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精神科医師のブログ。
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石巻市での「こころのケアチーム」の活動

2011年04月30日 | Weblog
 平成23年3月11日の午後2時46分、地震は東北地方太平洋を震源地として発生。引き続いておこった大津波で東北地方の沿岸部は壊滅的な打撃を受けました。徐々に復興はすすんでいるものの余震はまだ続いており、地震と津波によって引き起こされた福島の原子力発電所の事故は終息からはほど遠い状態で災害は未だに現在進行形です。

 震災や津波被害の様子はテレビやラジオ、インターネットなどのメディアを通じて連日伝えられました。私自分も被災地に住んだことも無ければ家族や親戚がいるわけでもないのです気分は高揚しネットとテレビから離れられなくなりました。患者さんたちも調子を崩す人が多く忙しかったこともあり自分も吐き気と睡眠が上手くとれなくなりました。これではいけないと情報を遮断し努めて休養をとるようにして気力と体力がやっと回復してきたところでした。

そんなときに厚生労働省が主幹する「こころのケアチーム」の一員として宮城県石巻市に医療支援の要請が合ったとき思い切って手を挙げました。震災直後の現場を自分の目で見ておきたかったというのもありました。
「こころのケアチーム」は厚生労働省が音頭をとり依頼のあった被災地に登録した医療機関が医療チームを派遣を行う仕組みです。長野県からは石巻市に県内の精神科医療機関のチームがリレー式でスタッフを派遣しています。
安曇総合病院のチームは平成23年4月24日~27日までの(主に4月25、26日)となりました。



実は東日本大震災の医療支援としての短期派遣はJA長野厚生連安曇総合病院からはすでに要請のあった福島県三春町(沿岸部の被災地、また原発の周囲の地区の避難者が非難している。現場保健師からの要請。)への精神医療中心の支援チーム(2チーム)、それから岩手県大槌町へのJMAT(日本医師会の医療チーム、1チーム)がでており、福島県のいわき市の被災した精神科病院に薬剤師も派遣しており、こころのケアチームはこれらに引き続いての派遣となりました。
もちろん残ったスタッフにも被災地に行った人の分をカバーする負担がでてくるわけで中規模の病院にしてはけっこう頑張ってスタッフを派遣していると思います。薬局長は日曜大工の腕を活かして木材と百円ショップのプラスチックの引き出しを大量に購入してモバイル薬局を作りました。

厚生労働省の音頭とりで始められたこころのケアチームですが、現地では保健師などの指揮下での活動となりますが、当初、末端の支所の担当者はこころのケアチームに何を依頼すればよいのかわからないという感じもあったようです。一応活動マニュアルもあるようで、これによれば「こころのケアチーム」に期待される役割は以下のようなものです。

1 ) 震災によって障害された既存の精神医療システムの機能を支援する 。
2 ) 震災のストレスによって新たに生じた精神的問題を抱える一般住民について対応する 。
3 ) 地域の医療従事者、被災者のケアを行っている職員( 救急隊員 、行政職 、 保健職等 )の精神的ケアを行う

精神科医師、看護師、精神保健福祉士、心理士、事務等の多職種の混成チームで活動せよとのことでしたが、支援も手探りで自分たちのより以前に行ったチームの医師から「あまりやることが無いかも。」というような話しも聞いていました。

精神科では患者に寄り添うことや患者を取り巻く構造を変化させることこそが治療です。被災者や、現地で中長期に関わっているスタッフに対して短期間のかかわりでどのようなことができるのだろうか不安でした。しかし実際に被災地に行ってみて全国から交代で行くからこそ出来ることもあり、医療そして精神医療のさまざまな側面にあらためて気付かされました。

4月24日の午前7時半に7名のこころのケアチームは大勢の職員に見送られ安曇総合病院を出発しました。荷物を満載したハイエースバンはノンストップで高速道路を北上し16時前には宮城県石巻市に到着しました。東北自動車道では自衛隊の車両や他の緊急支援車両も多く見かけました。


(福島のサービスエリアで売られていた、がんばろう日本、ありがとう自衛隊という包み紙の桜まんじゅう頭)


