リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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雪景色は脳に優しい~銀色の夢

2009年12月31日 | Weblog


私は雪景色がとても好きである。
雪が降ると心がとても落ち着く。
世界をモノトーンに変えてくれるからだろう。
東京などに行くときょろきょろしてしまい数時間で情報がオーバーフローし頭痛を起こしてしまうスペックの頭である。
雪が降ると世界は白黒のコントラストが中心になり、情報量が減りオーバーヒート気味の疲れた脳を優しく癒してくれる。
雪が積もって晴れわたった夜などは最高だ。
雪はなんでも思いどおりになると思い上がった人間の頭を冷静になれと冷やす。
思索には寒い雪の降る地方の方が向いていると思う。

私の雪のイメージは森高千里の「銀色の夢」だ。
大好きなムーミンの世界のような雪と針葉樹林、オーロラの景色をもとめて北へ北へと北欧に行ったこともある。

そんなわけで雪のない温暖な地方の出身ながら、北国、雪国に住みたくて北海道、そして今は信州と移り住んでいる。

北アルプスの麓の当地は北は白馬などのスキーリゾートがあり北へ行けば行くほど雪が多くなる土地柄である。
大町までいくとそれなりに雪が積もるが南に下り松本まで行くと雪はほとんどなくなる。
そういうことを反映して、この辺りでは「1mでも南に嫁にやれ」という言葉があるらしい。

信州の人は北海道の人にくらべて雪かきを徹底的にやるような気がする。
中途半端に残すと解けて凍ってしまうからだろうか。道に雪を残すまいと最期にホウキで掃くのだ。
でもこれは律儀で生真面目な信州人の気質を現しているような気がする。
本格的に雪が積もる地域(飯山など)はまた違うのかもしれないが。

信州でも温暖化は確実にすすんでおり昔よりは雪も減っているらしい。
校庭や田んぼに水をはってスケートリンクをつくり冬の体育はもっぱらスケートだったというのは昔の話だ。

雪は少ないほうが楽だとは言うもののスキーリゾートであり民宿やホテルなどの多い白馬・小谷では雪が降らないことは致命的だ。
だから白馬では最近は「雪乞い」がおこなわれているらしい。

白馬にはオーストラリアやニュージーランドからスキーと温泉をもとめて観光客が大量(年4万人だそうだ!)に訪れる。
北海道のスキーリゾートのニセコなども同様のブームだ。彼らは長期滞在してくれるので日本人がスキー・スノボ人口が減った分を補ってくれている。
架け橋にとオーストラリアから移り住んでいる人もいて、地域に溶け込み地区の区長をつとめた人もいると新聞にでていた。
雪が好きな人はどこの国にもいるらしい。

しかし私のいる安曇野までくると雪は降っても冬景色はそれほどつづかずじき溶けてしまう。
雪もサラサラした粉雪ではなくやや湿ったボタ雪が多い。

かつて住んでいた札幌は降り出せば一晩で何十センチもつもるドカ雪であり、冬の間中はずっとモノトーンの雪景色であった。
サラサラとした粉雪は踏めばキュッキュと音がしコートを払えばハラハラとおちるので傘は持たずにすんだ。
歩くスキーが冬場のいい運動であり、2月の雪祭りでは毎年サークルで2mの立方体を削り、雪と水を混ぜたものをこねて雪像を作ったものだ。
冬場は誰かの家に集まって鍋というのが定番であった。
ゲレンデスキーはあまりやらなかったが、雪の山や民宿にとまる雰囲気は好きだったので行事としては参加した。
札幌の道は圧雪された道路はスタッドレスタイヤで磨かれてツルツルになる。
横断歩道ではシーズンに1回は転倒した。
そんな道を長靴をはき、手作りのスパイクタイヤをはいた自転車で学校に通った。
冬に向かっていく10月~12月の晩秋はたまらなくせつなくなり、春に向かっていく3月~5月の時期は心がウキウキするのを抑えられなかったものだ。

