派のボクが察するに、国内にいる否定派の多くが、この『乱』にもかつての
『七人の侍』や『用心棒』にみられる、ダイナミックで痛快な黒澤時代劇を期待した
のではあるまいか。ちなみに、そのとき『乱』を監督していた黒澤明は“75歳”。
冷静に考えれば、すでに老年期に入った巨匠にエネルギッシュな娯楽作など
撮れる筈もなく、本人だって撮ろうとしなかったのは明白なのに、当時の周囲は
それを許さず、(黒澤の変化を)認めようとしなかったところに“『乱』の不運”がある。
ただ、ひとつ言えることは、すでにその時、その輝けるキャリアの終盤を迎えていた
黒澤明が、“自身の集大成”として選び、挑んだのがこの『乱』だった。作品の持つ
風格といい、崇高なテーマ性といい、ボクは“それ”に相応しい傑作だと思うし、
“75歳の黒澤明”でしか撮れなかった映画であったのは間違いない。いつの日か
近い将来、これまでの評価が見直され、ここ日本でも“(『乱』の)正当な評価”が
成されることを、今もボクは信じて疑わない。
 さて、まず最初に、この映画を語る上で“最大の特長”となるのが、壮大であり、
哀しげな、その“視点”だろう。『七人の侍』に代表される、往年の黒澤時代劇が
“一人称(あるいは二人称)”で描かれているとしたら、その前作の『影武者』では
(まるで丘の上の男が遠方の合戦を眺めるような)“三人称”へと変化し、この
『乱』ではその視点が更に離れて、天空から地上に向けられた“神の視点”へと
移っていく。そして、その“神の視点の先”にあるものは、人間が愚行を繰り返し、
自らのエゴの為に殺し合う“戦乱の世”に他あるまい。それを見ながら“天の神”は、
愚かしい人間たちを嘆き悲しみ、涙を流しているように思えてくる。
 一方、一般的に、この『乱』では、仲代達矢演じる主人公“秀虎の狂気”ばかりに
目が向いてしまいがちだが、ボクは少し違った観方をしているんだ。思うところ、
憐れみよりも“人の愚かさ”を…、そして、やりきれないほどの“悲しみ”の方を
強く印象付けられるのは、“対照的な2人の女性”の存在にあったと考えている。
その2人とは、楓の方(原田美枝子)と末の方(宮崎美子)‥‥、両者とも秀虎に
家族を虐殺され、無理矢理(秀虎の)息子たちの嫁にされるが、2人はその後、全く
“別の選択”をした。楓の方は、“秀虎への復讐”を胸に、残された人生を生き抜く
ことを誓い、一方、末の方は、“秀虎を許す”ことで、心の平安を取り戻そうとした。
ただ、ここで注目したいのは、その“両者の生き方の違い”は、そのまま“正反対の
演出法”となって表れる。自らの“存在感を前面”に、剥き出しの感情で迫る楓の方に
対し、末の方は一切のクローズアップはなく、常に遠方から表情が隠された“暗い
陰”のよう。しかし、例え2人が異なった道を歩もうとも、行き着いた先で交わった
皮肉な結末に、憐れみにも勝る“絶望感”を感じずにはいられない。
 では次に、別の側面から映画をを検証していくことにする、それは“映像面”だ。
『乱』は、美しい‥‥。それは誰もが認めるところであり、黒澤明、生涯の全30作を
通して“屈指の美しさ”を誇っている。中でもワダ・エミが担当した“衣装”の
素晴らしさは、世界映画史上“五指”に入るものだと、ボクは確信する。一方、
撮影を含めた美術・照明・録音も、完璧な仕事をこなし映画全体を盛り上げる。
映画中盤、一の城・二の城を追われ、三の城に逃げ戻った秀虎に、太郎・次郎
率いる大軍勢が攻め入ってくる。白い砂塵が舞い、真紅の…、“血の色”の旗を
持った兵士たちが駆け抜けていく。その合戦の最中(さなか)、画面ではいつしか
“現実音”が掻き消され、まさに“幻想的な白日夢”の様相。ただ、ここでひとつ、
ある工夫が成されていることにお気付きだろうか。実はこのシーン、よく見てみると
画面の“赤を強調”させるために、微妙だが“赤の照明”を部分的に当てているのだ
(もしかしたら、“赤だけが強く反応するフィルム”も併せて使っているかも
しれないが)。このシーンだけを見ても、改めてこの『乱』が、黒澤明の緻密な
計算の上で成り立っていることを知ると共に、まるで《映画》とは、丁寧に積み
上げられた“積み木の城”のように思えてくる。その“頂点に置かれた積み木の
一片(=結末)”だけを見て、それが面白いか面白くないかなんて馬鹿げてる。
むしろ、大切なのは、その頂点の積み木を支える“隠された、無数の土台”の
方なのだ。つまり、《映画の面白さ》とは、目に見えない技術や工夫をひとつずつ
積み重ねていき、如何にその結末(あるいはテーマ)を導き出すかという“過程の
面白さ”なのだ。時代(とき)と共に黒澤映画のスタイルは変化し、受ける印象も
変われど、そのスタンスだけは変わらない。それが黒澤明であり、それが『乱』なんだ。



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