石巻市の中心市街地のライフラインはほぼ復旧してきておりインターチェンジ近くの大型ショッピングモールや郊外型の店舗の多くは営業を再開していました。
一方で海沿いの倉庫や水産加工工場が集まるエリアは津波の被害が激しく、全半壊した建物が無惨な姿をさらしていました。海沿いの市民病院は機能を失っており医療拠点は津波を間逃れた石巻赤十字病院が担っていました。

打ち合わせ場所である石巻市役所は石巻駅の目の前にあり、中心市街地から撤退した百貨店の建物を改修したものでした。このあたりも津波で浸水した後らしく建物の中まで埃っぽく潮の香りがだたよっていました。まるで戦後の復興期の日本や発展途上国の都市に来ているかのような印象を受けました。駅周囲の街角には石巻出身のマンガ家、石ノ森章太郎のマンガのキャラクターである仮面ライダーやサイボーグ007などのカラフルな等身大オブジェが沢山ありシュールな雰囲気でした。

市役所の中は罹災証明書や法律相談、仮設住宅の申し込みのに来る市民でごったがえしていました。現場は山積する課題への対応に追われていました。行政職員も被災者であり亡くなられた方も多く、全国各地の市町村からもカラフルなゼッケンをつけた市町村職員のチームが派遣されていました。掲示板には安否情報や復興へ向けた動きが震災の初日から時系列で掲示されており震災後の混乱の後が垣間見えました。

担当保健師と担当するエリアを確認し現地の様子や現時点での医療供給体制についての情報をえました。津波をかぶらなかったエリアで開業している医院なども再開しつつあるようでした。ひきつづいて避難所の巡回から戻ってきた佐久総合病院のチームから申し送りを受けました。「外来診療と訪問診療、保健相談」の要素を合わせた様な感じとのことでした。

その後、毎日行われている医療チームの合同カンファレンスに参加するため石巻赤十字病院に出向きました。病院機能はほぼ回復しているように見受けられました。


(石巻赤十字病院でのカンファレンス。東北一活気のある病院)

カンファレンスを前にした病院のホールには色とりどりのユニフォームを着た医療チームのスタッフが大勢待機しておりまるでメディカルラリーの開会式のような雰囲気でした。医師、看護師、ロジスティックス(事務)などからなる数名のチームで多くはJMAT(日本医師会の組織するチーム)のようです。長野県からは同じ厚生連の篠ノ井病院や佐久総合病院のチームも来ており、かつてお世話になった先生にもお会いすることができました。

会場の会議室の壇上には石巻赤十字病院のモットーであろう「東北一活気のある病院」という旗が掲げられ、震災によりそのモットーが図らずも実現してしまった様な様子でした。壇上の医師から業務連絡や避難所での咳や下痢の症状の人数を集計などの報告がありました。避難所と病院の間にいくつかショートスティベースという場所が作られ点滴や一泊程度の入院、簡単な処置などができるようになっているようです。週1回には「こころのケア」のカンファレンスも行われているそうですが日程的に参加できませんでした。

その後、宿に戻りましたが食堂は復興に来た各種業種の作業員らしき人や行政の支援に来た人たちでにぎわっていました。翌朝は余裕を持って宿を出たつもりでしたが三陸自動車道は被災地の復興に向かう車の渋滞しており予定の倍近い時間がかかりました。復興にむけ多くの人や物が被災地に入り込んでいるということで喜ばしいことではあります。


(津波で破壊された北上支所)

初日に我々のチームが担当したのは北上地区でした。北上川の河口の追波湾(おっぱわん)の周囲に集落している地区です。たくさんの子供たちが犠牲になった大川小学校もこのエリアにあり被害の大きかった地域です。海沿いの平地の建物はほとんどが流出あるいは倒壊し、支所や学校の建物も破壊され高台にある運動公園の管理棟物が臨時の支所となっていました。衛星電話が配置され行政職員や自衛官が出入りしまさに前線基地という感じでした。体育館は避難所となっておりグラウンドには仮設住宅の建設がすすんでいました。

