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僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(4/29)遅ればせながら、羽生君の凱旋パレード。

2018年04月29日 19時47分09秒 | 日常、仕事、認知症
先週の日曜日、仙台は羽生君のファンで溢れた。

そう、オリンピックの優勝凱旋パレードの日だった。
こうして遅れて一週間後にブログに書くことをお許しください。
4年前にも凱旋パレードがあって、まさかまた4年後にこうして稀有な体験をするとは。
街は羽生君一色の日だった。
全国のファンが前の日から席を確保するために集まり、
当日は私は仕事だったので早朝いつものように出かけたのだが、
多くのファンが真っすぐに向かっていくのとすれ違った。これは彼のファンだなあ、とわかった。
そして仕事を終えて私も出かける。
職場が街の中なので、自転車も職場に置いたままで行けるので便利。
暑くて暑くて、途中倒れたら心配、とパレードに面したカフェで一息。
どこも彼のファンでいっぱいです。
カメラ、なんと電池が切れそうだ。



等を撮っていたら、肝心の彼の乗った車が通ったときには、切れてしまった。
最初に載せたこの1枚が彼の映った写真なんだけれど、その後はもうカメラ動かなかった。
ホントに馬鹿な私。
今はネットであの時の様子があちこちで見られるのでまあ仕方ないが。
翌日の地元の新聞です。






遠くからやってきたファンは、ほんの数秒のためによくぞ仙台に来てくださった、と思う。
これが東京でパレードをやったら、旅費的にも、距離的にも中間地点でもっともっと集まりそうだけれど
こうして地元でやってくださることに意味があるんですよね。
お疲れ様です、羽生君、ファンの方々。
3連覇を目指して増々のご活躍期待しています。

(4/29)新緑の香り

2018年04月29日 19時25分24秒 | 日常、仕事、認知症
夜の7時前後、皆さんはどのように過ごしているだろうか。
今日は祭日日曜日なので町は静かだ。
普通の日なら、仕事が終わって家路につくころ。
私は7時過ぎにカエルの探索に出かけるので、それらの人々とすれ違うことが多い。
車もよく通る。
今日は7時ごろに外に出た。
まだうっすらと東の空は「夜空」と言い難い明るさがあり、西の空はもっと明るい。
そして
香り立つ春の樹木の匂い。
道路の静けさと
この新緑の匂いと
薄蒼い空。
何とも名状しがたい、私の好きな空間だ。
ずっと佇んでいたいほどに。
誰もいないから、車も通らないから
そう、道路の真ん中で空を仰ぎつつ佇んでいた。
この季節の独特の「自然」の香りだ。
目で見る新緑もさることながら、鼻で感じる新緑というのを味わってほしい。
静かだからこそ感じる、瞬間的な自然の香りである。
いつもは、早朝にそれを感じるのだが
今日は、思いがけなくこの時刻に美しい空を見た、新緑の香りを感じたと喜んで
久々にブログを書いた。
明日の夜も7時前に外に出てみようと思う。

(2/27)ご無沙汰。オリンピックロス。

2018年02月27日 16時42分21秒 | 日常、仕事、認知症
今年初めてのブログです。
書かなくては、書かなくてはと思いながら
ズルズルと2カ月も空白にしていました。

もうそろそろ、春らしい天候になってもいい季節なのですが、外はまた
雪が降ってきました。
この2月は雪が降ることが多かった。
積もった雪が解けずにまだ庭に残っています。
でも
気温が低くても、日中の日差しは強くて、二階の居間は暖房が無くても暖かい。
日も長くなってきた。
早朝はまだ、真冬並みですけれど。

さてさて、オリンピックロスの心境の昨日今日。
期間は、仕事から帰ってからテレビを観るのが楽しみだった。
夜は夜で、寝る時間(9時ごろ)と決勝などが重なると、うたた寝しつつ
決勝まで起きていたり。見落とさないように録画をしておいたり。
日本が取った金メダルのそれぞれが非常に感動的で、興奮しましたね。
パシュートの日本の隊列の美しさは鳥肌ものです。
新しい種目のマススタートも、緩やかな流れの後の、一気に攻めていく姿には感動させられ、
録画を何回も観ています。
そして羽生君の渾身の演技。
ソチのオリンピックの後に仙台で凱旋パレードをしましたが、また今年もしてくれるかしら。
友人と出かけましょう、4年前と同じように。

我が家の猫、ヒカルが今月18日に19歳になりました。ナナは20歳になります。
何とか冬を乗り越えて、春、夏、秋、と元気に過ごしてもらいたい。
生命は有限ですから、いつか近いうちに、という気持ちもありますが、
それはそれで大往生した、と思うように努めています。

1月に88歳を迎えた義母も何とか生きています。変な書き方ね。
食欲だけが生きがい。
朝5時過ぎから、朝食を待って、何度も何度も部屋から顔を出します。
それでいて、食事後10分経ったら、何を食べたか、食べたことすら忘れているんですよ。

父とは実は絶縁状態です。
年末のブログで、未解決の件、とか書きましたが、それです。
昨年の9月以来会っていません。
正月も行きませんでした。
それについてもここに記しておかなければと思っても、いざ書こうとすると
指が止まるのです。

職場では。
同僚の夫が交通事故で急死。
何とも何とも言えないあまりに悲しい出来事。

結局、こうして年を取ると
つらいことや、悲しいことが多くて。
そんな中で、若い人たちが自分とは全く別世界で頑張っている姿を2週間、
テレビで観せられて
元気と、小さな楽しみを分けていただきました。

あと1日過ぎると
3月です。卒業の季節ですね。
そしてまた7年目の11日がやってくる。

(12/31)今年の反省。

2017年12月31日 21時29分41秒 | 日常、仕事、認知症
この時刻は、布団に入っている時刻なんですが
まだ少し起きています。
明日正月から仕事です。

明日の朝に夫と義母の食べる料理は作っておいたので、朝食のことを心配しないで
早朝、いつもの時刻に家を出ます。

今年は母の死がずっと引きずった日々となりました。
一応、百箇日法要も済ませそれで区切りがついたのですが
新たに、今度は父との関係で悩みを引きずっている私です。
年を越さないで、解決したかったのですが
それもできず、年を跨いだ状況になりつつあります。