雪が降るとそんな北海道の冬が懐かしく思い出される。


逆ショートスティとキャンナス

2009年12月30日 | Weblog
年末年始である。
病院や介護施設も家族のお見舞いなども増え、病院や施設内もなんとなくにぎやかな雰囲気もある。
お正月くらいはと施設から外泊できる人、病状が悪く病院にとどまる人。
それぞれである。
若い世代は産業・雇用構造の変化、長引く不況もあり子供世代は先の見えない不安定な雇用情勢の中にいる。
自分たちに時間的、経済的、精神的余裕も無く子育てすらままならない状況の中で、認知症を抱えた高齢者の気持ちに配慮して優しく接しましょうといっても難しい話である。
家族が崩壊し身体障害のみならまだしも認知症をあわせもっていれば、自営業や農家、専業主婦などで経済的な余裕もある家でないととても家での在宅療養生活を続けていくことは難しい。
お金さえ何とかなるなら施設へというのは当然の流れかもしれない。

高齢者の福祉を産業と考えると大もうけもできないだろうが、需要はありハズレも無い産業であるから団塊の世代が蓄えた財産をねらって施設はどんどん増えているようで、家ではない施設(特養やケアホーム)で暮らす障害高齢者はどんどん増えている。残念ながら・・。(ただ、うちの地域は施設も少ない)


そうなってくると今度は施設を生活のベースにして週末や連休など家族が集まれるときなどに家に帰る「逆ショートスティ」みたいな形が求められてくるのではないだろうか?
普段は施設で生活していても、住み慣れた家に戻り家族と過ごしたいというニーズはあるだろうから・・。
しかしそういうときにフレキシブルに訪問系サービスを使えるような体制にはなっていない。
病院からの外泊のときですら、訪問看護や訪問介護などの介護保険サービスは使えないのだ。
介護保険制度をに関してはこの辺りはもう少しフレキシブルに出来ないものだろうか。
そういうときこそキャンナスに活躍してもらう手はあるかもしれないが・・。
(うちの地域でもほしい・・・)
しかし年末年始や休日はケアギバーも休みたいだろうからやはり難しいのか?

我々は思わぬ死や病を恐れ、医療を活用してそのリスクを軽減するために医療保険をつくった。
そして高齢化にともなう障害とともに生きる生活を恐れ、その衝撃を和らげるために介護保険をつくった。

しかしキュアベースの医療からケアベースの福祉へとパラダイムがチェンジするといっても、死生観が変わることなどは戦争や大規模災害、飢餓、疫病のパンデミックでも無い限りなかなか難しいだろう。
「人は死ぬということをわかってもらえない。」といって臨床を離れていった仲間もいた。
「さまよえる障害高齢者たち」なんていうテーマのシンポジウムが開かれたり、「高齢者問題研究会」(高齢者が問題みたいだ)なんてのがあるくらいだから妙案はない。
「自分もそろそろ寿命かと思い、徐々に食べる量を減らして、枯れて死ぬ。」なんてことをこれからの老人が死生観として持っているとも思えないし、結局終末期になって食べなくなったら抗うつ薬をだされて「ま、いいか。」と思わされたり、強制栄養をつづけるためにスパゲッティのようにされたり、それなりの医療行為は受けてしまう方が多いと思われる。

しばらくは一例一例に丁寧にかかわり介護し、看取っていくなかで、家族など関わる人たちの死の教育(デス・エデュケーション)をつづけ、一人一人がどう生き、どう死にたいのかを常日頃から考えていけるような文化を地域に作っていくしかなさそうだ。

参考リンク
日本中に星降るほどの訪問看護ステーションを。開業看護師を育てる会

参考エントリー
「ウェルハウスのぞみサンピア」に思う


子どもの貧困

2009年12月29日 | Weblog
「子供の貧困」の存在も精神医療の現場でも日々実感される。

低収入、高失業率、不安定な雇用という厳しい労働市場。
その中でセーフティネットが乏しいが故にNoと言えない労働者。
住宅政策のとぼしさによるハウジングプア。
その周辺には貧困を喰いものにするハゲタカのような貧困ビジネスの隆盛。
社会の余裕の無さは弱者たる子供たちに真っ先に影響する。

