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僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2020/7/3)自分の悩みは小さいこと。

2020年07月03日 12時08分07秒 | 日常、仕事、認知症
自分の悩みは小さいと思う。
相対的に見て
どこにもあることだし、自分が動けば、あるいは
自分の心持ちを変えれば
なんという事のないものばかりである。

会ったことはないが
数少ない友人の1人。
今、彼の孤独をどう励ましていいのかわからない自分。
頑張ってほしい、としか出てこない言葉。
他人の自分が心痛めても、彼の孤独、不安には及ばない。
だけど
応援している。
言葉は残さなくとも、応援している。


つぶやきです。

(2020/7/1)人間関係、うまく行かず。

2020年07月01日 09時13分43秒 | 日常、仕事、認知症
今日から7月。
私にとって、恐怖の月だ。
まだ梅雨期間なので、あまり強い日差しがないだけ、風が涼しいだけ、今のところ
体調の不調を感じることはないけれど、来週あたりから30℃超えの日々がやってくる。
前年の今頃の気温を調べてみたら、7月、36℃位の日があった。
後半は30℃超えが当たり前になっていた。そしてそれが8月へと続く。
あのころは、職場のエアコンが2か所も壊れていて、肉体労働の私には耐えられなかったが耐えるしかなかった。
アルバイトの要望、願いなど軽いものだった。
「存在の耐えられない軽さ」か。
その耐えられない軽さは今でもある。
先日の日曜日、1人の出勤であったが、1人でこなせる仕事量ではなかった。
ある基準があり、その基準が超えそうになると、もう1人アルバイトの人が付くのだが
それも上司は頭に入っていなかったようだ。
週に1,2回のアルバイトのことなど、頭になかったのだ。
当日は更に仕事倍増。
そんなとき、もう1人の同僚(正社員)が別な仕事のために出勤してきた。
彼女は新しいシステムに苦労しているから、私は足を引っ張らないように頑張ろう、とブログに書いたばかりだ。
そして、彼女の休みの時に替わって私が出勤するわけだが、彼女、休みなのにこうして出勤してくる。
私の忙しさを見て、自分の仕事をしながら、私の仕事を手伝ってくれた。
物理的にこなせない量なのだ。
それはそれで感謝しているのだが、別な意味で、何も解決していない、と思ったわけである。
現場のリーダーである彼女は予測できなかったか。
予測できたはず。その時点で上司に連絡して、日曜日はアルバイトの人を1人増やせないか、と進言してほしかったが
それをしなかった。
毎日出勤している彼女なので、客数が増える状況を数字的に把握しているわけである。
自分(彼女)が休日でも別の仕事がてら、私の仕事を手伝えばよい、と思っての出勤かもしれない。
自分さえ犠牲になれば、という考え方はこれまでもよくあった。
私にしてみれば
平和主義、悪く言えば、事なかれ主義である。
上司に、進言して分が悪くなることを恐れるタイプだ。
前年の、エアコンが壊れたことを、早急に工事してほしい、生命に関わる問題だ、と言ってくれるわけじゃない。
私の後ろを、大きな扇風機を持って当ててくれたあの姿を思い出す。
あれは優しさではあるが、そんな単純なものじゃない、根本の解決じゃないと思っていた。

そして、今回も事なかれ主義が出てくる。
翌日月曜日も私の出勤日。
彼女の休みなのに、またも別な仕事で出勤してくる。
直属の上司は月曜、出勤してくる。土日は休み。
私は、彼に言った。
これこれこういうことがあった、と感想を述べた。
与えられたものを、文句も言わずにやれ、という彼女の考え方に反しているので
聞き耳を立てていた彼女は不快に思ったことであろう。
そういえば
2月に新人が入ってきたときに
私はしばらく義母の入院のために休んでいたのだが
彼女は私のことを
「もう1人、アルバイトの人がいるけれど、『面倒くさい人だから』と紹介されたよ。」と
その方から言われた。
なるほど、面倒くさい人か、彼女にとっては。
そうかもしれない。
今回もそう思ったことであろう。

ハケンの品格で
「ハケンの如き」「アルバイトの如き」とあったが
そうそう、よくそういう言葉が出てくる人間関係だ、と思っていた。
以前の職場でもそうだった。
「所詮、講師の如き、なのよね。」と正職員から講師になった人本人が自ら蔑んでそんな言葉を言っていた。
つまりは、自分が正職員だった時に思っていたことが、今その立場になってわかったということか。
「先生、講師の如き、という気持ち、持たない方がいいですよ。」と10歳年上の人を嗜めたことがあった。
年下の私に言われて恥じたのか、数十分後に
「ああ、そうか。そんなことを口にしてはいけないね。」と反省していた。
が、今の職場は狭い所なので、彼女のように陰で愚痴を言いつつも、表面は「ハイ、ハイ」と言っていた方が
世の中渡れるのかもしれない。
この私は世の中渡れない性格なのかもしれない。

