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僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2020/3/3)マスクがない。どうするの?義母の様子。

2020年03月03日 16時36分22秒 | 日常、仕事、認知症
マスクがない。
家にあるのが尽きていく。
今年に入って、夫の病院の付き添いに「マスクつけてね。」と夫に言っていた時は
マスクの存在をぞんざいに扱っていた頃だ。
使い捨てだから、幾らでもコンビニや薬局で買える、と思っていた頃だ。
それがまさか、こんな事態になるなんて。
今日はマスク1枚を洗ってみた。
思っていたほどヨレヨレにならない。
化粧の跡、口紅の跡がついたり、表側も汚くなっているので、
洗って再利用するしかない。
内側には滅菌ガーゼをして、何とか外出ができた。

今日は2件、マスク探し。
配達生協に先週、マスクを頼んだが抽選に漏れた。
生協には頑張ってもらいたい。
こういう時の生協だ、と見せつけてほしいものだ。
私達のできる予防対策って
マスク、うがい、手洗いなど自分で自分を守るということを奨励しているのだから、
必需品のマスクがない、というのは納得いかないね。
アマゾンとかにはたくさん出回っているが(そう、こんなにあるわけだ)、
値段を見ると、弱みに付け込んだものが出回っている。
それに手を付ける気はしない。

先日、近くのドラッグストアに行ったとき
店頭に山積みされていた埃のかぶったトイレットペーパーやティッシュが全くなかった。
え?
それらまでないのか。
そして2,3日しての今日、そこに行ってみると
再び山積みにされて、1人1個という良心的な制限を設けて販売していた。
そうなのだ。
あるんだ。
焦ってはいけない。
幸い、うちでは何年も前から、ティッシュは月に数パック買ってきているので、
それが蓄積されて、困らないほどに在る。
猫のために、ゲロ吐きを拭いたり、鼻炎の鼻水を拭いたり、義母のためにもずっと使っているものなので。
トイレットペーパーも何か月分かのものがストックされている。
後は、皆が1人1個というのをしばらく守っていけば、十分手に入るものと思っている。
が、マスク。
肝心のものがない。
何億枚も生産すると言っているのだから
均等に行き渡るようにしてほしい。
配給制にでもしてでも全国民に行き渡るように。
震災の時のような
物を作る工場そのものが壊滅とか、作るにも電気が通らないとか
根本の所が機能していないわけじゃない。
あるのに、行き渡らない原因を追究して、原因がわかったならば
厳しく指導してほしい。
自粛、とか、自制とか
曖昧な言葉は時に避けなければ。


義母の病院はとうとう
コロナウィルス対策のために、面会禁止となった。
この間まで、段階的に、面会訪問者の熱を測ったりしていたが
今回は全面禁止になった。
肯定できる措置だと思う。
日曜日、夫とともに
病院に向かっているときに
病院から電話があった。
「明日から面会禁止になります。」と。
入院患者の家族すべてに電話で連絡しているのだ。
ありがとう、看護師さん、病院。
あとは病院からの連絡を受けての面会である。

ご飯を食べないという義母。
午前中はリハビリということで
車いすに乗って廊下を回り歩いているようだ。
病室を去る時に
「私は、誰だ?」と聞いてみると
小さい声で
「トモロッシちゃん。」と答えた。
「この人は?」と夫を指すと
「???」という感じだった。
アハハ。

5日に
病院の先生から話がある、ということで行く。
仕事は早退だ。




(2020/2/26)義母の病院の改善。介護調査の件。

2020年02月26日 16時08分04秒 | 日常、仕事、認知症
義母の入院している病院は
週明けの昨日から、面会制限の看板を掲げた。

面会氏名を書くのは変わらないが、そこで体温を測り、その温度を記入することが加わった。
自転車に乗って身体が温まった直後の体温計。
ギリギリ36・9度だった。ギリギリって、勝手に書いたが。
廊下で待っていると
病室、院内は念入りに清掃していた。
義母は寝ていた。
いつもなら起こして声を掛けて
持参したヤクルトを飲ませるのだが
今日は止めた。
着替えの下着をロッカーに入れて、
そっと病室を出た。
面会制限は良いことだ。
完全看護の病院。
面会者は、安否の確認と声掛けと洗濯物の交換くらいだ。
病院にとっても面会者にとっても
早々に引き上げたほうが良いと思う。
余計な心配の種は撒かないほうが良い。
コロナウィルス。
この日記を数年して読み返した時に
2020年のこの時期、世界中でそんなことがあったなあ、と
思われればよい。
今、私達にできることと言えば、慎重に、静かに、行動するのみ。
仕事も最低限の行動でやるのみ。
(なんと、会社はマスク着用を認めていない)

介護認定の調査員から連絡があった。
入院先に、本人に調査に行くとなった。
で、その日付が
「大変混んでいまして、早くても4月1日です。」と言われた。
「そこまで入院しているかどうかわかりません。」
退院したら知らせる、ということで電話は終わった。

私が心配なのは
義母が退院して、果たして、歩けるかどうか。車いすの生活になった場合
私1人では介護ができないと目に見えている。
そのために介護認定と介護サービスを受けるつもりでいたのだが。
例えば入浴。
自宅にては
二階のお風呂に行くとき、義母は階段を上って、私はその後ろから付いての補助。
それができなくなるわけだ。
認定されれば、外部の入浴サービスを受けられるようなので、それに期待していた。
仮に3月の上旬、中旬に退院した場合、
その4月の調査、更に、調査委員会などを経る期間を足せば、もっと遅くなるかもしれない。
そうなると、空白の期間をどう過ごせばいいのか。

などなど、自分の頭の中で
またもネガティブな考えが渦巻きそうだ。
否、
なんとでもなる、と言い聞かせる。
あの精神を思い出せ。

それにしても
自覚症状のない義母のこと。
自宅に戻ったとたん、ベッドから起きだそうとして、つまずきころんで骨折、になったら
どうすんの?夫。



(2020/2/24)夫の目の手術、義母の様子。

2020年02月24日 20時20分09秒 | 日常、仕事、認知症
夫の目の手術から5日経った。
夫は以前から、目が見えなくなった、と言っていた。
眼科に行くように進言してきたが一向にその気配はなかった。
私の視力は、文字が見えづらくなったとはいえ、それほど気にするほどでもない。
だから、目が見えない、という経験がないから、物が歪んで見えるなんて想像ができないから
眼科に行くしかない、と言うしかなかった。