避難所は半島にそっていくつもありますが行政職員を大規模避難所のようには配置することはできず、ほぼ住民の自治に任せているそうです。現場の保健師さんたちは石巻市街から通っており週に2日はきっちり休むようにしているそうです。頑張りすぎてしまう職員もいるようで心配されているようでした。

海沿いの地区には全てを破壊しはぎ取っていった津波の爪痕も生々しくのこっていました。道路はなんとか車は通れる程度には復旧され、自衛隊車両や避難所の被災者を入浴施設に運ぶバスなどが行き交っていました。しかしこれらの道も地盤沈下のため大潮のときには冠水したりするようです。被災地のサクラはちょうど満開で、がれきの中を喪服を着た方が集まり法要をしている場面や、自衛隊や警察が集中的に遺体を捜索しているところにも出くわしました。アフリカや東南アジアなどでの僻地の巡回診療をイメージさせました。

地区の保健師からリストアップされた精神障害(主に統合失調症)の方を避難所や自宅に訪ねました。
統合失調症をかかえている方はここでも時間がとまったような雰囲気で穏やかな表情を見せてくれました。
通院が途絶えて自宅で引きこもっており震災を機に再び医療に繋がった方もいたようです。前回のチーム(同じ長野県の精神科医療機関のチーム)から1週間程度の間隔をあけての訪問でした。同じエリアに東北大や愛媛県から来た一般診療のチームも来ておりもう少し頻度も多く巡回しているようです。

避難所には様々な業者や医療チームが出入りしており、ある避難所でお婆ちゃんから「おたくらは何屋さん?」と聞かれ、「こころのケアチームです。」というと「眼科はないの?」とおっしゃって去っていかれた方がいて、なるほど今はそういうのもニーズかなと思いました。

その日は天気もよかったため自宅の片付けや仕事、学校に出かけている人も多く避難所には高齢者や当番の方が残っていました。電気や水道などのライフラインはまだ復旧しておらず電気は発電機でまかない、水は沢水を利用していました。野菜なども含め食料品は不足無く届くようになってきておりボランティア団体が炊きだしに来る日もあるようですが、基本的には当番制で交代で調理しており、せめて食事くらいは良いものをとしっかり作っている様でした。

我々が訪問している間にも避難所に宅急便や郵便の配達もあり被災者が直接受け取れる様になっていました。支援で送られたであろう大量のタオルや足の電気のマッサージ機がまだ段ボール箱からあけられずに積み上げられたりしていました。大衆薬が集められたコーナーがあったり、衛星電話やインターネットが使えるようになっていました。法律相談等、様々な相談のダイアル番号がはられていました。

要介護状態の方は亡くなられたのか、他の地域へ2次非難されたのか避難所には見当たりませんでした。震災直後はサプライも耐え、人でもない中の大混乱で大変だったことと思います。

糖尿病や高血圧などの慢性疾患の方はかかりつけていた地域の医院や南三陸町の病院などは医療機関自体がなくなってしまった方もおられ巡回してくる医療チームからの処方薬でつないでおり、これからどうしようかと悩んでいる様でした。避難所では主に血圧測定と不眠を入り口に声をかけさせていただきました。はじめはみなさん遠慮がちでしたが、結局何人もの方のお話を伺い、必要な方には主に睡眠導入剤や漢方薬、風邪薬等を処方させていただきました。

すでに都市部に住む家族が電気も水道も回復した市街地にアパートも確保してくれているものの地区の役員でもあり避難所を離れてよいものかどうかといった相談や、仙台や石巻に子供はいるがいきたくないし行政が復興住宅をどうするか見通しを立ててくれないと動くに動けないというような不満を訴えてこられる方もいました。
また知的障害をもつ家族ともに非難しているが、避難所の生活のストレスでトイレにこもって出てこなかったり、パニックになったりということで落ち着くまでどこか入院か施設に入れてもらえないかという様な相談もありました。