それでも
義母もまず年を越せる、父も年を越せる、
私は色々な課題を抱えたまま、重い気持ちで年を越す。

取り敢えず、それらのことはまたゆっくり書くことにして。
きちんとしたブログにならなかったことが反省点かな。

良い年をお迎えください。
いつになったら、今年は良い年だった、と書けるのだろう。

1年間、ありがとうございました。

(12/2)中国人の彼女

2017年12月02日 08時43分53秒 | 日常、仕事、認知症
先週の金曜日に、中国の友人の家にお邪魔した。
前日の突然の約束だった。
新しいアパートに移ったので、ぜひ遊びに来てほしい、一緒にギョーザを作ろうと
前々から約束していたのが延び延びになっていた。
そして金曜日に行ってきた。
約束の場所はここ。

私の家から自転車で15分ほどだ。
この日は特別寒かった。
それまであまり寒さの感じない11月であったが、きっとその日が一番冷え込んだ日であろう。
行くときは小雨のような霙のような空から降ってくるもの。
寒さの中で、彼女を待った。
そしてフル防寒した彼女が自転車でやってくる。
その姿を写真に撮った。
明るい笑い声が駅前に響いた。
ここから、自転車で5分もかからない所だと言った。
ビルの裏通りの坂を上って、神社や寺の墓などが点在する所を抜けて、線路沿いの古いアパートだった。
冷え切った身体を温めるためにいざ、中に入ろうとすると
ドアを開けたとたん、毛布のカーテンだった。
部屋も真っ暗。ベランダ側のサッシもカーテンと同時にやはり毛布をかけていた。
せめて日中はそれらを開けないと、暗いままで寒いのでは?と言ったが
開けると寒いからだめだ、と言う。
エアコンはあるが、ストーブはなかった。エアコンもつけられなかった。コタツはあるけれど、ヒーターがついていなかった。
ベッドのみ。
服類は押入れのビニール袋に入っている。
台所兼玄関の細長い通路にコタツ板をテーブル代わりにして椅子は風呂のあの椅子に座布団を載せたもの。
朝から大量に作っておいたギョーザの山をどんと出されて、3つばかり食べる私。
炊飯器もない、テレビもラジオも音楽を聴くものもない。
娯楽は何?休日はどうやって過ごしているの?いろんな疑問が出てきた。
彼女の素性はある程度知ってはいるが、
この侘しい生活をしてでも、なぜ日本に残っているのか、一番の疑問だった。
だが、あまり深く詮索するのも憚られるが、真実を語ってくれるわけではない。
以前は横浜にいた。
横浜からなぜ、この東北の町に?仕送りを中国にしているの?などなど、私の質問に答えていった。
結局日本が好きだから、中国には帰らないと言っていた。
今のところ、日本が好きで、休日には仙台近郊の観光地などを巡っているようだ。
それにしても寒くて、身体が温まらないので、そして彼女も別の約束があるので
予定よりも早くにそこを出た。
まずは温めよう。
そして考えよう。
彼女の心を忖度してみよう、と喫茶店に入った。

駅前(北仙台駅)のドトールだった。
ドトールがここにあるとは。
これは便利だ。

あの冷え切った部屋の寒さと暗さと家具のない、娯楽のない侘しさが私の心に突き刺さっていた。
そういえば、夏の七夕祭りの時に、彼女と七夕を観て回ったんだっけ。
綺麗だねえ、と言いながら一生懸命写真を撮っていた。
先日も船岡の菊人形祭りに積極的に行っていたし(誘われたけれど、行かなかった)、外に娯楽を求めている彼女なんだ、と言い聞かせた自分。
だが、仕事から帰宅してホッとする時間を持つのが住まいなのに、その生活感のなかったことにちょっと哀愁を感じただけなんだ。

ドトールを出ようとしたら大粒の雨だった。雨具をその場で着て
すぐ傍のスーパーに寄って買い物をし、
駐輪場に向かう。
駐輪場の傍の家の昭和的な雰囲気が好きだ。
この界隈はじっくり眺めたことはないけれど、少し自転車の散策コースの範囲が広がったと思っている。
いつもは大通りのビル街を通ってばかりだが、こういう小さな脇道を通ることが好きな私だ。
帰宅して
漸く身体を温める。

ほんの数時間の出来事だったが、あの日のことを記しておきたいと思った。
季節が暖かくなったら、桜を観に、誘ってみよう。

(11/14)ブログ、更新します。ごめんなさい。

2017年11月14日 17時29分46秒 | 日常、仕事、認知症
すっかりご無沙汰だ。
実は今日、亡くなった母の誕生日なんだ。
昨年はどのようにしてお祝いしたのだろう、と
自分のブログを開いたのだが。

今一つ乗り切ることのできない自分がずっと存在する。
母の死を引きずっている、ということではないんだ。
だが、どうしても、一歩踏み出せない。

山Pのドラマ、コードブルーも観た。
本来なら、とても楽しみにしている自分をアピールするところだが
勿論、楽しみに観てきたが、どうもそれが中心ではない気がする。

この「何か」が書けない。
一体、自分は何に向かって生きている?
希望があって、それを胸に抱いて生きている?
いやいや、もう死を待つばかりだろう、なんて思っている。
死を迎えるにあたって、身辺整理が主じゃないか、なんてね。

そしてそれも違うような気がする。
きっと、そんなネガティブな気持ちを否定できる日が来るだろうと
思ってもいる。

そんな揺れ動く自分がいる。
日常の会話はいつもと変わらない。
ただ、
私の前にいる
年老いた者たちのことを考えると
やはり「死」を意識してしまう。
例えば

姑だって、来年早々、88歳だ、
父だって、87歳だ。
彼らがあとどれだけ元気に生きていられるのか、とか。

猫たちも高齢だ。
来年、20歳になるナナ。
19歳になるヒカル。
そして他の猫たちも15歳とかね。

彼らがどれほど元気でいようと
ああ、有限なんだ、この生命は、とすぐにネガティブになっていく。

そういうことを意識しない何か夢中になれるものがあれば、と思うのだが
それを払拭できるものに出会えていない。
このまま、終わっていく私の人生か。
なんてね。

そうそう、昨日
録画していた「シンゴジラ」を観た。
シンて何?と思ったので調べた。
やはり解説があった。
真、新、神か。
なるほどね。
ゴジラの最初の形態に、え?とびっくり。
ゴジラって、こんな目をしていたっけ?こんなグロテスクな感じだっけ?
進化していくわけね。
何も知らないことばかりだった。
そうか、巨大生物が日本を襲ったときにどうするか、という想定って有り得るなと思った。
あの最後のゴジラはモニュメントのように東京のど真ん中にあるわけだが
あれ、死んだの?冷却して死んだ、という結論なの?
これから、解体して調査していくということ?
続きは幾らでも描けるね。


