リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

★お知らせ★




思うところがあってFC2ブログに引っ越しました。 引越し先はこちらで新規の投稿はすべて引越し先のブログのみとなります。

3病院交流会

2009年11月29日 | Weblog
昨年に引き続き、県内厚生連の精神科病床をもつ3病院交流会が開催された。
今回は佐久病院の主幹での開催。

佐久病院のケースワーカーの杉田さんからはNPOのことを伺う。

病院や行政や地域の関係者が集まる精神保健福祉協議会から発足したNPO法人「ウィズハートさく」が開設して5周年を迎えたそうだ。
就労支援や作業所など行政からも事業の委託を受け、年間の事業費が1億円に迫る勢いとのこと。
スタッフも常勤で9名を約50名の大所帯となり、人々をつむぎながら、ネットワークも広がっているそうだ。
運営する共同住居も9箇所に増え、ノウハウも蓄積され、人のネットワークも広がっているので、今後はさらに必要に応じてグループホームも増やしていけるとのこと。

なんともうらやましい限り。

安曇野市でも憩いの家を出発点に小さなNPOが誕生したばかりで、勉強させてもらいながら手伝わせていただき、それが自分の居場所にもなっている。
こういう場は面白い。新しい地域づくりの可能性を感じさせる。

地域のいろんなリソースとコラボレーションしながら、ニーズを発掘し、佐久の「ウィズハートさく」や、長野市の「絆の会」のように育てていければいいな。

地域の支援ネットワーク
NPOなど
医・職・食・住・友・遊
ほたか・野の花 NPO法人に

漢方薬、保険はずしのピンチをチャンスに!

2009年11月26日 | Weblog
内閣府の行政刷新会議による事業仕分けで、漢方薬や湿布等の市販品類似薬を保険適用外とする方向性で結論が下されたそうですがとんでもないことです。

医療や東洋医学の何たるかを知らない仕分け人が何を言うかです。

湿布薬に関しては、家族みんなの分を欲しがっているのではないかというくらい大量に希望される方がいて包括化などの方向性はあり得るとは思いますが、あちこち痛いお年寄りを湿布で我慢させているくらいなら、むしろ鍼灸や維持リハビリの保険適応のあり方を再考するべきでしょう。

この漢方薬の保険はずしは、さすがに暴挙だと考える人も多いようで、医療従事者や市民から非難の声が上がっています。

【ツムラ・芳井社長】漢方薬の“保険外し”に反発‐「事業仕分け」の結論を一蹴

心身を一体のものとして捉え複雑系としてシステムを読み解こうとする東洋医学の側から見れば西洋医学では有効な治療法の無いような病態に関しても出来ることはたくさんあります。

また高齢者の医療にかかる医療費の削減やQOLの向上を目指すなら、老いや病と折り合いをつけつつ共存を目指す東洋医学を推進したほうがいいであろうことは、漢方を主軸においた治療で効果を上げていた南富良野町での経験からも示唆されていることです。

生薬やエキス剤が薬価収載され、西洋薬とあわせて医療に自由に使える、また鍼灸をはじめとする補完代替医療がここまで一般的であることは実は他の国と比較して、世界がうらやむ日本の医療のアドバンテージなのです。
西欧諸国はもちろん、中国や台湾、他のアジア諸国でもこういう医療環境のところはありません。
であるからこそ民主党も統合医療の推進というマニフェストを掲げたのではないでしょうか。
我が国から漢方薬のエビデンスの集積やメカニズムの解明のための研究をさらにおしすすめ世界に発信していかなくてはなりません。

漢方薬の使用に関しては診断に対しての処方ではなく、証に対して処方するというのが基本です。
証は東洋医学の理論をもとにした経験則やエキスパートオピニオンともいえる口伝(くでん)の集合からなっています。
診断ではなく個別に効くであろう全体像(証)の人に、効くであろう処方をして、効いたならば証があっていたという理屈(方証一致)ですから、西洋医学流のエビデンスのレベルではせいぜいケースシリーズどまりで、RCTなどは難しいのです。

しかし理屈に基づいて古来より言われているように用いれば、ちゃんと効くのです。

自分の経験ですが、ストレスで疲れ果てバテているのになかなか眠れず、食欲もなくなったときにすすめられて補中益気湯を飲みました。
初めて飲んだその日(!)にひさしぶりにすっきりと気持ちのいい眠りにつけたことを思い出します。
ついでに疲れがたまると毎度出てきて悩まされていた痔核まで治ってしまいました。
食欲も出て気持ちのいい便通もつき体が元気になっていくのを実感しました。
今考えるとエネルギー切れの気虚の状態が補気の作用で改善され、また昇提作用(気を上に引き上げる作用)の効果で痔(下陥の状態)の改善されたと解釈できます。

そんな経験があって以来、漢方薬や東洋医学を信頼し、自分でも勉強しながら少しづつ使える方剤を増やし、いろいろなエキス製剤を試して飲んだり生薬を煎てみたりしながら経験を蓄積しています。

精神科、心療内科に流れついた西洋医学の目では単なる不定愁訴としか捕らえられなかった、痺れや冷え、のぼせ、動悸、痛みなどの症状が東洋医学の理屈でみごとに説明でき、こういう人に効くという(証)にあった方剤を出せばかなりの確率で期待されている効果が得られます。