家族や地域社会が崩壊していく中で親に対するソーシャルサポートの乏しさは明らかだ。
社会的に疎外された家族、子供は悪循環の中で苦難の道をすすむ。
貧困が結果として虐待や育児放棄につながり、思春期以降の不登校や引きこもり、非行のなどへとつながる。

教育は重要な「溜め」の一つであり財産である。
しかし子どもが教育を受けられるかは、家族の教育に対する意識や、経済的な余裕などに左右される。
学力観や情報の格差もあり学歴が世代を超えて同じ形で受け渡されていく。
学歴は社会に出る前の段階で親の影響を強く受けながら手にする人生の切符のようなものであるが、教育を受けられなかった子供は人生の初めの段階でチャンスを剥奪され将来の生活リスクを背負うことになる。
これは社会にとっても大きな損失だ。

若者が教育を受けられなかったために生活リスクを負い、苦難の人生を歩まざるを得ないことを自己責任論では片付けられないだろう。

教育への意識や情報の格差へのアプローチするために和田秀樹は「受験のシンデレラ」という映画を作った。モナコ国際映画祭でグランプリをとったらしい。
低予算なのだがストーリーもしっかりしておりキャラも立っていて楽しめる(泣ける)映画だった。

子供の貧困は複合的な要因からおこっており、その改善のためには多種多様な人々の協同作業や連携が欠かせない。
広義のソーシャルワーカーと呼びうる保育士、保健師、民生委員、看護師、医師、学校の事務職、養護教諭、教員、弁護士、自治体職員たちの声を通じて、子供たちの声にならない声を社会に向かって届け、社会全体で子供を育てるという意識をつくっていかねばならない。

民主党の政策、子ども手当てはその第一歩だろうが、多いに議論すべし・・。

子どもの貧困白書

明石書店

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受験のシンデレラ (小学館文庫)
和田 秀樹
小学館

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湯浅誠さんと勝間和代さんのTwitter対談

2009年12月28日 | Weblog
Twitter(ツイッター)というのを試してみた。

Twitter(ツイッター)は、個々のユーザーが「つぶやき(ツイート)」を投稿することで、ゆるいつながりが発生するコミュニケーション・サービスだそうだ。
2ちゃんねるなどの掲示板、チャットなどの発言を個人ごと、発言ごとでバラバラにしたようなもの。
自分がフォローするヒトの発言だけをリアルタイムでタイムラインに沿って表示する仕掛け。
イメージしにくいが実際にやってみるとすぐに理解できた。
なるほど!という感じ。
メーリングリスト、Mixiなどのソーシャルネットワーキングシステム、チャット、インスタントメッセンジャー、ブログ、RSSなどの要素が含まれており、しかも手軽。

いろんな人と時空を共有しているという・・。
なんか不思議な感じ。

著名人や政治家なども活用している人が多いようで、彼らの発言をメディアを通さずに直接見ることが出来るのも面白い。
民主党の逢坂誠二議員は以前より使っていたようだし、鳩山由紀夫首相もはじめるそうだ。
このTwitterを使えばどこからでもディスカッションの輪に加われる。そしてメールより手軽。
2ちゃんねるなどと違って匿名性が低くなる。
したがって市民も鍛えられるし、マスメディアも適当なことをするとバレバレになってしまう。
働いていない(その能力のない)議員なんかは丸裸になるんじゃないかな。

直接民主主義が実現する日も近い。

そしたらこんなのをみつけた。
湯浅誠さんと勝間和代さんという2大アイコンがTwitter上で年越し失業者対策について対談した模様。

 湯浅誠さんと勝間和代さんのTwitter対談

これから年末年始にかけて生活が成り立たない人は0120-874-505(はなしてSOS)に電話か歌舞伎町のハローワークへGoだそうです。

鳩山首相や長妻厚生労働大臣からのYouTubeの厚生労働省チャンネルを利用したメッセージもあるようで。
 年末年始、生活にお困りの方へ

湯浅さんたちの昨年の年越し派遣村などの活動の成果がでてきたのか行政も憲法25条で保障された生存権をやっとまともに考えるようになったのかなぁ。

それにしてもメーリングリストやSNS,ブログ、TwitterなどWebを使えば遠くにいる人とでもゆるくつながれる。
個人情報保護で住所録などもつくりにくくなくなったし、これでは日本郵便がいくら宣伝しようとも年賀状が減っていくのもむべなるかな。です。