お話をうかがうことはできても直接的な援助は難しく地区の担当保健師に繋ぐことしか出来ませんでした。

翌日は市内の内陸の農業地域の学校体育館などを借りた避難所に行きました。石巻市内でも内陸部の農業地帯は津波の被害もなく地震で建物が一部損壊した程度の被害ですんでいました。この地域の避難所への避難者はほとんどが沿岸部の方で、津波後にヘリコプターで救助されたり、病院で治療をされた後に安定して移ってきた方でした。

自分で動くことのできる若い方や、より支援の必要な要介護状態の方、分かりやすい障害をもっている方は順次2次避難先に移り、かろうじて日常生活が自立しているレベルの高齢者が多く取り残されているように思われました。
骨折などの怪我をされている方もいました。血液透析を受けている方もたくさんおられ巡回してくるバスに乗り皆で病院に通っておられました。
避難者は仮設住宅やアパートがきまったり親戚のもとに移っていったりして徐々に数が減り避難所の統廃合もすすんでいました。

我々が訪問した避難所も2つの避難所が統合されたばかりで来たばかりの行政の方もまだ避難者を全て把握していないようでした。全国から来たボランティアの介護職や看護師も常時複数詰めており詰め所のようなコーナーができ夜も交代で泊まっていました。パーティションも支援物資として届いているそうですが、行政の方によると「管理しにくい。」ということで更衣室など一部にしか使われていませんでした。仕切りがあれば合ったでどんどん高くして囲って引きこもってしまうというようなこともあるようですが仕切りが無ければプライバシーが保てずストレスは多そうです。

体育館の一角で神戸からきた介護職のボランティアさんがリーダーとなって体操を始めていました。普段からディサービスなどでされているのでしょう、丸くなってあつまり椅子に座った状態での体操で身体を曲げたり、手を動かしたり手慣れた感じで仕切っていました。
我々のチームのメンバーもそこに加えていただきました。小さな子供もくわわり、みなの笑いを誘っていました。

体操のあと、長野県から来たこころのケアチームと自己紹介しました。「どこそこのだれそれさんは心配だよね、みてもらったら・・・。」など言いあっていましたが、「眠れない人はいますか?」といったテーマから、徐々に「自分の家族はだれが亡くなったとか、津波のことを思い出すとか」、「前を向いて元気出して生きていかなきゃいけない」などの話しがぽろぽろでてきました。
ある方は「家族を失い一人になった。ボランティアさんには本当に救われている。でも1週間で知り合えたと思ったら帰ってしまう。手紙なんかも本当に助かっているのよと。」おっしゃっていました。1週間まえからこの避難所でボランティアをしていた看護師はこんな雰囲気になったのは初めてだと言っていました。
「一人ではない」という感覚は極めて重要です。全国から交代で来たボランティアは重要な役割を担っていると感じました。

その後、コーナーをつくっての医療相談や避難所をまわって血圧測定などをしました。
高齢の認知症の母を施設にお願いしたい、小さな子供をかかえて病院にも行けない、薬のことが心配などなどの相談がありました。パーキンソン病の薬が切れて動けなくなったが、巡回診療隊はどのチームも持ち合わせておらずやっと受診できて内服したらスタスタ歩けるようになったという話しも聞きました。
みなさん大変な状況の中、努めて明るく振る舞おうとされているのが印象的でした。

校庭には再開した小学校の校舎から子供たちが若い先生につれられて出てきて「春みつけ」をしていました。交代で去っていくボランティアさん達にお礼にごちそうしようと避難者のおかあさん達が公民館で料理をして振る舞っていました。
校庭のサクラは満開で春爛漫の雰囲気の中でおだやかな日常と非日常が混在していました。

大規模避難所に行ってみて直感的に「あ、この環境は病棟、特に精神科の病棟にに似ている。」と感じました。

避難所では突然の災害のような突然の不幸に襲われたものが集まり時間と空間を共有していました。震災で家を失いいまのところ行く場所が無いと言うことを除けば、それぞれの人の抱える背景も様々で、お互いはもともと知り合いではなく様々なところから集まっていました。そして次に行くところが見つかった人から去っていっていました。

