リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
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精神障がい者の一般救急医療について

2010年12月30日 | Weblog
まずは満を持して出たと思われる以下の毎日新聞の記事(2010年12月26日朝刊)
をご覧下さい。

リンク切れになると困るので一応引用しときます。*********************************

救急搬送:統合失調症患者、腸閉塞に 受け入れ先なく死亡 救急隊、13病院に要請

 ◇東久留米で昨年2月
 東京都東久留米市で昨年2月、体調不良を訴えた統合失調症の男性(当時44歳)が救急搬送されずに腸閉塞(へいそく)で死亡した。救急隊は2時間半にわたり受け入れ先を探したが、13病院に受け入れられず搬送を断念した。「精神科などの専門医がいない」「病床がない」などが病院側の理由だった。高齢化や自殺未遂で精神障害者が身体疾患にかかるケースが増えているが、両方の症状を診られる病院が少ないため搬送が難航している。精神と身体の合併症患者を受け入れる体制の不備が浮かび上がった。(社会面に「こころを救う」)

 ◇心身合併症、減る受け皿
 男性の家族が情報公開請求して開示された東京消防庁の記録や家族の証言によると、男性が死亡するまで次のような経緯をたどった。

 昨年2月14日(土)20・00すぎ 男性が母親に「具合が悪いから医者に連れていってくれる?」と訴える。病院は医師などの配置が手薄な休日・夜間体制

 21・55 母親が119番通報

 22・00ごろ 東久留米市消防本部(現在は東京消防庁に編入)の救急車が自宅に到着

 22・40 母親の呼びかけに応答なし。救急隊員はすぐに生命にかかわる重症ではないが、意識障害があるとみて2次救急医療機関への搬送が必要と判断。自宅前に救急車を止めたまま内科や脳外科がある救急病院に対し、両親から聞いた本人の病歴を伝えた上で、受け入れを要請する電話をかけ始める

 翌15日(日)1・10 13カ所目の病院に受け入れを断られ、搬送を断念。救急隊は容体に変化がないとして3次救急医療機関には受け入れ要請せず、男性を自宅へ運び入れる

 9・00ごろ 母親が同じ消防本部に「病院を探してほしい」と連絡し、消防も探したが見つからない。その後、父親が男性の通院先の精神科病院へ行き、治療を頼んだが「休日で対応できない」と断られる。両親はほかに2カ所の病院に電話で受け入れを依頼したが、これも断られる

 14・00 男性の心臓が動いていないことに気づいた両親が119番通報したが、すでに死亡。大学病院での解剖の結果、死因は腸閉塞と判明

 東京消防庁の記録によると、救急隊員が受け入れ要請した13病院の内訳は▽総合病院5▽大学病院4▽精神科病院3▽都立病院1。断った理由は▽「専門外」(精神科などの専門医がいない)5▽理由が不明確な「受け付けられず」4▽「満床」4--だった。

 このうち要請記録が残っていた2病院が取材に応じ、当時の状況を説明した。

 多摩地区の精神科病院は救急隊が連絡した患者の容体から「脳などの疾患が疑われる」と判断。検査設備や医療機器がないため受け入れを断り、検査ができる他の病院へ運ぶよう頼んだという。

 多摩地区の大学病院は救急隊から連絡があった時、すでに他の救急患者の治療をしていた。「対応できるベッドが空いていなかった」という。

 このほか複数の病院が今回のケースではなく、一般的な事情を説明した。総合病院や大学病院によると▽休日や夜間はスタッフが少なく、治療後も目が離せない精神疾患に対応するのは困難▽当直医が精神障害者の診療で苦労した経験がある--などの理由で受け入れられないという。【江刺正嘉、奥山智己、堀智行】

 ◇総合・大学病院の精神科病床、報酬低く撤退相次ぐ
 精神疾患患者も含めた搬送困難例を解消するため、東京都は昨年8月末、救急隊が受け入れ先の2次救急医療機関を見つけるまで20分以上かかるか、5カ所以上断られた場合を「選定困難事案」とし、地域ごとに指定した病院が患者の受け入れを調整したり、自ら受け入れに努める「東京ルール」を導入した。