知に働けば角がたつ、情に掉させば流される。





(2020/6/24)仕事は厳しい。それも結構。それだけじゃない。

2020年06月24日 11時56分44秒 | 日常、仕事、認知症
6月に入って
仕事がポツポツと入ってきた。
1人でするのはここ数カ月の体制。
しかし、内容が変わった。変わったことによって、正社員の人々が苦労している。
コロナのことがあるので、システムが変わったのは致し方がない。
が、慣れぬ作業に彼らが奮闘している。その姿に対して
容赦なく上司が小言、あるいはパワハラ的な言動を取る。
口を開けば、ダメ出し、まあ、それは自分たちがそれなりの行動を取れなかったから素直に受け入れる苦情だろう。
その後の言葉が感情的だ。
怒り方にも方法があるだろう。
毎回、その状態だから、同僚がさすがに私の出勤日にやってきて、こんなことがあった、こんなことを言われた、と
落ち込んでいる姿、弱弱しい姿を見せた。
誰かに聞いてもらえば、少しは肩の荷が降りる。
その繰り返しになっている。
そのうち、誰か辞めるかもしれないという予期が当たった。
すると、ますます、他の人たちの負担が増えるし、気持ちもダウンしていることだろう。
同僚はどんなことがあっても辞めない人だというのがわかっているが、
かと言って、皆が皆そうとは限らない。
感情に対して、感情をぶつける人もいるかもしれない。
私がもしその同僚の立場だったら、おそらく辞める、と言うかもしれない。
今の所、自分は週に1、2回のアルバイトなので、出勤した折は、彼女の負担を軽くするように
一生懸命やるだけだ。
私自身も足を引っ張ってしまったら、彼女の負担倍増、嫌みも倍増になる。
仕事をする部下、新しい分野に慣れるまで、叱咤だけでなく、激励も欲しいところだ。
厳しく指導する、というのとは違うものになっているので。
厳格さは、大人だからわかるのだ。しかし、厳格と違うものは大人であろうと子供であろうと
受け付けない、傷が残るだけだ。

口を開けば、愚痴、叱咤、ダメ出し、家庭でもそうだ。
今、うちは家庭内別居である。
え?

(2020/5/23)政府からのマスクが届いた、ありがたい。

2020年05月23日 21時14分08秒 | 日常、仕事、認知症
今日、
政府からのマスクが届きました。                                           
ありがとうございます。
この2枚、私がこれから夏に使おうと思っています。
夫には会社から先月末辺りに従業員にたくさん支給され、
また私も会社から週に1枚ずつ支給されています(が、今私は会社を休んでいるのでまだ1枚しか)。
自宅にあったマスクがいよいよあと数枚、というところに
政府からのマスクを大いに期待していたのですが、双方の会社からタイムリーにどんと受け取ったわけです。
ゆえに
この政府からのマスク、すぐに使わずに、暑くなる夏に使ってみることにします。
政府がここまでしなければならなかったのは
やはり当初の買い占めですよね。
最近
ひと箱〇〇〇円、と薬局でもない所の店頭で売っていたけれど
それは今、どうなっているのでしょうか。
未だに、生協やコンビニ、薬局等、過去の「数枚入り」のマスクを見ていない。
去年末は、どこでも買えたのに(義母の病院の薬をもらう薬局にも普通にあったのに、騒動以来ずっと、ない。)、
いつのまにか、貴重なものになっていた。
政府からのマスク、大切に使います。

これから
「野ブタ」のドラマです。


                    
                                                    

(2020/5/18)義母の最期の言葉「バカ息子」とカエルのミイラの話。

2020年05月18日 08時18分17秒 | 日常、仕事、認知症
月曜日。
夫は仕事に出かけ、暑くなる前に私は庭の雑草取り、樹木の剪定など時間を設定して作業。
今週は気温が低い日が続く。
それをラッキーと思って、外の作業に精を出そうと思っている。
来週からまた20℃以上の日が続くし、それが当たり前になっていく。
私にとって恐怖の夏へ向かっていく。
雑草を引っ張り抜いていると
カエルのミイラが出てきた。
あ、これは・・・

3月頃、カエルが冬眠から覚めて、車通りに出た途端、轢かれて死んでいたカエルだ。
それを回収して、夜だったため、明日埋葬してやろう、と花壇の奥の方に置いておいたカエル。
すっかり忘れてそのままだった。
申し訳ない。
雑草を取り除き、穴を掘り埋めてやった。その上に石を置いてちょっとした墓だ。
何か球根を植えようと思ったが、生憎転がっている球根はなかった。先ずは目印として石を置く。
カエルの神様は、私のいい加減な扱いに怒っていたかもしれない。
でも見つけられて、思い出させてくれてありがとうございます。
我が家のカエルたちは、伸びた雑草に苦戦しています、何とか除草、頑張ります。
バラの花を切って、玄関に飾る。


15日、金曜日。
この日は
友人との約束の日。
3つ目の病院に勤めている方

病院にては1回しか会ったことがない。
多忙であるのと、私が行く時刻を約束していないので
入院した日に挨拶だけとなった。
彼女としても、もっと義母が長く入院すると思っていて、色々と話しかけてあげようと思っていた。
そして実際に
夜勤や、彼女が義母の病室担当の時に
よく話し掛けてくれたそうだ。
その中で
有りがたい話があった。

「お嫁さんのこと、トモロッシちゃん、て呼んでいるんでしょ?トモロッシちゃんは優しい?」
うん、て頷いたよ。
「息子さんはどういう人なの?」
「バカ息子。」
2人で笑った、と言う。

この「バカ息子」という義母の言葉、夫と義母のやりとりの中で実際に出てくる言葉。
これを引き出してくれたのが嬉しかった。
ちゃんと、友人の言葉を理解して、義母の頭の中で真っ先に出てきた言葉をしっかり口にしている、ということに
私は喜んだ。
一方的な話にただ相槌を打つのではなく、自分の頭で考えた言葉を発したというのが、まだまだ大丈夫だ、いつもの義母だ、と
思わせる。
夫にその話をすると、やはり笑っていた。

その翌日、義母は血圧が下がり人事不省に陥るのである。
だから、この「バカ息子」が義母のしっかりした頭で答えた最期の言葉であり、
それを、友人から引き出してもらって本当に彼女に感謝だ。
その光景が目に浮かぶのです。
私は決して優しくない。
でも義母はそれこそ「忖度」して、友人の手前、トモロッシちゃんの悪口など言えるはずがない、家庭円満、嫁姑円満を演じなきゃ、と
思ったかもしれない。
それこそ正常な頭の働きだったかもしれない。
認知症だからといって、何もかもチグハグではないのだ。
義母の最期の、演技と本音である。
「バカ息子」の響きに、息子可愛さがあったよ、と友人に言われる。

