リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

★お知らせ★




思うところがあってFC2ブログに引っ越しました。 引越し先はこちらで新規の投稿はすべて引越し先のブログのみとなります。

医療業界は他業種から学ぶべし。

2006年08月31日 | Weblog
 ビジネス雑誌という雑誌のジャンルがあって最近相当はまっている。THE21、プレジデント、ハーバードビジネスレビュー、日経ビジネスなどいろいろあるが、そのなかでもお気に入りは、「日経ビジネスAssocieだ」。
 
 アソシエは若手向けのビジネス雑誌でスマートで実用的で、ちょっとおしゃれな感じがいけている。惰性で買い続けている最強の現実逃避アイテム、エコ、アウトドア系ファッション雑誌の「Be-pal」、それからいつかは投稿したい似非文化人御用達の評論雑誌「文芸春秋」などとともに最近よく購読するようになった。

 これらのビジネス雑誌は企業家などの連載や、経営者のインタビューが中心。やはり社長や経営者など企業を引っ張るビジネスリーダーとものなるとただ者ではない。迫力のある言葉や実践があふれている。同世代の人も相当活躍していたりしてすごいなーと思う。

 それからいろんな実用的なテクニック特集がたいてい毎号ある。。「カイゼン」や「見える化」「ヨコテン」などのトヨタ式。それからITの活用。「時間管理術」「手帳術」「コミュニケーション術」「整理術」「健康管理術」「問題解技法」、「書類作成術」「人脈術」「コーチング」「アサーティブ」などから「キャリア戦略」「転職法」まで・・・・

 ビジネス法則や、方法論は相当わかってきたが、知っているのと実際にやるのは別もの。みんな迷いや不安がありながら、夢を追いかけ、成長できる場をもとめて・・・苦労しているんだなぁと感じられる。

 なかなかカッコいいリーダーたちのように目標を決めて、計画を立て、On/Offもはっきりさせ、夢に向かって突っ走るなんてことは難しい。自分のミッションを理解し、頑張れるフィールド、スペシャリティをもつことが重要なのだろう。

 さてビジネス雑誌を読んでいると他業種とくらべて、マネジメント、サービス等において医療業界は、なんと遅れているのかと感じられる。
 もちろん一般企業とは違うし、医療や病院は、みんなで大切に育て使うべき地域社会の限りある資源であり、究極のところ医療はサービス業だとは思わない。(では医療とは何か?という問いには「愛」というのが今のところの答えだ。)

 人間ドック部門や、差額ベッド中心の一部のゴージャス系病院など一部の富裕層を相手にした医療や病院はたしかにキレイでサービスも良いのだろうが、地域全体を相手にしている逃げ場のない地方の病院ではそうもいってられない。そもそも病院にかかるのは貧困や社会的問題をかかえた人が多く、医療費を払えない人も多いが追い出すわけにもいかない。(結局病院が損をかぶることもしばしば。)どんなに大変な人、困った人でも最後まで付き合わなくてはいけない。しかし、社会から委託された生存権を保障する社会の最後の安全装置だという自負はある。なんとかニーズ(わがままではなく)にこたえようと頑張っている。それが社会から理解されないひどい仕打ちに現場は泣いているのだが・・・。いつも社会と医療従事者のギャップを感じながら、ギリギリのところでやっている。

 しかし、である。業務効率化、マネジメント、サービス、質管理等においては、あまりに医療現場はひどすぎると思う。医療マネジメント学会などもあるが、医療業界のなかだけでああだこうだ言ってないで、他業種からもっともっともっともっと学ぶべきではないだろうか。

 やっと、サービスに関してはCS(顧客満足)、ES(雇用者満足)なども病院内でも言われ始めたが、ディズニーリゾートなどのテーマパーク、リッツカールトンなどのホテル、一流の旅館や料亭、レストラン、あるいはコンビニやファーストフードのチェーン店などからも学べるだろう。
 
 マネジメントにしてもカルロスゴーンの日産や松下幸之助の松下、Canonなどの企業。最近ならリゾナーレやアルファトマムなども再生したリゾート再生請負人の星野佳路(星野リゾート社長)」なんかから学ぶことは相当多いと思う。

 業務カイゼンや安全管理などでは医療評価機構の審査を受けるために形だけはそろえたが、上も下も意義を理解せず形をそろえるので満足したため、業務はよけいに煩雑になっただけだった。QCサークルや看護研究などもおこなわれているが、洗練度や盛り上がりにはやや欠ける。

 トヨタ式、TQM(Total Quality Mangement)や標準化としてのISO、WEBベースの情報システム、POSなどの流通のシステム。交通システムや原子力などのインフラの安全管理など、さまざまな手法や方法論を他の業界から取り入れるべきではないのか。
 
 そんな病院再生請負をビジネス(地方では、ほとんど地域再生とイコールだろう。)としてできないかなぁと思う。
(と思ったら、麻生グループは麻生飯塚病院での病院改革のノウハウ、いろんな業種の経営経験を活かしてコンサルタント事業などもやっている。さすがです。)

まず病院が社会的企業でなくては!

2006年08月30日 | Weblog
患者さんやボランティアさんとこの町の未来について語り合う。
ただでさえ不況のこのご時勢、障害者雇用は本当に大きな問題だ。
また公共交通機関や中心商店街の衰退した町では、運転できないと移動手段の確保も大変である。
  
 公共交通機関は人権である。どんな人でも働く喜びがもてる(労働権)いろいろな種類の働く場所がたくさんなくてはダメだ。

 まず、この病院自体がソーシャルエンタープライズ(社会的企業)となっていかなくてはいけないのだと思うのだが・・・。しかし障害者雇用もポツポツという感じだ。(自分なんかも雇ってもらっているから感謝だが。)病院の中の売店やいろんな部所で福祉就労しながら賃金雇用または独立をめざすなどの仕組みを作りたいもの。そもそも農業協同組合立の病院なんだし。
また、福祉やケアの分野ならアイディアや組み合わせでいろんなことができそうだ。

 目指せ年商一億の作業所。小規模超多機能の生活コンビニ?目指すは浦河「べてるの家」的世界か。信州佐久には「ねば塾」なんて先達もある。

 この病院でだめなら、独立または移籍して病院からこぼれおちたニーズをすべて引き受けるような組織(ネットワーク?)をつくって育てたい。もちろん社会的企業として・・・。一緒にやってくれる人、応援してくれる人、ひそかにいつでも募集しています。この地域は大好きだし。

 ちなみに『社会的企業とは失業中の若者や障害者の雇用といった社会的な目的を優先させつつ、事業としての成功をめざす新しいタイプの事業体。伝統的な非営利組織や協同組合とは区別され、コミュニティに根ざし、起業家精神の強いコミュニティ事業や、メンバーへの利益配分を行わない、あるいは制限つきで行う社会的協同組合やワーカーズ・コープなどの組織形態を含む事業体である。これがEU 諸国で深刻化する不平等としての「社会的排除(social exclusion)」の問題や「社会的関係資本(social capital)」などに関して注目を集めている。』

 しかし自分としては、つべこべいわずまずは森田療法っぽく目の前のことを一つ一つかたづけていこうと思う。

ADHD in Adult(NEJMより)

2006年08月29日 | Weblog
 NEJM(米国の臨床医学雑誌、2006年7月22日号)に成人のADHDについての記事があった。

 記事はハーバード大学を出たDr.Yの経験を中心にまとめられていた。彼女は子供のころから落ち着きが無く、忘れっぽく、ボーっとしたところがあり、いつもオールAで成績が良いのにケアレスミスが多くちょっと変わっているといわれていた。高校でも良い成績をとり大学に進学。(ADHDはLD(学習障害)を伴うことが多いが彼女のような例もあるという。)大学に入ってからはカウンセラーの助けもかりながら学業にとりんだが非常に苦労し、同じ課題をするのにも、同級生よりも長く時間がかかった。衝動的で注意がそれやすく、そそっかしい性質に対処するために、予定表にすべて書き出し、プロジェクトを小さなタスクに分割するといったあらゆる行動療法をおこなって、なんとかこなしていた。
 