(8/27)久しぶりに夫と街の中へ。

2017年08月27日 17時23分25秒 | 日常、仕事、認知症
4,5日急な暑さになり、急に土砂降りになったりと
不安定な天候続き。
今朝出勤の時、久々のカラッとした
湿度の感じられない朝の空気だった。
それまでの毎日、洗濯をしても、干す所がなかった。
外に干しても雨にたたられ、何より曇天で、乾く暇もない。
そこで活躍したのが、
乾燥機。
結婚した時に、夫の友人たちにプレゼントされたものである。
ということは30年以上も現役活躍していることになる。
うちの家電で、
この乾燥機と、2階にある冷蔵庫が30年以上現役なのだ。
冷蔵庫は三菱(fairyさんと同じです)。
皆に言うと、結構びっくりされる。
昭和の家電が今でも稼働しているって、凄いよね。
 

日曜なのに出勤。
早めに仕事を終えて、夫と待ち合わせ。
夫と街の中を歩くのは何カ月ぶりかな。
もしかしたら年単位かも。
そんなウキウキ気分も束の間、お昼(牛タン定食)を食べて、スーパーに寄って買い物をして
速攻帰宅。
正味1時間くらい?
街の中をぶらついて、ウインドウショッピングをして、お茶飲んで、なんて先ず無い。
目的は牛タンを食べることのみ。
昔のデートはどんなだったろう?と想像も遠く過ぎて、浮かんでこない。
本当に
この年齢になって、夫と出かけるときは用事のみ、となった。
年老いていくとこんなものかしら、皆。
かつて、鈴鹿に夫とF1を観に行ったときに
老夫婦が結構良い席に座っていて、
私達も、老人になってもこうして、一緒に鈴鹿に来たいね、と理想の老夫婦像を描いて口にしていた。
夫は、「ここの地主で招待されているのかもしれないぞ。」なんて夫らしい発想をしていたけれど、
それでも、その老夫婦の後姿は、私の理想だったな。
年を取っても、自分たちの趣味を持ち続けてあちこちに行けたらいいな、と。
しかし、現実、
待ち合わせてその場所に向かっていくと、夫は屈伸運動をしていた。
腰痛が持病で、歩くのもつらい、といった姿。
「え?今後、漸くあなたのお義母さんや私の父の介護から解放されて、2人であちこち出かけることができるのに、
今度はあなたの車椅子を押しながら生活するの?」と言った。
それはそれで、別な夫婦の姿があるかもしれないが、
私達の後半の人生はずっと親のことに関わってきたので、少し解放されて、夫婦伸び伸びと旅に出かける期間もあってほしいと思った。
なかなか、現実はそうはいかない。

ブログ更新します。

2017年08月18日 18時12分22秒 | 日常、仕事、認知症
2カ月ぶりのブログです。
月が替わるごとに更新しようという気持ちがあったのですが
きっかけを逃してしまいました。
前回の更新から2か月目、ということで書きます。

今が梅雨の時期か、と思うほど
毎日雨続き。
仙台の最大のお祭り日も最終日は大雨でした。
お盆も雨。
庭の雑草が伸びすぎ、まるで空き家の荒れた庭のようです。
灌木は雨を纏って、重くなり枝や葉が垂れ下がっています。
それでも手入れを怠る、今年の私です。
例年7月ごろに、庭には今年生まれた子ガエルがたくさん出現するのですが、
今年はその気配はなく、ようやく先週辺りに、チラチラ姿が見えて安心。

夏の暑さが苦手な私は今年は過ごしやすいと思ってはいますが
どうも湿度が貧血状態にさせるようで
今一つ、体調も思わしくないですね。
9月ごろにドーンと暑さが蘇りそうな感じ。

さて。
母が亡くなって、まだ余韻の残る日々です。
中陰表では初七日など、区切りの日が全部日曜日に当たり、仕事を終えてから午後に
こちら家族3人で、実家にお線香を上げに行っていました。
父が一人、実家にポツンといるのですが
訪れる人々も少なくなり、
母の存在の大きさがわかる空気。
あとは、来月の百箇日と納骨式があります。
お墓は父の田舎へ。
生前、母は父の田舎のお墓に入ることに何か思う所はあったようですが
全て父に任せました。
これからは2時間ほどかけて、墓参りをすることが予想され、
今のうちはよいけれど、私達が年をとればそれも困難になっていくかもしれません。

仕事の方は、人材不足が何カ月も続き
私ももう一人の人も、ワーカホリックになっています。
お盆休みもたった2日。
クラクラしながらの生活です。

(6/7)義母の米研ぎ

2017年06月07日 18時28分14秒 | 日常、仕事、認知症
ここ数日、家の米研ぎは私がやっている。
米研ぎが私の仕事ではないって?とお思いでしょうが
これは義母の仕事だった。
義母の唯一の仕事、
米研ぎと、自分の食べた食器類の洗い。
半分認知症気味の義母に与えられた仕事。
勿論、それまできちんとしていたが
ここ1カ月ほど、
夕食の時のゴハンがやたら柔らかい。
うちは、絶対2合、と決めているので
それを義母はずっとやってきたのだが、
どうも、計っているとき、カップ2回が、適当になっていた。
彼女に、「お義母さん、ちゃんと2合計った?線も2のところにした?」と聞いても
「適当にやった。」と答える。
そのやりとりが繰り返されているので、
とうとう私も「じゃ、次から私がやるから。」と私の方から降参した。
昔から習慣づいていることは本能的に身に着いて、ギリギリまでやらせようと思ってきたのだが
余ったゴハンのタッパーが増えていくばかり。
チャーハンにしたりしても、柔らかすぎて、なんだか塊になってしまう。
私がやる、と言っても
彼女の習慣で、米を研ごうとするから、夫に「朝食べ終わって釜を洗ったら、隠して。」と頼んでおいた。
今日は帰宅したら玄関の上がり框に置いてあった。
夫が、私がわかりやすいように置いたのであろう。
安心して、米を研ごうとした。
すると、キッチンの上に
もう使用していない猫のトイレが置いてあった。
中に、米が入っていた。
義母だ。
研ごうとしても、釜がないのでそれに入れたのだ。
しかも、2合には見えない。計ったら3合あった。
「なんで、猫のトイレに入れるのよ!」と言うと
「私じゃない!」といつもの答えが出てきたので(「あの女だ!」とか「ガキどもがやったんだ」とかそういういつもの返答ね)、
その話はそれで終えた。
米も、移動しなかった私が悪いのだ。
釜さえ隠せば、米研ぎはしないだろう、と思ったのが甘かった。
習慣はそのまま行動に出るけれど、その行動そのものが痛かった。
夫は私を責めるだろう、米も見えない所に置くべきだった、と。