友人よ、ありがとう。









(2020/5/16)野ブタ、始まるよ。またも牛タン弁当。

2020年05月16日 21時58分09秒 | 日常、仕事、認知症
もう少しで「野ブタ」のドラマが始まるので
少し書いておこう。

今日あたりで
ほぼ、ご焼香や送られてきたお香典の
お返しを終えた、と思う。
父の実家関係等、父から連絡が行ったところへの郵送や直接お届けに奔走。
父には
牛タン弁当を買っていく。
私たちの一番好きな「利久」のね。
今まで食べた牛タンの中で一番おいしい、と言っていた。
これまで父に買っていった牛タンは、スーパーで買っていったものなので。
私達、13日にも利久の牛タン。

その13日に
3つ目の病院の支払いに行ってきた。
自転車で行く。
風が強くて強くて
橋を渡るときに帽子(ヒモ付き)やマスクが外れ飛ばされそうになる。
病院のスタッフへの菓子折りを持って、院長への御礼の手紙を添えて
支払いに。
肩の荷の1つが降ろされた気分だ。
帰りは、来た道を帰らず
その逆から街に出ようと思った。
風、風。
マスクをしていたから、喉の乾燥を防ぐことができた。
これがなかったら、菌が喉に付着しそうだ。
自転車を押しながら歩きで街へ。
その間、通ったことのない道を歩いてみる。
人の気配のない民家、雑草、樹木の生い茂った感、蔦が塀や家の壁まで這っている。
そんな家に興味津々で眺めつつ歩く。
好きだねえ、私。
マンションやおしゃれな店など立ち並ぶ所にポツンとあるその家。
売ればかなり高くなる土地。
それが置き去りにされているなんて、ますますその家の歴史、人物に興味を抱く。
ジロジロ見ている私を、きっと通る車の人たちは不審な目で見ていたことであろう。

ようやく知っている繁華街の通りに出て
でもそこも何年ぶりに歩いたことか。
店の様相も変わったなあ、老舗のデパートも地下だけ営業していて、
まだ人々、店など自粛中である。
そして、牛タン弁当だ。
外で、仕出し弁当を売っている光景はこのごろ多い。
お昼は贅沢したい、という思いがあったので
迷わず、牛タン弁当。
売り子さんの笑顔がいい。
焼きたてを頼んだ。
待ち時間中に、もう少し近辺を探索したいので
10分後に来る、と言って、探索。
私の職場とは違う繁華街なので、また当分ここを歩くことはないだろう、少しでも
久々の雰囲気を味わっておこう、と自転車を引きながら眺め歩く。
牛タン弁当を受け取ったら、
あとはまっしぐら家路へ。

病院を出てから40分くらい歩いて、あとは自転車で帰宅するコース。
風の強ささえなければ
橋、川の風景、未知の街の風景、そして見慣れた牛タン弁当、最高の散歩コースになった。
一仕事を終えた後のお弁当のおいしさを堪能してあとはのんびりと過ごそう。
そんな矢先にまた夫が仕事の途中に家に寄る。
先の、年金事務所への電話を夫がしてくれた。
予約電話がなかなか繋がらない。
漸く繋がって、音声テープに答えたあとに肉声でやりとりする。
あー、この音声、私の苦手なもの。
聞き取れないと、もう一度言ってください、とはできない。
夫がやってくれて正解だった。
次いで、義母の電話の解約についても夫が電話してくれた。
これで2つ解決。
牛タン弁当(夫の分も買ってきた)は夜ごはんとして食べるとのこと。

まもなくドラマが始まるので
ここで中断しよう。

「野ブタ」、そろそろ、私の、彰へのキュンとなった場面あたり放送かも。
リアルタイムで観てみよう。



(2020/5/12)その後のこと。人との繋がり、悪くない。

2020年05月12日 13時59分09秒 | 日常、仕事、認知症
義母の死から10日過ぎた。
今日は週明け2日目の火曜日。
先週の連休明けのweek dayには気になった手続きなどをし始めたが
本格的なものは今週昨日から。
夫と手分けして動いている。
夫も仕事をしながらの行動。
私は、市役所や区役所、銀行、振り込み、送りものなど街中心に。
市役所なんて、記憶にないほどに行ったことがなかった。
でも、皆さん概ね親切に回答してくれた。
だから、今のところ、それらに行くことは苦になっていない。
ただ1つ、年金事務所については、?のマーク。
直接行っても、「予約してください。」の一点張り。
気を取り直して
いったん家に帰り、朝食兼昼食のパン。
午後2時過ぎには
義母のお世話になった個人病院に、亡くなったことを報告しに行こうと思う。
骨折で入院した、とまでは伝えておいたが(最近薬を取りに来ないので、どうしたか、と思っていたようだ。)
あれから転院した、などはまだ伝えていない。

父は先週土曜日に弔問に。
このことも大変気になっていたので、これを終えて
一仕事した、という安心感。
こんなに身内のことで気を遣うのもヘンな話だが、これまでの父と私のことをずっと追っていた方なら
気持ちはわかってくれるかと思う。
父が私達の家に訪問したのは
震災のあの時以来。
あの時は夜の8時9時だったと思うが、外で近所中に響き渡る声で
「自宅の鍵がない!なんで持っていったんだ!」と喚き散らしていた。
震災当日、地元にいなかった父にとって、あの地震がどんなにひどかったかという実感がなく
関東の小田原から帰仙し、しかも友人を連れて、あの家具や食器棚の器など散乱した所に泊めようとしていた。
家の中に入っていなかったからあの惨状をまだ見ていなかったのだ。
私たちは地震のあと、1人残っていた母(当時まだ生きていた)を迎えに行ったのだ。
その時に初めて、父が不在とわかり、母は近所の方に助けられてそこでお世話になっていた。
自分の友人第一、北海道に帰る友人をうちに泊めて世話をしよう、なんて考えていつものように
ホイホイ「大変だから、うちに泊まっていけや。」なんて、言ったんだと思う。
震源地が宮城県沖じゃないですか、津波がすぐそこまで来たじゃないですか、
そんなことも考えずに、全市停電、ガスもストップの所に泊めようとした父。
私もさすがにあきれて、「あそこに泊めるの?何もかも倒れて、寝床確保できないよ。
散乱したガラスなど多少片付けてきたけれど、それでも歩くの、危険だよ。とにかく、一回見て、
酷かったらその友人もうちに連れてきて泊まってください。」と
父が納得するまで、静観することにした。
もちろん、あきれている声で言った。
母は、父がそのように突撃してきたことに立腹して、父の顔を見ることなく布団に入っていた。
父に鍵を渡し、危険だから、これ使って、と懐中電灯を渡した。
そのやりとりを隣の奥さんは聞いていた。喚き散らしていたのを聞きつけて隣の奥さんは出てきて
「皆さん、奥で寝ているはずだから聞こえないかも。」と父に言ってくれたのだ。
こりゃ、路地で有名になっているね。
次の日の朝、実家に行くと、まるで別人のように、小さくなっていた父だった。
惨状を見て、ようやく納得したのであろう。
友人があのあとどうしたのか、私は聞きもしなかった。
友人もとんだところに来た、果たして北海道に帰れるだろうか、と不安だったにちがいない。
父曰く、「掃除、片づけ、手伝いに来たんじゃないの?」と私達に言う。
「いや、うちも片付けなくてはならないし、ガソリンももったいないので(ガソリンも並んだなあ)、しばらく来ないから。」
と私は冷たかった。