「楽になりました。」
「何かいい感じです。あっている気がします。」
「2年間取れなかった頭のモヤモヤがすっきりしました。」
「のどのつかえが取れました。」
「気持ちが落ち着いています。」
「つづけてみたいです。」

著効と言えるようなケースも経験し、最近は患者さんからもこういう言葉をいただき感謝されることも増えてきました。

自然の治癒力や回復力を助け、その人なりのバランスに落ち着ける心身を一体として読み解こうとする理論や、傷寒論の精緻な急性熱性疾患の経過の観察には新鮮な驚きを覚えます。

風邪ひとつとってみても、西洋医学だけでは固体側の要因は無視した対処療法しかできませんが東洋医学では養生法の指導と一体となった細やかな治療が出来ます。
また、こころの風邪といわれる「うつ病」の養生にも東洋医学の考え方はフィットします。

そして来るべき強毒性のインフルエンザのパンデミックの際には必ずや傷寒論の考え方や漢方薬が役に立つでしょう。

漢方の保険はずしが議論され、漢方医療はピンチにたたされています。
しかしこのような議論になっている今こそ、東洋医学を西洋医学とともに医療に欠かせないものとして、医療者や市民に広く認知してもらうチャンスともいえるのではないでしょうか?

まずは署名にご協力をお願いします。↓

漢方を健康保険で使えるように署名のお願い

クセになるMBTシューズ

2009年11月25日 | Weblog


最近はまたMBTのシューズを愛用している。
以前、山の店のカモシカスポーツでデモをしているのを見て衝動買いした靴だ。

MBTとは(Masai Barefoot Techonoloty)のことで、一日に何十キロも歩くマサイ族が砂の上を裸足で歩く動き再現したシューズだそうだ。
自然の中をかけずり回っていた状態であり、本来はこちらの筋肉の使い方の方が生理的という説明をされると、たしかにそうかもと思ってしまう。

この靴は靴底がカーブになっていて、適度に柔らかい。そのためまっすぐ立っていても安定しない。

慣れるまでは歩きにくく、使い始めたときは体中筋肉痛になったが、そのうちフワフワとしたような感じがクセになる。

気分が不安定な中に安定していて、多動傾向のある自分には合っているようだ。
ついでに足首に重垂をつけて運動不足を解消している。

30000円前後と靴にしては少々高価だが新しい物好きで多動傾向のあるハンターな人(ADHD)にお勧めしたいシューズである。

MBT-Masai Barefoot Technology

大河ドラマ「天地人」最終回。

2009年11月22日 | Weblog
NHK大河ドラマ「天地人」が最終回を迎えた。

義と愛に生きた上杉景勝と直江兼継をはじめとする上田衆、そして石田光成との友情を軸に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗などの群雄が次々と登場し戦国時代を描ききった大作だった。
お金をかけているだけあって、大河ドラマは力が入っている。
映像も美しく、凄惨な戦国時代の話しなのに、なんともさわやかな印象の視聴後感だった。
旬な男、小栗旬演じる石田光成が抜群にかっこよく、戦国諸将のイメージが変わった。

今年は十年以上ぶりに大河ドラマをほぼ全て見通すことができた。(一回見逃した。)そのためにNHKの受信料も初めて払った。
多少生活に余裕が出来てきたのと、パソコンで録画できるので見逃すことがなくなったからだ。

越後へお船と旅に出た直江兼継のシーンの感想。妻夫木 聡は7代目くらいの水戸黄門になれるかも?と思いました。



オレにもやらせろ、事業仕分け。

2009年11月17日 | Weblog
民主党による政府の「事業仕分け」がすすんでいる。

事業仕分けとは 「構想日本21」によると、国や自治体が行なっている事業を、 予算項目ごとに、「そもそも」必要かどうか、必要ならばどこがやるか(官か民か、国か地方か)について、外部の視点で、公開の場において、 担当職員と議論して最終的に「不要」「民間」「国」「都道府県」「市町村」などに仕分けていく作業だそうだ。

政策が立案された時点では優先順位の高かった事業でも、状況の変化に伴って優先順位が下がってくることはありうる。
また計画がきちんと遂行できているかどうか、無駄なく有効に予算が使われているかどうかをチェックすることも必要だ。

この事業仕分け、医療でたとえればリトリアージといえる。
ちなみにトリアージとは医療資源の限られた状況で、最善の効果を得るために、傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定することである。このトリアージを再び行うことをリトリアージという。

政治とは突き詰めれば「みんなのお金の使い方」である。

民意を得て民主党に政権交代したからには、マニフェストに基づき政策のリトリアージが徹底的に行われるということだろう。

これはアリだとは思う。
事業仕分けの過程でいろいろ見えてくることもあるだろうし。

「何を優先するか」ということは国家のあり方にかかわる問題であり、情報公開を徹底して広く議論をしていくことが求められる。

しかし、そもそもこの事業仕分けって誰がやっているのだろう?