食器洗いにしても、
洗うには洗うけれど、すすぎを流水にして、カゴに収めたかと思ったら
またそれを手にして洗い始める。
なんで、洗い終わったものをまた洗うの?と尋ねると
「あら、何回もすすがないの?」とまるで、自分は丁寧に何度も流水で洗っている、という意味を込めて言う。
いやいや、何回も水の流しっぱなしの無駄だよ、と言っても、それは納得していないようだ。
そのうち、義母の茶碗洗いも私の仕事になる。
そりゃ、後から食べる夫の分と一緒に洗えばいいだろう、と簡単なことだが
敢えてそれをさせている意味がある。
義母は、「私の用は何をしたらいいのでしょう」と聞くときがあるので
「じゃ、自分のトイレのほこりを被った飾り物を処分してください。」と言うと、絶対しない。
中身の空になった、消臭剤やら、人形やら、飾るのは大好きだが、それらを捨てることをしないために
トイレの足元には消臭剤が積まれている。
義母のトイレ掃除をしなければ、と思いつつ、腰の重い自分である。立腹しながらやるのが目に見えている。
飾るだけ飾って、後始末をしてくれないのはトイレばかりじゃない。
毎日、義母におやつを置いていくのだが(以前は袋の状態で置いて、それを好きな時に食べればいいと思っていたのだが
残したものをあちこちに隠して、とんでもない所から出てきたりするので、今日はこのくらいの量、と決めて配給制にした)、
残したおやつやパンが仏壇から幾つも幾つも出てくる。カビの生えた状態で。
お供えするのはよいが、なぜ、古いものを捨ててから、新しいものをお供えしない?と聞いても
ガキどもがいたずらしていったんだ、といつもの答え。
毎日毎日、言い訳だけは冴えている。


(5/21)母のことと仕事のこと。

2017年05月21日 17時55分34秒 | 日常、仕事、認知症
暑い。
明日まで仙台も27℃位の気温が続くらしい。
病院通いにはきつい暑さである。


さて。
実家の母親が入院して10日ほど経った。
毎日、仕事が終わって(ほぼ途中)、地下鉄に乗って
母の昼食時間に間に合うように通っている。
地下鉄は本当に便利だ。
職場に自転車をそのまま置いて
一番近い乗り場に降りていき、10分位乗って、目的地に着いたら歩いて5分だ。
食事の介助をして、マッサージをして、2時間ほど滞在し、
その町の八百屋などで買い物をし、再び地下鉄に乗り、職場に着く。
職場にはまだ仲間が帰らずに仕事をしている。(退勤時刻は過ぎているのに)
少しお話をして、帰宅。すぐに義母と猫たちの食事の準備。
そして夫の食事の準備。
自分は食べないままか、帰宅後にパンなどを食べてその日の食事は終わりにしている。
朝も食べないし、一体まともに食べているのはいつか、なんて思っている。

こういう忙しさを早くから予測していた。
そのために、昨年の3月に退職願を出した。
しかし、会社の事情もあり、私の休みを増やすこと、仕事を最低限にすることの条件で
続けることになった。
両親のどちらかがガン再発になれば、あるいは義母が寝たきりになれば
兄弟のいない私達夫婦は必然的に私に負担がかかる。
自分が倒れたらどうにもならないのだ。
そのために、仕事を減らすか、辞めるかと決断したのが昨年3月。
そして新人が入ったことによって、人事は落ち着き、私の続ける条件も安定した。
しかし
再び、この4月の人事異動で、落ち着かない月日が流れ、今その最中である。
これが痛い。
休みが減り、身体を酷使しているような日々。
今月に入っても落ち着いていない。
そんな時に、とうとう母の入院。
退院を目指しての入院ではない。
もうその段階ではない。

4月に父から2度手紙をもらった。
母の様子がおかしい、と。
その都度、実家に訪れたが、我慢に我慢している表情の母。
そして、10日に定期的な検診を受けるために病院に行った母だが
検査の結果、翌日入院するようにとなった。
11日。
入院の準備をするために、仕事の休みをもらい
実家に。
その後入院。
レントゲンや数値を見ながらの説明で、
いつ急変してもおかしくない、と言われた。
夏まで持たないかも、とも。
肺にまで転移し、水が溜まっている状況。
栄養状態も悪い。

そして、昼食時に間に合うように今通っている。
食べたくない、という母に
いろいろなゴハンに混ぜるものを持っていき、おかゆに混ぜて食べさせているが
一口二口くらいの量。
食べてくれ、と毎日だましだまし給仕をしている。
口の中に食べたものを吐きだそうとする姿は
もう、健常な時の母の姿ではない。
それでも持参したヤクルトやヨーグルト(ブルーベリーなど混ぜたもの)を
「これは味がある」と言って食べたりするのを見るとホッとする。

この病院にはずっといられない。
今週辺りに別の病院に転院となる。
最期の病院となる。
療養病院である。
自宅で看取るということにはならない。

人が穏やかに死を迎えるというのは稀だ。
これから苦悶の表情の母になっていくのか。
今は、寧ろ家にいる時よりも穏やかで落ち着いた表情の母だ。
父からの圧迫から解放された母。
もう少し長く、穏やかな時間を与えてほしい。



ということで
仕事の件が今ネックです。
辞めれば、という気持ちはあるが
何とかする、という上司の声を信じて、
頑張っている新人(この人も、休み返上で仕事をしている。せざるを得ない。)に
申し訳ないという気持ちがあり、私自身も様子見です。

(5/5)この空白の4月

2017年05月05日 21時25分14秒 | 日常、仕事、認知症
自分が年を取っていくと
楽しみが激減するということを手に取るようにわかる。
自分と並行して
周りも年を取っていく、老人はより老人に、猫たちも老猫に、身近な者たちはそのようになっていく。
これが子供がいたり孫でもいれば、その若さは、成長と言えるもので、未来の楽しみを抱えて微笑ましく
良い刺激になるのかもしれないが。
しかし私の周りは皆、老体だ。
そして
それがいよいよ具体的に「老齢」の悲しさを目の当たりにすることになる。
これから
どう、「死」に向かっていくのか、すぐにでもそこに辿り着くような感覚である。

自分の誕生の月である4月をふっ飛ばしたブログ。
こんなこと初めてだ。
毎年、自分と山Pと鳩のPちゃんの誕生を祝い、ケーキなども買ってそれなりに
節目を大切にしてきた自分なのに
ずっとブログと遠ざかっていた。