隣の奥さんに、強烈な印象を植え付けた父。
義母の火葬に、父を連れていくかどうかを考えたときに、「父に言うタイミングがね・・・」と
私が言うと、隣の奥さんはすぐわかってくれた。

その父、9年ぶりにうちに。
うちでご飯を食べ、母の葬儀の時の話など
終始和やかな空気。
相も変わらず、お金の話。それはそれで今回は役立った。

その日の夜の弔問に
路地の方が1人やってきた。
その方、夫と同世代。
小さい時、よく遊んだ仲だったらしい。
まさに地元人間組。
私の小さい時の話は、札幌時代とか函館時代とか苫小牧時代とか
幾つかに分かれるし、既に過去の「思い出」の範疇なのだが
彼らはこの路地を遊び場として
あれをやった、これをやったとか、路地はまだ舗装されていず、でこぼこだったとか
傍で聞いていて私の胸をときめかすものだった。
それが今では、二人ともジジイとなり、路地で会えば、ただ会釈するだけの仲になっていた。
子供時代の無邪気さって、いつ変貌するのだろう。

なんと、ジュリーのファンだった。
私はサリー、なんて話が盛り上がる。
ただのファンじゃないということがわかった。
これは、私の友人のジュリーファンに対抗できそうな。
「タイガースが好きだなんて、全盛の時に、女子だけキャーキャー言ってて、男子はそれを白い目で見ていたけれど。」
「男子でも、隠れタイガースファンがいたんですよ。」
夫、「オレは、テンプターズだった。」
そして
音楽の話になり、夫のコレクションを見てもらった。
だから、気軽に遊びに来てくださいよ、と言って
お別れした。
この日も
父の訪問、路地の方の訪問、心をホッとさせるものだった。
2日後、路地の方がこれまで執筆、雑誌等に掲載されたものをコピーして持ってきてくれた(私がそれを切望していたので)。
ワクワク。

夫、人との繋がりって、会話って
悪くないでしょ、いつも、オレはオレ、の人だから。
音楽さえあれば、何もいらない人だから。

さて、これから
近くの病院に挨拶報告に行ってくる。









(2020/5/6)義母の死、そのメモ。

2020年05月06日 19時32分54秒 | 日常、仕事、認知症
明日から夫、仕事開始である。
4月29日からずっと休みで、その間に起きたことをこの正規の休みの間に
解決できて
休み明けの明日、普通に職場に戻る。

29日。
私の実家に。義母と夫の手術の見舞金のお返しを持って
正月以来の訪問。夫は正月は寝込んでいたので数カ月ぶりの訪問である。
父に頼まれて、庭木の剪定などをしていた夫。

30日。
夫、眼の手術。2回目。私はその付き添い。
眼科に出かける前に、義母の病院から電話がある。芳しくないとのこと。


5月1日。
眼科にて、手術後の眼帯を取り、保護眼鏡を掛けて帰宅。その後、義母の病院へ。
酸素マスクをしていた義母。前日の熱は下がっていたが、もう、意識は混濁していた。
ちょうど、私の母が自力呼吸できなくなって酸素マスクを装着した姿を思い出す。

2日。土曜日。
午前中に、義母の病院へ。眼はうっすらと開けていたが、問いかけには反応なし。
これが、生きている義母との最期の対面となった。
まだ、大丈夫かもしれない、否、時間の問題だ、と、心の中。
その日、仙台は暑い暑い、31℃の真夏日。
帰宅して、隣の家に訪問し、これまでの経過を話し、いよいよかもしれないと告げる。

午後、3時近く、横になっていた夫の携帯に電話。
2時33分に亡くなった、と知らせ。
葬儀社を決めて、私たちは4時頃病院に到着。
医師と看護師の説明。
葬儀社の車が到着し、院長、看護師の皆さんに見送られる。
この光景は、感激、感謝だった。
私の母の時とは全く違っていた。
自宅にて、葬儀社の方との打ち合わせ。
夜、納棺師の方々がいらして、綺麗に整い棺に納められ、美しい義母が甦った。
隣の奥さんが、私たちが食事の準備などできないであろう、とおにぎりなど食事を持ってきてくれた。
ありがたい。