政策や予算も官僚が案を作り、事業仕分けも外部の「仕分け人」がやるとするならばそもそも国会議員とは一体何をしている人たちなのだろうかとふと思う。

そして、この事業仕分けもインターネットでライブ中継するくらいなら、そもそも国会自体を廃止して、ネットを通じて直接議論や投票をすればいいのではないかと考えてしまうのだが・・・。

そういう事業仕分けはしないのだろうか?

参考エントリー

加藤周一講演会

ナウシカの世界

2009年11月15日 | Weblog
日本人の主食は米です。

北アルプスのふもとの当地は新潟県の魚沼を越えたといわれるほど、おいしい米の産地が取れる場所。(※1)
新米の季節です。

最近は週末に掃除や選択をしながら、まとめてご飯を炊いて冷凍して食いつなぐというやり方をしていて、わりと順調にいってました。
ここ最近週末も忙しく(言い訳)、すぐに出来るスパゲッティやインスタントラーメン、あるいは外食などが続いていて・・・。

 久しぶりにご飯を炊こうかと、高級炊飯器(※2)を空けたら・・・。















ナウシカの世界になってました。(※3)

(何度目だろう。またやっちまった。)


お酒にはなっていなかった。
ラン、ランララランランランランランランララー・・・。
こんなもんです。


(※1 商工会議所の人が言っていたようです。食味コンテスト?)
(※2 高級炊飯器は味が違います。これにはお金をかけたほうがいいですよ・・。)
(※3 この表現は大学時代の友人の表現です。)

管理栄養士に期待すること。

2009年11月11日 | Weblog
ある読者から「管理栄養士に期待すること」を聞かれたので・・・。
自分の悲惨な食生活への反省も込めて・・・・。

***********************************************

医食同源という言葉もあるように、何をだれとどう食べるかということは生きていくことの土台として薬などでの治療以前のとても重要なことです。

私は「治療」というより「養生」という言葉が好きです。
治療者におまかせではなく、自分を大切にすること、生きていくことへの主体性みたいなものも含まれていると考えるからです。

NSTの活動が盛んとなり栄養が大事ということがやっと他の医療職にも意識されるようになってきていますが、自分たちのスペシャリティやスキルを他の職種へのPRすることも大切な仕事と思います。
自分も含め医師は栄養に関しては実はよくわかっていない人も多いので、むしろ教えていただきたいです。
研修医のときには栄養指導につかせてもらったりしました。

糖尿病や腎不全の患者さんへの栄養指導はもちろんですが、患者さんのもとへ出向いてもらって嗜好調査を依頼したり、高齢者の摂食嚥下障害などでチームの一員として栄養指導(栄養支援)などをお願いすることが多いです。
摂食障害(拒食症、過食症)の家族の会などでお話をお願いしたこともあります。

また最近は訪問栄養指導も増えてきており高齢者や精神障害者の家へ訪問して、自分を総動員して具体的に患者さんやご家族ができる方法をともに考えていくということを期待しています。

また栄養に関するスペシャリストであることはもちろんですが共通言語として摂食嚥下障害や各種疾患などについて基本的な知識はしっかり身につけておいて、医師や看護師、OTやSTなど他の職種の得意なことを知り必要なときに適切なパスがまわせることが大事と思います。

他には食育という側面からも活躍を期待しています。
特に子供や若い世代の夫婦などに対して食べることの意味をもう一度考えてもらうような働きかけができるといいなと思います

「あなたはあなたの食べるものでできている。」のですから・・・。

食べるものからも「あなたは大切な人で生きている価値がある。」というメッセージを感じることが大事です。

自然の恵みや生産者から調理をするひとまでの思いや物語を感じながら「いのちをいただく」ということが、身体障害や精神障害をかかえ生きることに疲れたり、投げやりになっている人にとっても治療的意味のあることだと考えています。

病院内で医師の指示を待つのではなく、積極的に患者さんのもとへ、地域へ出て行って様々な人や団体とコラボレーションをして、貧しくなる一方の地域の食文化を変えていくくらいの活躍を期待しています。


***********************************************

薬膳やマクロビオティックにも挑戦してみたい・・・。


介護うつと認知症

2009年11月10日 | Weblog
介護うつが増えている。
介護者の4人に1人がうつとなるという調査結果もある。
介護地獄という言葉があるくらい、気を休める暇もなく、先も見えない状態で介護をつづけることは大変だ。
地域の出張健康診断(ヘルススクリーニング)などでの診察の場面で介護の苦労話や相談になることも多い。

介護をめぐる心中事件や虐待の報道もまれではなく、病院では兄弟で介護を押し付け合う修羅場なども珍しい光景ではない。

「ディサービス」、「ショートスティ」、「ホームヘルプ、訪問看護、訪問診療と24時間365日の医療の緊急対応。」

これらの3本柱があったとしても家族の心身の負担は相当のものだ。

寝たきりの高齢者も大変ではあるが、認知症がからむともっと大変だ。

神様のようにニコニコと穏やかに惚けて行かれる方もいる。
しかし現役時代威張っていた人ほど妄想、暴言、徘徊など認知症を抱える葛藤が症状として現れてくる。
特に「先生」とよばれていた人は手に負えない。