夫もそれなりの年齢だから、老眼とか近視とか、それの類だと思ったがそうではなかった。
目が見えないと苛立って、車の運転にも支障をきたす。
年末年始の夫の体調不良を機に、いよいよ眼科にも行く、と決意した彼。
口コミで近くの病院を見つけ、すぐに白内障と診断された。
そして手術が20日と決まった。
それの付き添いで仕事を私も休んだ。必ず、付き添いが必要だそうだ。
あまり多くを語らない夫だったが
手術後、一気に話し出した。
手術前の不安、メスが見えるのではないかなど、手術前にはそんなことは一切言わなかった。
そこの病院の口コミは年配の人たちの書き込みが多かった。
そして、全てが「安心して任せられた。」とあった。
それを信頼するしかない。
右目の手術。
眼帯をした夫に
「痛くなかった?」と聞くと
「全く痛くなかった。」
流水しているせいか、器具など目の前に迫ってくるのは全くわからなかった、と。
翌日も付き添った。
眼帯を外した夫。
保護眼鏡(これも、普通の眼鏡をかけているのと変わらない仕様)を掛けて家路に。

良く見える、とのこと。
歪んでいたものが正常に見えるとのこと。
太陽のギラギラ感が無くなったとのこと。
眼科の先生は多くを語らず。
それが夫の波長に合った、と言っていた。
いずれ左目も手術するかもしれない。

見える、ということを
具体的に細かに説明する夫。
ずっと気に病んでいたことが取れて、世界が広がって、心がすっきりしたようだ。
それを身近に見て、実感する。

これまで眼鏡をかけたことがない夫が
黒縁の保護眼鏡を掛けて一日家で過ごしているのを見ていると
別人がいるように思えた。
「大学教授が休日にゴマ団子を食べているようだ。」と言った。
何はともあれ、良かったね、夫。

父から
義母と夫の手術の見舞金が送られた。
「律儀だねえ。」と私。
「隙を作らないというかなんていうか・・・」と夫の感想。
ほう、そういう見方もあるのか。

義母は
食事がうまくいかない。
どんどん痩せ細っていく。
入れ歯を入れていないせいか、噛むことができない。
かと言って
入れ歯の装着は難しい。
あれは自分で入れるしかない。
ピッタリと収まる感覚は自分が要だ。
それができなくなっている。
以前、入れ歯を外してはどこかに隠していた。
大事なものは隠す、ということで入れ歯は彼女にとって大事なものだ。
歯磨き粉、歯ブラシ、化粧品等、毎日使うものをあちこちに隠しては
私はその都度新しいものを買ってきた。
しかし、入れ歯はそうはいかない。
だから、入れ歯を装着したままだった。
が、病院は入れ歯を外してゴハンを食べさせる。
味気のない、全部とろみにしたものが出てくるが
彼女の口に合わない。
吐き出してしまう。
家にても
時間をかけて、クチャクチャゆっくり自分のペースで食べるが
立ってでも、すぐに食べたがっていた彼女だ。
今の変わり様は
やはり病院だからだ。
動かずに臥せって、声を出さずに過ごす日々。
今日、午後行ってみると
少しベッドを起こした状態で、独り言を話していた。
午前中はベッドでリハビリをしているはず。
その場面は見たことはない。
私なら、もっと厳しく指導しているかも。
もっと手を動かせ、もっと話せ、声を出せ、脚を動かせ、とね。
生きるバネは、それらだと思う。
病院は、治療する所でもあるが、過保護になって本当の病人になってしまう。
亡くなった母の最後の病院での姿がどうしても思い出してしまう。
相変わらず
「トモロッシちゃんのお母さんは元気なの?」と何度も聞かれる。
「死んだよ。あなた、葬儀に参列したでしょ。」といつもの返事。
頭を働かそうとして
彼女の姉妹の名前を出して色々と聞いてみる。
考えよ、考えよ。
夫は
「めし、食えよ。家に戻れないぞ。」と言って聞かせる。
肯定の返事はするが、いざ、食事の時間になれば食べない義母なのであろう。

自宅にては
義母の部屋の掃除を少しずつしている。
立腹しながらね。
寝室から、居間にベッドを移動してこようと思う。
施設に入るかどうかは、これからの問題だ。
私の仕事のことやお金のことやそれらを含めて色々と考えていこうと思う。
職場の人からは「絶対辞めないでね。」と言われた。
私の都合で休んでもいいから辞めないでね、と昨日も言われた。
父は
「あんた(私)の身体は大丈夫なのか、仕事を続けているなんて」と言われている。

昨日から今日にかけて変則的な寝方をしてしまった。
病院から帰ってきて寝てしまった私は
目が覚めて時計を見ると、5時半。朝だと思って、慌てて食堂に行った。
ご飯支度をしなくては、と味噌汁用のお湯を沸かしているときに
「あ、もしかして夕方の5時半?」
二階に上がって、のんびりしている夫を見て、確認するとやっぱり夕方だった。
そういえば、寝る前に
昼食兼夕食を食べたのだ。

そしてこの日記を書きだした。


(2020/2/19)腐らず、ぼやかず。

2020年02月19日 18時16分19秒 | 日常、仕事、認知症
今朝、弱弱しい自分、と書いて出勤した。

久しぶりの職場である。
自分の居場所がなくなっているのではないか、なんて
家族の病気とは別な悩ましい問題も心の中に在った。
職場の皆は
今の自分の立場を理解してくれ、いつでも対応できる、気にしないで
義母、夫に付き添って、と言われている。

義母の怪我の前に
新人が入った。
この方はベテランで何かと頼りになりそうだ。
その方が入ったことによって
偶然にも直後義母の怪我、入院にスムーズに対応できた。
1人入ったことで、1人1人の仕事が随分と楽になった。
すると会話も増えた。
それから別な部署にも新人が2人入り、耳の遠い自分はあまり話さないで
挨拶のみ、の対応だった。
これまでの人生で
私の第一印象は良くない、というのはわかっていた。
若い人から見れば、威圧感があるのかもしれない。
よくあることだ。
そうして一カ月ほど経った。

