肯定的映画評論室・新館

一刀両断!コラムで映画を三枚おろし。

『王の男』、観ました。

2007-05-17 21:39:42 | 映画(あ行)






監督:イ・ジュンイク
出演:イ・ジュンギ, カム・ウソン

 『王の男』、観ました。
旅芸人のチャンセンとコンギルは、横暴な座長の率いる一座を逃げ出して、旅を
続けていた。やがて2人は、暴君ヨンサングンとその妾ノクスの関係を皮肉った
芝居を演じて、巷の人気を集めるようになるが、それが禍(わざわい)して役人に
捕らえられてしまう。2人は厳罰を覚悟するものの、意外にもヨンサングンは
2人の芝居を面白がり、2人は宮廷に召抱えられる……。
 観始めて十数分、主人公芸人の2人は、明らかな“男色関係”にあるはずなのに、
アレレ?、ちっとも生々しく…濃厚な…ホモセクシャルへと発展しない(笑)。それは
その後、王を加えた“三角関係”になっても同じこと。勿論、映画では彼ら以外に
“女性”もいるのだが、見る限り“(女形の)引き立て役”程度で印象が薄い。
となれば、どうして映画は“男だけ三角関係”に拘ったのか考えてしまう訳だが、
それは観ていく過程で少しずつ分かってきた。で、ボクの考えはこうだ。彼ら
3人の中心には“愛”がある……が、それだけじゃない。例えば、コンギルと
チャンセンには《仲間》として分かり合える“信頼”と“絆”とが脈打ち、一方、
コンギルから見た(実の母を殺された)王の間には、《母性》としての“憐れみ”や
“同情”が横たわる。恐らく、そこに女性が一人入れば、“愛”だけが前面に
押し出され、その周囲の感情が霞んで見えてこない。男だけ3人の方が、
その辺りでスッキリして描き易かったのではないか。つまり、言い換えれば、
この映画における面白さの真髄は、その奇妙な三角関係が微妙なバランスの
上で成り立ち、ついには崩れていく“危うさ”なのだ。
 さて、この映画を観ていけば、必然的に浮かび上がってくるキーワードがある
はずだ、それは《身分》。王に気に入られ、遊女から“后”にまで伸し上がった
ノクスしかり…、又、そんな王と后を笑い飛ばす芝居にして、あわや死罪から一転、
王を笑わせたことで“王の芸人”となった主人公一行しかり…、彼らに共通する
ものは、自らの実力・能力によって今の地位を築き上げたのではなく、単に“王の
気まぐれ”に左右された方が大きい。しかし、よく考えてみれば、そんな王の
“絶対的な権力”でさえ、その偉大な父の死から偶然譲り受けたに過ぎない。
観ながらボクが当たり前のように感じたのは、王となり、その王冠を被る者は、
それに相応しい者がなるべきだということ。映画終盤、王の逆鱗に触れ、その
罰によって盲目となった主人公芸人が、再び…、しかし“最後の芝居”を演じる
ことになる。盲目の彼が綱渡りをしながら言うことには「見よ、私こそ王なのだ」と。
つまり、我らが王は“地上数メートルの綱”の存在でしかない。いくらあがいても、
“天”は遥か上空に…、“神”とは比べるに値しない。しかも、愚かな王が足元を
一歩でも踏み外せば、そこには“死(失脚)”が…。いや、それ以上に、王の
愚かさの最たるものは“盲目”だったこと。その周囲にいる敵と味方さえ判別出来ず、
本来最も信頼を寄せるべき側近の助言にすら耳を貸さなかったこと。映画の…、
その結末は、成るべきして成ったと言える。だとしたら、こいつは悲劇じゃない、
哀しい位に可笑しい“喜劇”だよ。



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