アルツハイマー型認知症ではその半分に見られるという、「ものとられ妄想」も介護者にはダメージが大きい。
自分で財布など大事なものをしまい、しまったこと自体を忘れてしまい、とられたと周囲の人間を攻撃する。
あろう事か介護の中心となっている人が妄想対象になることが多いから始末に負えない。

それは家族の中での立場の逆転や、世話をされて負い目に感じている心理に起因するものであるから了解は可能なのだが・・。
認知症を抱えた本人と家族の歴史が浮き彫りとなり試される事態になる。

高齢の単独世帯で認知症の初期の段階で各種詐欺にだまされる。
老老介護で暮らしていて、なんとか介護していた側もまた認知症を抱え、いよいよ生活が破綻する。
追いつめられていく家族の状況を見てか見ないでか、認知症を抱える高齢者が自ら食事をとらなくなったりする。
入院して点滴をして、抗うつ薬を使って食べられるようになったはいいが、今度は介護者がうつになる。

そんなケースを目にすることが続いている。

われわれは介護の社会化を目指して介護保険制度をつくってきた。
たしかに高齢者を地域で支える仕組みも昔と比べればはるかに整ってきてはいる。
しかし利用には要介護度に応じた上限もあり、重度障害や認知症を抱える高齢者の一人での生活をささえられるほどの立派な仕組みではない。
要介護度の認定も以前より厳しくなってきている。

居住型の福祉(ケアホーム、グループホームなど)もまだまだ足りない。
80歳まで生きれば15%、85歳まで生きれば30%の方が認知症を抱えることになるのだ。
認知症など非がん患者の集大成である終末期をどう支えるかという経験や覚悟もまだまだ足りない。

労働市場の厳しい時勢、子供世代、孫世代は経済的にも苦しく共働きが普通だ。
親の介護は家族のつとめと、なんとか介護をしていても力及ばず虐待や介護放棄に近い状態になってしまうこともある。

高齢者を地域社会でどう支えればよいのか・・・。

高齢者に関するあらゆる相談をワンストップで相談できる場所をということで包括支援センターを各地に作った。
そこでは地域にニーズがあり足りないサービスを作り出すことすらも期待されている。

介護への需要は大きい。
ディサービスや、ショートスティのできる施設。
訪問系のサービス、グループホームなどの居住福祉はまだまだ足りない。

しかし若い人が介護職をやって家族を養いながら食べていけるだけの収入が得られない。

ここに根本的な矛盾がある。

これから日本はますます貧しくなっていくだろう。
一方でこれから団塊の世代が前期そして後期高齢者となり、社会の中での高齢者の割合はますます増える。
「おひとりさま」で孤独な高齢者も増えてくるだろう。
少ない若者が多くの高齢者を支える構図となる。

増えていく高齢者をどう遇し看送るのか、国全体で真剣に議論することが求められている。

11月14日を「いい医師の日」に。その4

2009年11月08日 | Weblog
「いい医師の日」は「いい医療を考える日」でもある。

医療をたまにしか利用しない人も、毎日のように利用している人も、よりよい医療とは何かを考えることを通じて、死や老い、健康やいのちのあり方について日頃から考えておくことは大事なことだ。
それは、よりよく生きて死ぬことにつながるだろう。

我が国の医療や福祉にかける予算自体が他の先進諸国に比べても少ないが、医療のコスト(30兆円というパイ)の中での配分もいびつだ。
コストの多くが直接的なケアや人ではなく、検査機械や薬など医療の周辺産業にやや流れすぎている現状がある。

薬や各種検査や高額の医療を充実させるかわりに、直接的なケアや医学的知識の普及にお金を重点的に回すほうがトータルのハピネスには貢献しそうだ。

知識や知恵を持つものはだまされない。
そのためには市民が医療の有用性や限界性を医療従事者と共有する必要があろう。
健康情報をみきわめ、医療と上手につきあう力、メディカルリテラシーを身につけることが必要だ。

パートナードクターやファミリードクターを持とうと呼びかけられている。
気軽に相談できる医師をもっておくことで、いろんな科の様々な医療や医師へのコンタクトが容易になる。
医師とは医学情報や技術、自分の体の調子、高度な医療、社会などと自分を結ぶのメディア(媒介者)なのだ。

精神医療の世界には「精神医療ユーザー」という言葉がある。
医療者にお任せではなく、主体的に医療を使おうということが見えてとても好ましい。
精神病の患者さんは自分の考えたこと、感じたことを一生懸命訴え、フィードバックを求めてくる。
こうなってくると医師も自分と社会とを結ぶメディアの一つともいえるし、自助具の一つであるともいえる。

メディアは監視しておく必要があるし、道具は常日頃から磨いておく必要がある。


そこで「いい医師の日」にあたって2つの提案がある。

一つは医学をもっとみんなのものにするきっかけとするいうこと。
医療者も地域での講演会や健康を考える会などで住民との対話につとめてはいる。
しかし「おもいっきりテレビ」のみのもんたや、「本当はこわい家庭の医学」のビートたけしなどバランスのわるい、時には間違った情報が広まりがちである。
学校教育の中でも、健康や医学的知識については保健体育という授業のみである。
これではいけない。
できれば学校教育のなかに「雨の日の保健体育」ではなく、もっと若い頃から、保健や福祉、医学を制度や社会のあり方まで含めた教科(たとえば人間科)をしっかりと根づかせるべきであろう。
その第一歩としていい医師の日を、公開講座や出前授業、意見交換会をおこなうなど医療者と市民との交流を持つ機会とするのはどうだろう。