今日はそのうちの1人とたまたま話になった。
英語の話になった。
私は昔人間なので
英語は筆記体でしか書かない。
一文字一文字区切ってなんか書くのはどうも苦手だ。
発音が素晴らしい。
そのうち
いつもの、誕生日はいつかということに。
みずがめ座だった。
色々と話が盛り上がり
若い人なりに、悩みを抱えていた。
若い、とは言っても
私が年だから、皆若いのであって
他の新人と比したら、「若くはない」のかもしれない。
それなりの人生の悩みを抱えながら生活している。

帰宅途中
「腐らず、腐らず・・・」と自分に言い聞かせた。
職場の皆の厚意もあるのだから
若い人なりにいろんなものを抱えているのだから

自分も今
年相応の悩みを抱えているだけなのだ、腐らず、ぼやかず、
1つ1つ、解決できるよう、がんばれや~、と思った。
それが
今日の収穫だった。
ありがとう、皆の存在。

そして、父にメールした。
今、義母手術入院、夫の手術。追って手紙を書く。
元気でいてほしい、と。

腐らず、ぼやかず。
うん、自分の弱い時につぶやこう。

(2020/2/19)義母の手術終わる。夫の眼の手術、父の手紙。

2020年02月19日 04時07分40秒 | 日常、仕事、認知症
現在、朝の4時過ぎ。
もう少しで出勤だが、メモ程度に書いておく。

一昨日17日、義母の手術を終えた。
90歳の手術か。
凄いなあ、この年齢で全身麻酔だなんて。
私が病院から帰るころには目が覚めて、看護師の問いに答えていた。
1日経っての昨日は
私の質問にも答えてくれた。
毎回、「あなたがここにいるのは、脚の手術をしたからだよ。」と言っている。
彼女の頭の中は
「何が何だかわからない」状態なのだ。

区役所に行って、介護申請のお話を聞いてきた。
これまで、介護認定の抵抗感のあった私だったが、この怪我を機に
漸く思い腰を上げた感。
皆、抵抗なくその申請をしてきた、と周囲は言ってはいたが・・・

明日は
夫の眼の手術の付き添いである。
これも特記しておかなくては。

家族3人のうち
今週は2人の手術。
あちこち奔走の私。
仕事も、上司、同僚の協力のもとに休みを多くもらっている。
そのうち、使い物にならない、ということで「クビ」になったりして。

雪混じりの冷たい風の中、帰宅して
届いていたのは
実家の父のハガキ。
置き去りにしている父のこと。
正月以来、全く父に連絡していない私。
義母の手術の件を伝えるかどうかを躊躇しているうちに
その私の心を見透かすように
「一人は寂しいものです」の父の手紙。
神は、私に突きつけるのを忘れていない。

私に万能感でもあればいいのに、
今の所、弱弱しい私である。

(2020/2/12)手術延期の理由を書くのを忘れていた。

2020年02月12日 08時39分28秒 | 日常、仕事、認知症
さっきの続きとして肝心なこと。
なぜ延期になったか。
医師の説明の時に
「予定は12日。手術できない何か原因があった場合は電話をする。
電話がなければ、予定通り行う。」と言われていたので
10日の夕方、夜になっても電話がなかったので、心エコーもクリア、となったんだな」と
思った。
そして翌11日昨日、前述のとおりの義母の様子。
そして夫と帰宅。
私は食事後眠っていた。
夫に起こされる。
夫の携帯、私の携帯に電話があったようだ。
夕方4時過ぎである。
私は気付かなかった。夫も自分の部屋にいたのですぐにとれなかった。
そして折り返し電話をすると
あれから義母は熱を出したらしい。
発熱によって延期、となった。おそらく祭日なので、主治医は不在。

義母は熱の出る人のイメージがなかった。
救急車で運ばれるときも
身体が冷たい、手が冷たく熱はなかった。
むしろ冷たい方が心配だった。
その後、熱が出ていた。
昨日の食事のときは、いつもより温かい程度に感じた。
その後、上昇したのだと思う。
とにかく後で、行ってみる。

(2020/2/12)義母、手術延期。これまでのこと。

2020年02月12日 08時16分50秒 | 日常、仕事、認知症
予定で行くと
今日が義母の手術日だった。
昨日は祭日で、病院は閑散としていた。
10日月曜日、医師との面談で、心エコーを撮ってから、手術をするか否か、延期かを判断するとのことだった。
90歳の老人が手術に耐えられるのか、というこちらの疑問に対して
この手術は年齢が90歳前後が圧倒的に多い、1月の手術した60数名の年齢を見せてもらったが
90歳以上が随分といた。
それは変な言い方だが、安心材料になった。
術そのものの時間もわずかである。
絶対的な自信を持って臨む、といった姿勢だった。
心エコーもまずまずであった。
不安材料は、
義母の抱えている血小板減少の問題だった。
あちこちに、特に下半身や腕に、血小板減少の特有の痣がある。
今回入院して異様に増えたように感じる。
自分がなぜここにいるのかわからないと、表情が憮然としたものになるのがわかる。
昼食の介助をしたが、口を開けよ、と言っても、意志的に口をつぐむ、
あるいは申し訳程度にパッと開けてすぐ閉じる。スプーンが入るはずがない。
何回もそれをされる。
この意地悪さに笑った。
そのうち、自分の置かれている立場がわかったら、両手を使って器や箸を持ち、自分で食べだした。
そう、つい4,5日前まで、家で普通に食べていたじゃないか。
その調子、その調子。
酸素吸入の管を鼻に掛けていたらしいが、病室に行ったときには
なぜか、眼鏡の鼻に掛ける突起部分のように、位置をずらしていた。
義母が自分でやったのだろう。
顔や身体に付いているものをことごとく、取ったり剥がしていく義母だ。
前日は、点滴をしていた針を自分ではずしたらしく、右腕袖、シーツが血に染まっていた。

2月2日の日曜日に、夕方義母を見ると、左目の上おでこが何かにぶつけたようで、血が流れ、腫れていた。
その辺りから今回の骨折に繋がっていく。
翌日3日に近所の外科に。それまでの応急処置として、血が出たところを大きなカットバンを貼り、保冷剤を貼って冷やしていたのだが
案の定、夜中にでも自分で剥がし、その辺の壁に貼っていた。
どこにぶつけたかも判明しなかった。聞いてもわからない。
彼女の行動範囲はだいたいわかっているので、畳一畳分の分厚いコタツ板かもしれない。
その傷が治るまで(翌日以降、左半分が大痣になっていくので)しばらくの辛抱だ、と思っていた矢先。