ふしぎ先生 診療所で森づくり 北相木村-りんねの森だより

2009年12月27日 | Weblog
長野朝日放送から放映された「ふしぎ先生 診療所で森づくり 北相木村-りんねの森だより」をみた。

北相木村診療所の松橋先生は佐久総合病院の研修医のときに診療所医療の研修のあとも、何かと気にかけてくださりお世話になった先生だ。いろんな機会に森や地域医療、地域づくりにかける思いを語ってくださった。
リハビリテーション科で余裕のなくなって死にかけていたとき「患者さんの欝がうつって自分も欝になるんです。」と相談したら、「それならカウンセリングを勉強したらいいよ。」とのアドバイスをいただいた。
そのことが今、私が精神科にいるきっかけの一つになっている。
東洋医学へ関心が向いたのも先生の漢方の勉強会がきっかけだし、NPOなどの活動などに自然に参加するようになったのも先生の影響もあるだろう。



そんな松橋先生がいるのは南佐久郡北相木村。
人口が850人、国道も鉄道も無く、リゾート地もない山村。
人口は減り、高齢化率は41.3%で限界集落になっているところもあるという。

そんな山村にふるさとをつくりたいと思ってやってきたふしぎ先生。
診療所に赴任してからは訪問診療だけではなく、全戸の保健訪問もおこない潜在的な病気を掘り起していった。
診療所は年間のべ約6000人の人が訪れる村の中で一番人の集まる場所。
そして地域のニーズが見える場所。
その場所を医療や保健だけに使っているのはもったいない。
地域医療をやるといっても、地域がないと、そもそも地域医療が成り立たない。
そう考えて5年前に「NPO北相木りんねの森」を立ち上げ、診療の他に地域づくりなどの社会活動も行ってきた。

「まさに医療とはメディア(媒介)である」を体現している。

「NPO法人北相木りんねの森」では託林を事業として行っている。
託林とは「心に残したい願いや思いを植林し木に託す」という松橋先生のつくった言葉だそうだ。
一本の木に思いを託し、荒れた森をもとあった森に近づける形で復活させる。

そんな森の中で昔のことを思い出して語ってもらう「森林回想法」も行っている。
これらはみな森林療法の治療薬。

また森で炭焼きをおこなったり、放置されていた棚田を再生し稲を育てる。
こうした活動を通じて「昔」と「今」をつなぐ。
人々があつまる場をつくる。
これは、まさに湯浅誠らのいう意味での「活動」だろう。

松橋先生は学生時代から自然から力をもらう医学に関心をもち卒後中国に留学して学んだ漢方医でもある。
漢方医学は検査所見に寄り添うのではなく患者さんの自覚症状、患者さん自身に寄り添う医学だ。(これは精神医療もそうだ。)
ナラティブアプローチの重要性が理解されてきたこともあるのだろう。
漢方医学が患者さんに寄り添える医学であることが注目され、主催する漢方勉強会などでもその関心が高まっているのを感じるそうだ。
森林療法にしろ漢方にしろ、患者さん自体が「効いたよ楽になったよ」と直に感じられるものを大事にする点で根源的な医療であり共通するものがあるという。

森を巡る活動に理想はたくさんあるが、現実はそれで食べていけるか?理想をどう現実に結びつけるか?というのが課題であり、なんとかそれで食べていける事業にしていきたいと語っていた。

これらの活動であるが、村の外で何かを勝手に学んできて、それを村の中で実践しているのではなく、村の伝統を受け継いで活動をし、村の中で人と自然が共生することが大事だと強調していた。

「ぼくはたまたま医者だっただけ、ここの住人でこの村が好きだから、未来に向けた何かをしていきたい。」
「森を育てること、森から地域を育てること、森から健康な心身をそだてること。」