二つ目はしっかり考えて医療をえらぶことで、よい医療を育てていくということ。

医療のあり方を考えるきっかけに、普段お世話になっている医師にハガキを送っていい気分にさせて(安く)こき使おうというアイディアはどうだろう。
柏原病院あたりのキャンペーンがヒントだが、最終的には医師を登録(投票)して(中心となる医師(主治医)1人と専門医必要数)、その登録に応じた報酬などもありかなとも考える。
(フリーアクセスは制限せず。)

・・・ちなみに報酬は「ありがとうハガキ。」だけ。

それでも患者さんからの一言は医師のモチベーションをあげるのに絶大な効果がある。

医師の中にはもちろん金銭がモチベーションとなる人もいるだろうが、仕事から生まれるやりがいをモチベーションとしている人のほうが多かろう。金銭をもとめる人には、もっと効率のよい仕事はいくらでもあるから。

選挙のときにあわせて、あまり良く知らない裁判官の投票もあるくらいだから、そのくらいやってもバチはあたらないだろう。
お互いに医師患者のパートナーシップを強めるきっかけになると思う。
そのコストを国や地方自治体が負担するとしても対してコストもかからないだろうが効果は絶大であろう。

(おわり)


11月14日を「いい医師の日」に。その1
11月14日を「いい医師の日」に。その2
11月14日を「いい医師の日」に。その3

11月14日を「いい医師の日」に。その3

2009年11月07日 | Weblog
私の持論は「医療はあればあっただけ。」、裏返せば「ないならないなりに。」である。

どの地域でも

「あったらいいななら、脳外科センターでも欲しい。」
「しかし今、われわれの地域に必要なのは・・・」

とは北海道の厚岸町の議員の室崎正之氏のおっしゃっていた至言である。

しかし冷静に考えても高度医療センターの門前に住む人が幸せで長生きできるとは限らない。
難病や障害とともに暮らすのにはそこそこの医療でも、福祉の充実した町のほうがいい場合だってあろう。

ドクターコトーのように離島にESWT(超音波で尿路結石を破砕する機械)の機械を入れたり、大動脈瘤の待機手術をするなんてあり得ない。
漁船の上で盲腸の手術くらいはありえるかもしれないが・・・。

もっともブラックジャックのような医者は確かに存在した。
コトーのモデルとなった瀬戸上健二郎先生はあらゆる手術を島でやり「命のことは神様に,病気のことは瀬戸上先生に」 と島の人からは言われているそうだ。

そして、かの若月俊一氏もニーズがあれば一般外科はもちろん、帝王切開から、耳鼻科や整形外科の手術もなんでもやっていた。
手術がうまくいかずに患者が亡くなってしまい手術室で土下座をしてあやまったこともあるそうだ。

でも今はとてもムリだろう。
たとえ善意であっても、うまくいかなかった場合に許してもらえないだろうから。

大野病院事件のように逮捕される場合すらある。
悲しいことにそういうスーパーヒーローは存在しえない世の中になってしまった。

しかし、高度なことができなくても地域ですべきことはたくさんある。
地域診療所では福祉をささえることや在宅医療、健康増進や医学知識の普及も大事な仕事。

「医療はあればあっただけ。」ではあるが、全体のリソースが限られている以上、プライマリヘルスケアや福祉の充実が当然、高度先進医療の充足よりも先んじられるべきである。
お金のある人には高度医療もあるが、それ以外の大多数には最低限の福祉や保健も乏しいアメリカ型の医療より福祉や保健をベースにピラミッド型になっているキューバの医療のほうがバランスはとれている。
医療よりは保健や福祉、食料や水、治安などのベーシックヒューマンニーズの充足が当然先である。

「医療はないならないなりに。」である。
ディビットワーナーという人の書いた「Where there is no doctor」という世界各地で読まれている本がある。
基本的なケアや保健や公衆衛生の知識がイラストをたくさん使ってコンパクトにまとめてある。
そもそも今の我が国の若い人はこの程度の保健の知識はあるのだろうか?

学生時代に実習に行かせていただいた北海道霧多布の浜中町の診療所。
霧多布の診療所に47年務め神様になってしまった医師道下俊一氏と、その後を引きついた小川克也医師のスタンスの違いが象徴的だ。
「霧多布人になった医者」道下俊一氏は自虐的とも言える「僻地医五戒」を残した。

・僻地医は人間らしい願いを持ってはならない。
・僻地医は超能力者でならなければならない。
・僻地医は病気にかかってはならない。
・僻地医はマスコミを意識しなければならない
・僻地医は聖人でならなければならない。