 そのうちに彼女は自分はADHDではないかと確信するようになり、精神科を受診し診断をうけた。結局、メチルフェニデードを内服しはじめるとすぐに効果が現れた。まず運転が上手くなったと感じるようになり、集中できるようになり、まとまらなかったものがより容易にできるようになるのを感じたという。

 メチルフェニデート(リタリン、長時間作用型の覚醒剤の一種)はADHDやナルコレプシーに適応のある薬剤だが、眠れなくなったり、血圧や脈があがったりする副作用がある。長期的には心血管事故の原因になったりする可能性も示唆されている。

 ADHDは他の疾患同様、生物学的(遺伝的)要因に、環境因子が加わり発症する。(社会生活の困難さ、破綻)神経伝達物質の働きの異常が原因といわれる。たしかにADHDの人を薬で治療するというのは、現代の競争社会に適応するために無理やりおこなっているといえなくも無い。ADHDの人種はどの世界生きるのが幸せなのだろうか?イタリアか?

 記事ではADHDの治療薬をつくっている製薬会社はホワイトカラー中心となった成果至上主義の現代社会につけこんでおり、診断基準を決める委員への研究資金提供などもしており患者を増やそうとしている可能性を指摘していた。(薬物治療を受けている割合は米国は多く、ヨーロッパは少ないなど国によりまったく違う。病気を作ることなど簡単なことなのだ。) 実際、アデラールというADHD治療薬の広告には、、「より高いレベルを目指そう。」といったスローガンとともに、建築家や科学者、主任風の仕事をしている人を登場させている。いかにも商業主義的である。 成果主義の競争社会において、高い目標を達成しようとする人だれもが、容易に能力を上げるために、この薬を欲しがるのではないか?(かつてのヒロポンのように。)それでよいのかという冷静な意見。
 
 「しかし、それは、ADHDとともに現代社会を生きる人の苦労、混乱っぷりを理解していない。能力をあげるという話ではなく、薬物治療はADHDの人にとって苦しみからの救いなのだ。」という反論の両方があげられていた。

 自分は間違いなくADHDのように思われる。エイメン博士の「「わかっているのにできない」脳」によると、どうやらマイナス思考や抑うつも加わった「辺縁系型ADHD」に近いタイプのようだ。非常にこまった脳のクセである。

 集中が途切れボーっとしてしまうこと(研修医のときに手術の助手として入っているときなどに指摘されたことあり。)、ケアレスミスが多いこと、辛くなるとビルから飛び降りるようなシーンが頭から離れないこと(理性で思いとどまるが・・・。以前、パキシルをのんでいたときあおられて吐き気もあり、過呼吸にもなりえらい目にあった。)集中しようとすればするほど集中できない症状は、特にストレス下では顕著だ。未来につながる時間感覚がなく、今を生きており、段取りが悪く、いつもバタバタしている。

 傘、切符、時計、万年筆、聴診器などなど、ものが消えるようになくなる。気づけば手元に無いという状態なのだ。思いもかけない場所に忘れていたりするのだが、まったく覚えが無い。電車などの切符をなくして再び料金を払うことも何度もあった。さすがに大事なものは財布に入れるという手続きを強化して最近はなくなったが・・・。
 食べ物を買ってきて冷蔵庫にいれて、そのまま賞味期限が切れるまでわすれることもしょっちゅう。もっている同じ本を買ってしまったりもする。洗濯機をかけたまましまい忘れてしまって、しばらくして夏など異臭を発して気づくなんてことも1度ならずあった。これはキッチンタイマーをセットするようにして解決した。

 できるだけ構造化された、気の散らない環境の中で、計画的に物事を遂行し、適切な援助を得ながら、リラックスしつつも集中できる境地を維持できればいいのだろうが・・・・。

 ADHDの人はアドレナリンレベルを何とかして高めないと物事を遂行できないため、意図せず相手を挑発して怒らしたり、何でもギリギリまで手をつけない。(これも当てはまる。)自家処方でアルコールや麻薬に手を出したり(さすがに、これはしないが)、コーヒーをたくさん飲んだりする。(これはドンぴしゃり、自分も日中はコーヒーを1~2時間おきに飲まずにはいられない。)ADHDに合併が多いといわれるナルコレプシーのような症状(不適切なシチュエーションでの突然の耐え難い眠気、金縛り、脱力)もしばしば経験する。

 対処として、運動(フィットネス(欧米のエグゼグティブでは常識、脳の血流をたかめ集中できるようにする。)、高蛋白低炭水化物食(セロトニン、ドパミンの原料)。メンタルトレーニング。規則正しい生活(当直もあり、これは無理だ。)外的補助具の使用など、さまざまな生活上の工夫がある。
 
 そして薬物治療・・・。これは非常に魅力的だが、カフェインくらいにとどめておいたほうがよいのだろうか? 

 ADHDの人は社会や仕事上、人間関係で失敗を繰り返すことから自己評価の低く、犯罪や、抑うつ、自殺などの2次障害をきたす原因となっていると指摘している。しかし、ADHDも悪い面ばかりではなく、アイディアとエネルギーにあふれ、適切な支援があり、よいパートナーにめぐり合うと能力を発揮でき大成功する可能性がある。
 「落とし穴に気づいていても避けられない。考えても無駄な、心配事が際限なく膨らんでしまう。一つのことに集中できない。気が散る環境で突発的な事態に対処しつつ、段取りよく仕事を処理できない。書類が山のよう。優先順位をつけて仕事ができない。」自分にはもはや今の状況で今の仕事は続けられないとうすうす気がついてはいるが、それでも、なんとか自分と、周りの環境をコントロールできるようになりどこかで世の中の役に立ちたいものだと思っている。 

リハビリ打ち切り(弱者は死ね!)

2006年08月28日 | Weblog
 医療の現場は、医療制度と患者さんの板ばさみとなり、病院が悪いわけではないのに苦しい立場に立たされている。
 
 そのひとつに外来リハビリ打ち切りがある。厚生労働省は「漫然とした維持期の外来リハは無駄である。リハの療法士は不足しているので、短期間の講習会をうけた代替者でもいいことにしますよ。疾患群別のリハにより診療報酬点数を変えます。理学療法、作業療法、言語療法により診療報酬は変えません そして脳卒中なら病院でのリハビリは発症から180日で強制終了ですよ。それ以上やりたいなら介護保険のお財布から出た通所リハ(オマケでリハビリもできるディサービス)でしなさい。」ということにした。

 リハビリテーションとは何かをまったく理解していない、そして現場の実情をまったく理解していない、なんのエビデンスにも基づいていない、官僚の机上の空論、思いつきでおこなわれた今回の制度改定。リハ関連団体それぞれ個別に目くらましのような言い訳をして、患者や障害者の実態を無視した一方的なだまし討ちのような通達であった。

 障害を対象としたリハに疾患群別で点数が違うのもそもそのリハとは何か理解していない。また、障害像によってリハの期間も、頻度もさまざまであるべきなのに一律に切ってしまう。文句がでるのでとりあえ4月からカウントしなおして180日で打ち切り。(X-Dayが近づいている。)除外規定は一応つけたけど原則ダメだよというのは、患者およびリハの専門家など現場の人間を馬鹿にしているとしか言いようがない。