こういったことを自然体でつづけられているのがすごいと思った。


参考リンク
 北相木りんねの森

 色平哲郎ー信州の農村医療の現場から

参考エントリー
 ほたか・野の花NPO法人に

 漢方薬、保険はずしのピンチをチャンスに

人生の旅モデル

2009年12月26日 | Weblog
このブログでも医療を旅にたとえるたとえがしばしば出てくる。

精神科が相手にしているのは「人生」そのものである。
人生を旅にたとえるのは松尾芭蕉の「奥の細道」などでもみられるように、よくある語り口である。
医療者を旅のパートナーにたとえるのはその人の物語(人生)や語りを大事にするナラティブモデルにあっているのだろう。

さまざまな人が医療のシチュエーションを旅にたとえている。

以前紹介した障害児をもつことについて述べた「オランダへようこそ」という有名な短文も旅のたとえだ。

岐阜大学医学部医学教育センターの藤崎 和彦先生は、がんの緩和ケアを「おばあちゃんとのアメリカ旅行」にたとえている。
なぜかおばあちゃん(患者)が突然アメリカに旅行に行くことになってしまった。(癌になってしまった。)。
医療者にあたる孫は英語が少し話せたり、インターネットをつかって下調べを出来たり、海外旅行の経験があったりと、病気や障害を抱えたおばあちゃんよりはすこしはいろいろなことが出来る。
おっかなびっくり二人で旅にでる。
でもおばあちゃんは孫がいるおかげで一人で行くのと比べてずいぶんと安心して旅に出ることが出来る。


なるほどー。

また地域医療やプライマリ・ケアの研究・教育ののちに開業された、開業医の仕事飯島 克巳氏はその著作の中で「人生の旅モデル」」という新しい開業医療のパラダイムを提唱されている。。

人生の旅モデルとは「臨床の場において、まず山あり谷ありの人生を、近い目的や遠い目標を持って旅する人を思い描く。次いで、旅の途上でその人が健康上の問題に遭遇した時に、どのような支援を行えばよいかということを総合的に検討するための臨床モデル」だそうだ。

例えば開業医の行動を「見届け医療」と名づけ、このプロセスに継続的に関わり、それが円滑に進行しているか否かを監視し、必要なら"かかりつけ医"として介入する。
かかりつけ医は「あなたの専門医」であり人生という旅のパートナーといえるだろう。

認知症然り、精神疾患しかり、脳卒中しかり、老化しかり、HIV感染症しかり、癌然り・・・。
感染症や早期の癌のように治療がすめばバイバイという医療の比重は減っている。

すっきり治らない病気や障害でも患者の健康上の問題について一緒に悩み考えてくれ、専門家のもてる力を上手に引き出し、そしてしっかりと見届けてくれるパートナーたるドクターを持ちたい。
不確実な時代、入り口(加入は大歓迎。ドンと来い。だれでも入れます。)はよいが、出口(支払い)はしぶい(保険調査会社の調査員との面談などで身にしみています。)医療保険に入るよりも頼りになるパートナードクターを確保しておくほうがよほど安心だと思う。


開業医療の新パラダイム―人生の旅モデル
 飯島 克巳
 日本医事新報社

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街の中の居場所。理容というケア。

2009年12月24日 | Weblog
我々は本当につながりを持たずとも生きていけるような社会を望んでいるのだろうか?

たとえば街の理容室。
たくさんのアルバイトの理容師でまわす、カットのみで1000円~1500円の安い店が増えている。
そんな店では客も理容師もコミュニケーションはもとめず、早くすますことのみを考えているようだ。
スナップ写真のようなその場限りの、自動販売機のようなワンパターンの、テープレコーダーのような個別性を無視した対応。
安さ、スピードという価値のみを重視したそのあり方は忙しい心を亡くした社会の象徴のように思える。
そんなコミュニケーションのない夢の無い理容の仕事がいやで、独立して自分でお店をもったある理容師さん。
予約制だから一時間に一組。
「独立してから一人ひとりといろんなことをはなせるようになってつながりができた。」と若い店主。

美容室や理容室に髪の手入れに行くときに我々は何を求めているのだろうか?
自宅や施設や病院に出張する福祉理容も広まっている。
高齢者も障がい者も髪を切り整えてもらうとイキイキする。

自分を多少なりとも知ってくれている人がいて、たわいのない会話をして・・・。
そういうことが精神障害のリカバリーには大変重要な意味を持つ。
「この世の中に居場所がある。自分も生きていていいのだ。」という自己肯定感を育むことができる。