 都によると「選定困難」に該当したのは今年10月末までの1年2カ月間で1万4105件に上り、うち精神疾患や薬物中毒が理由になったケースは1766件で全体の1割を超えた。

 東京消防庁の担当者は「東京ルールで改善された面もあるが、合併症になった精神障害者の搬送が最も難しい状況は変わっていない」と話す。精神疾患患者の多くは暴れたりせず、救急隊は総合病院や大学病院でも受け入れが可能とみている。

 一方、総合病院と大学病院の精神科病床は一般診療科より診療報酬が低く病院経営を圧迫するため、全国で年々削減されている。02年に2万1732床(272施設)あったのが07年には1万9103床(248施設)と12%減った。

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 ■ことば

 ◇2次救急医療機関
 入院が必要な救急患者に対応する医療機関。交通事故や脳卒中などで命にかかわる患者は3次救急医療機関(救命救急センター)で入院治療する。精神障害者は自覚症状が乏しかったり、正確に伝えられないことが多いため、2次救急医療機関への搬送後、重篤と判明することもある。

統合失調症:総合・大学病院の精神科病床 撤退相次ぐ

 搬送困難例を解消するため、東京都は昨年8月末、救急隊が受け入れ先の2次救急医療機関を見つけるまで20分以上かかるか、5カ所以上断られた場合を「選定困難事案」とし、地域ごとに指定した病院が患者の受け入れを調整したり、自ら受け入れに努める「東京ルール」を導入した。

 都によると「選定困難」に該当したのは今年10月末までの1年2カ月間で1万4105件に上り、うち精神疾患や薬物中毒(大半は過量服薬による自殺未遂)が理由になったケースは1766件で全体の1割を超えた。

 東京消防庁の担当者は「東京ルールで改善された面もあるが、合併症になった精神障害者の搬送が最も難しい状況は変わっていない」と話す。精神疾患患者の多くは暴れたりせず、救急隊は総合病院や大学病院でも受け入れが可能とみている。

 一方、総合病院と大学病院の精神科病床は一般診療科より診療報酬が低く病院経営を圧迫するため、全国で年々削減されている。02年に2万1732床(272施設)あったのが07年には1万9103床(248施設)と12%減った。



こころを救う:精神疾患、13病院受け入れられず 救えた命では


息子の遺品の音楽テープを聞く母親=東京都東久留米市で2010年12月14日、武市公孝撮影

 ◇遺族「どうして心の病というだけで」 精神科あるのに--「専門外」とも
 「心の病を抱え、今は苦しまずに逝ったことが幸いだったと思う」。10月下旬、東京都東久留米市で精神疾患を理由に救急搬送できずに死亡した男性(当時44歳)の自宅を訪ねた。「救えた命だったのでは」。私たちの問いかけに父親(77)と母親(71)は当初、報道されるのをためらった。あの日からまもなく2年。表札には長男の名前が残る。20年間、病に悩んだ息子の死をどう受け止めればいいのか。両親の心は揺れ続けてきた。【堀智行、江刺正嘉】

 09年2月14日夜から15日未明。東久留米市の住宅街で救急車が赤色灯を回しながら立ち往生していた。いつになっても受け入れ先の病院が見つからない。搬送をあきらめ自宅に戻すことになった。「大丈夫よね」。母親には長男が眠っているように見えた。だが救急隊員は「命の保証はできません」と告げた。

 母親が長男の異変に気づいたのは23歳の時だった。アルバイトから帰ってくると突然母親に食ってかかった。「なんで後をつけてくるんだ」。おとなしい性格で、口げんかした記憶もない。心配した両親が精神科病院を受診させると統合失調症と診断された。

 「おれ、早く治さないと」。長男は担当医の勧めで事務の仕事にも就いた。だが薬を飲むと頭がもうろうとし、欠勤が増えた。薬を抜き仕事を続けたが、今度は幻覚や妄想に悩まされた。精神科病院へ入退院を繰り返し、10回以上転職した。30代半ば過ぎから「もう死にたい」と言い出した。