 たしかに医療保険でおこなうにはふさわしくない、漫然とした理学療法がおこなわれていたところもあったかもしれない。サロンとなっていたところもあるだろう
。しかし老人保健施設での通所リハに行くには抵抗のある若い脳血管障害の患者さんのリハをどうするのか。若い人ほど長期にわたる回復の可能性もあるのだ。またそういった患者さんには貴重な社会参加の機会(生きがい、患者同士の交流の場)となっていた。老健のリハではリハのスタッフも少なく頻度も全然違う。訪問リハは訪問看護のオマケあつかいとなり、実施しているところも少ない。

 この暴挙にリハ関連5団体が団結した。エビデンス作りにも本気になった。患者も免疫学者の多田富雄を筆頭に40万人以上の署名をあつめた。どう考えても、おかしいことはおかしいとうったえていっているので、2年後の改定の時にはマシになることを祈るが・・。

 しかし病院も赤字を出してつぶれるわけにはいかない(地域に迷惑をかけてしまう。)ので、泣く泣く患者さんにあやまりながら外来リハの打ち切り、あるいは介護保険施設への移行をお願いしているような状態である。「9月でリハは卒業、仕上げのリハビリを・・・。」なんて言って納得していただいているのだが、メンテナンスの意味もあるのだから卒業も何もないのだが・・・。
 
 維持期のリハ患者の見殺しにしろ、家で死ねという在宅医療の推進にしろ、療養型病床群の廃止にしろ、医療費削減という目的だけでやっているのに、いろいろ御託を並べてさもいいことをやっているようにいうから胡散臭くなるのだ。人間一人の命は地球より重い」わけもなく、医療のレベルは経済状態(かけたお金)に規定されるところも当然ある。今後、さまざまな疾患で保険診療の打ち切りが闇討ちのようにおこなわれていくことだろう。透析の回数にも制限が出てくるかもしれない。
 それならそれとして国民に公的な予算の使い道についてちゃんと情報公開して問わなければならない。生存権というのはどのくらいのことを言うのだろうか?デリケートな問題を含んでいる。

 しかし社会の安全装置、社会共通資本である医療を軽んじて安定し社会が維持できるはずもない。結果的に大きな損をこうむることになるのではないかと危惧する。

 強者には何かのきっかけで弱者になるまでは、理解できないのだろう。「いろいろ見えてしまう」現場から、想像力が欠如し「バーチャルな世界」で生きている人たちに粘り強く訴えていくしかないのか。

UDONは別腹(ネタバレ注意)

2006年08月27日 | Weblog
 現実逃避にと逃げ込んだアムシネマで「日本沈没」をみようと思ったら、時間が合わず「UDON」をみた。公開初日のレイトショーだとういうのにあまり人はいなかったが・・・。あとからジワジワ人気の出てくるのに期待。

 B級狙いのおバカ映画かと思ったら、なかなかどうしてかなり丁寧に作りこまれた秀作だった。ユースケサンタマリアとトータス松本もいい味出していたし、小西真奈美(コニタン)がドジっ娘ヒロインで出ていたのもツボにはまった(スマン)。その他の親父役や、脇役もなかなかよかった。ひそかに北海道が誇る大泉洋もチョイ役ででていた。香川出身の南原清隆や松本明子も友情出演?ストーリーや演出も、さすが踊る大走査線のユニットがつくっただけあってテンポもよい。

 讃岐はうどんの国で、うどん屋だらけ、そういえばうちのうらもうどん屋だった。ブームのときは行列ができていたそうな。ロケ地は絵になる瀬戸大橋や讃岐富士周囲が中心で高松はあまり出てこなかったのは残念。イナカを強調するためビルとかを移しこみたくなかったのだろう。(監督が丸亀出身だからかも。)最初と最後に出てくる大都会ニューヨークと讃岐の鄙びた風景のギャップもなかなかよかった。映画の中の讃岐弁はイマイチだったが。(現実のうどん屋のおっちゃん、おばちゃんを除いては・・・。もっとベタにやってほしかった。)

 ストーリーは現実にあったうどんブームと親父と息子の関係を中心に夢、挫折、故郷、ソウルフード、親父、家族、友情、などを盛り込んだ涙あり、笑いありのハートフルエンターテイメント。映画の中でも出てきたが、ひっそりと地元の客を相手にしていた知る人ぞ知る製麺所も、観光客が押し寄せるようにあって当惑したかもしれない。祭りのようなうどんブームが去ったあとにも残るもの、ソウルフードとしてのうどん、まさに奇跡です。

 映画の中でうどんブームに火をつけたタウン情報誌、TJSanukiのモデルとなったTJKagawaの編集部には中学生のころ「笑いの文化人講座」(というコーナー)のネタをもって行ったこともあるが、専牛(のちの社牛、田尾さん)中心に記事を楽しんでノリで作っている雰囲気、学生が出入りしている様子も映画の中で同様に再現されていた。

 おなじくロケ地として香川がでてきた「県庁の星」(こちらもオススメ)とともに最近のヒット作。見ればとても満足感あり、自信をもってオススメします。「ゲド戦記」よりズーっと満腹になれます。うどんは別腹っていうしはしごしてもいいかもね。
 
 ところで佐久で讃岐風うどんを食べたくなったときはチェーン店の「はなまるうどん」しかないのです。それなりの再現度なんだけど、どうもツユがベタッと甘ったるいんだよなぁ。それでもあるだけマシか。なんだかんだいってよく行っています。ながらく「うどんの国」に帰ってないなぁ。

リハビリテーションセンター鹿教湯病院

2006年08月26日 | Weblog
 当院と兄弟病院でもあるリハビリテーションセンター鹿教湯病院の回復期リハビリテーション病棟を病棟スタッフとともに見学にいかせていただいた。古くからの湯治場の鹿教湯温泉にあるリハ専門病院としてすでに3つの回復期病棟を立ち上げ、上田や松本からリハビリテーションが必要な患者さんを受け入れている実績がある。これから回復期リハ病棟立ち上げる我々にとって役に立てるヒントやノウハウがたくさんあるはずだ。

 鹿教湯病院の南病棟はスペースにも余裕のある新しい病棟で、病棟内にディルームに加え、訓練スペース、複数のトイレ、小部屋、スタッフルーム等もある。当院ではリハチームに加わっていない臨床心理士もすべての患者に関わるなど大勢のスタッフの病棟配属、365日リハ、毎日のレクリエーション、入院時の多職種評価。カンファレンスの体制など当院とは多少違う。ハード、ソフトともに充実しており、リハ専門病院ならではの工夫が各所にみられた。また複数のリハ病棟や療養型病床も持った大きなリハ専門病院であるから、病棟ごとで患者さんの特徴に応じて疾患等をある程度ろえられるメリットもある。
 
 当院は混合病棟であり病棟もリハ向けに設計されていないのを転用しているので、運用において、いろいろ考えていかなくてはならないことも多い。

 手作りの、リハネットというファイルメーカーベースの情報共有&書類作成システムが活用されていた。リハにおいては情報共有こそ鍵なので、こういったものは何とかできるだけ早く導入したい。

 さすがリハビリテーションセンターと圧倒されることしきりであったが、当院の場合は地域中核病院のリハ病棟なので急性期、維持期への影響力や、居住地に近い(家族が着やすい。訪問もしやすい。退院後のフォロー、地域づくりにも関わりやすい。)というアドバンテージもある。なんとかよいものを作っていきたい。

 鹿教湯病院のみなさん。ありがとうございました。

 せっかくなので、病棟に愛称をつけようとメキメキ病棟(メキ3病棟)とかリバーサイド病棟(リバ3病棟)とか提案してみたが賛成してくれる人はおらず・・・・。

納得死と満足死

2006年08月25日 | Weblog
「患者さんによくはなりません。」
って言ってはだめだ。
「もう、できることはなにもありません」
って言ってもだめだ。
さじをなげて怒ってはだめだ。切れてもだめだ。

でも、どうすることもできない。
手持ちのカードはすべて使った。

「魔法の点滴?、薬?」
家族には、責められている気がする。
すこしでもできることは無いかと、精一杯やるしかない。

医学的にとことんやるのか。

納得を大事にした関係の中で・・・。

法的には延命は、「とことんまでやれ!」ということになっているのだから。
関係作りを失敗すると、医師は訴えられても文句は言えない。
とことんやりたくないとは拒否はできないのだ。

下手すると逮捕されてしまう。
恐怖。

どこまでが治療、どこまでが延命?

