僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(1/17)地震の体験

2010年01月17日 09時26分41秒 | Weblog
今日は阪神・淡路大震災から15年の日である。
若い人から見れば
15年前のあの地震は昔の出来事としか見えないかもしれないが
私たち年を取ったものからすれば
ついこの間のことのように覚えている。
関西から遠く離れたこの我が町の人間ですら
衝撃的な出来事だった。
あの日は朝に
関西で地震発生、ぐらいにしか受け止めていなかった。
ネットなんてなかったころ(あったのかもしれないが全然、家庭に普及していず)
情報は朝のワイドショーくらいのものだった。
普通に職場に行き
職場のテレビで被害報告が次々となされ
段々、それは今までにないくらいの地震だとわかってきた。
私は1時間ごとに、若い子たちに
「現在地震死亡者○○名」と報告していった。
そのうち5000名を越えた数字を知ると
なぜに、この近代的な日本でこんなに死亡者が出るのか、と
信じられない思いだった。
直下型の地震は、段々大きくなる、という余白がない。
いきなり、ドーンと来る。
しかも寝ているときである。
(寝ている時刻だったからこそ、被害はあれだけで済んだ、という説もあろう。
起床してどの家も火を使う時間帯だったら〔冬だからストーブもつけるし〕もっと
被害が大きかったかもしれないし、人々が街に繰り出し、交通の機関も活発な
頃だったら、また別な被害の出方もあったろう。いずれにしても人々がまだ動き出さない
時間帯でさえ、あの甚大な被害があったのだから、想像を超えた大きなものだった)

あの日から一斉にテレビは被害の報告、現場ルポ一色だった。
私も記録を取っておきたいために
臨時で出た各新聞社出版社の本、冊子を買い集めた。
倒壊のビル、家のほか、焼け野原になった街の様子等、証言などが
記載されている。



私の住む町は地震の多い地域である。
ここ数年のうちに大規模な地震が来ることは
以前から言われている。
私はこれまで大きな地震は北海道にいたときに1回
こちらに来て1回ある。
その後も何度か見舞われているが
体感した恐ろしさは2回。
特に宮城県沖地震のあの地鳴りはまだ覚えている。
両親が
田舎の田圃を造成した新興住宅地に家を建てて2ヶ月ほどしてからである。
両親はその日
地元の中心街にあるうちの店で仕事をしていた。
私はそのとき2階の自分のベッドで夕寝をしていた。
自宅に1人である。
遠い海の底で地震発生すると、いきなりドーンとは来ない。
最初の揺れで、あ、地震だと認識して
たいていはガタガタッと大きくなって収まっていく。
しかしそのときは違った。
段々音と揺れが大きくなっていき
目の前のものがまともに見られなくなった。
目の前でステレオが倒れ、ターンテーブルが飛び出し
これは倒壊するのでは、と初めて気付いたときに慌てて
階段を下り、外に飛び出した。
そのときは助かろうとしか思っていなかった。
一番揺れが大きかったときに外に出た。
近所の子供たちが泣き喚いていて
私は子どもたちと抱き合っていた。
空気が熱するような異常な感覚だった。
実際そうだったのかもしれない。
地球規模の地面の揺れで、地面から沸きあがってくるような
ムーンとする熱気を感じとっていた。
茫然自失。
恐ろしかった。
家の中に入ると、タンスは全部倒れ、テレビも吹っ飛び
食器棚も倒れて食器が全部飛び出て粉々になっていた。
両親の部屋のタンスは倒れたとき、ベッドの角に突き刺さっていた。

そのあと
一人でその粉々になった食器やガラスを片付け始めた。
夕刻である。
そのうち暗くなり、停電で何も見えない。
近所の人が心配して、うちに来て懐中電灯などで照らして
手伝ってくれた。
そして心細いであろうと、その近所の人の家にお世話になった。
両親が帰宅したのは夜中である。
車で帰ってくるにも、信号がダメになっていて
混雑の中帰宅した。
そして家の中の悲惨な有様を見て
母は泣いた。
両親も同じ市内で体験しているのだが、
地盤がこちらのと違って固いせいか、
店の食器が少し崩れたくらいだった。
中心街だったので、電気の復帰も早かった。
そんな気持ちで帰宅したものだから
自宅の悲惨な状態にショックを受けていた。
彼らにしてみれば
家を新築したばかり、家具も一新したものばかり。
それらが倒れて、突き刺さっているのを見れば
泣けてくるだろう。
翌日、明るいところで見た食器ガラスの山を見て
父は嘆いた。
そしてこれを片付けた私に
「よく、一人で片付けたなあ・・・」とつぶやいた。
もちろん近所の人たちの協力もあった。
田舎のほうだから、電気、ガスなどの復旧は遅れて
その後も真っ暗な部屋で過ごした。
家の周りを見たが、どこも亀裂が入っていなかった。
奇跡である。
後にこれが、両親のテレビ出演となる。