 救急出動から3時間半がすぎた15日午前1時半。救急車から降ろすと長男が一瞬、目を開けた。「お兄ちゃーん」。母親が呼び掛けたが返事はない。こたつの脇に布団を敷いて寝かせ、見守った。小さい頃はリレーの選手。優しくて、自慢するくらい頭もいい子。「経理の資格を目指し一生懸命勉強して、結婚もしたかったろうに」。意識が戻らないまま息を引き取ったのは、その約12時間後だった。

 1回目の命日を過ぎた頃から、両親は気持ちに折り合いをつけようとしてきた。「難しい病気だったから私たちが先に逝って息子が残ってもかわいそうだった。最後に親孝行したのかも」。取材の申し出は、その思いをかき乱すことだったのかもしれない。だが再び訪れた時、母親が言った。「寝る前にお兄ちゃんを思い出さない日はない。お父さんも必ず、仏壇のかねを2回たたいて布団に入る。口には出さないけど悔しいと思う」

 12月中旬、両親は消防の担当者から救急搬送の経緯を聞き驚いた。受け入れ要請したのは有名な大学病院や総合病院ばかりだった。精神科があるのに「精神は専門外」と断った病院もあった。

 「どうして心の病というだけで診てもらえなかったのか。息子の命はそんなに軽かったのでしょうか」

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 情報やご意見をメール(t.shakaibu@mainichi.co.jp)、ファクス(03・3212・0635)、手紙(〒100-8051毎日新聞社会部「こころを救う」係)でお寄せください。

引用ここまで*************************************************




まず、こういうことがおきてしまうのは精神障害者の受け入れの問題やシステムの問題もあるだろうが救急現場の志の問題でもあるとおもう。
自分たちが、その患者を断ると後が無いと分かっている地方の大病院では、どんな患者さんでも、ベッドが満床でも受け入れようと努力をする。それが技術や体制をもつものの責任である。と教えられてきた。(どうしても無理ならシステムの問題である。)
また地域の救急隊とも普段からコミュニケーション(ICLSやJPTEC、飲み会などを通じて)をとっている。
だから救急隊が救急車でできることよりは、どんなに何も無く何もできない病院でもできることはいろいろあるはずだから、とにかくいったんは受け入れて、そこでできる診断や治療をして高次の医療機関へつなぐというリレーをしようということにならないのが不思議だ。
さらに救急車が患者を救急隊の判断で自宅へおいていくというのはあり得ることなのか?
そして何故、3次医療機関への搬送をおこなわなかったのだろうか?精神障がい者だからといって軽くみられたのか?

こういうことがおきるというのは自分には信じられないことで、都会はつくづく恐ろしいところだと思う。
たくさんの病院が林立する都会だと他の病院が受けてくれるという油断がおきてしまうというのもあるだろうし、それぞれの病院で専門性がわかれてしまい複数の問題を抱えた患者(特に精神疾患の合併)は、救いの手が差し伸べられず不幸なことになってしまうのだろう。
もっとも名古屋圏の病院では初期研修からの医師の教育や、連携が上手くいっており、断る文化というのがなくこういうことはおきづらいのだということも聞いた。(どうなんでしょう?)

次に精神疾患をもつ患者の身体合併症の救急についてではあるが、たしかに合併症をもつ精神障害をもつ患者を診たがらない気持ちは分からないではない。

精神障害をかかえる方が手術や処置をうけるときは、なじみの精神科の看護師さんがつきそったりするし、必要に応じて鎮静をしたり。確かにいろいろ手間がかかることもある。

しかし、この人は慢性期であり、家で生活できていた人であり、身体疾患での受診なのであるから普通にたんたんと診療すればよいのである。精神科が無いからと言って断るのはおかしい。

精神障がい者(行動や意思決定にも支援を必要とする人たち)に関する医療を提供するというのは確かにいろいろ難しい面がある。
精神科をもつ総合病院、特に精神科病床をもつ総合病院というのは減っているし、総合病院で働きたいという精神科医師は少ない。