2月7日金曜日、
私の仕事が休みであった。
私が休みの時は、5時過ぎに夫や義母の朝食の準備をする。
その準備をしている間に、義母が起きて食堂にやってきたり、自分の居間でごそごそやっていたり、寒いのでまだベッドにいたり、と
その3パターンの1つになる。
6時過ぎに夫が出勤して、起きてこないなあ、と彼女の居間に行った。まだカーテンは閉ざされたままだ。
隣の寝室を開けると、義母がベッド下脇に倒れていた。
薄暗い寒い部屋に倒れていた。
ギョッとした。
心臓とか脳のトラブルか。
呼吸しているのか。
声を掛けると、わずかに動いた。
どうして倒れているのか聞いても、正確に答えられない。
どこか痛いのか、足が小刻みに震え始めた。
これはベッドから降りて転んだのかもしれないと思った。
いつもなら、上半身を持って立たせることもできるが、足が硬直しているのがわかったので
そのままにした。部屋は暖房をつけたばかりだ。まだ寒い。
そして救急車を呼んだ。
その間、廊下の置いてあるものなどを片付けた。
担架が通るのに不都合なので。
救急隊が到着したあと、事情説明。
まず、顔の傷に目が行く。これは日曜日の傷、など説明。
早朝なので、受け入れる病院が固定された。
その病院名を聞いた時、昨年12月、実家の父が運ばれた病院だったことを思い出す。
そこでの対応が(私にとって)いやな印象を持っていたので、拒否しようと思ったが
そこしかなかった。
あの時、言い争った医師の顔を覚えていた。
そして運ばれると、いた、いた。
なんと主治医になった。
どうしても20数年前に亡くなった義父の顔を浮かべてしまった。

私の職場にも連絡しなければならなかった。
職場にてのあれこれも替えなければならなかった。
9日日曜日、職場に行く。仕事だ。
夫がいるので、その日のことは任せた。
職場にては、とにかく周りに、義母と同じ骨折で車いすになっている親がいる、あるいは兄弟で車いすの日常の人もいる、など
聞かされる。
老人女性に多い、と言われる。
何でもない動作で転び、骨折するんだ、と言われる。
それは医師の話と一致したし、義母も漏れずにそうなってしまった。
病院の評判など、詳しい詳しい。

10日、仕事後、医師の説明を聞く。
あの医師だ。
しかし、懇切丁寧に、時間を掛けて(何度も繰り返し)説明してくれる。
大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせる。
義母は
「トモロッシちゃんのお母さんは元気なの?」と相変わらずの質問をしてくれるのでホッとした。
そのホッとしたついでに病院を出てから
うちの近くの内科、義母の主治医の所に骨折入院の話をしに行く。

その日の早朝(10日)の月。
まあるくて、いつもより少し大きめ。
あ、これは、頑張れ、という意味だ、と思った。
あとで、何とかムーンかもしれないから調べよう、と思った。
家の前の長い路地を左に曲がると、早朝の月が出ていると
わずかの間、月に語り掛ける。
ありがとう、今日もこんな素敵な満月を見せてくれて、と。
そしてあとで調べてみるとスノウムーンだとわかった。
正確にはその日の夕刻からがスノウムーンということで
私は半日早く、ほぼ満月の状態を見られたのだ。
その時刻に出勤でなければ、見ることもない月。
早朝の月は綺麗だよ。
夜見るのとまた別な感情を抱かせてくれるんだ。
あのスーパームーンの時も驚いた。

何かに苛立って
孤独を感じた時に、
人間とは全く異種のものに
ただ存在するだけで、「孤独じゃないよ、見守っているよ」と
言われているように、
左に曲がると正面に見える月。
ありがとう。

それにしても
自分が休みの時でよかった。
もし仕事日だったら。
私が先に家を出るので、
夫が、義母の朝食を準備し、顔を見ないで出勤する時もあった。
倒れたまま
寒い所で・・・と考えるとゾッとする。
だから頑張らねば、と思った。






(2020/2/8)義母、大腿骨頚部骨折。

2020年02月08日 20時13分43秒 | 日常、仕事、認知症
昨日2月7日、義母、入院。
私の仕事は休みの日だった。これが不幸中の幸い。

寝室で倒れていた義母。
声を掛けて、息をしていなかったら・・・・と。
足が痙攣している。
動かない。

救急車搬送。
レントゲン。
大腿骨頚部骨折。
脚の付け根の骨折。

90歳の義母に手術が耐えられるのか、まだわからない。
こういう場面を、一人で抱え込むことのショック。
気が動転する、というのはこういうことか。

ちょっと落ち着いて書くことができない。


(2020/1/4)私の正月が終わった。夫の病院、シンノスケの病院。

2020年01月04日 20時46分39秒 | 日常、仕事、認知症
私のお正月が終わった。
年末と1月1日が終われば、「自分の時間を自由に使おう。」と思って
楽しみにしていた3日間であるはずだった・・・


2日についてはブログに書いた。
次の日の過ごし方は、駅伝の後半を観て、ダラダラと過ごそう、
撮り貯めした「紅白歌合戦」や「相棒」などを観よう、となっていた。

しかし。
夫の風邪が良い方向に向かわず
「病院に行け。」「行かない。」とやりとりをしていたが、
とうとう自ら「病院に行く」と言ってきた。
しかし、まだ正月3日、近くの病院(義母の通院先)は閉まっている。
北にある、救急センターに行くことになった。
一応、「一人で行けるね。タクシーで行って。」と言ったのだが、
彼のことだから絶対一人では行けないのだ。
案の定、「一緒に行け。」と言ってくる。
具合が悪いから付き添ってくれ、という意味じゃない。
行き馴れていない所には一人で行けない人なのだ。
それでいながら、「マスクをして行ってね。」の私の指示に抵抗感のある人だ。
体温計も朝、計ってねという指示にも従わない。
熱は?と聞いても、計りもせず、「ない」と答える。
病院は列をなしていた。
咳をしている夫は、マスクをしたことがないからしたくない、という考え方。
しかし、渋々従って、最終的にマスクをしていって正解であった。
皆、マスクをしていた。
ホームページにも確か、マスク着用、とあったはずだ。
病院の検温で、37.6cあった。
私の怒りは、自分で朝検温して、熱があった、なかった、という正確なことを言わず
準備なしに行くことにある。