3日。
義母の居間の清掃、簡易な焼香台を準備したりと
2人だけで汗だくになって仕上げていく。
前日選んでおいた写真が葬儀用に拡大されて届く。
うちの庭に咲いた白い牡丹を切り、飾る。義母が好きだった花がちょうど咲いてくれ
牡丹にも感謝だ。
隣の奥さん夫婦が喪服で、お花を持って焼香に来訪。
近所の方々にどのように知らせればいいか、と問われ、
こういう時期なので、本当に簡素にしたい、告別式などを省略したい、集まることを避けたい、
出棺の時に合掌していただけたら、と伝える。
その時点で私はまだ自分の父に伝えていない、タイミングがある、と言った。
そう、父に知らせると
父は自分の実家の親戚にバーッと連絡し、自分が取り仕切ってあれこれと指示する人である。
実際に、夫の父親が亡くなったときがそうだった。
ほとんど無縁な方も呼び出される始末だ。
だから、そうならないように、以前から、義母の葬儀は簡略化、全部私達2人でやる、と宣言しておいた。
特にこの時期、皆、緊急事態宣言が出ていて、外出自粛している時にそれをやられたら
別な問題が発生してしまうので、父に知らせるのはタイミングを見計らってのこと。
夜、向かいの奥さんに、伝えに行った。
棺の中の義母を見ていただいた。
やはり、急の出棺合掌では失礼な気がしたので。
隣や向かいの奥さんには、それこそ、私がここに嫁ぐ前からお世話になっていたから。

4日。
火葬の日。
朝、9時半出発予定。
喪服に着替え、予定よりも早めに出棺。
路地のご近所の方々が一斉に並ぶ。
義母が入院していたことは公には知らない。しかし、皆、それとなく知っている。
夫、私が挨拶をして車に乗る。
路地を出る前に、誰か喪服を着て慌てて自転車に乗ってくる人がいた。
会話をしたことのない方だ。しかし、生前、義母と挨拶を交わしていた人。
知らせを受けて飛んできたのだ。
こういうこともありがたい。

10時半火葬。
親族待機部屋に、私達夫婦2人。
まさに考えていた通りのことを実行できた。
3年前の、私の母の時とは全く違う。
大勢の親類(特に父の実家関係。母の実家、北海道の親類は3人のみ)が待機時間に、食べる、飲む、しゃべる。
その空気とは違う、静けさ。
耳の聞こえない私をフォローしてくれる夫。
火葬場という厳粛な空気の中、従業員の声は低く、ましてや皆、マスクをしているので、私の耳は役立たない。最悪。
大きな窓の外の眺めは、新緑の山の風景。
濃い緑ではなく、若芽の淡い緑が埋め尽くす山。
「私はこういう眺めのところで生活したいのよね。」
人生の中で、叶えたい夢の1つだったが、ダメそうだ。
いや、まだわからない。

骨を拾う。
2月に大腿骨骨折の手術の痕の金属棒がしっかりあった。
お義母さん、頑張った証だ。

お骨を抱え、帰宅する。
お昼ごろだった。

父にはメールを。
火葬まで。
「了解」と返信あり。

5日。
昨日。この怒涛の日々の中で、私の心が落ち着いた日が昨日だった。
朝、夫に
義母の兄弟、親戚にどう連絡するのか、特に親しくしていた東京の、夫の従姉に連絡しなくてはいいのか、と尋ねる。
前日から渋っていた。
私が連絡するのはやぶさかではないが、やはり、けじめとして、夫がすべきだと言った。
じゃ、私がまず電話するから、その後はあなたが話すのよ、と言って
私の携帯から、東京に電話をした。
この方、義母の親類として、唯一、年賀状を交わしたり、中元歳暮のやりとりをしていた。
電話をして、夫と話が弾み、40分ほど話していた。
結局、義母の姉妹の1人については、こちら同様、全く連絡を取っていない、どこにいるのかもわからないとのことだった。
義母の姉妹のうち、よく生前、美人三姉妹と言われた2人の妹と3人でよくつるんでいた。
私もよく知っていた。
1人は数年前に亡くなり、焼香にも行った。
1人は末妹で、もう10年単位で音信普通。あんなに仲の良かったのに、何かがこじれて、それ以来、音信は途絶えた。
せめて、その方に連絡を取れたら、と思ったのだが、娘さんの夫の転勤先に行ったのかもしれない、という同じ情報しか得られなかった。
夫が話し終わったあとに
私に替わってお話。
夫の従姉とは言っても、かなり年上である。
しかし、年を取っても、バレーボールのチームで活躍している、仕事は息子夫婦に任せて(会社経営)、自分は事務を担当している、
などなど、精力的に生活していることを聞いて、俄然元気が出てきた私である。
この方、夫を早くに亡くし、長男を不慮の事故で亡くしている。
その時の胸の内を思うと、言葉がない。
それらを乗り越えて、強く生きている、と思うと、私はまだまだ人生の序の口に居るというのを痛感する。
次男は学生時代、友人と共に、試合を仙台でやるのでうちに泊めたことがある。
更にその下の弟も、あんなにちっこかったのが今じゃ、幾つだ、オヤジになっているそうだ。
私達も、若いときに東京に遊びに行ったときに泊まってお世話になった。
2回ほど、行ったことがある。

そんな会話を終えて
夫と思い出話になった。
義母の兄弟の末弟のことになった。
私は会ったことがない。
優秀な学校を出て、そのあと放浪の旅?
何年も前に、東京で亡くなって、身寄りがなく、お骨になって、役所(?)の方が新幹線で仙台の親類に運ばれたとのこと。
それを義母から聞いていた。

そして
夫から初めて聞く話をされる。
「モテたんだよなあ。子供が居たんだ(夫の従弟にあたる)。小さい時にうちに来たことがある(夫も小さかったころ)。
りー坊、りー坊って言っていた。」
「あ、お墓参りにも来ていたらしいぞ。いつだったか、(義母の実家のお墓)参りしたときに、おふくろ、リー坊が墓参りに来た跡がある、と
言っていた。」
お花に名前でも記入されていたのかもしれない。
自分の父親がこの墓に入っているかもしれない、と思って訪れたのかもしれない、と。
私はその話を聞いて
「夫、お墓参りに行こう!」と急に思って言った。
今では置き去りにされている義母の実家のお墓。
ここは、夫の父親の墓のすぐ傍の区画にあるので、義父の墓参りの時に、必ず義母の為に、立ち寄って掃除をして焼香する所である。
私が嫁いできたころは、お盆やお彼岸の時は、誰か彼か、墓参りした痕跡を残してきたが、今では誰も立ち寄らない。
私たちが通えるまで通うことに決めていた。
そして最近、私達自身が墓参りをしていなかった。