でも手術なんてできっこない。
手術室から戻ってこれない。
人口透析?人工呼吸?静脈栄養?経管栄養?リハビリテーション?
何ができるというのだ。

周りの人のための医療。
アリバイのための医療。

わずかな希望。

いのちの火がよわってきている。
存在役割はいつまで必要。

「いくつまで生きられれば満足なのだろう。」
「本人はもういいといっているではないか。」

自分の命、だれの命。

家にもなんとか一度は帰った。
状況的に家には帰るのは難しい。
家で看られる状況をつくれない。
家族は希望をすてていない。

スペシャリストの前主治医との関係。
不老不死を夢見て、世界最高の技術を持った家からはるか遠く離れた病院で最高の技術をもった世界最高の専門家に「打つ手はありません。」といわれれば満足なのか。

やるだけやったという納得。満足感。
信頼と納得。

「決して、あきらめろ。」というわけではないが
「がんばれ。」ともいえない。
「希望を奪うわけにもいかない。」

ただ、医療や生命の限界を、患者家族と共有できないのがつらい。
寄り添うしかないか。とことん付き合うしかないか。
長い時間をかけて関係性や納得をつくるのが地域の医者の仕事なのか。

怒ってはいけない。切れてはいけない。
頑張ってはいけない医療。頑張らなくてはいけない医療。

とことんつきあういのち。

レタスの村で中国語

2006年08月24日 | Weblog
若月俊一先生がなくなって患者さんともその話題になることが多い。

「私は病院が畳敷きだったころからお世話になっていたものよ。」
「わたしゃ土地っ子だもの、若月先生はうちの店にもよく来てたよ。」

なんて話もでてくる。
患者さんから昔の佐久病院や生活を教えてもらう。

当然、後を引き継ぐ人のことの話にもなる。
将来の病院像の話にもなる。
厳しい話もでてくる。
みんなが病院の動きに注目している。
現リーダーたちの動きにも注目があつまっている。

さて、週一回、診療所にいかせていただいている南佐久南部の高原野菜の村では夏季はアルバイトの人の入り込みで人口が倍増する。
若い日本人の学生や、若者は減ってきており、代わりに研修生の名目で労働に来ている中国からの方が増えている。
朝暗いうちから畑に入り収穫。貴重な労働力だ。
シーズン中、彼らは集団で生活し、自炊する。
評判もよいようだ。

診療所にも蜂に刺された、マムシにかまれた、体調が悪いなどしばしば受診する。

看護師さんの中ですこし中国語をちょっと勉強した人がいるの人がいて助かる。
[痛不痛?」
簡単なやりとりだが、少しでもぜんぜん違う。
自分も大学のとき中国語を第二外国語でかじったが、とっさにでてこなかった。

世話人の通訳の人も来るが、筆談となることが多い。
まとめて保険には入っているようだが、ちょっとしたことは自費だ。

隣の隣の村の診療所の先生は中国に何年も東洋医学の修行にいっているので、中国語を話せる。
「こんな山の中に来て、中国語をつかうことになるとはおもわなかったよ。」
とはその先生の弁。

長野オリンピック前に道路や新幹線をつくるためにやってきた労働者、歓楽街などでもタイからの人も相当多い。
そこからのHIVの広がりも問題となっているようだ。

農家の嫁としてタイやフィリピンから来ている人もいる。
こんな山の中でも国際化は確実にすすんでいる。

診療所はよろず相談所。彼らの文化をしらず、コミュニケーションができなければ深いところでの医療は難しい。

オーストラリアやニュージーランドから来た人の多い北海道、ニセコ(倶知安)の病院は病院をあげて英語の勉強をやっているそうだ。
中国語を勉強しなおさねばなるまいか。

佐久病院でも外国語を話せる職員リストをつくって備えている。
手話も含めたボランティアも登録されているようだ。
国際協力の経験のある職員も結構いるので意外な人が意外な言葉をはなせたりして驚きだ。自分は日本語と、せいぜい英語が少しくらいのものだが・・・・。

秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 

2006年08月24日 | Weblog
病院の寮の外では虫の音が響いています。

日も短くなり、トンボも飛び始めました。
お盆を過ぎても暑い日が続きますが、朝晩は涼しく外は秋の風です。

蛙の声、虫の音や水の音、遠くを走る小海線の音などを聞いていると心が休まります。農村は音風景の宝庫です。

病院のモニター機器の発する電子音(便利なものですが)を聞いていると気が狂いそうになります。
PHS電話のピロリロという音も心臓にわるいです。
「ICU症候群」といってICUにいるだけでせん妄が出現したり、精神的に不安定になってしまったりする人がいます。
ストレス状態がつづくと免疫力も低下します。

よいアメニティがよい治療成績を生むことは科学的にも証明されているのですから、病院にもっと自然の癒しの力を取り入れられたらと思います。

体が動かない。

2006年08月23日 | Weblog
体がうごかない。

なんだか体に鞭をうってやっと動いているような感じだ。
やたらと肩がこる。
発作性に、ものすごい眠気に襲われる。(ナルコレプシーか?)
疲れているのに眠れない。
朝、おき出せない。
体が動かない。
頭が重い。
何も手がつかない。
こんなときは全てが後手後手にまわり、ますます立ち行かなくなる。

キーンと耳鳴がする。耳の聞こえがわるくなる。
めまいのように、ふらついてまっすぐ歩けない。
一度座ると立ち上がれない。

顔や体がちくちく、ひりひりする。
顔は真っ赤で、首筋や肘や背中が汗ばんでかゆい。
描くと肌がどこまでもボロボロとくずれてきて血がにじんでくる。
肌の調子がわるく、顔を見せたくない。
冷たい缶ジュースで火照った顔を冷やす。

重い腰をあげる。
きっかけを経て動き出し、最低限だけでもなんとか・・と
目の前のことを一つする。
ひとつづつ片付けていく。
少しずつからだが動き出す。
世の中が、すこしづつ回りだす。
だんだん片付いてくる。

からだの張りがとけてくる。
目の前から霧が晴れてくる。
頭がさえてくる。

すこしうれしいことがある。
あらたな気づきがある。
患者さんから元気をもらう。
世界が色づく。

そして今日も一日が過ぎていく。

患者さんが幸せでないのが、すべて自分が悪いように感じる。

よくならない患者さんには裏切られた気がする。
責められているような気がする。
足が遠のく。

在宅や転院をせまるのは借金取りと同じ。
自分以外にはやくこのバトンをわたしたい。
この重圧から逃れたい。
患者さんの代弁者として家族や、行政からどれだけ引き出せるか?
まだ隠しているものは無いか。
時には強く出なくてはならない。

理想とは程遠いが目をつぶって社会に送り出す。
リスクは0にはできない。
死はだれにでもおとづれる。
さびしい思いはさせたくない。

自分がさびしいのかもしれない。

課題はいくつでも見えてくる。
動かなければ進まない。

みんなたいへんなのもわかっているのでなかなか頼めなず、
自分で抱え込んでしまう。
頼まれると断れない。

どうして社会の中に行き先が無いのか?
幸せに暮らせないのか?