3月下旬
会社の人事異動で、長年いっしょに仕事をしてきたEさんが別な所に異動になった。
驚いた。
彼女もショックを受けたようで
「左遷だ、左遷だ」と言っていた。
昨年入った新人に対する八つ当たりがひどかった。
パワハラに近い言葉を残して去っていった。
そしてEさんの代わりに入ってきた人が「天才的」「芸術的」腕を持ちながら
Eさんに劣らず、パワハラ的パワーを持った人だった。
一応新人なので、先の新人や私が指導をすることになったが
新しいリーダーになった先の新人とは水と油の関係になった。
そしてたった1カ月、研修期間を消化しないままこの職場を去った。
一体何のための異動だったのか。
まさに怒涛の1カ月だった。
その1カ月というのが4月だ。
アルバイトの私でありながら、他の正社員より休みが多い私でありながら
毎日、ミーティングやら彼女たちの仕事の手伝いで、休みなく、サビ残で
こんなはずじゃないと思いつつ仕事をしてきた。

そして今も、その延長で
休みもままならない状態である。

今日は
「死ぬ」と言って帰宅した。
疲れに疲れて帰宅し、そのまま眠ることのできない
今日予定の義母のお風呂、洗髪の仕事に取りかかった。

自分の誕生日の前日4月8日
実家の父の手紙を読んで、母の様子を見に行った。
正月以来の母の様子である。
正月の母は、それまでと変わらぬ様子だった。
連れていった義母と、認知症同士の他愛もない会話を楽しんでいた。
来年もこのままで行けば、まだまだ行けるだろう、と思っていた。
しかし
この4月の様子、一目見て、様子がおかしい、と思った。
病気が進行している、それを我慢している、と思った。
立って見送りする姿さえ、つらそうに見えた。
それが引っかかりながらも、あのように職場がゴタゴタしていたせいで、
またいつ行けるか見当がつかなかった。
ところが
同じ4月末、父から再び手紙が届いた。
投函してくる間隔が短く、父の不安が垣間見えた。
父は性格として、ポジティブ、強引、自分の考えが一番、というもの。
その性格で母の生活にも強要してきた。
なんでもやらせている、やれるものはやらせているが最近はつらそうだ、と書いてある。
ああ、母はその強い父の性格に、必死についていっているんだなあ、と思った。
それが限界になっているのかもしれないが、父はわかってはいない。

私は少しずつ返事を書いていく。
私は、自分の実家にあれこれと言うことを憚っていたと書いた。
なぜなら
このブログを読み続けている人なら覚えていると思うが
数年前
父と母がガンの手術をして私が彼らの病院に通っていたときに
父に言われたこと、
「お前の世話にはならない、相続も放棄してもらう。」と一方的に宣言され念書も書かされたことがあった。
一人っ子の私が相続放棄(父の分、母の分)させられ、家そのものも、父側の親類に贈与する、と父は自分の死後のお金のプランを考えていた。
私と両親は、養子縁組である。
特に、父とは血の繋がりがない。
父は血の繋がりを非常に重視しており、自分の親類を優先する。自分たちのお墓も、父の本家に入ると、もう予約、お金も渡しているそうである。
私はそれに口を出したことはない。
出せば、次にどんなセリフが出るか、ほぼ想定できるからである。

私の周りの人たちにその話をすると、皆驚く。
一人っ子でありながら、幾ら養子とはいえ、相続放棄とは、と。
父たちに実子がいれば、その放棄は想像できるが、いないのに、放棄せよとは、と驚かれたものだ。
遺言書も書いてある。
それを金庫に入れてあるのだが、その鍵を親類2名となぜか私にも渡してある。紛失しそうだ。
その鍵を開けるとき、私は不在にするつもりでいる。
どこまで惨めな思いをさせるのか、という気持ちでいる。
手続き上、判がいるのなら、一人事務的に押すつもりでいる。

今回の私の返事には勿論、そんなことは書いていない。
現実の問題として
ホスピスの段階である母の「自宅療養」の内容について自分の意見を書いた。
具体的に書いた。
批判も含めつつ。
それをどう受け止めるかも、両親次第、と。
お金を誰それにやる、とか考えるより、動けなくなっていく自分たちの「自宅療養」のための安全、利便化したものに投資せよ、と。
例えば。
今、二階に寝室がある。かつての私の広い部屋が父の部屋になり、隣が母の部屋。
二階にトイレがない。
一階のトイレに、真っすぐな階段を降りていかねばならない。
階段の昇り降りも辛そうな母。
もう、二階は老人の寝室向きではないことを自覚せよ、と。
家庭内引っ越しが今、業者もやっているので、一階に寝室を移せ、と書く。
灯油のストーブではなく、エアコンにせよ、と。

などなど、父の言葉を借りるなら「お前の世話にはならない」私があれこれと口出しするのも憚る、ということです。
しかし、こうして父が何度も手紙を書いてくると、気持ちが弱っている証し。
父のあの言葉通りにするのなら、近くに住む親類に頼るべきところを、結局、父は、「養子」の私に頼っているわけです。
明日、それらの話をするために、仕事を休んで行ってくる。
私は利用されているのか、頼られているのか、それは別にどちらでもいいのだが
戸籍上、親子関係なので、やれるだけのことはやろうと思っています。

母は
最近よく、
「お父さんは、あなたの小さい時の、可愛くてしょうがなかったから貰ったんだよ。」なんて口にしますが
「そうですか?本当にそうですか?」なんて、言葉に出さずに、にこにこと「わかっているよ。」と答える自分が偉いと思っています。
養子に来たときは、可愛がられたという実感よりも、母に「私の姉の子供だから厳しく育てる」教育のもとに、甘えることの下手な、ちょっと暗い自分しか
覚えていません。
なぜ、今頃になって恩を着せるようなことを言うのか。
それが本当であれば、「お前の世話にはならない、世話もされたことがない、相続放棄せよ」なんて言葉が出るのか。
初めから、父側の親類の子供を養子にしておけばよかったのに、なんて思うこともあり。



季節は初夏。
しかし、早朝の出勤の肌寒さは、まだ感じています。
この先、また仕事面、家庭面、いろいろとありそうです。
お休みなさい。
今日は久しぶりに11時過ぎまで起きていた。




(3/20)お墓参りで思い出したこと

2017年03月20日 22時14分45秒 | 日常、仕事、認知症
早朝と昼の寒暖の差が大きくなってきた。
が、明日は朝は気温がいつもより高いがその後はそれほど上がらないようだ。
連休は天気が良かった。
昨日は休みで今日は仕事だった。
仕事から帰って
夕刻の食事の準備のために夫に起こしてね、と頼んだが
起こしてくれたのに、起きなかった私だ。
ちょっと疲れていた。
その分、夜は少し起きていられそうか。
仕事モードの日は義母と諍いがないようにしていたが
そうもいかなかった。