そこは応急処置的なものだから(薬はもらった)
「明日、近くの病院に行くといいよ。レントゲンとか撮ってもらえるから。」と私が言うと
やはり無返事であった。
私の指示に従いたくないのである。

結局、それで半日はつぶれた。
そして
自宅に戻ると
今度は、シンノスケが血をソファのカバーに吐いていた。
血の出処はどこだ、胃や肺などの内臓か、あるいは口内か。
口を開けてみると、上顎の内側が傷のような痕があった。
目を開けているときは、それを飲み込んでいたようだが
眠っていると、唾液と血が混じって流れてソファや自分の手足についたようだ。
食欲等あるので、緊急という様子ではなかった。
今日までほとんどの病院休みだし、ダイジローやトモが行った病院も明日からだ。
明日行こう。


明日、つまり、今日。
1月4日土曜日、私の正月の最終日。
午前1時過ぎに起きた。
今日のやることを頭の中で整理した。

夫には今日、個人病院に行くように言った。
私に言われると、イライラするようだ。
そしてまたまた案の定、
付き添ってくれ、と言う。
否、私はシンノスケの病院に行くし・・・
あなたのは、歩いて5分もかからない所だし・・・

行ったことのない所に一人で行くことができない人なんだ、と改めて思った。
大の大人が、病院に一人で行けないって、私の夫が当てはまるのかー。
本当に、親子揃って、指示に従わない人たちだ。
それでいながら、頼っているし。
私が苛立つのも、そんなに間違っていないと思う。

結局、3分歩いて行く。
病院で大人に付き添っているのは私だけだ。
あなたたち親子、小さい時からそうだったのでしょう。
小さい時は勿論付き添うのは当たり前だ。
「なんで、一人で行けないの?」
「いいから、一緒に行けって」ぐらいの返事しかない。
行けという命令だ。行ってくれ、というお願いじゃない。
義母もそうだ。
「ホントに、手のかかる親子だ」とため息をつく私だ。
絶対その辺は似ている。
プライドだけは高い、言葉に表れる。

本音を書けば
私にとって、一番心配なのは
ナナ、シンノスケ、トモですからね。

シンノスケの病院は午後に行った。
今日が新年開始の日なので、午後も混み始める。

今朝もシンノスケは
黒いもの(ほぼ、便になるようなものが逆流して)を吐いた。
排便もスムーズじゃない。
ノミの件もあるし。
それらを言って処置をしてもらう。
先生も、忙しすぎて、きちんと診察してくれたかどうか・・・ちょっと疑問である。
それはまた後程。

数時間ぶりに戻ってきたら
シンノスケ、食べる、食べる。
食欲が戻ってきてよかった。
取り敢えず安心材料である。

そして、動画のチェックをしながら、夕飯支度。
正月材料の残ったもので、夫の胃に負担にならないものを。

そういえば、昨日、義母の90歳の誕生日だったのだが
夫の病院の件でそれどころではなかった。
隣の家に、ケーキを持って義母と2人で訪問予定にしていたのだが
夫の病院から帰宅後、
ケーキも買いに行けなかったので、後日改めてゆったりと過ごすことを報告しに。

義母は
自分の誕生日のことも忘れているし
「あなたの息子が29日以来風邪で臥せっている。」と言ってもピンと来ていない。
もっと正常な時ならば、世の中で一番心配しているのは母親の私だ、とアピールする行動に出たのに。



というわけで
病院、病院、病院の私の正月でした。
明日からまた仕事です。
御利益のない正月。
でも、ご利益って何だろう。





(2020/1/2)今日が私のお正月。

2020年01月02日 23時07分16秒 | 日常、仕事、認知症
あけましておめでとうございます。
1月2日、私の正月です。
昨日1日は仕事初めというよりは、2019年の仕事納めみたいなものです。
今日から3日間正月休みです。
こういうサービス業は、年末年始も忙しく、あまり仕事納めの感なし。
悪く言えば、ダラダラと続く仕事。
メリハリなし。
週の休みも一定していないし、土日の「休み感」もない。


この時刻(午後11時過ぎ)に起きているのは何年ぶりだろう。
普段は、9時前には就寝している。
休みの日でもその習慣は変わらず、朝もゆったりと寝ていることはない。
生活のリズムは崩したくないので、休みの日でもいつも通り、3時ごろ起きるようにしている。
今朝も4時前に起きて、年賀状を書き、6時ごろに投函してきた。
この辺りの時間の刻みはほぼいつもと同じである。
まだ陽が昇っていない時刻に、郵便ポストに向かう途中
「あけましておめでとう」と人のいない道に心でつぶやく。
それから家事をして、ひっさしぶりに「箱根駅伝」を観始める。
こんなに落ち着いて観るのも何年ぶりだろう。
そもそも、テレビを何時間もリアルタイムで観るという習慣を持たなくなって数年。
ドラマなど、全部録画して観ているから、こうして駅伝を最初から最後まで(とは言っても、うたた寝して、1位のチームが
ゴールしたのは見逃しているが)観たのは忘れていた感覚だ。
そしてその後、年末の疲れを取るように、眠ってしまった。
目覚めたのは夕方6時。時計を見て、一瞬「朝の6時」かと思ったがそうではなかった。
更に眠った。身体が起きたのは8時頃である。
疲れを取った、という気持ちで起き、猫たちに遅い夕食をやる。
それから洗濯をする。
ずっとエアコンを点けっぱなしで空気が乾燥しているから、部屋干しである。
今は、猫たちの敷物などを洗濯中。
明朝は義母の着た物などを洗濯。私達のと一緒に洗濯はしない。