人生の最後の一時期に管理管理のこの扱いでいいのか?

自分は何ができるだろう。
何のために医療をやっているのか。

宮沢賢治の「農民芸術概論」の一節のように
「世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
なんてことを考えていたら、いつまでたってもだれも幸福もありえない気がする。

何もしていないこと、できないことに、常に何らかの重圧を感じている。

どうも、いいふうに(これも方言)いかない。
悩んでも仕方が無いことなのだろうか。

結果よりもプロセスが大事なのか。

いろんな重みを1人でかかえると短時間で消耗する。
そうならないためにもチームで向き合うことが重要だ。
患者自身や家族もチームの一員だ。

一歩一歩、前進するしかない。
今日よりも少しでもましな明日を信じて。

若月俊一と佐久総合病院

2006年08月22日 | Weblog
佐久総合病院の一つの歴史が終わった。

平成18年8月22日午前5時5分

かねてから療養中であった
若月俊一佐久総合病院名誉総長(96歳)
肺炎にて永眠。

農村、農民への愛、ヒューマニティでこの病院・地域・人をそだててきた。
一つの時代の立役者。

「農民とともに」
やってきたことは医療の民主化。

その精神は引き継がれなくてはならない。

ご冥福をお祈りします。
天国から私たちの未来を見守ってください。

5Sと現場改善

2006年08月21日 | Weblog
 脳外傷や脳血管障害の後遺症としての高次脳機能障害(記憶障害、注意障害、遂行機能障害)に対するリハビリテーションとして間違いようの無い構造化された(シンプルでわかりやすい)環境をつくる、明確な手順を決めるというのがある。カレンダーを貼って予定を明記したり、手順を張り紙で明示したり、記憶障害の人にメモリーノート(手帳)書いて確認する習慣を定着させたり、日常生活に最低限必要な一連の行動を手続き記憶として覚えこませたりする(行動強化)。就職や復職に当たっては専任のジョブコーチをつけ、その人のできること、できないこと、得意なこと、苦手なことを把握した上で、できる仕事を職場の中で探したり、職場と交渉したりする。

 そういうことをやっているのに、そもそもにわれわれの職場はこんなに構造化されていないんだろう。手順もきっちり標準化されておらず分かりにくいのか。それぞれの予定もわかりにくいのか?何故こんなにいろんなことを同時にやらなくてはいけないようになっているのか?担当者がいないとどうして何もかもわからないような状態なのか?各人の能力や役割に応じた仕事の分配になっていないのか?人を育てようとせず、人を人数あわせのコマのようにしかかんがえていないのか?何度言ってもクーラーは壊れたままで汗をだらだらかきながら仕事をしなくてはならないのか?危険で気が散る環境なのか?

 あちこちバリアだらけでまったくユニバーサルデザインからは程遠い。安全やプライバシーへの配慮が無い。「見える化」「カイゼン」などの工業のQC,TQMなどの手法、コーチングなどのビジネスの手法を病院で上からも下からもどうしてもっと積極的に導入しないのか?といい加減、イライラしてきた。これまで特定の個人の能力だけに頼ってカイゼンされぬまま仕事をしてきたつけが噴出してきている。⇒ナビゲート

まずは5Sからだろう。

1.整理 2.整頓 3.清掃 4.清潔 5.躾(習慣化)

鍵は Simplification と Standardization にあると思われる。まずはマニュアル作りと改善から・・・。

私とコンピュータ(パソコン30周年によせて)

2006年08月21日 | Weblog
月刊誌アスキーの特集がパソコン30周年であった。

懐かしさもあり、思わず買ってしまった。

1946年、世界初のコンピュータといわれるENIACの誕生から30年後
コンピューターは一般人の手の届くところまで降りてきた。
パーソナルコンピューターの誕生である。

私が生まれたのは日本発のパソコンTK-80の誕生とほぼ同時期(1年後)。
各社が、マイコンと呼ばれた、いろんなパソコンを発売していた時代であった。

私たちの世代の成長は、コンピュータの発展とともにあった。

特集をぱらぱらめくっていると懐かしいコンピュータが並んでいた。

友人が持っていたぴゅうた。
中学校の技術室にあったPC8001。
いとこが持っていたファミリーベーシックなんてものあった。

紙切れのようは薄い5インチのFDD
パソコンがほしくてダンボールでパソコンのミニ模型をつくったりした。

日本語コンピュータとして一世を風靡したPC9801シリーズ。

学校や、中学校にコンピューター室ができてコンピュータが導入されはじめた時代であった。
だれもが、その利用には試行錯誤であった。

PC9801、MSX、FMTOWNS、X68000などなど。町のパソコンショップに行っては眺めていた。
中学の先生は、大きなラップトップのパソコンを持ち歩いていた。

MSX2+を買ってもらった直後に最後のMSXとなったTurboRが発表されて悔しい思いをした。いまとなってはどうでもいいことだが・・・。

BASIC言語を覚えて、しょぼいゲームをつくったりしたものだ。
出来合いのゲームも嫌いではなかったが自分でつくるほうがたのしかった。
友人はMSXマガジン(アスキー)を自分はMSX-FUN(徳間書店)を買って交換して読み、ソースを打ち込んだりした。

コンピュータの前では人はプチ神になれる。
天地万物の創造主となれる。

MSX‐FUNの1画面プログラムや1行プログラムなど、制限の中でどれだけ工夫できるかなど芸術的な楽しさすらあった。

それに比べるとマイコンベーシックマガジンの長いソースリストはイモだと思っていた。

ゲームデザイナー志望していたマイコン部の友人はぷよぷよやストリートファイターⅡをN88BASICで再現した。天才的であった。
彼は、ぷよぷよをどういうアルゴリズムで実現したのだろうか?いまだにわからない。

ツクールシリーズにもはまったが、結局まともに完成したものはなかった。
中学時代、ゲームをつくるために三角関数などを勉強した。

マシン語やC言語への憧れがあり、挑戦を試みたが挫折した。

そのころMS-DOSにかぶせる形でGUIのWindowsが登場始めた。

パソコン通信などに憧れはしたが、進学した高校時代、予備校時代は身の回りにコンピュータがなかった。
この時期に身近にコンピュータがあたえられていれば、きっと多少進路もかわっていたかもしれない。

そのころは世界史や英語など別のことにはまっていた。

大学入学と同時にFM-V S165を買った。K5というCPUの搭載した生協のオリジナルモデルであった。Windows95がインターネットが出始めたころであった。
このころからパソコンはネットワークの端末になっていった。

恥の巨人、立花隆もこの新しいおもちゃに感動して「インターネットはグローバルブレイン」などという本を書いていた。

同じころ、友人は生協の共同購入でうっかりマッキントッシュ(Perfoma)を買ってしまい置物となってしまっていた。

FMVは進化についていくためにメモリーを増やしたり、HDDを造設したり、CPUを乗せ変えたりして遊んだ。
ベンチマークなどをして少し早くなったといっては喜んだ。

ただ人柱となりながら最先端をついていくほど、お金や時間をかける気はなかった。

コンピュータを操るハッカーみたいな友人がいてかっこいいと思った。
インターネットはピーピーガーガーいうダイアルアップで接続し、テレホーダイという夜11時以降は使いたい放題になるサービスを利用していた。
23時になったとたん重たくなった。

大学祭のパンフや、同窓会誌の作成のために初めてマッキントッシュとイラストレーター、ページミルなどのアドビのソフト群にふれるチャンスがあった。
よくバクダンはでたが、その操作性、思想性、センスのよさには感動した。
デザインのツールとしてコンピュータが使えることを実感した。

FM-Vはさすがに古くなったので、ノートパソコンに変えた。
なんとなくEPSON-DIRECTにしてみた。
ファンの音がうるさかったが、一応DVDもみられた。
よくフリーズした。