昨日はお墓参り。
義母には数日前から毎日、予告しておいた。
毎日言わないと忘れるから。
その2日前には
義母の髪を洗い、カットしてやった。
お墓参りに行くのに、その「鬼婆」みたいな頭では恥ずかしいであろう、と。
スッキリして行こう、と。
機嫌が良かった。

当日のために、お供えのお花やお菓子、お茶、ジュース類、線香、バケツなど一式を用意しておいた。
いつ、「行かない!」となるかもしれないので、私達夫婦だけでも行ける用意はしておく。
義母にとって
正月の私の実家に行って以来の外出なので
墓参りの後は買い物で刺激されたら、と思っていた。

当日の朝から、事あるごとに
「出発は9時ね。」と
3回言った。
そして
9時、着替えも何も準備していなかった。
やはり忘れていた。
「9時だよ、準備して。」と言うと
上着を着ても、何かを探している。
何を探しているのかわからない、「何を探しているの?」と聞くと
あっさり
「じゃ、行かない!」となった。
もう、彼女の頭の中は
自分の夫の墓参りは面倒の対象になっていた。
いろいろ準備しなければならないから、とこれまで自分でお茶の準備などしたりしたが
おそらくそれもできなくなったであろうとこちらで準備したが
しておいてよかった。
強引に連れていくことはしなかった。
喧嘩になるのはいやだった。
逆に義母はホッとしていただろう。

そして
夫と共にお墓に。
2か所。
最初は、義母の本家の墓。
義母には兄弟がたくさんいるが、もう見捨てられた墓だ。
その墓をいつもお参りしているのが
私達3人だった。
そしてとうとう、私達2人だけになった。
私は義母の本家の人たちとは全く顔を合わせていない。
合わせていたのだろうが、覚えていない。
義母の姉妹とはよくうちに遊びに来て話をしていたが
その妹も数年前に亡くなった。
もう一人の妹も今は県外で娘(夫の従妹、唯一仲良く話していた人だ)の所にいるらしい。
しかし、義母とその妹とは仲違いをして、おそらくは死ぬまでその関係であろう。
あれだけ、仲良し美人三姉妹だったのに(私も彼女たちには好感を持っており、今でももし会えば、ニコニコとして挨拶できるであろう)
義母の頑固な性格がまるで信念のように、頑ななのである。
兄弟のいない私達夫婦。
兄弟の仲違いというものを知らない私達。
あんなにたくさん兄弟がありながら、孫もたくさんありながら
もう、誰も訪れなくなった義母本家の墓。
お花、もっと豪華なものを持ってくればよかった、とちょっと後悔。
次回の墓参りはもっと派手な華やかな花を、と思った。

そして
夫の父の墓へ。
ちょうど今年は亡くなって20年目である。
先日亡くなった渡瀬恒彦さんと同じ年齢で亡くなった。
若い年齢である。
どうしても夫の父親であるから、あの時は老けて見えたけれど
年齢を聞けばまだまだ現役バリバリの年である。
声のでかい義父だった。
仕事人間だった。
職人気質の頑固親父の典型だった。
器用な人だったので家のあれこれは彼がやった。
だから、彼女義母は何もしなかった。考えなくてよかった。
それが今の姿に反映されている。
近所の人たちから義父は作り物や修理をよく頼まれ、感謝されていた。
近所の小さい子供たちがよく遊びに来ていた。
それを受け入れる義父、義母だった。

ただ一つ、義父の諦めた事があった。
私道の権利問題である。
器用で、何でもやり遂げなければならない性格の義父があれこれやってみたが
どうしてもたどり着けなかった私道の件。
それを知ったのは義父が死んでから10年近くのこと。
戦後の問題が残っていたことに衝撃だった私だ。
そこから一念発起、私は動いた。
義父の残した資料やら法務局やら文系の私の苦手とする分野に
不動産の方と司法書士と3人で何カ月もかけてやった。
その間
夫や義母は何をやっていたか、彼らに期待することは何もなかった。
ただ、彼らのハンコをもらうのみ。
私がどんなに動いても、私の名はない、
彼らの権利である。
義父がたどり着けなかったそれらを漸く成し遂げたときのあの気持ち。
この問題は、戦前の私道の持ち主から始まる。
そして勿論、それらの人はこの世にもういない。
年数が長引けば長引くほど、厄介になる。
それでなくても、時は平成、本当に驚いた、知った時。

その子孫に辿り着くまで時間がかかったし、子孫にとって私道の権利があったとは、と寝耳に水であった。
そこを更に説明説得することの難儀さ。
中には、都会の私道なので、金額を吹っ掛けてくる人もいるかもしれない。
そんな不安があったが、接した方々は皆良い方たちだった。
すべてが解決したとき、
御礼の言葉を述べに、
夫に
「あなたとお義母さんが本来は行くべきでしょ。」と私は言った。
しかし、当然義母は行かなかった、面倒は嫌いな人だから。
夫と私とで挨拶をしに。
かかった費用、司法書士などへの謝礼金は私達夫婦から払った。
あの時
まだ私は義母への請求もできない人間だった。
考えてみれば、義父の残した別な土地の相続金も入っていたころだから
義母にもお金はあったのだが
夫は
「おふくろは金がないだろ。」と言っていたので、私は請求するのもためらっていた。
いやいや、彼女はそのお金、贅沢な服、贅沢な食品に自由に使える身を謳歌していたころだった。
あの気の弱い自分を後悔する。
お墓の費用も義母と夫の名で建てたにも拘らず(費用は折半)、
義母は自分で建てた、と思っている。
自分好みのお墓にした、と自慢している。
そしていつの間にか夫も、こちらでお金を出したことを忘れている。
「お墓って、おふくろが建てたんだっけか。」
「何、言っているのよ。ちゃんとこちらでも払ったでしょ。お墓にもあなたとお義母さんの連名で建立したとなっているでしょ。」
お墓の連名を見るたびにあの会話を思い出す。


お義父さん、こんなことを思い出しましたよ。
私道の件、我ながらあっぱれ、と思っていますよ。
あの、お義父さんの解決できなかったことが果たして自分にできるだろうか、と不安でしょうがなかった出発点。
もし、私達離婚したら、私、疲れ損ですよ。
今年のお盆の時にまたお義母さんを連れていきますからね。