たっぷり寝た感を維持して
こうしてブログに向かう自分である。
更新するときは、日を跨ぐかもしれない。

2020年の初日は仕事で始まった。
一緒に仕事をする人たちに新年の挨拶をして(前日は、仕事納めの挨拶をしている)、
「今日はどうしても早く帰る。」と前もって宣言しておき、忙しく立ち働いた。
今日のメインは
実家に行くことだ。
ただ訪問すればいい、というわけじゃない。
知人家族も集合するので、正月料理を前日から用意しておき、朝3時過ぎに、炊き込みご飯のスイッチを入れ
出勤していた。
それらをお重にセッティングする。
姑の着替えも時間がかかるのでそれをしながら料理の準備をする。
姑には、何日も前から、1日は私の実家に行くよ、私の母に線香を上げに行くよ、と言ってきたが
案の定忘れているので、何度も言い聞かせる。
そのたびに「え!?お母さん、死んだの?」の返事だ。
「2年前に死んだでしょ、あなたも葬式に参列したでしょ、墓参りもしたでしょ。」と同じ答えのパターン。
それを出かける前に、何回も繰り返して、頭の中に「実家に行く」を植え付けていくが、
10分後には忘れる、というのもいつものこと。
重い荷物の点検、5個だ、と自分に言い聞かせ(私はよく忘れる)、2人でタクシーで向かう。
タクシーの中でも、「今からどこに行くの?」と学習。答えは分からない。
しかし、会話の中で、「この辺は、私の〇〇小学校があった辺りなの。」と昔のことを言った。
小学校の名前も正確に覚えていた。
「お義母さんは、昔のことは覚えているんだね。」
「そうなの。よく、実家(石巻方面)に遊びに行ったんだよ。」と
彼女の頭の中に、記憶として残っているものが自然に引き出された。
今のことは分からなくとも、こうして残っているものが存在することはよいことだ。
「明後日は何の日?」
そもそも、今日は正月1日ということを何度も植え付け、そこから明後日は何の日、ということを類推させることは
以前からあったこと。
そう明後日(今日から見たら、明日のこと)は義母の誕生日なのだ。
以前なら、自ら、「1月3日は私の誕生日だ。」と言っていたのだが。
もう、自分の誕生日すら、幾つになることすら忘れている。
それを悲しい、と思うのは周囲のみ。本人は忘れていることの悲しみの感覚はなし。
それはそれで、神様のくれた「認知症の悲しみの削除」かもしれない。
ただし、「認知症の怒りの削除」はない。それなりにプライドを持って、私の怒りに対抗するのだ。
それが無くなれば、完全に呆けて(ほうけて)しまう表情になる。
私の母のあの時のように。

そんな会話をしているうちに実家に辿り着く。
ちょうど知人家族もやってきた。
1年ぶりの再会である。
牛タンもごっそり買ってきたので、私は専らそれを焼いていた。
牛タンは夏に父に食べさせたところ、好きになり、自分で買い物をしたときに買ったりしているとのこと。
どのようにすれば美味しく食べられるのか、と父が聞いた夏。
炭火とかないので、家庭ではフライパンでコショーを掛けて焼き、食べるときに七味を掛けて食べると美味しいよ、と言っておいた。

実家の隣にお年始の品を持ち、挨拶に。
父を救急病院に連れていってくれたり、何かと世話になっている。
私がこうして実家にあまり行かない分、父は隣の方を頼りにしている。
ところで、
私の従兄の甥夫婦はどうしたのだろう。
以前は、近くに住む彼らがよく父のことを面倒みてくれていたのだが。
たまたま会わなかったのかもしれない。
それに息子が受験、というのもあるしね。

義母は、皆にチヤホヤされて、上機嫌。
歩くときも支えられて、手をひかれる。
私は、「手足が動く限り、自分で歩けー」という方なので
さぞや嬉しかろう。
皆の手前、あまり厳しく言うのも、せっかく支えてくれる人に申し訳ないので、自粛。
手足が動くイコール自分でできる限り歩く、が私の考え。
時間がかかろうと、何かにつかまって歩く(杖は持っているものの、文字通り、「持ってしまう」)のを
学習することが、歩くことのリハビリだと思っている。
杖の使い方も堂に入っていない。
大体、家の中で、ヨチヨチでも、自分の好きなように歩いているし、トイレにも行けているのだ。
甘えさせは、老人には、自分で模索するという頭の学習にも良くない、リハビリにも支障、という考え方だ。

そのうち自分にも訪れるであろう認知症。
私には子供もいない、兄弟もいない、いずれ一人になるかもしれない、あるいは夫もそれと同じ。
今働いていることは
ほぼ肉体労働に近いので、足腰の動きは何とかやれるであろう。
問題は頭の方だ。
まず言葉が出なくなった。語彙不足は元からであるが、何でもない言葉もよく出てこなくなった。
そして文字も書けなくなった。書く文字もへたくそになった。
これは情けない、と思った。
こうして、ブログ等で文字を打つことは、文字を頭に浮かべることを停滞させているような気がする。
難しい漢字ならともかく、簡単な文字も「あれ?」と言いながら、メモ用紙に試し書きである。
これが文字を書かなくなったら、ますます文字を忘れていく、ということになる。
だから、メモをなるべく取るようにしている。年賀状も手書きだ。
おそらく、義母は文字を書くことをしないから、もう忘れているだろう。
自分の名前を書けるかどうか。
60代のころから、書類を書くにも、もう面倒くさがって、私に依頼していたから
今じゃ、何が書けるだろう。
私自身がそうならないためにも、義母のこれまでの在り方はある意味、反面教師なのである。
父は逆に、毎日日記をつけ、家計簿をつけている。父の細かいところも本当は習わねばならないところでもある。

残ったものを折詰にして知人たちに持たせて散会する。
自宅に送られてまたの再会を約束する。



さてさて、ここに登場しない人物。
夫。
夫は12月28日に仕事納めの日に、会社の忘年会で例年近郊の温泉に一泊。
翌29日には朝8時ごろ自宅に帰ると言っていた。私は仕事なのでその時刻はいない。
当初の予定として1月5日までの長い休み中にあれこれとする計画を立てていた。
しかし、帰宅していた時に咳をしていた。
風邪らしい。
私は、風邪なんて引いてられない年末年始なので、なるべく夫に近づかないようにした。
夫は幸い仕事が休みだから、1年の仕事疲れもあることだし残りの年末の数日間、ずっと休んでいた。
そして1日の実家に行くことに備えたと思うのであるが
どうも体調が不調で、今日現在も臥せっている。
今朝少し良くなったらしいので、午前から風呂に入ったり、お雑煮を作ると途中までよかったが
やっぱり具合が悪い、とまた寝込んでしまった。
寝込んで5日である。
風邪か?それとももっと別な・・・と言ってみたが、彼の頑固さは姑譲りなのか、具合悪い症状の具体的なことは言わず
ただ「具合悪い」のみ。
病院に行け、と言っても、今のところ気配なし。