避難者の集団は行政やボランティアのグループによってある程度管理され、日常生活はある程度構造化(パターン化)されていました。外からマッサージや炊き出し、医療、警官、慰問など様々なボランティアが入れ替わり立ち替わりやってきていました。ボランティアと被災者が混じり合って一緒に料理をしたりレクリエーションをしたりしていました。避難所は回復力のある場で家や家族を失った人にとって避難所にいるということが一つの癒しになっている可能性があると思いました。

被災者で助かった人は自分だけ助かって申し訳ないと言うような気持ちに苛まれ自分を責めてしまうそうです。(サバイバーズギルトといいます。)避難所で皆で助け合ってなんだかんだとやっている間はいいですが、訪ねてくるボランティアも減り、仮設住宅などに移った後が心配です。
阪神大震災のときの教訓が活かされて抽選でバラバラにしてしまうのではなくコミュニティ単位で移るような試みもあるようですが、今のところ仮設住宅の建設は必要数に比べて圧倒的に少ないようです。

震災直後のドタバタした時期もおわり新しい現実のもとで生活を再建していかなければなりません。
いわゆるハネムーン期間(人々が団結し支え合う時期)が終了し、被災者間にも持てるもの持たざるものの格差が広がってきます。最初のわずかな差が日を追ってどんどん開いて行く。これを経済用語ではハサミに見立てて「鋏状格差」と言うそうです。

精神面においてもこのくらいの時期から大災害を自分の物語になんとか位置づけらる人とそうでない人に分かれてきます。つまりリカバリーを果たしうる人とそうでない人に分かれてくるでしょう。
精神医学では愛するものを失った死別反応が2ヶ月を越えて続くものに関して臨床的な関心や介入が必要となる可能性のある状態を考えはじめます。うつ病やPTSD、アルコール依存症などになってしまう心配もあります。
何らかの形でSOSを出せる人はまだいいのでしょうが、出せない人が心配です。現場に出向き、気付かず型、がまん型のニーズをいかに拾い上げていけるかが支援者には求められています。

そして、セルフヘルプグループ、ピアサポートというのはリカバリーにとって最も重要な要素だと思います。
精神医療関連職種はこれまでも自死遺族や依存症、精神疾患などの自助グループをサポートすることを行ってきました。今後の支援の方向性として専門職としてそれぞれの当事者のセルフヘルプ活動を側で支援していくのが良いのではないでしょうか?(サポーテッドピアサポートと言うそうです。)

仏教では49日の法要を行います。避難所でうまれた絆を絶やさずにつづけていったり、慰霊碑を建てたり1周忌など節目ごとに喪の儀式や弔いを丁寧にやるなどのことも大事でしょう。
浄土真宗の法事ではかならず「朝(あした)の紅顔、夕べの白骨」の話しがあります。津波の現場に行き、この世の不条理を再確認させられました。様々な宗教はこの世の不条理にどのように対峙してきたのでしょうか。怪しげなカルトは困りますが、今こそ宗教者の出番ではないでしょうか。

他の地域でのこころのケアチームの活動は徐々に撤収の方向であると聞きました。
地域の保険医療福祉の機能も徐々に回復しつつありリレー型で繋いできたこころのケアチームの活動も、これから支援拠点を置いた中期の滞在、それから定期的な訪問、現場の精神医療システムの復旧というように形をかえての中長期の支援に移る必要があるように思われました。

ボランティアで来ていた看護師さんたちに「後学のため今後、こころのケアについてはどう考えていけば良いのか教えてほしい」と聞かれました。私見ですが、これまで述べてきた様なことを簡単にお話しさせていただきました。

今回の震災と津波の被害は職住接近しコミュニティが残っていた東北の沿岸部でおこりました。「これが都会の日中の災害だったら?自分の地域ではどうだろう。これから出来ることはどんなことだろう?」と、それぞれに宿題をもらって帰ることになりました。


災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録
クリエーター情報なし
みすず書房


中井久夫氏の震災関係の原稿がまとめられて再出版された様です。
一部が無料公開されています。
道中の車のなかでiPhoneで読んでいました。

心の傷を癒すということ (角川ソフィア文庫)
安克昌
角川書店


同じく神戸で活躍された精神科医、安克昌先生の記録。
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