夕食のあと
義母はいつも自分の食べたあとの食器を洗い、戸棚に仕舞うことになっている。
たまに、1つ2つ洗い忘れたり、仕舞い忘れたりするがそれは飲みこむことにしている。
しかし今日初めて
食べたあとにそのまま食器をテーブルに載せたまま、部屋に引っ込んだ。
どういう意味かわからなかった。
部屋に行って
「食器は洗ってね。」と言った。
が、義母の顔は険しく、「息子に頼んだ。」とあからさまな嘘を言う。
「とにかく洗ってください。」と言ったら
「自分は何もしないくせに!」と私の作った料理を食べたあとのこのセリフ。
切れた私はそのセリフは私が言いたいくらいだ、言った、と思う。
夫が「いいからそのままにしておけ。」と言った。
というわけで、義母の茶碗類はそのままです。

「情けない。こんな親だと思った?あの人のプライド、ってあるでしょ。
自分のできることは、お米研ぎと自分の食べた食器洗いだと他の人たちに自慢できるようになっているでしょ。
それは昔からの習慣で、本能に近いものでしょ。できなくなったのではなくて、やらない、やる人がいるからやらない、
なんて情けないでしょ。」と誰に言い聞かせるわけじゃなく、家事をしながら口にでる私だ。
夫は傍でご飯を食べていたけれど、夫に言い聞かせているつもりでもあるし、独り言でもある。
義父に対する畏敬の念を持つ気持ちはあったが、義母には何一つ、尊敬の気持ちが持てないでいる私である。










(3/7)今年のカエルと義母の様子

2017年03月07日 13時55分28秒 | 日常、仕事、認知症
今日は普通に寒い。
まだまだ「春」とは言いがたい風の冷たさ。
だが日差しは強い。
昨日の夕方、雨が降りそうな雲になった。
そして気温は少し温かめ。
私の頭、ピコーン。
カエルが出てくるかもしれない、と。
夜、懐中電灯を照らして
庭を見れば
やっぱりカエルたちがモソモソと出てきていた。
南の庭の巣穴は
目が覚めたカエルが順番待ち。
懐中電灯の明かりに、出るのを躊躇していた。
東側の庭のカエルは小、中のカエルが4匹ほど出てきた。
うちのカエルたちがこうなので
路地を一応チェック。
が、1匹もいなかった。
「明日からまた寒くなるからもう少し待っていてね。」とうちのカエルたちに声をかける。
まだまだ、春の雨が降る時期じゃない。
春の雨が降れば、カエルたちはすぐ交尾期になる。
路地や庭のあちこちで重なる。
それを私が拾って安全な場所に移す。
そして6月ごろ、小さな小さなカエルたちが庭に出てくるのである。
そんな季節になろうとしている。
またカエル救済の日課が始まる。
その前に
庭の片づけにも手をつけなくては、ね。
義母の捨てたあれこれが南の庭に散らばっている。
寒くてそれらを拾う気のない私。
温かくなったら、やります。

その義母
先日の夜
私と夫が食事をしていたら
義母の部屋でドーンと音がして
覗いてみると

ベッドの横に倒れていた。
真っ暗な部屋から廊下に出ようとして
ふすまにぶつかって(ふすまは開いているものと思っていたらしい)
そのはずみで尻もちをついていた。
ふすまに額をぶつけたらしい。
そのまま起き上がり、大事に至らなかった。
しかし
それから2、3日して
その額が青くなっていた。
ふすまにぶつかったことは忘れていた。
日頃
豆電球もつけないで真っ暗にして寝る習慣がある義母なので
明かりをつけて寝よ、と言っても
絶対に言う事をきかない。
廊下の明かりをつけておいて、と言っても
「夜中にトイレに行かないから大丈夫。」
「トイレに行かなくても、例えば地震があった時や急なことがあったとき
慌てるから、つけといて。」と強制的に洗面所の電灯をつけて寝させたが
早朝、出勤するときに廊下を見ると
いつのまにかその電灯を消していた。
消したことすら忘れる。
前夜のそれについての会話すら忘れている。

今度は腰の痛みだ。
尻もちをついたところだ。
痛くて動くのがつらいので、コタツに入ったままの姿勢。
その場で湿布薬を貼ってやる。
寒いから、何枚も重ね着である。
服を脱ぐときも、着ているものは前閉じのものではなく
頭からかぶり着るものばかり。
なぜ、そんな脱ぎにくいものを着るのか、前開きのほうが動きやすいし、脱ぐのも簡単だろう、と言っても
全く聞く耳なし。
タイツもピッタリしたものを穿いている。
若いときの習慣はなかなか直せない。
股引のような緩やかなもののほうが温かいし、脱ぎやすいと言ってもダメ。
それらを脱ぐときのあの姿態。
30分近くかかった。
その割に
動いて外に出たりしているのだ。
痛くて動けない、と言っていながら
外に出て洗濯物を干している。
仕事から帰宅すると、テレビがついたまま、部屋にいない。
トイレかと思い、声をかけたがいない。
外から台所のドアを開けて中に入ってきた。
「洗濯物を干していたの。手洗いしたの。」と言いつつ。
しかし私の目の前では
這うようにしてコタツから出てくる。
そんな時
世の介護をする人たちは手を差し伸べるだろう。
夫に何か言いがかりをつけるために
自分の部屋からスタスタと駆け寄って
何か言う。
「なんだ、動けるんじゃないか。」と夫。

彼女は
手を差し伸べられるのを期待している。
まだまだ
私の心は抵抗感がある。

老人のあれこれに基準はない、それはわかっている。
90歳過ぎても元気で社交ダンスをしている人もいる(父の姉)。
86歳の父が毎日、料理をしている。
83歳になる母が料理はできなくなっても、掃除をしたり洗濯機をかけたりとしている。
義母の姿を見ていると
急に何もできなくなった、ということではない。
若い時から、することが限定してきた。
たいていは、義父がやっていた。
義母が拭き掃除をしているところを見たことがない。
掃除機を使っているところを見たことがない。
(掃除機があっても、部屋は掃くのみ)
庭の草取りを見たことがない。
せいぜい、花を植えたり、ごちゃごちゃと可愛いものをずらっと棚に並べるくらいだ。
それが自慢である。
小言を言う私に不満があるだろう。
飾ることだけは一人前で
捨てることをしないから(不要な物や腐ったもの)
私に言われる。
義父の仏壇を見ればそれはわかる。
お菓子やお茶が干からびている。
飾るのが愛情なら、捨てて綺麗にするのも愛情だろうに。
庭に、着ないものやサイズの合わなくなった下着を捨てて、それでおしまいである。
片付ける人(私)がいるので、気にしない。
自分のものじゃない、と言えばそれで彼女は済む。