その後を引き継いだ小川克也医師は最初の2年間は24時間365日やったが、夜間休日に診るのを徐々に減らしていった。
「夜間や休日の診療は心肺蘇生の必要な患者に限る。」という診療体制は町でも物議を醸し出したが・・。
最終的に「できることしかしない。」「住民が気に入った医療機関に行けばいい。」というスタンスにたどり着いた小川医師。
医者の仕事は診療以外にも色々ある。学校医、船員の検診、乳幼児検診、予防接種、介護保険の仕事・・・・。
できるだけ長く、そこで医者でありつづけるため。
(日経メディカルスペシャル 2009年夏 500号記念臨時増刊号より。)

これはこれで立派なスタンスだとおもう。

精神科診療をしていると無限の受容、関わりをもとめてくる病理を抱えた一群の患者さん(境界性パーソナリティ障害など)とおつきあいをすることになる。
基本的な信頼感に欠け周囲の人間と安定した対等な人間関係を築くことに困難を抱えている人たちである。
彼らは自分でも「何をしたいのか」がわかっておらず、寂しさの病理を抱え、見捨てられ不安が強い。

治療者が相手の要求に応えようとすると、いい治療者に出会えたと喜び神様のように持ち上げる。
しかし要求はエスカレートして、そのうち治療者は応えきれなくなる。
「見捨てられた。」「ひどい治療者だ。」と一変してこき下ろし、治療者を攻撃したり大量服薬やリストカットなどの自傷行為をしたりする。

そのような患者さんへの関わり方の基本は、治療の枠組みを堅持し、「できることしかしない。」そして「たんたんと関わる。」ということだ。
細く長く安定してつきいながら、患者は社会的スキルを身につけ、基本的信頼感を獲得し安定して自立してくというのが治療戦略となる。

地域での医療も全く同じことが言えよう。

腕もよく面倒見がよく自己を犠牲にして医療をやってきた医師がその他の事情でやめ、その後の(普通の)医師が辛い想いをするというのは地域医療を巡るよくある話だ。

住民の要求(NeedsではなくWants(わがまま))がエスカレートするため、ますます医師が居着かなくなる。
100点満点の医療が10年あってなくなるよりは、60点の医療でもずっとある方がよほどいい。

夕張医療センターの村上智彦医師の言うように、医療も打ち上げ花火で終わってはいけない。住民も変わり、システムとして持続可能なありかたを考えざるを得ない。
医療の世界でも持続可能性(Sustainability)はキーワードである。

そう考えると農村医科大学の創設を目指して、佐久総合病院を大きく育ててきたり、周囲の診療所に医師を継続的に派遣してきた若月俊一や佐久病院の目指していたことが理解できる。

若月俊一が佐久の農村に来た時代、農民は医者にかかることを「医者をあげる。」といいギリギリまで医者にかからず、手遅れになるケースが後を絶たなかった。
若月らは農村に入り、演劇を通じて健康や医療の知識を伝えた。
また現在の健診の先駆けとなる全村のヘルススクリーニングを行い、潜在疾病を拾い上げ「気づかず型」「がまん型」に分類した。
そして都会に負けないくらいの高度な医療センターを農村部に作った。

しかし、今や「健康や人生に関することまで、すべて医療にお任せする一方で結果については激しく苦情を言う。」というスタンスの人も増えている。

今の状況に関して若月俊一なら何というだろうか。

参考:患者さんの権利と責任


Where There Is No Doctor: A Village Health Care Handbook

Hesperian Foundation


このアイテムの詳細を見る


日本語版全訳→医者のいないところで(Where there is no docotor.日本語訳)

霧多布人になった医者―津波の村で命守って
道下 俊一
北海道新聞社


このアイテムの詳細を見る


・先生、なまらコワイべさァ―田舎医者への峠道
小川 克也
ごま書房


このアイテムの詳細を見る


村上スキーム 地域医療再生の方程式
村上 智彦
エイチエス


このアイテムの詳細を見る


村で病気とたたかう (岩波新書 青版)
若月 俊一
岩波書店


このアイテムの詳細を見る


信州に上医あり―若月俊一と佐久病院 (岩波新書)
南木 佳士
岩波書店


このアイテムの詳細を見る


11月14日を「いい医師の日」に。その1
11月14日を「いい医師の日」に。その2


雪虫ウソつかない。

2009年11月04日 | Weblog


初雪が降る直前に雪虫という虫がフワフワとぶ。
学生時代を過ごした札幌では、季節の風物詩であり、自転車でキャンパスを走っていると服に白い虫がいっぱいついたものだ。
札幌で見かける代表的な雪虫は「トドノネオオワタムシ」という虫。

先週、八幡神社のまわりでお尻に白い毛のついた虫がフワフワ飛んでいた。
「雪虫見たよ。」といっても周りの人は誰も知らなかったが、花や自然を愛でる入院患者さんはちゃんと知っていた。

信州で見かけるのは「リンゴワタムシ」という虫らしい。(害虫だそうだ。)
八幡神社の森はケヤキだからケヤキフシアブラムシかも?

とおもったら、さっそく里にも初雪がちらついた。
雪虫はウソつかない。

今朝はキーンと冷え込み、冬の空気。
山は雪化粧。車の窓には霜がはり付き、水たまりには氷も張っていた。

例年になく鮮やかだった今年の紅葉も徐々に色あせ季節は冬へとむかう。


信濃富士の別名をもつ有明山。



北アルプス針ノ木岳、爺ヶ岳、鹿島槍方面を望む。


11月14日を「いい医師の日」に。その2

2009年11月03日 | Weblog
それでは、いい医師とはどういう医師だろうか?