ほうきやお供え物などを持って
途中お花を買って、久しぶりにお墓に行った。
いや、前日に火葬しているから、同じ場所だった。
綺麗に掃除をして、ペットボトルの水を掛けて、気持ちをすっきりさせた。
そして義父の墓にも同じように。
ここにいずれ、義母のお骨も入る。

納骨までまだ時間があるので、こうしてお墓に来たことが気分を替えてくれた。
お墓は拠り所、と私の持論じゃない。
が、やはり気持ちがすっきりした。

帰り、老舗のケーキ屋のケーキを隣の家の分も買ってくる。
近所の方々が、チラホラと焼香に来訪。

夜、静けさ。
夫は久しぶりにオーディオルームに閉じこもって音楽を聴いていた。
私は
ここ数カ月、毎日、「明日の予定はこれとこれ。忘れないように。」と自分に言い聞かせ、自転車やタクシーで
あちこちに出かけていた。何かに追われるようにして。
夜中に目が覚めれば、メモをして、あと数時間まだ寝られる、いや、また眠ったら、定刻に起きられないかもしれないからずっと起きていよう、
などと毎日心の中で、自分の失態と戦っていた。
そして昨日の夜、
本当に静かだと思った、自分の心が。
明日のことを考えなくてよい、それだけで安楽だと思った。
その静けさの中でブログを書こうか、と思ったが、それも止めた。

今日はこうして
明日から始まる夫の仕事
役所関係3件の私の役割を、明日の目標に入れている。
自分の仕事のことも明日明後日に、連絡しなければ。

長文失礼しました。
これは自分用のメモでもあります。
流れを把握しておかないと。








(2020/4/30)夫の眼の手術、義母のこと。

2020年04月30日 18時35分31秒 | 日常、仕事、認知症
今日は午後から夫の2回目の眼の手術の日。
昼食は摂らず、なるべく早くに帰宅しようと思っていた。
1階の食堂で1人で作業していると
夫が降りてきて
「今、おふくろの病院から電話があった。発熱して肺炎を起こしそうだ、と。」とのこと。
覚悟をしておくようなことを言われたらしい。
義母は、骨折して救急車で運ばれた1回目の病院の初日から熱を出して手術が延期になった、と以前書いた。
その熱を乗り越えて無事手術を終えたのだが。
そのあとは2回目の病院でも特に、熱が上がったとかの連絡は無かった。
3回目の病院に移動して5日目の今日。
何とも言えない。
一過性のものであればいいのだが。
まず夫の手術。
その付き添い。
それが終わったら、帰宅して遅い昼食を摂って
義母の病院に行こうか、と話していた。
しかし、夫の手術の待ち時間の長いこと、長いこと。
2時間は待たされた。
予約制のはずなのに、2時間もずれるとは。
手術が終わって、しばらく病院で休んで、薬をもらい病院を出たころは
すっかり疲れていた。
食事も、ほぼ夕食と変わりなかった。
明日は午前中にまた夫の眼科の付き添いで、それが終わったら、義母の病院へ。
スムーズに時間が流れればいいが。

明後日、明々後日は連続して仕事が入っているが
即、上司に電話した。
ラインがもどかしいので、電話にした。
1人体制だから、早めにシフトを替えてもらわなければならなかった。
了解を得て、別な日に替えてもらう。

昨日は父のところに。
それは後日に書こう。

今年の私の行き場所は、病院が圧倒的に多い。

寒い。昨日とは5度も違うようだ。
もう、寝たい。
あんまり早くに寝てしまうと、夜中になる前に起きてしまいそうだ。
心、はやく平常心に戻りたい。
毎日毎日、何かと戦っている気持ちだ。
淡々と、予測できる事柄に向かいたい。



(2020/4/28)川の色はエメラルドグリーン。気付かなかった。

2020年04月28日 16時20分11秒 | 日常、仕事、認知症
朝起きると(私の場合は2時3時)
先ずネットを開いてあれこれの閲覧。
次に
今日しなければならないことの箇条書きメモ。
ゴミを出す日なのでそれも記入する。
そして1つ1つ終わったら棒線を引いていく。
そのうちの1つ、
区役所の介護保険課に行っての相談。
行って番号札を持ったのはいいが
かなり時間がかかることが予測された。
10人くらい座っていたか。
これは時間がかかるな、今日でなくてもいいな、と
途中退散した。

今日のメインは
義母の病院に行くことだった。
昨日買った寝間着を届けに行く。
これも今日でなくてもいいのかもしれないが
自転車でどのくらい掛かるか、あの坂道を自転車で通行するのは
大丈夫だろうかと気になっていたので
予行演習みたいなものだ。
行きはスムーズだった。
下りの坂だったから。
しかし
帰りは上り。
緩やかに上昇する坂道をとても自転車で運転できない、と判断した。
どうしても
昨年の夏の自転車で走行していて、熱中症で倒れたことが頭にあるので
あれ以来、無理な走行はしない、と決めていたので
帰りの坂道は歩きにした。
これ、今の季節だから何とか歩けたが
川の上を歩くときの夏の日差しを考えるとゾーッとする。
日陰になる建物もなかった。
夏なら、病院通いはできるだけ、雨の日とか気温の低い日とかを選ばなくちゃ。

歩いていると
川の土手下に学生のアパートが幾つかあった。
その土手に桜の木が他の木の中にあり、ほぼ散ったあとの新緑になろうとしているのだが
一枝、桜の花がまだ付いていた。
他の木や自分の他の枝々の陰に隠れて日があまり当たらなかったのだろうか
そこだけ、今、桜が咲いていた。
そういうのをチラホラ発見しながら街の中に出た。