そして我が家の猫たち。
今年は
ナナ、22歳
シンノスケ、17歳
トモ、14歳
になる。
いずれも高齢である。
我が家、姑、夫、私、猫たち、高齢者ばかりである。
そんな中、
私が今のところ元気に正月を迎えたことが幸いである。
自分が要、と思っている。













(2019/12/31)今年の出会いは・・・

2019年12月31日 19時18分00秒 | 日常、仕事、認知症
今年最後のブログ。
年末の雰囲気ゼロの家です。
ずっと仕事が続いていて、明日元旦も仕事。
若い時の年末年始のワクワク感が懐かしい。
食生活が異なってきた今、毎年欠かさず食べていた年越しそばも食べず
夫と姑は夕食として食べていました。

私はこのところずっと、朝は勿論のこと、夜も食べなかったり、3人で食卓を囲むということは
数カ月、無し。
自分の栄養不足を感じています。
それでも、正月実家で昨年の人たちがまた集まるので、色々準備をしておきました。
そして、まもなく寝る。

私がずっと仕事に出ている間、夫が休みのため、姑のことなどをお願いしようと思っていたら
29日から夫、風邪を引き、3日間ダウンしています。
「吐きそうだ。」と言いつつ、蕎麦を食べてまた寝ています。

私の正月は2日から。


さてさて。
毎年、1年を振り返って、良いものとの出会いを探そうと思ってーー
影響を受けた人との出会いはなかったような・・・
で、今、毎日の密かな楽しみというか、
you tubeを観ることかな。
これまでも観てきているのですが、
今年は特に毎日寝る前に楽しみに観ているものがあります。
保護猫や保護犬の救われた命、その後のことなどを、毎日追いかけて観ています。
それらを観て
ゲラゲラ笑ったり、癒されたり、感動させられたり(なるべく悲しいものは観ないようにしている)
生き物の存在に弱い私は
救われた命にホッとし、飼い主の愛情に感動したりしています。

リンちゃん
ブリちゃん
ハッちゃん
キューちゃん
ポテちゃん
などなど、もっともっとたくさんの子たち。
その子たちと個性的な飼い主とのやりとりにいつも癒されています。



乏しいブログ。
行動範囲が狭い自分。
どこに向かっているのかわからない自分。
先細る人生。

来年待ち受けているものって。
予測しただけでも悲しいことだ。

そういうわけで、今年のブログ、ごめんなさい。
来年もよろしくお願いします。



(12/3)朝のちょっとした気持ちの良い体験。

2019年12月03日 06時47分50秒 | 日常、仕事、認知症
昨日は、自分の職場ではなく別な所にお手伝いに行く日だったので
いつもより早めに出勤した。
大通りの横断歩道を渡る時に右折してきたトラックが
十分余裕で行けるのに、わざわざ歩道の前に止まって私の自転車が横断するのを待ってくれた。
私自身も、トラックが先に行けるように意識的に自転車を徐行させたのだが
トラックの方が止まってくれた。
会釈と「ありがとうございます」をつぶやいた。
その言葉は勿論届かないが、口の動きを見て何を言ったかわかったかと思う。
朝から、良い気持ちになった。
トラックの運転手も良い気持ちになったのかもしれない。
自分の善行(これを善行というかどうかはわからないが、ちょっとした余裕の行動だ。)が
相手(私)に伝わり、それを会釈と笑顔の言葉で返される、ということは彼の一日の仕事のスタートが
晴れやかになるし、今後の安全運転にも繋がっていくことを願う。
勿論、普段からそういうゆとりの気持ちを持った安全運転を心掛けている人なのかもしれない。
そういう類いの動画の観すぎの私である。
それらを観て、いつも自分も自転車の安全運転をしようと心掛けている。

(11/30)11月の更新。

2019年11月30日 20時37分08秒 | 日常、仕事、認知症
また空白の月を作りそうなので
今日、更新しておこう。
まもなく寝る時刻なので、その前に。

今日は休みだった。
ゆったりとブログを書くつもりが
朝、洗濯物を干している時に
実家の隣から電話があった。
父の携帯からも。
何かあったのかもしれないと
折り返し電話をすると
朝、父が階段から落ちて腰を打ち、救急車で運ばれたとのこと。
幸い、運ばれた病院は私の家の方向で自転車で行けば20分ぐらいの所。
タクシーで行く。
もしも、入院となれば、通うのに都合がいい、と思いつつ。
検査の結果は、入院必要なし、となった。
とにかく患者がいっぱいで、救急車も新たな患者を載せて入ってくるし、
医者も多忙そうだった。
対応が今一つで、私の頭からその病院は消えた。

という細かいことは後日。

先ずは、今日更新しておく。

(2019/10/12)台風19号 明朝出勤

2019年10月12日 21時42分22秒 | 日常、仕事、認知症
まもなく寝る時刻なのだが
就寝前に書いていこうと思う。

現在、こちら東北、風雨が強くなっている。、
7時過ぎに、二階の窓から家の前の道路を見てみると
カエルがいたように見えたので確かめに行った。
うちから外に出ていったカエルだった。
この嵐の中、カエルは出てきているのだ。
ということは、いつも探索に出る道にも出ているかもしれないと
思い、懐中電灯を持って、傘は差さずに探しに行った。
やっぱりいた。
車のよく通る道路の真ん中にである。
休日なのと、このような嵐のために車、人の通りは皆無であったが
いつ轢かれるかわからないのでうちに連れてきた。
私の身体はみるみるうちにびしょ濡れ。
戻ってきてすぐに着替える。
こんな嵐の中、外に出ることは避けたいのだが
やっぱり気になったので。
それに、明日の朝の予行演習も兼ねていたんだ。

明日早朝、出勤である。
土曜、日曜、月曜とたいていの所は3連休。
うちの会社も本部は3連休。
しかし、私たちの仕事は休日こそ忙しいところ。
明日の朝、ちょうど台風が通過する(した)頃に出勤になる。
いつもは自転車だが、当然それは無理。
夫が車で送ろうか、と言ったが、私は「不要」と答えた。
どんな風の強さ、雨の多さか想像できないが
ずっとテレビの台風情報を流していて、関東の様子を見ていると
車でさえ危ないような気がした。
そう、私を降ろしてから今度は夫が無事に家に着くかと心配の種が増えるので、
夫には家にいてもらうことにした。
政府の「命を守る行動を」を頭に入れて、徒歩で職場に向かおうと思っている。