医師と医師以外の人を分けるものは何か?
先日参加した臨床研修の指導医ワークショップでのプロダクトを下にあげてみる。



医師法によると

「医療と保健指導を司ることによって、公衆衛生の向上と増進に寄与し、国民の健康的な生活を確保する。」

とある。

そして

「医師以外は医業ができない。 」(業務独占)

と規定されている。

一方で

「診療に従事する医師は、診察治療の求があった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」(応召義務)

という規定がある。ちなみに罰則規定はない。そしてこの義務は米国にはない。

技術や知識、力を持っているものはそれ相応の義務があるということだ。
ノブレス・オブリージュに類するものか。

有名な「ヒポクラテスの誓い」を見てみる。

「ヒポクラテスの誓い(ヒポクラテスのちかい、英語: The Hippocratic Oath)は、の倫理・任務などについての、ギリシア神への宣誓文。現代の医療倫理の根幹を成す患者の生命・健康保護の思想、患者のプライバシー保護のほか、専門家としての尊厳の保持、徒弟制度の維持や職能の閉鎖性維持なども謳われている。なお、誤解されがちだが、患者への自己犠牲的献身を謳っているわけではない。

「著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。」
Wikipedia:ヒポクラテスの誓い

だいたいいいことを言っていると思うが、この項には異論を唱えたい。
技術や知識は大衆のためにある。
知識や技術を分かりやすい形で伝えるのも仕事だ。

覚悟という意味では、むしろ長崎で西洋医学を教えたお雇い外国人のポンペの言葉が身にしみる。

「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」
「The Doctor is a way of life,to live it,or to leave it.」

医師とはある生き方のことらしい。

山本周五郎の赤ひげ(新出去定)にも登場願おう。

「現在われわれにできることで、まずやらなければならないことは、貧困と無知に対するたたかいだ、貧困と無知とに勝ってゆくことで、医術の不足を補うほかはない、わかるか」

難しい・・・。

さて、研究や教育も医師の仕事とされる。
臨床での知見や経験をまとめ、医学という巨大な科学的、経験的知識のプールの絶え間ない刷新、改定に参加する。
患者さんから学んだことを皆が使える知識にする。
後輩の医師や学生、コメディカルに技術や知識を伝える。
ささやかであってもこれらに参加することも医師として求められていることだ。

ますます分からなくなってきた・・。

ところで医師には診断治療研究の技術者(specialist)としての側面と、役割(role)としての側面があることがわかる。

患者やコミュニティへの医療の継続性や責任性を包括的に保証する医師の役割を重視するのがジェネラリスト、必要なときに知識や技術を提供するのを重視するのをスペシャリストと分けて考えてみるのも助けになるだろう。

もちろん一人の医師の中に両方の要素が様々な割合で併存する。

権利意識の高まりから医療訴訟が増え、危険なことはやってられないと思い、とことんつきあう態度の医師、外科や産婦人科などの大変なインターベンションを伴う科に進む若い医師が減っている。
自分たちの生活も大事だと考え、そこそこの実践でよしとする医師が増えている。

覚悟と責任の問題から役割としての医師を担える人が減っきているような気がする。
その公的な役割を自覚している医師はどのくらいいるだろうか。
まず医師にしか出来ないことを医師がちゃんとやることが必要であろう。

それでは医師にしかできないこととは何であろうか?

医師は診断と治療を行うが、その究極の姿(役割)は「死亡診断書作成士」であろう。
死亡診断書を書くのは医師(歯科医師含む)にしか出来ない。
また「うつ病」の診断で「休養を要す」という診断書をだしたり、保険会社の診断書を書いたりすること。
つまり診断により社会的責務を免責したり、障害をアセスメントし、皆のいのちや生きる権利を守るのことも仕事だ。
(年金の診断書など。)

こう考えると医師とは広い意味での医療、社会資源のトリアージという社会的な責務がある公職である。
限られた地域のリソースをいかに配分するかという判断が求められている点において、政治家や裁判官などと同じような意味合いがある。
医師には人権感覚、バランス感覚が求められるだろう。
パンデミックや災害の現場、あるいは医療が極端に不足する状態などでは、普段はわかりにくいそういったことが明らかになる。


ところで技術者(Specialist)としての医師の部分の多くはコメディカル(specialist)が十分担うことが出来る。
またシステムをつくることで解決できる部分もある。

大量生産大量消費にうんざりする人が増え、製造業が不況だからというのもあろう。
確かに医療や福祉周辺は人気でありコメディカルと言われる職種の数はどんどん増えている。
理学療法士や救急救命士などは供給過多気味で飽和状態に近いとも言われる。

しかし彼らは十分に活躍できていない。
それはコメディカルのリーダーとしての役割を果たせる医師が少ないからだろう。
チーム医療をさらに推進しコメディカルが力を十二分に発揮してもらうことで医師不足を補うことができるだろう。

思い出すのはリハビリテーションのセラピストに「先生は設計士でおれたちは職人だから。」といわれたこと。
これは自分の役割に悩んでいたときだったのでものすごく腑に落ちるたとえだった。