精神障害というのは、まず支援をうけるところに支援が必要な人たちであるから、精神科医などが間に入りプライマリケアを担わざるを得ないのは仕方が無いことなのかとも思うが、この辺りに関してのスタンスは精神科医の間でもいろいろだ。

「本来の精神医療をやりたい人は単科の精神科病院やクリニックに行くはずで、総合病院でのこって精神科をやっているのは変な医者ばかりだ。」なんて発言が精神科医からも聞かれるくらいだから・・・。

そりゃ身体疾患の合併の無い患者(高齢者ならそんな人はいないだろう)だけを相手にしたり、完全予約制の優雅な医療だけでいいならやりたいよ。(そういうのも必要だろうけどね。)

精神疾患をもち、すぐに救急車をよんで病院へ来てしまう患者と言うのはどこの病院にもいると思うが、これも手厚く関わり不安を取り除いていけば確実に減らすことができる。

精神疾患の患者は、長年向精神薬を飲んできた方など痛みなどの身体感覚が鈍っていたりすることもある。自分の経験では尿を6lくらいためて水腎でパンパンになっていたり、S状結腸の捻転でレントゲンでコーヒービーンズサインが見えるような状態でもほとんど痛がらなかった人を知っている。

こういった特殊性もあるから救急医療(いわゆる精神科救急とは別の一般の救急)に精神科医が関わることも意味はあるだろうともおもう。


以前いた病院では、当然救急外来の担当医が精神疾患の患者もまずは診ていたが、いまの病院では一度でも精神科にかかった患者は最初から精神科がよばれるような空気があり大量服薬などは精神科医が最初から呼ばれて胃洗浄からおこなうことになっている。(いいのか?)
もっとも精神科の若手医師が多かったこともあり、一時は全科の当直の2日に1日は精神科医だったりもするような状況だったので、体制的に仕方ないと思う面もあるが、患者さんに対して、どうせプシの人でしょと軽くみる態度は気に入らない。

精神障がいがあったら、まともな医療が受けられないのか!と思う。

酔っぱらいの喧嘩での顔面の裂創で当直医師が「まず、精神科の先生をよんでみてもらってください。」といって呼び出しがあったのはさすがに怒ったが、認知症の人が具合が悪いといって来たときに普段の様子が分からないからまず精神科医にみてもらって、といって一通りみたら肺炎や心不全や他の薬の副作用など身体疾患だったことなどはしばしばある。

そういう精神障がいを抱える患者さんに対する態度に対して腹の立つこともあるが、分からない人には分からないのだと諦めの気持ちでもある。

そういう意味で初期研修医が精神科をローテートするようになったのは良いことだと思う。
文化がかわり理解が広まれば良いなと願っている。




社会を変えるお金の使い方

2010年12月25日 | Weblog
「社会を変える」お金の使い方――投票としての寄付 投資としての寄付
駒崎弘樹
英治出版



社会生活をおくっていていると税金を納めるだけではなく、母校をはじめ、いろんな団体、神社やお寺、地域の社会福祉協議会や日赤などの寄付の依頼がおしよせてくる。
寄付と聞くと自分に直接役に立つわけでもないし、どう使われているかも分からないし、税金がそれで安くなるわけでもない。
やりたい人が勝手にやっている事に対して何故で寄付をしなくてはいけないんだと感じられ、払う場合もしぶしぶであった。

しかしその一方で自分も関わっているNPOの運営資金に関してやはり寄付に頼らざるを得ない現状もあり、どうやってそれを集めるのかという問題がまさに突きつけられていた。

そんなときにタイムリーに自分の前に現れたのがこの「「社会を変える」お金の使い方。」であった。

副題は「投票としての寄付、投資としての寄付。」

ふむ。

著者の駒沢弘樹氏は、若手の社会起業家でフローレンスという病児保育を行うNPOの代表だ。
学生時代から起業し、これまでの著書には「社会を変えるを仕事にする」「働き方革命」などがあり、同世代でこんなに活躍している人がいるのをみて自分も頑張らなくてはと刺激を受けてきた。
この本の前半は、一人親の貧困問題からフローレンスの「ひとり親パック」が生まれ、それを寄付(企業、個人)を利用してつくっていく過程が語られている。