さて、そのくらい生命を危険にさらされる台風でありながら、
会社として、早朝に出勤する我々に対する言葉が何もないことに疑問を感じていた。
自分たちは3連休で、実感がないのかもしれない。
が、末端の我々何十人と、3時4時に各所に徒歩で向かうのに何らメッセージがない。
夫の会社は、休みとはいえ、会長自らラインで、「家族、自分の身の安全を」のメッセージを送っている。
私が上司という役職に在るのなら、それらを流すし、何ら前日からの策を考える。
8月の救急車で運ばれた時の前後、エアコンの2か所の修理を再三申告しても、全く意に介さない会社に
疑問符を投げかけていたことを思い出す。
従業員の身の安全、生命の安全についてどう考えているのか、彼らは自ら体験しないとわからない、ということを
前回学んだ。
そして今回も、明日命をはって出勤する従業員の姿を想像できないでいる。
来月の会議の時に、感想として(批判ではなくね)述べてしまいそうな私である。


早朝の仕事の分野の人たちはたくさんいる。
いつも、新聞配達の人や、コンビニなどに配達するトラックなどと出会う。
日曜も祭日もなく、働いている人たちもたくさんいる。
皆さん、安全に無理せず仕事をしてください。
それにしても、夫、3連休で良かったと思っている。
圧力鍋で、ぶり大根を作ってくれた夫。
明日は肉じゃがを作ってくれる。
家の外回りの点検もしてくれたし、飛びそうなものも外してくれた。

宮城県、特別警報。何回も緊急のエリアメールが来ているね。
万が一の停電のために、明日のゴハンは炊いておいた。
懐中電灯も3本用意した。予備の電池も。
あとは夜中の風雨に家が飛ばされないように祈る。
庭の樹が折れたとしても、根っこが残っていれば再生できる。

風、強い!現在、9時半過ぎ。



(2019/10/3)義母のトイレ掃除、食事の問題

2019年10月03日 08時36分33秒 | 日常、仕事、認知症
少し前に、1階の義母のトイレ掃除を終えた。
私の悩みの1つである。
前にも書いたが、義母は正常な時から水を流さない人だった。
それでも2回に1回は流していただろう。水の節約のつもりで来たこれまでだった。
その習慣が認知症になっても変わらない。
2回に1回どころじゃない、流す行為そのものを忘れてしまっている。
彼女がトイレに入った後、すぐに私や夫が行って、「流せ。」と言う時は
何とか流す時はあるが、
一日中居るわけではない私なので、帰宅した時に漂うトイレ臭にウッと来ることがある。
小便であろうと大便であろうと、そのままである。
文句を言えば、「私はうんこなんかしたことがない!」の人である。
こちらが気付いて流しに行っても、しばらく放置した臭いはなかなかのものである。

看護師をしている友人に話せば
「流さないくらい、どうってことない。弄ぶ人もいるから。」とレベルの違いを話し、私を慰めてくれたこともあったが。

先日、m子さんの家に訪問した時に
古い家なので、あちこちリフォームして、トイレも替えたとのことで使用させてもらった。
便座を離れれば、自動的に水が流れるあれだ。
これは義母に持ってこいのものだ。
これに替えるかどうか思案中だ。
カビの生えた壁紙や床、見えない菌。
しかし、替えたところで、綺麗に使ってくれるかどうかわからない。
そのうち、看護師友人の言っていた「弄ぶ」が出てきたら・・・とまた余計な心配が
足踏み状態になる。
トイレそのものをゴミ捨て場にしている義母。
夫に叱られて、ゴミを集めたようだが、不満顔の義母。

今朝は少し曇っている。
行動しなければならない私には好都合の天候。
昨日、一昨日は10月なのに暑くて、無理に動かず、の精神に逆らわず。

そして今日の仕事の休みと天候の程良さが重なり、
さあ、義母のトイレ掃除だ!と
マスク、使い捨て手袋等、熱湯を持っての掃除。
全部、取り切れないなあ、でも今までよりずっとマシだなあと思いながら終えた。


もう1つの悩みが、食事問題である。

彼女には「あなたの仕事は食べること。」と最近強調して言うようになった。
それを言うくらいに、食に対する欲が無くなっている。
最近まで、夫が早朝起きて台所で音を立てれば、自分で起きてきて
食卓に着くくらいであった。
だから、食事の準備(台所から自分用に出来上がった料理を持ってきたり、箸を用意したり)が彼女の仕事であった。
私が仕事から帰宅して、食堂に行くと
朝の残したものがそのままテーブルに載っている。
食べたものは、パンとかフルーツのみ。
米のゴハンを置いたときはほとんど食べない。
残したものは、置きっ放しにしないで、捨ててから洗うということまで彼女の仕事だったがそれをしなくなった。
夏場だから小虫が飛ぶので、残したら捨てるように再三注意してきたが
「私は食べていない!」である。
しかし、今は問題はその片付けではない。
食べないことが心配なのである。
さすがに全く食べない、というわけではない。
しかも早朝からの準備だから、お腹も空いていないかもしれない。
気付いて食べるときには、冷めてしまって、食欲も無くすかもしれない。

今朝も、朝食の準備をして、「朝食食べよ」と何度も言ったが
ブツブツ文句を言って、ベッドから立とうとしないで座ったままだ。
かと言って、布団に横になっているわけでもない。

今、何回目かの催促をしてきて、漸くベッドから立ちあがった。
フルーツでもいいから食べて、と言ったら立ち上がった。
パンも焼きたてにして、マーガリンとジャムのをレーズンパンを2個食べた。
おかずは手を付けない。
付けても、チョイチョイと食べるのみ。
それでも胃の中に、今日の活力になるものが入った。
あとは遅い昼食だ。

末期の老人てこういうものなのだろうか。
食べることに興味が無くなったら、何のために生きているのか、
「食べることが仕事。寝たきり老人になりたくなければ、動け、食べよ」と言ってきた。
「寝たきり老人」に反応する義母だ。
それにも反応(なりたくない、という意志。)しなくなったら、まさに寝たきり老人である。

これから彼女の爪切りだ。