ホームページ(いまではこんな言い方もなくなってしまったが)もつくって、当時の標準形式の日記ページ+掲示板で、自然系の写真や山行記や自転車旅行記を中心に、つれづれをつづり数年続いた。
まわりの友人たちの間でホームページをつくるのがちょっとしたブームとなった。
サーバーを立てる友人もいた。
フリーウェアを公開したり、ウェブシステムをバイトでつくったりしていた友人をかっこいいと思った。

そのころからなんとなくブログの原型みたいなものを考えていた。
トラックバックのような仕組みがあればいいなぁと思っていたのが実現されてきている。みんな考えることは同じだ。

人のものをパクってお金をもうけるビルゲイツは嫌いであった。
バージョンアップやライセンス管理が苦手で嫌であった。

スティーブ・ジョブスやリーナス・トルバルスなどは素直にかっこいいと思った。
ハッカー文化の所有論に惹かれ、コピーレフトやオープンソースなどの思想には賛同した。

コンピューターネットワークやソフトウェアも、古典著作物、水道やガス、道路や橋、医療や教育と同じように社会共通資本だとおもう。

だから、「私が作った道具を人が毎日使っているというのは、無条件に気持ちがいいことなのだ。」(石川准、著『見えないものと見えるもの 社交とアシストの障害学』←超オススメ)という言葉なんかには、ホンオそうだよなぁと思う。

それからまたしばらくコンピュータから離れていた。
WEBサイトの更新もとまり、メール端末やワープロとして細々と普通の使い方をしていたのみであった。

最近、データーベースを使わなくてはいけなくなり、なんとなくエクセルやファイルメーカーでプログラムもどきをふたたび始めた。
それほど高い技術がなくても余裕のある性能のおかげでパーツやソフトウェアの組み合わせでオリジナルなものができる。

うまくコンピュータを使えば仕事が楽になることを知った。
コンピュータは仕事を楽にするためにあるので、なるべく同じ効果なら楽にできる方法は無いか組み合わせで考える。

でもうっかりするとはまっていて時間は過ぎるが何もできていなかったりする。
そんなときは、すこしだけ技術が進歩した。

使っているだけで快感なセンスのよい道具(ソフトウェア)をつかっていると職場の中途半端な電子化、コンピュータシステム(を含めた情報システム)の思想性のなさ、操作性の悪さ、人をこきつかう態度が頭にくる。

本当は自分でつくりこんでみたい。
コンピュータを第2の脳として活用し、ネットワークの世界にとろけてゆきたい。

自分を見つめなおし、情報発信、集収するためにこのブログもはじめた。
個人でコストをかけずに情報発信できるようになったのはすばらしいことだ。
しばらく続けているとなんとなくSNSやWEB2.0の概念もわかってきたような気がする。

特集を読むと自分の前後の世代のハッカー、ITビジネスの社長たちのインタビューで締めくくられている。
彼らは技術とアィディア、実行力の勝者だ。

これらのコンピュータたちは自動車や建物以上に世代交代が速い。
車やカメラなどと違ってちょっと古いだけのコンピューターに価値はほとんどない。リサイクルの仕組みもあるにはあるが、エントロピーは増大する。
更新していくうちにどれだけのガラクタが地球上に残さていくのか考えると頭が痛くなる。

これからコンピュータはどのように発展、進化、成熟していくのであろうか?
楽しみであると同時に、そろそろもう十分ではないかといいたくもなるときもある。

加藤周一講演会、佐久の草笛

2006年08月20日 | Weblog
(長文注意)
 今回、佐久病院と信濃毎日新聞、佐久医師会が主催した市民対象の講演会が行われた。
 誰かが講演会を企画する際には、受講者に伝えたい何らかの意図(メッセージ)がある。何かを変えたいと願っている。そうでなければ講演料を払ってまで講師をよんで苦労して企画して講演会などを行うわけがない。今回の講演会の企画者にはどのような意図があったのだろうか?


  恥ずかしながら加藤周一氏のことをあまり自分は知らなかったのだが、東大理Ⅲ出の医師でありながら文学者、評論家として活躍する相当の文化人らしい。「~でしょう?」という淡々と染み入るような話し方がとても印象的な老人であった。サブタイトルの「佐久の草笛」はどうでもよくて、講演会の内容を一言で言うと「医療者には市民を育てる役割がある。」ということだったとおもう。それは自分の常々考えていたことと共通していた。講演では市民をキーワードに、社会と医療関係者の関係を3つにわけて説明していた。 (カッコ内斜体字部はといぴの注)

******************************************************

①市民としての医療関係者が社会に対してどういう態度をとるべきか?  

  日本では長い間、社会の支配者と被支配者との関係は一方的であった。江戸時代は自由に行動する支配者と、ただ支配者の言うことに従うという臣民という関係性であった。それは憲法が制定された明治天皇の世になっても基本的には変わらず、天皇には大きな自由が与えられていた。

  終戦後はその関係性は変わったであろうか?少なくとも臣民から国民となった。(本当は国という意味の入っていないPeople(人民)であるべき。)国民には、たくさんの権利があり、政府を批判できる。しかし政治過程に国民がどういう風に参加するかで国民には2種類にわかれる。政治過程に参加する人と参加しない人である。積極的に政治過程に参加する人を市民という。その市民がおこなう政治形態の全体が民主主義の実態であり、国民であることは民主主義の必要条件に過ぎず、十分条件は参加する国民(=市民)でないと実効がない。  

(日本に本当の意味での市民がどれだけいるのか?一身独立して国家独立するということは明治期から福沢諭吉が主張してきたこと。しかし日本の民主主義の成熟は遅れている。サラリーマンの給与からの税金天引きを制度化し、納税負担感を持たせなくした官僚のずるさもその一因。野口悠紀夫氏が主張するサラリーマン法人などはその状況を打破し自立した市民を作る鍵となる方法と考える。)


  民主主義社会において人権は保障されなくてはならず、生存権は人権の中心概念である。

(生存権:憲法に明記された健康で文化的な最低限度の生活というアレである。医療福祉の現場で、医療者、医療や福祉を頼って生きざるを得ない人の生存権が脅かされている現状がある。⇒障害者管理法


 個人の自由とは他人や社会に対して特別害を与えない限り何をしようが自由ということである。人民には知る権利、自由がある。政府が何をしているか知ることができないと政治に参加できない。知る権利が行使できなければ「われわれの政府」といえない。新聞やテレビなどのメディアは何が国内でおこっているか知らせる権利があるとともに義務がある。知ることができなければ批判することができない。批判することができなければ参加できない。参加できなければ市民は成り立たない。そして権利は行使しなくては無いのと同じである。  

(知らしむべからず依らしむべし、という態度は医療、行政などに染み付いている態度である。まず情報公開が民主化の第一歩。私の敬愛する逢坂誠二元ニセコ町長が北海道ニセコ町がやったこともここからであった。若月俊一が佐久でやってきたこともそうだっただろう。)

 また犯罪というのも自由意志でないと罪にならない。だれかに強制されてやった絶対服従というのは絶対に自由が無い。つまり法的に無責任になる。これが近代法の原則である。(丸山真男)

  さて、選挙、人民が自由を行使して政府をコントロールする合法的で強力な手段でありその結果は議会での議席の配分、ひいては政策決定にあわられる。

 しかし市民が政府、政治的権力をコントロールする手段はこれが唯一ではない。 選挙以外に議会外的手段という合法的な手段がいくつかある。
 ひとつは裁判所。もうひとつはマスメディア。メディアは強力な武器であり選挙にも影響する。それから労働組合。組合員の利益に反すると判断すれば非業(ストライキ)という合法的な手段で圧力を加えることができる。

(医療従事者も窮状を世に訴えるためには、救急外来などを残してストをやるべきではないか。ドイツやイタリアでは当たり前のようにやっている。アメリカで医者がストをしたときは死亡が減ったという報告もあるらしいし・・・。個人レベルでの対抗の立ち去り型サボタージュではなく、冗談ではなく全国的なストを考えても良いと思う。しかし医師を束ねることは相当難しそう。)

 しかし、裁判所、市民が満足できるような判断をださず、メディア、さまざまな要因があって市民の声を反映せず、組合にはそれだけの強い力が無い場合、最後に残っている手段として市民運動がある。ビラを配ったりデモをしたりというアレである。自分も9条の会という会をつくって仲間とともに市民運動を行っている。

(実際、医者というより市民活動家といったほうが良いような医師もたくさんいる。メーデーなど病院の労組も毎年行進はやっているがあまり盛り上がらないようである。そもそも医師はほとんど参加していない。)

② 医療関係者であるからこそでてくる社会とのかかわり方とは?  