そして寄付についての言説が述べられる。

「ビジネスの基本は見返りを求めず与えること、そして寄付は無条件で与えることを気軽に練習できる。「自分は余裕だ、周りに与えられる。」という良いラベリングを自分に対してできて、自己肯定感を蓄積できる。そしてそれは自分に底知れない自信とパワーをあたえてくれる。」

「また、ある運動をおこなっている団体にとって、寄付をマーケティングすると言うことはそのイシュー(問題)をマーケティングするということにつながるんだ。」

ふむふむ。


この本の中心テーマであるが、著者は寄付税制の改正を提言している。
まさにここが社会を変えるたえめのブレイクスルーポイントになりうると分かる。

日本の寄付税制は所得控除であり控除額が少なく寄付へのインセンティブが少ない税制だ。
一方で欧米では税額控除であり、「税か寄付か」の選択という思想が反映された税制だ。
この仕組みがあれば、公共を支える自治体や国に「税」として治めるか、公共を支える民間主体であるNPOに「寄付」として社会投資できるか市民が主体的に選択できる。
これにより市民は納税者(タックスペイヤー)としての意識を強く持ち、寄付がきちんと機能しているのか、と同時に税金がきちんと使われているのか、という感覚を強くもち、ひいてはそれが国家をきちんと監視し、意見を述べていく参加する民主主義への建設へつながっていくのだという主張だ。

ある問題が起きても、政府はすぐに対処することができない。制度化となれば何年もかかる。そのあいだに誰かがその新しい問題に対処しなくてはいけない。そんなときに欧米のように寄付が集まれば、国民が自律的に、かつ迅速に社会問題に対応できるだろう。

ふむふむふむ。

こういった主張を携え、著者は鳩山首相の肝いりの新しい公共円卓会議にも参加し、公式資料に「税額控除」が明記された。

しかし鳩山内閣の瓦解とともに脆くも崩れ去ったのではあるが・・・・。

キリスト教文化が根底にある欧米など違って、日本では寄付という文化は根付かないというような人もいるかもしれない。
しかし、歴史をひもどけばそんなことは無いという。大仏にしろ勧進という寄付を集めて建てたものであるし、江戸時代の寺子屋、明治期の孤児院や児童施設、それから慶応義塾大学などの私立の大学、同愛会などの医療機関にいたるまで寄付は根付いていた歴史がある。いろんな組合だってそうだろう。

そして、この本のクライマックスは第6章。「もし寄付が当たり前の社会であったなら。」だ。

ここでは寄付が当たり前となった社会の様子が活き活きとえがかれている。
地域にはNPOの数が増え、活気にあふれる。お金だけではなく自分の技術やノウハウというかたちでの寄付(プロボノ)も盛んになり、いくつもの視座を得ることができるようになる。NPOと競合することになる行政もうかうかしていられず、よりよく機能する。
政治家も全国からの個人の小額寄付が活動を支えるようになり、インターネットで発言や活動実績が調べられてしまうようになり、もっと働きだす。また世界中の不公平に国民が自ら立ち向かえるようになる。

第8章では、それぞれの立場でわれわれが「社会を変えるために」できることを紹介している。寄付はお金だけではないとも・・。

巻末の「寄付先のご紹介」は余計なお世話だが・・・。

この本を読んで、NPO、税制、寄付、新しい公共などのキーワードでモヤモヤしていた部分がすっとつながり見渡せたような気がした。

日本国民はNPOに対する理解が低いというが、実際のところ制度がNPOが活躍できるようにできていない。一言で言うと国が国民を信用していないのだ。
通常のNPO法人への寄付は控除すらできない。(認定NPOのみ)福祉系のNPOは資金あつめに苦しみ、制度でガチガチに縛られた活動しかできなかったり、行政の廉価な下請けにならざるをえない現状がある。そして全国どこでも似たようなNPOしか生まれない。
しかし税金として強制的にあつめたお金を、皆に選ばれたはずの政治家が方針を立て、優秀な官僚が実務をにない真面目な公務員が着実に使うという理屈は「42兆円の税収に対し、94兆円の支出」と言う現状を見ても破綻していることが分かる。
寄付税制改革とそしてベーシックインカム。これらが実現できれば本当に社会は良い方向へ変わっていくだろう。