言う事だけは一人前、立派だ。
そんな彼女に
私はまだまだ、心から
「お義母さん、大丈夫ですか」なんて手を差し伸べることはできないのである。
生き方の違い、愛情のかけ方の違い、これは仕方ないだろう。
そこまでいっしょになることはない。
お互い選び合った者同士ではないのだから。
同居した当時は嫁姑問題は抱えてこなかった。生活費の問題はあったが。
お互い、干渉なしの同居生活だったから。
二世帯にして(台所はいっしょだが、食事も別。風呂、トイレ、洗濯も分かれている)、彼女たちの生活分野に入ることはなかった。
そしていよいよ、彼女の域に入らねばならなくなったとたん、
仏壇のお供え、トイレ、納戸の状態などなど、干渉しなくてはならないことが増えた。
そう、ここから我が家は嫁姑の問題になってきているのだ。
こうしてね、ああしてね、とその都度言わなければならないし、見届けなければならない。
ゴミはプラと一般ごみに分けてゴミ箱に捨てるように、と言ってそれをするまで見届けなければならない。
後でやる、と言われたら、今やれ、となる。
なぜなら、次の日にはそれを忘れているから。
急に干渉が多くなれば、私のことを恨むのは大きいだろう。
それをテレビの画面に向かって言っている。

私の知人に
介護が終わったとたん、離婚問題が出てきている人がいる。
他人事ではないね。
まあ、まだまだ「介護」というには抵抗があるが、今の自分。
干渉している時は口うるさくても、問題は解決していくから。
言ったことを覚えていない、何を食べたか忘れる、これは自分にとって
さほど気にならない。
対処は幾らでもある。








(3/1)老舗デパート破産閉店

2017年03月01日 19時54分34秒 | 日常、仕事、認知症
今日から3月。
早朝の出勤はまだ寒いけれど
日中は日差しがあれば
部屋の中は暖かい。
3月らしい日差しだ。
クロッカスも蕾が見える。
ヒヤシンスもそう。
この冬はとうとう大雪にならなかった。
雪は降ったが
雪かきを一度もせずに冬が終わっていく。
仮にこれから降ったとしても
陽の光にすぐに融けてしまうだろう。
凍り付いた道路をそろそろと自転車で出勤せずにすんだ。
冬よ
雪よ
また来期。


衝撃的なことがあった。
地元の老舗デパートがつい2日ほど前
突如として閉店した。
ここは職場に近いので
よく仕事帰りに
地下食品売り場に行って
野菜やら
パンやら
1週間には2,3回寄っては買ってくる。
ついこの間も
夫はバタール、私はガーッリクパンがお気に入りで
「ここのガーリックパンが一番おいしい。」と売り子に伝えたばかり。
「〇〇月〇〇日に閉店します」などの予告はなく
突然の破産宣告らしい。
なんかショックだ。
駅前のデパートとして70年くらいの歴史があるらしい。
確かに古い。
名前が3度ほど変わっているが
内装はそのまま。
リニューアルとは言っても
建物自体が古いから
客も離れていくのだろう。
私は混んだところがいやなので
お中元やお歳暮はいつもここにしていた。
重宝していた。
最近食品売り場は結構客が多かったし
活気が出てよかったなあ、と思っていた矢先。
あれ、取り壊すのだろうか。
ホントに駅前なんですよ。
ダイエーはなくなるし(イオンになった)、
ああ~、へこむ。
他の店のガーリックパンと食べ比べしてもやっぱり
私にはあの店のが口に合う。
一辺に2本も食べてしまう。
ポイントカードなど、無駄になってしまった。
なんとか
維持してもらいたいね。

(2/21)足がよく攣る

2017年02月21日 08時09分56秒 | 日常、仕事、認知症
先日
ソファから立ち上がったとき
左脚(左の足の上部全体)が攣って、そのまま激痛とともにピーンと動けなくなった。
全く動かない。
膝かぶの肉が不自然に上にひきつっているのが見える。
筋が急激に伸びて張り詰めた状況。
私の足の攣りの特効は、湿布薬を貼ること。
それを攣ったまま取りに行き、攣った場所に貼り、そーっと足を折り曲げて座った。
動いた。
そしてその痛み、3日程続いた。
結構ショックだった。
日常のなんでもない動作から思いがけないアクシデントになり
年を取った証拠だ、と思った。
そして昨日、仕事中にまた攣った。
その攣りがなかなか治らない。
普通は数分で治るが、ずっと攣りと戦っていた。
家に帰って、早く貼らなくちゃと貼り薬を探したら
たった2枚しかない。
攣ったときは大体4枚から5枚ほどぐるりと貼るようにしているのだが
明日買ってこようと我慢する。
寝るときも寝ている間もその攣りは治らず
夜中に2回起きてネットで詳しく検索。
足の攣りにはずっと悩まされている。
まず血行不良だと思う。
冷えた感じがずっとする、攣っている間は。
だから、ぐるりと貼ると、温かくなり血が回るような感覚になるんだ。
そのため、貼り薬は多めに買っておくのだが、切れてしまった。
それから
ミネラル不足。
私の食事はこのところみすぼらしい。
早朝は食べずに出勤。
職場でほんの少し口にする。
帰宅して、買ってきた好きなパンを食べる。
夕食は
まず、義母に作り食べさせ、義母は自分の部屋に入るのだが、
夫が帰宅すると、また出てきて
食事中、あれこれと言いがかりをつけて
喧嘩になったりするので
夫だけ食べさせて
私は台所の家事に専念、
自分の分はゴハンに味噌汁をかけて二階に持っていき食べるようなお粗末な内容だ。
ミネラルどころじゃない。
牛乳も飲まないし。
こんな食事ではだめだ、と思いつつも
1階にいる時間をなるべく短くするために
(まあ、中途半端な時間に食べるパンがお腹に残っているので、空腹の感じがないのだが)
お茶漬け風にしてササッと食べる夕食だ。
栄養が偏ってしまうね。

さて、その血行不良だが
以前、四十肩だか五十肩だかになったときに
どんなにお風呂で温めても、ホッカイロを貼っても
電気をかけても、肩の周りの冷たい感覚が取れなかった。
動かすときの激痛(経験者ならわかると思うけれど)もさることながら
あの冷えた感覚、血の通わない感覚が
今の足の攣りの時の冷えと似ているんだ。
だから
自分で血行不良と素人診断しているのだが。
温めても、温まらない感覚。

若い時の、「足が攣った~」とは違うものです。