コメディカルが十分に活躍できないのは医師の責任でもある。
もっとも本当に優秀なコメディカルは医師を上手に使うが・・・。

そろそろまとめよう。

「人生のよろず相談を行う。使えるものは何でも使う、なければ作る。」というのが自分のスタンス。

もう少し細かく見ると

病気をはじめ様々な理由で困っている人に寄り添い、とことん手を尽くす。
現在の医学ではどうしようもない場合でもともに悩みオロオロしながら関わり続ける。
保健医療福祉にかかわる多くの職種の人が気持ちよく最大限能力を発揮して働けるようにお膳立てをする。
医学的技術や知識の習得を怠ることなく続け、また技術知識プールの更新や追加も行う。
臨床で見え(てしまう)ことを分かりやすい形で地域や行政に還元し、よりよい医療の仕組みや、後進の育成、地域づくりにもかかわる。
元気で働き続けられるように自分の健康管理もしっかりできる。

医療現場はそもそも社会の矛盾や不条理の集まるところである。
コミュニティからちょっと離れた位置にいつつも、社会の矛盾や不条理に対して「悩み、たたかう。」

このあたりが私の考える「いい医師」ということになろう。

(・・・続く)

11月14日を「いい医師の日」に。その1
ジェネラリストとスペシャリスト

信州メディカルラリー

2009年11月02日 | Weblog
誘われて信州病院前救急初療競技会(信州メディカルラリー)にスタッフとして初参加してみた。
これは県内の救急医療の推進を目的とした競技会で、地域ごとで医師、看護師、救急救命士が4人で1チームを作り、想定された救急シナリオに沿って活動し、医療手技や判断で採点を競うもの。(ほとんどスポーツ)
このメディカルラリーはヨーロッパでは広く普及しているそうで、近年我が国でもあちこちで開催されるようになってきているが、信州メディカルラリーは今回で4回目。長野市の消防学校ででの開催だ。
今回は1チーム4人で、8チームが参加した。

大規模災害など普段あまり経験しないようなシナリオで手技や判断を磨けるというのも売りである。
模擬患者などのスタッフは特殊メーク(ムラージュ)を施し(痛そう)熱演する。
見学しているだけでも楽しい。

さて自分が傷病者役として参加したのは4つのシナリオステーション(+2つのサービスステーション)のうちの1つ。
老人保健施設「いきいきしなの」で爆発事故がおきたという設定。
様々な理由でコミュニケーションが難しい人たちの2次トリアージで、11人の受傷者のうち優先的に搬送する3人を選ぶというもの。

私は爆音で鼓膜破裂で難聴、吹っ飛ばされて胸部打撲、前腕出血している厨房職員の役を演じた。
他に認知症の高齢者とか、失語症の方、パニックで過呼吸発作をおこす女性、不法就労の外国人、熱傷の患者などをチームで次々と診察し、処置しつつ情報を集め、搬送順位を決定するというシナリオだった。



他に、飲酒運転での事故をかくしての胸痛での救急要請、ハイブリッドカーの衝突事故(感電注意)、自宅分娩で大量出血など、非常に凝ったシナリオぞろいで、どれも罠があり、バイタルサインなどの状況は刻々と変化する。
いくつかあるポイントに気づかないと高得点は狙えない。

医師はプレホスピタルでの救急診療に関わることはほとんどないが、現場で情報を集めたり、狭い通路をバックボードで搬送したり、救命処置をしたり、救急隊員らのキビキビした動きやチームワークが印象的であった。





ACLS(医療現場での心肺蘇生のプロトコール)や、JPTEC(病院前の外傷の処置のプロトコール)、DMAT(災害派遣医療チーム)など特に救急医療の分野でエビデンスに基づいてプロトコールを標準化し、繰り返し練習して体に覚えさせるというようなオフザジョブトレーニングの手法が最近盛んである。
救急医療の現場では頭をつかってじっくり考えたり、調べものをしたり、パニックになっている暇はなく体に覚えさせるべし。
どうせやるなら医師、看護師、救急救命士などの多職種で、みんなで楽しくというわけで、スポーツやゲーム感覚のものが多い。
プロバイダーから入り、インストラクターなどへステップアップし(バッジや証明書をもらえる。)、ねずみ算式にプロバイダーを増やしていく作戦だ。
私はドグマッティック(教条的)なこういう類いのものはあまり好きではなく最低限の参加だが、好きな人はとても好きなようで(出会いもあるからね。)インストラクターとして何度も参加したりしているようだ。

そしてこのメディカルラリーはその集大成とも言えるもの。
いいと思ったのは2次医療圏内で普段ともに仕事をしている救急隊や病院のスタッフが同一チームで参加するということ。

そして、なんと我が北アルプス広域救急と大町病院のチーム(ちゃっとやりましょスターズ)が総合優勝。
集まって何度も練習を重ねて来たそうだ。
そして、なんと全国大会もあるらしい。

自分は今回はスタッフとしての参加だったが、打ち上げにも参加させてもらい、当直の時にいつも顔をあわせる救急隊スタッフや、隣の病院のスタッフとも知りあえたのが最大の収穫だった。