一年の最期に本当に良い本にであった。是非、一人でも多くの人に読んでもらいたい本だとおもう。

認知症やひとり暮らしをささえる在宅ケア「小規模多機能」

2010年12月23日 | Weblog
認知症やひとり暮らしを支える 在宅ケア「小規模多機能」
土本 亜理子
岩波書店


医療や介護福祉の周辺で取材をつづけ、自らもホームヘルパーとして現場に飛び込む土本亜理子氏。
出産、認知症、緩和ケア、介護、リハビリテーションなどとテーマは移り変われど、どの本も鋭い切り口と、丁寧な取材、問題提起の含まれたルポルタージュだ。
これまで出版された彼女の本はだいたい読ませていただいているが、その著作によりその世界の先達を知り、影響を受けたことは数知れず。

「認知症や一人暮らしを支える在宅ケア「小規模多機能」」はそんな土本亜理子氏の新作で地域に密着しそれぞれのケアをおこなっているいくつかの小規模多機能を飛び込んで取材したルポルタージュだ。

宅老所などから発展し、かゆいところに手が届かない介護保険サービスの切り札としての小規模多機能。制度化もされ、要介護度に応じた包括料金による定額制で通い、泊まり、訪問のサービスを同じ事業者が行う。鳴り物入りで制度化された小規模多機能であるが、ニーズはあるのだが現実にはなかなかふえていかない。
。制度ではもはや小規模とはいえない25人が定員だが、重度の人を抱えないと経営的に成り立たず、たとえば20人が損益分岐点などと、常にギリギリの状態。どこまでやるという際限がないため、365日24時間、利用者のニーズに応えようと丁寧に一生懸命やろうとすればするほど、スタッフの熱意と善意に頼らなくてはならなくなる。小規模多機能には介護保険の矛盾が丸投げされている、その現実を見直さないといけないという。

「経営が安定していれば、どんなに困難なケースだって受けることができます。それが私たちのやりがいだし、職員を育てることもできる。ですが、経営の不安を抱えたまま事業を続けるのは難しいですよ。」
「すべて一括でという定額制の介護報酬方式は、施設介護でしかあり得ないと思います。小規模多機能のような在宅サービスは、定額制が一見よさそうに見えるでしょう。ですが、実際にやてみると、どこかで無理が出てきます。」
という現場の声。

「良質で新しいサービスを標準的なものとして確立しようとする場合、国は介護報酬と運営基準の二つの方法をつかって制度化するため、当初にはあったはずの理念とかエネルギーなどが薄らぎます。しかし、全国で運用されるためには標準化しなければならないため仕方ないのです。つまり運営基準と介護報酬で精度が動く範囲のサービスにしかなりえない。これがジレンマなんですよ。」
という制度設計に関わる側の人の声。

「理念は良いけど、その理念に向けて全力疾走しなさいといわれたら、運営は成り立たず、正規のスタッフの首を切らないといけなくなる。ではパートばかりで良いのか。ケアの劣悪化に必ずつながります。お年寄りのいのちや安全を守れないと思いました。」
とあえて制度に乗らなかったのは宅老所の元祖、よりあいの代表の声だ。

制度に上手く乗っかり美味しいところどりをし儲けようとする人がいる一方で、熱い志をもちニーズに応えようと制度で定められたサービスの範囲を超えて現場でもがく人がいる。
それは、医療者かもしれないし介護者かもしれない。ケアマネかもしれない。
そういえば知り合いの看護師でもあるケアマネが、貧しい終末期の人を在宅で支えるために、訪問看護なら費用がかかるが、自分がいけば費用がかからないのだと何度も訪問していた。

「人が新しい何かを作り出すのは、疑問や怒りが沸点に達したときではないか」というのが著者の感想に深くうなづけた。