 医療に関係して医者には特別なものの考え方、表現というものがある。医療では病気を予防することもあるが、病気になれば治療する。できれば病気を治してしまいたいと考え、完全に除けなくても苦痛が減るようにできないか。それが持続的にできれば望ましいができなければ一時的にでもできないか? と考える。

 また重要な考え方に根治治療と対症療法というのがあるが、これは日常の表現ではない。
 根本治療とはどこに原因があるか突き止めてそれを除こうとする。そして対症療法とは病気の一つのあらわれとしての症状に対して薬などをもちいて抑えるというものである。原則としては根本療法のほうが良いに決まっている。どういう原因か突き止めるために診断学が発展し症状を分析して検査をおこない病気の原因を突き詰めてきた。
  この2つことを医者はまったく別のこととして区別するというのが非常に重要となる。

 この考え方をメタファーとして社会での問題を理解し対応するために使える。(例、中国での日本企業の建物の野ガラスを割るなど反日行動など)  

(あらゆることを対症療法だけで先延ばしにしてきたのがここ数十年の日本といえるだろう。根治療法を行うには要素還元的な演繹法とともにシステム思考もとても有効。国際保健、公衆衛生、環境医学などはまさに医学の一分野でもある。)

 さて「薬が効くとはどういう意味か?」という問いに対する答えで日本国民は二分される。医療関係者、医療関係者のほとんど即答できるだろう。しかし非医療関係者、日本国民の90%は答えられないだろう。これは非常に不都合なことである。小学校からこの問いが答えられられるように教育すべきだ。  

(雨の日の保健体育ではなくて、医学をきちんとした学校で教える教科として、組み入れたらどうかというのが私のかねてからの主張である。そうすればみんな自分の体と健康に対して主治医になれる。スペシャルな技術は専門家の力を借りればよい。
ただただ地域での生や病、老いや死を丁寧に支え、つむいでいくだけでも次の世代への教育効果というのは相当大きいだろう。そういう思いで医療をやっていきたい・・。死や病、老いや障害を病院や施設に預けっぱなしというのではあまりに悲しい。)


 医療関係者は「同じような病気、状態の人をあつめて2つのグループにわけて薬を使った群にわけて与え、観察したら、飲んだ人のほうが統計的有意差をもって望んだ効果をえられた」ということであると言うだろう。
 一方、非医療者は「自分の親父が飲めばたちどころによくなった。この薬は効きます」というように答えるだろう。しかし、これは無意味なことである。
こういった医療者関係者が、職業的につかっている頭の使い方を医療の領域から外に出て応用することは無駄なことではない。 

(医学は統計学を基礎としているのだが、非医療者は感情で動く。EBここに医療者と非医療者のギャップがある。ギャップを埋めるのも医療者の医療者の仕事。健康講和や演劇などでもいいだろうし、病院祭などもそのよいきっかけとなる。臨床の現場でEBMとNBMが注目されているのもそのギャップをいかに埋めるかということであろう。
 自分の将来を考えるにジャーナリストなども医師の職場としてありかもしれない。二木立や近藤克則のように、学者でもいいかもしれない。行政の道に進むのもいいかもしれない。いづれにしろ一つの軸足を医療に、もう一つを社会において活動したい。)


  さて、価値には体系があり、ある価値は別の価値を前提とする。そしてすべての価値体系の前提となるのは生命、すなわち生きているということである。生命の否定は死であり死と生は相互に排除的である。つまり生きていれば死んでいない、死んでいれば生きていない。そして死はどういう価値の前提にならない。  

 医療関係者は職業上、生と死に立ち会うことが多く生命という普遍的な価値に毎日向き合っている。救えるものなら救いたいと毎日死と戦っている。

  しかし世の中には政府により合法的された死が2つある。一つは死刑であり、一つは戦争である。これらは生死をあつかう医療問題と関係が無いことは無く、医療者が死刑と戦争に反対の立場をとる人が多いのは当然である。

  生きているということそれ自体、全ての重みをささげるほどの価値をもっており、われわれの持つ知識の範囲を超えている。生とは何か?死とは何か?とは古くから問われ続けてきたことであるが、ほんのわずかしかわかっていない。
そのときにとる態度はどうあるべきだろうか?  

 ひとつはわかっていないんだから(無価値なのかもしれないから)場合によっては殺してもいいんじゃないかという態度。自分自身の生命には価値があるが他人の生命にはどんな価値があるかわからないから、殺してもいいというのは傲慢不遜な態度でこれは絶対的な差別である。

  もうひとつは、わかっていないんだから、どんなに尊いものかわからないから殺してはいけないという態度。こういた生命尊重主義は差別を消すように作用するはずだ。  

(医師であり漫画家である手塚治虫はまさに、ずっとこのことを訴えてきた。戦争反対と生命への尊厳が、あらゆる手塚作品の中心テーマである。)

 この態度は教育に非常に良く似ている。教育は個人の将来を決定する。義務教育はだれにも普遍的になされなくてはならないし、高等教育も望めば誰にでもひらかれていなくてはならない。しかし教育とその効果に対する知識というのはわずかであり、わからないんだから望めばみんなに教育を与えなくてはいけない。
医療も同じ。望めばだれにでも開かれていなくてはならない。

(教育と医療は良く似ている。
どちらもミッションサポートとエンパワメントという意味では同じ。若月はどちらも愛だというだろう。民主主義の成熟した北欧などはまさにそのような政策をとっている。)

  医療関係者は教育関係者と連携するべきで、憲法9条の2項をまもったほうがいい。平等をまもったほうがいい。

③ そのうえで両者がどういう関係をもつか?  

 医者は専門職だから医者以外にはわからない便利で共通の言葉がある。戦後しばらくまでは医師はドイツ語のすこし混じった日本語、すなわち医者語をしゃべっていた。それは患者や一般の人にわからないもので昔はそれでも仕方が無いという態度だった。

  いまでは英語になってインフォームドコンセントなどとというようになった。これは「これからする処置はどれだけの危険と利益があるか説明し、患者がわかって合意した上でやる」ということだが、医者と患者の間で言葉が通じないとインフォームドコンセントにならない。相手にわからなかったら言わないのと同じである。

 ただ、医者の中には2ヶ国語をはなせる人もいる。医者用語とその地域で話されている方言も含めた日本語の2つである。この2つを話せる場合には問題が解決できるが、そうでない場合は通訳が必要となる。 

この部分は、まさに8月17日のエントリーで述べたこと。通訳とはどのような人のことを言うのだろうか?生活も含めその人や地域を見っめ続けている地域の主治医ならばその役割を担えるだろうか?医療技術の利用をマネジメントでき、幸福をもたらすことができるだろうか?)