周囲の家はどうであったか。
新興住宅地であるため、まだまばらにしか
家が建っていなかった。
新築中の家が倒壊していた。
どんな思いでいるだろう、と思った。
田圃の造成なので地盤はまだ緩く安定していなかった。
そのため、悲惨な状況の家が多かった。
別な地域では、古くからの家やビルが倒壊し
ブロック塀があちこちで倒壊して死亡者がそれで多かった。
うちはまだ新築だったから塀も作っていなかったかと思う。
この地震で、いろんな点を見直された。
建築基準法やブロック塀の鉄筋の強化など。

当時
夫とまだ知り合っていなかった。
知り合ってから夫にあの地震のとき家はどうなったかと
尋ねた。
夫の家は戦後建てて何十年と経ったボロ家だったので
どうだったのかと。
しかし、家は街の中心部にある。
地盤が固いそうだ。
いくらかの被害はあったようだが、うちのような被害にはならなかった。
それでも、夫の部屋はレコードの重みで歪んだそうだ。
それを父親がジャッキで持ち上げて直したとのこと。
父親はこういうところ、ベテランなので近所では重宝がられていた。
夫の部屋(寝る所は別)は
もともと玄関があったところでそれを改築して
三畳ほどの狭いところにレコードが何千枚とあった。
レコードそのものの歪みを心配したらしく、歪みを矯正する器械も
あり、知り合ってから私のレコードの歪みも矯正してもらった。

先ほど
両親がテレビ出演と書いたが
家はある大手の会社の建築だった。
店にその会社の人たちが来ていた縁でそこの家を建てた。
あの地震で家の中のものは壊れたが
家そのものに全く損壊した部分がなく、父は絶賛していた。
そしてあるワイドショーのスポンサーだったその会社で
地震に強かった家として紹介され
両親は上京した。
生出演。
当時はビデオなんて家にない時代。
私は放送を観られなかったが、テレビ局でちゃんと録画してくれた。
あとで父に自慢のように見せられた。
大きな写真も送られ、ワイドショーの司会者とともに
写っているのを今でも飾っている。
ついこの間も眺めてきたばかりだ。
母は緊張していた。
あの家で大変な揺れを経験したのはこの私。
余談だが
私は後に、この会社に採用された。
私の与り知らぬところでの話。
しかし、大卒ということで、容赦なく会社は
宿題を出して、家の設計を書くようにと言われた。
私、文系卒である。
秘書あたりのつもりでいた。
そして私には別な目的があった。
結局、その会社の門をくぐることなく、
私と母が、辞退の謝りに行った。
そのときの上司の言葉
「何か不都合がありましたか。」の言葉に
感激した。
不都合、という言葉が非常に心地よかった。
なんにでも使える、と思った。
爾来、よくこの言葉を使うようになった私だ。
あのときの上司の鷹揚な対処に感謝している。
そのあとも皆、店に来てくれている。
上司というのはこうでなければならない、と思っている。


さて、私と夫は家を建てた。
夫の父が20歳で建てた戦後の家を取り壊して。
費用は全部私たちで出しているので
設計やメーカーの決め事は私たち。
地震のことを心配してのメーカー選び。
私の両親はもちろんあのメーカーを薦めたが
私たちは同じ工法である別なメーカーにした。
こちらの自由なわがままな設計に熱心だったからである。
別なところは途中で向こうから降りた。
特に夫のオーディオにはこだわりを持った。
CDに切り替わっていく時代である。
そのCDの重みに耐えられる設計、棚も作りつけで
棚自身が倒れないように。
しかし今、CDが増えすぎて作りつけの棚では間に合わなくなり
別に大きなものを買った。
それがもし大きな地震が来たときに倒れる可能性が大。
その下で寝ている私は下敷きになる可能性あり。
この家になってまだ大きな地震は来ていない。
小さな地震はよくある。
そのたびに、ネコたちはビクッとする。
トチなんか、敏感だ。
地震のときはネコのことが一番心配だ。
私たちの
地震のときの課題である。
忘れそうだが、そろそろシミュレーションしておかねば。

長い文章、ごめん。