自分がもっと若かったら、その土手を下って
川のほとりの小さな広場で少しくつろぐのだが。
川の色はエメラルドグリーン。
え?
この川の色って、そうだったっけ?
もっと、浅瀬で、ゴツゴツ大きな岩とかあって、あまりハッとする色じゃなかったような。
無色の、いかにも都会の真ん中に流れる色だったと思うが
今、あまり穢されていない状況なのかもしれない。
またじっくり観なくては、と思った。

18歳の夏。
友人とよくこの川(もっと下流)に遊びに来た。
それをまた思い出した。
坂道なんて苦にならず、ズンズン2人で下って行った。
いっつも笑い合っていた。
何のために、川に遊びに行ったのだろう。
遊びに行っても、よくしゃべっていた。
その時間が楽しかったんだろうなあ。
笑う、ということが少なくなったね、今は。
私の18歳の夏はいつも抱きしめていたい。

面会時間には早すぎる時間であったが
とにかく届けるだけでも、と
看護師にお願いしたら
少しだけ顔を見ていいと言われて
眠っていた義母に話しかけた。
「あら、お義母さん、髪切ったんだね。男の子みたいだよ。」
うつらうつらしていたので
「またあとでゆっくり来るからね。」とほんの2分ほどで立ち去る。
そして
その後、川の色に驚く私だった。

帰宅して
実家の父に連絡する。
明日実家に行ってくる。
この連絡(メール)だけでも結構私にはハードルが高い。
父との軋轢はずっとずっとあるのかもしれない。
そして、明日というハードルを越えなくちゃ。
高いなあ。



(2020/4/27)牛タン弁当ランチ

2020年04月27日 16時13分47秒 | 日常、仕事、認知症
今日は仕事日なので
早朝4時過ぎに家を出た。
外は薄明るく、冬の面影は消えていた。
しかし、私の服装はまだまだ冬のスタイルに近い。
春から初夏になろうとしているけれど、東北の早朝はまだ寒い。
風邪を引かないように、厚手の防寒着。でも、その下は半袖なんですよ、矛盾している。
普段なら、月曜日の朝、自転車で通勤しているとき
早朝に着いた高速バスなどの客や繁華街を歩く若者たちとすれ違うけれど
今日は全くその気配がなかった。
車も1台2台くらいしかすれ違わない。
皆結局、優秀な気がする。
日本人の良さだと思う。
じっと耐える。
耐えたあと、また復活する。
それを信じて、今は我慢だ。

仕事は1人。
1人で黙々と、同時にせわしく動く。
10秒の休憩もなしに。
早朝出勤なので朝食はいつも取らない。
おかげで今日はお腹が空いた。
午後、会社を出て、
義母の寝間着を買うために少し中心街を歩いた。
色々な店が閉まっている。
いつのまにか、がらんと、全て撤去したところもあった。
あそこの美味しいトーストをもう食べられなくなったのだ。
喫茶店も、パチンコ屋も、土産物屋もほぼ閉まっている。
開いているのは薬屋、下駄屋、カバン店など専門店くらいだ。
あちこちに
飲食店の仕出し弁当の販売所があった。
お腹が空いているもので、それらをじっくり眺めて選びたかったが
牛タン弁当が売り出されていたので、そちらに食指が動く。
お昼のランチにはちょっと高めだが、
贅沢してもいいだろう、2つ買った。
2つ食べる、ということじゃないよ。
1つは夫の夜用に。
お昼に牛タン弁当を買って食べた、と言えば、きっと
「俺の分は?」と言う人だから。

途中の公園で食べてしまおう、なんて思うくらいに
お腹が「牛タン、牛タン。」と言っている。
ベンチに座ったのはいいが、風が強い。
強くて寒くて、やっぱり家に帰って食べよう、と帰宅。
食べたあと、ゴロンとしていると
夫が仕事の途中にうちに寄った。
そんな気がした。
結局、夜に食べずに、お昼ランチとして平らげていた。
また、買ってこよう。

もう夕飯の準備に取り掛からねば。

今週は
実家に荷物を置きに行く。
そして
夫の眼の手術2回目、仕事、の後半である。

(2020/4/26)義母、3つ目の病院へ。

2020年04月26日 16時45分46秒 | 日常、仕事、認知症
さて、野ブタのドラマを観て、清浄されたあとに
現実的なことを。
義母のその後のことを。

義母は
先週金曜日24日、3回目の病院に移った。
2回目のところは記述していなかったのだが
4月6日に、最初の病院から、縁もゆかりもない隣の市の病院に転院した。
ここも面会禁止なので
義母をストレッチャーに載せた介護タクシーで移動したときに
1カ月ぶりに彼女の顔を見たんだ。
久しぶりに見た彼女の頬はこけたというより、大きくくぼんで、えくぼのように引っ込んでいた。
私の話しかけにほとんど無反応だった。
ここで3カ月お世話になる、という前提だった。
ここは繋ぎの病院で、3回目にお世話になる病院の空きが約3カ月待ちということだった。
隣の市なので、タクシー代も大いにかかる。
電車を使えば安上がりなのだが、今はこういう時期なので、駅に行ったり、改札口を通ったり、電車に乗り込んだり、
なるべく避けたかった。
私が仕事の時は、夫が休みの時に下着などを届けてくれていた。
そして
急に4月半ば、3回目の病院に空きができた、と病院の相談員から連絡を受けた。
つい先日、24日に最後の病院に移ったわけである。
この日は本当に忙しかった、そして精神的に疲れた日でもあった。

1人で隣の市にタクシーで行き、支払いなどを済ませ、
またストレッチャー介護タクシーで、仙台に向かった。
義母は何が何だかわからないであろう。
その心境はこれまでの彼女を見てきてよくわかった。
タクシーの中で
たくさん話しかけた。
今は桜が散った4月。
でもホラ、まだ残っているところもあるよ、と途中の大きな公園の桜の説明をする。
義母は私の話に、頷いているので、返事はないけれど
頭の中で理解して、首肯したり、否と横に振ったりしていた。
やっぱり、話しかけは大事だな、と思った。

