僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(1/12)ようやく両親に会ってきた

2010年01月12日 16時40分50秒 | Weblog
午後には雨になった。
今日は午前中から遠くに出かけて
ネコの缶詰や灯油を買いに行く。
そのあと1時過ぎに
私の実家に行く。

1年以上も会っていない両親。
お正月に行くことにも躊躇して
とうとう、時機をずらして今日にした。
出かける前に
電話をして、午後にちょっと顔を出すと
父に言う。


ここで少し私と両親のことを。
よく、このブログにて
私と両親の確執を述べたりしているが
話せば長いので
省略しつつ書いているが
補足的に簡潔に書いておく。

私と両親は養子縁組の関係なので
彼らは育ての親である。
生母は、今の母親の姉にあたるので
私と母親は、血縁的に叔母姪の関係だ。
その生母はもう亡くなって10数年経つ。
生父は健在で、山梨にいる。
しかし生涯2度しか会ったことがなく、
父という実感はゼロ。

今の両親は結婚して子供ができないと
(母が若くして子宮か卵巣の病気)わかり
養子縁組を探していた。
生母は私を、結婚することなく産み(ラブチャイルドね)
私を連れて、北海道や新潟の親戚を転々としていたのだが
(彼らの恋愛についてはいつか述べたい)
病気がちだった私を引き取ろうとしたのが
今の両親。
6歳のときの縁。
ですから、そのくらいのときからの縁なので
何も遠慮することなんてないのだけれど

いろいろありましてね。

小児結核のため、小学入学と同時に札幌の
ベッドスクールに。
結核というのは栄養失調から来ていて
生母がどれほど貧しかったかは想像できます。
あの頃の時代のことは
幼いながらにいろいろと覚えているものです。

そのベッドスクール時代が
私の精神の原点ね。
これまたいつか述べたい。
病気をしながら小学校に遅れることなく
入学できたのも今の両親のおかげ。
あのまま
生母の元にいたら
病気をしたままどうなっていたことか。

まずここまで書いて
今の両親にどれほど恩返しを
しなくてはならないか、というのを
いつも考えさせられるのだが


その後の人生、両親とは結局
衝突ばかりでしたね。
長い文章になるので
これまたいつか。


その両親の姿を久々に見て
私は
親不孝者とチラッと思ったわけです。

母は脳梗塞になり
父は目や首の痛みなどあり
二人して助け合って生活しています。

脳梗塞は母側の姉妹、皆そうなりましたね。
生母もそれで亡くなり
姉たちもそう。
私も例外でないね。


まずは
今年はできるだけ
私が両親に目を向けるようにしなければと
思っている。
このように疎遠になった理由は
あるのだが
今はそれは書かないでおこう。

私には
夫の母親と
私の両親と
介護しなければならない対象が3人。
一人っ子同士の結婚なので
そのようになることは予測していたのですけどね。


その両親に会ってきたことが
今日のメインです。