たとえば、田舎のおばあさんが東京帝国大学の付属病院を受診するとして。門を入っただけで圧迫感がある。そこに先生が来て、インフォームされても嫌とはいえない。それが正当な手続きだといっても無理がある。本当のインフォームでないと、コンセントの意味がないということに医者の側も注意する必要がある。

 それから患者の負担をなるべく少なくすることが大事で、患者は弱者であるからお金の力で医療の内容が変わるのでは良くない。悪い意味でのアメリカ型になってはいけない。アメリカの医学は水準が高いが、立場の弱い人、貧乏な人への対策は遅れている。制度がよく組織されているとはとてもいえない。患者の負担率を高めると貧乏な人には痛い。経済的負担能力によって医療内容が変わらないようにすることが大事だ。  

(社会共通資本である医療を市場経済におけるサービスの一形態とみなしたところがそもそもの誤りのはじまりである。はいったとたんにコンビニがありコーヒーの香りの漂う病院(高知医療センター、亀田総合病院、聖路加国際病院など)は確かにすばらしいし、うらやましいが、そもそも何のための医療かというところをまちがってはいけない。
 アメリカよりも北欧型を横目で見ながら、充実した社会関係資本を基盤としたアジア型の医療福祉モデルを作っていく必要がある。)


  医療者にお願いしたいのは市民運動を助けていただきたいということ。市民としての医者、職業人としての医師として一般国民、教育との連帯しなくてはならない。これまで話してきたように医療者は他の職業の人よりその活動においてものごとの理解において有利な点がある。ことに地方の医者、ただ医療関係だけではなく土地のコミュニティの中で知恵のある人でありうるならそうである。19世紀末のフランスの田舎の医者。それはコミュニティの全体をちょっとはなれて客観的に、正確に理解している人であり、戦いを仲裁したり裁いたりする田舎の医者がモーパッサンの短編小説では良く出てくる。日本でもそういう医師はいた。  

(確かに、生命と社会に対する教育、そして実践をおこなっていきた医師には独自の視点、役割、すなわち使命があるだろう。モーパッサン読んでみたい・・・。山本周五郎も赤ひげに医療とは「貧困と無知との戦い」と言わせている。
加藤周一老の期待にこたえられるかどうかはわからないが・・・・。)


 専門医がどんどん発達するなかで医学の研究を前にすすめていける人ではないかもしれないが、今知られている医学の知識を上手に使う医者もいる。

(川上武氏は医療技術を医療技術自体と医療技術システムに分けて考えている。地域ごとでの技術をいかに利用するかという医療技術システムは、国ごと、地域ごとで考えるべき文化といえるだろう。)

 そういう医者が憲法9条をまもることを賛同することのできるような人を増やしてほしい。
(では⇒9条の会オフィシャルサイト
 *******************************************************

 当直のため中座しなくてはならずこういう講演会では一番興味深い質疑応答に参加できなかったのが残念。診療所医師や院長、副院長、市民がこの話にどんな反応を示したのかが非常に気にかかる。 「地域医療とは運動であり、病院や診療所、医療者は市民を育て自治を呼び覚ます装置、触媒である。」というのが私が日ごろ主張するところであるが加藤周一も同じようなことを言っていると感じた。若月俊一ならそこにエリート、ヴナロード、愛、ヒューマニティという言葉をからめていうに違いない。福沢諭吉の「一身独立して国家独立」するというのも同じことなのだろう。宮沢賢治や内村鑑三は「人を大事にして、育てることが重要」と主張している。自分や家族、地域への愛情をもつことのできる人を育てることから、自ら考え行動する人(市民)が生まれる。かつて大学の後輩が「市民医学の確立」が必要と話していたことがあるが、いまあらためて考えるとそれはまさにこういうことだったのかもしれない。

学生実習とメディコポリス

2006年08月19日 | Weblog
大学が夏季休暇のこの時期には医学生が病院に実習にやってくる。
卒後研修必修化にともない古くから研修医を採用し育てている当院に実習にやってくる医学生も増えた。卒業を間近に控え進路に悩む5、6年生が中心だが、低学年の学生がくることもある。

自分も学生時分には特権を利用して診療所や病院など、あちこちに実習に行かせていただいき、この病院にも2回ほどお世話になり、初期研修を経てそのまま居ついている。

 夏季、春季以外にも不定期での中、長期の学生実習や信州大学からのBSL(Bed side learning 臨床実習)を科によって受け入れいれてはいる。しかし夏季のこの時期は毎週15人程度の学生が来て主に研修医について病院や地域のあちこちでウロチョロしており病院は特ににぎやかだ。学生の面倒まで見るの?とウンザリする人もいるが、基本的には世話好き、教え好きの人があつまったこの病院。研修が始まってしばらくたった研修医にとってもよい刺激になっているようだ。長年続けていることなので地域の人や患者さんも研修医や学生実習には慣れている。

 学生実習は臨床研修を行う病院を決めるための下見という意味もあるが、大学や大学の関連病院以外でもさまざまな医療の現場を感じて自分に向いた分野、将来やりたいことをだんだんはっきりさせるという意味もある。研修が始まるとなかなか自由に時間がとれなくなるから学生時代がチャンスである。ここである程度の方向性を定めておかないと初期臨床研修も受身となりモチベーションもあがらないだろう。

 病院と研修医がホストとなって交流会(飲み会)が研修棟の会議室で実習終了後の毎週金曜日に開かれる。実はこれが楽しみでこの病院にいるようなものだ。今週は大学の後輩が3人も来ていると大学の後輩でもある研修医にいわれ交流会に参加した。

 わざわざ全国から学生が来てくれて、離れていても北海道の事情や、他の病院の様子、大学の様子が入ってくるのは多くの学生が実習に来てくれる病院ならでは。ありがたいことである。他にもスマートでカッコいいレベルの高い病院はいくらもある中であえてうちの病院にくる学生も面白い経験を積んだちょっと変わった人が多い。あちこちの大学から集まった学生、研修医やスタッフが交流することでが来ることで情報とモチベーションを交換する。かつて学生運動が熱かった時代の生き残りでもある敏腕副院長がいつもの大法螺を吹く。

 医療福祉の現場は教育的な場であるし、病院は地域の教育機関でもある。近くの農村医学研修センターではさまざまなセミナーが開かれている。付属の看護学校の看護学生は病棟や地域での実習を繰り返しているし、PT(理学療法士)やOT(作業療法士)の福祉分野の学生もやってくる。病院に来る学生にとってもそうだし、スタッフにとってもそうだし、患者にとってもそう。エンパワメントされ地域で再び生きていく力をえて退院していく。また継続的なケアで自律を支援する。 地域で活躍する医療や保健のスタッフはそんな患者さんや高齢者から学ぶ。 


若いケアスタッフが、スポーツや文化活動、子育て、消防団など地域の活動、家業の農業を手伝いながらケアの現場に携わるのは、ある意味それだけでメディコポリスを実現しているようなものだ。そして自分が老い、障害をもつ身になったときにこんどはケアを受ける側に回るのだ。

 これだけの医学生がやって来くるという点ではある意味、農村医科大学を実現しているといえるだろう。今後、地域の短大のあとを引き継ぎ、看護学校と統合して看護大学設立の計画も具体的に動きはじめたようだ。 厳しさを増すこれからの時代の課題はFood Energy Careの地域圏内自給』(『もう一つの日本は可能だ』内橋克人著)といわれる。そういう意味では、この地域は最先端を行っているのかもしれない。

 そういう自律した地域を増やしていくというのが自分の野望だ。できれば北海道で・・・・。これから日本におきるであろう医療崩壊は文明転換の第一歩。それからどう再建していくか・・・。である。しかし、今晩も救急外来の当直なり~。