そして3つ目の病院。
夫が仕事の途中で来てくれた。
事務長の話。
お金中心。
なんと、私、保証金を持ってくるのを忘れていた。
先の病院の支払いと介護タクシーの支払いをしたら足りなくなっていた。
保証金のことをすっかり失念。
他にも、タオルケット、バスタオル等、何もかも忘れてしまっていた。
病室に運ばれた義母に
「何が何やらわからないでしょ、今日は。でも頭の刺激になってよかったね。」と
話しかけたら、ニコリとして頷いた。
今までの転院の中での一番の笑顔だった。
これなら、もう少し大丈夫、という気持ちになったが
何しろ
ここは終末医療、積極的な治療をしない、ということだった。
今までのシステム化された大きな病院と違って
のんびりとした、あるいは諦めに似た空気の病院に感じた。
看護師たちに言われることは
「お帰りの服装はこれでいいのですか、ユカタとかパジャマとかじゃないんですか。」
「お帰りって・・・」そう、死んで家に戻るという大前提の話にすぐ結びつく。
私は
「いいんです、今はまだ寒いから、温かなものを。夏になれば涼しくなるようなものを持ってきます。」
いつ死んでもおかしくない、という空気は作りたくなかった。
この辺が私の、文系の頭。
現実的にはそうじゃない、と夫にも言われた。
いやいや、もしかしたら奇跡っていうのがあるかもしれないでしょ。

しかし、
私はこの自分の思う「奇跡」に何度裏切られてきたことか。
私の故母にしても、
私のシンノスケやナナにしても。
奇跡って、私に無縁なのに
いつもそっちの気持ちになっていく。

義母が食べてくれさえすれば
家に帰れるかもしれない、生きて。
だって、骨折の前は
何でも食べていたのよ、天ぷらも揚げ物も親子して好きだから。
正月には餅も食べた。
「お義母さん、餅、何個食べる?」
本当は3個は食べたいのに
「2個くらいかなあ」なんてやせ我慢していたんですよ。
頭がしっかりしていれば、無味の病院食でも食べたであろうに。


ここには友人が勤めている。
その日は入院担当ではない、とラインを送ってきたが
合間に、挨拶に来てくれた。

家に戻ってから
お金を下して、タオルケットなどを用意して
タクシーを呼んでまた病院に。
タクシー会社は、その日朝の隣の市に行くときに利用し、また2度目の予約をし
荷物とお金を届けて、その間待っていてもらった。
タクシー会社ではすっかり、有名になっていた。
これまでも猫たちの病院、実家への利用。
特に、この2、3カ月、あちこちの病院利用。
運転手さんたちとよく話した。
「またよろしく。」と家の前で降りて
いざ、鍵を開けようとすると・・・
鍵がない。
あ、さっき、タクシーの中で落としたのかもしれない、
庭に回ってどこか開かないか、と試したがダメで。
タクシー会社に電話。
すぐに当のタクシーに連絡をしてくれ、座席に挟まってあった、とのこと。
もう、今日は、朝からドタバタしていて
色々なものを忘れるし、とどめは鍵か・・・
散々な自分。
しかも、自分が原因。
このごろ、多い、多すぎる。



(2020/4/18)同僚との別れ、仕事の変化。

2020年04月18日 04時19分20秒 | 日常、仕事、認知症




3月も、1日として心休まる日がなかったように思える。
それゆえに
気持ちの余裕を持って、ブログに対面することができなかった。
1つ1つ
少しずつ書いていこう。

まず、今の状況について。
新型コロナ流行のため、私の職場の体制も変わってしまった。
4月の仕事が3分の1になってしまった。
正社員は仕事日数は変わらないが、アルバイトの私は半分以下になった。
おかげで、家で過ごすことが多くなり、どの時間帯でもブログを書けるわけだ。
仕事が半減、の前に
3月にその前兆。
2人体制とか3人体制が普通だったのが、原則2人体制が固定化した。
ゆえに、もう一人のアルバイト(派遣)とは全く顔を合わせなくなった。
この方、一昨年の今年出会った印象的な人のところでブログで紹介した人だ。
私と誕生日が1日違い(4月10日生まれ)、
彼女の実家が、私の父の故郷(県北)の近くで、父の姉家族が住んでいる所だった。
そして話しているうちに、なんとその姉家族の地主であった。
嘘のようなピンポイントの繋がりで大いに話が盛り上がった。
そんなこともあって、非常に親近感を持った人だった。
明るくて、突っ込みどころが多くて、しかし、仕事がテキパキとしていて、私も彼女と仕事をするときは
安心感があり、よく冗談を飛ばしていた、
昨年夏に辞めた同僚の所に
牛タン弁当を持って一緒に遊びに行った仲間。
2人体制になったことで、私の休みの時は彼女が出勤、彼女の休みの時は私が出勤ということになって
彼女と仕事をする機会が無くなってしまった。
そして、3月末日で、派遣の契約が切れるということになった。
つまり、顔を合わせることなく、お別れになるということだ。
当日は病院の用事を済ませて
彼女の退勤時刻前に急いで職場に行った。
会えば、相変わらずワーワー言い合っていつもの調子だった。
また会える、今は世界的に非常時だけれど、いつかまた会える、と言い合った。

4月からのシフトが更に変わった。
2人体制固定化からとうとう1人体制になった。
客が減少したため、
2人で分担していた内容が全部1人でこなさなければならなくなった。
客数が少ないと一見、楽になった、と思いがちだが
やってみて、とんでもない、大変だとわかった。
クタクタになって腰痛を抱えながら帰宅する。
しかし、それは正社員が休みの時のヘルプなので、次の仕事日までブランクがあるので
仕事日は精いっぱい働こうと思っている。
そのうち、私もリストラ対象になるのかもしれない。

まずは仕事面の変化、同僚との別れのことを。
次に義母のことを。