幻聴や被害妄想、認知機能の障害で苦しむ統合失調症の青年。
「自分は勝ち負け、早い遅いを争ってはいけない人間なのかな?
もっと自分に優しくなろう、他人にももっと優しくなれるのかも?
俺の病気は、自分自身が家庭、世の中にでても何かしら自分の存在を中心にしたがるというか、自分が中心だと勘違いしている。
一匹狼。会話でも勘違いしている。
世の中みんなで支え合って回っているのに、自分の考えが少し通じないだけで悪循環の方へ回り出す。
被害妄想や幻聴があってなかなか難しい。
マイナス思考だけで考えがち。
何回も入院したならその経験をプラスに考えよう。
マイナスすぎではなく、プラスすぎではなくちょうどよいところをさがす旅かもしれないね。」

彼は私に統合失調症という病気や障害のことを教えてくれる師匠でもある。
頼りにならない主治医とともに、ぎこちない思考や不器用な行動と悪戦苦闘しながら旅の途中。

そんな彼はなじみの理容室に何年も通っている。
つきあいが長くなって自分の体験世界のこともはなせる関係だ。
時には愚痴もこぼす。

「幻聴は悪いこともあれば、いいアドバイスをくれることもある」ということを話したら、その理容師さんは「アドバイザーだね。」と返してくれたとうれしそうに話してくれた。

そんな場所が街の中に一つまた一つと増えていけば精神障害とともに生きるひとたちはどれだけ楽に生きていくことができるだろう。 

依存症(アディクション)治療のマトリックスモデル

2009年12月22日 | Weblog
依存症の治療において「マトリックスモデル」という外来治療を基本としたモデルが注目されている。

これまで我が国のアルコール依存症などの治療は底付き体験を重視し、治療継続性を重視していなかった。
コントロールを失った飲酒行動により身体的にもボロボロになり、社会的信用や家族の信用などを失い、このままでは死んでしまう、しかし自分一人ではやめられないと思い知るいわゆる「底付き体験」を経て断酒を決心し断酒の3本柱(断酒会、通院、嫌酒薬)をつづけながら一日一日断酒を継続することが治療の中心であった。
結果として外来は投薬と短いカウンセリングのみであとは自助グループまかせというスタンスになりがちであった。

一方、入院型、入所型のアルコール依存症の専門病院でも他の精神障害の合併などがあり、プログラムの型にはまらない患者は対象外として放置されてきた。また退院後の十分なフォローができず治療が継続できない人が多かった。

しかしアルコール依存症は糖尿病や高血圧、タバコ、がんなどと同様の慢性疾患であると考えると、それぞれの地域で継続した治療を受けなければすぐに再発するのは当然だ。
マトリックスモデルにおいでは依存症治療の最終目標は、断酒・断薬ではなく、依存症と言う病を生き延びることができるように援助することだと考える。

マトリックスモデルでは外来ベースの初期回復プログラム、再発予防プログラム、家族教育プログラム、社会支援プログラムなど様々な治療プログラムが用意され、入院は急性増悪時のみに限る。
何度も失敗を繰り返し乱用がとまらない患者にはうんざりし患者の責任にかえしてしまいたくなるが、「治療継続性を重視」し、乱用がとまらない責任は患者ではなく援助者側にあると考える。

一律に断酒、断酒を目標として患者に押し付ける治療は早期の治療中断をもたらしやすい。
患者の中には節酒に戻ることが可能な群もいる。

治療継続性が予後に関連するので、とにかく来続けてもらうことを重視し「動機付け面接」を繰り返す。
すぐに嗜癖がとまらなくても、病識が不十分でも争わず、通院継続をねぎらう受容的な態度で接する。
再乱用時(スリップ時)にも突き放すのではなく援助を継続する。

嗜癖行動が、本人にとってメリットになっていた側面とデメリットになっていた面を客観的に把握してもらう認知への介入をおこなう。
細かなスケジューリングで暇な時間をなくす、HALT (Hungry,Angry,Lonely,and Tired)などトリガーとなるものを確認し対処行動を学んでもらうなど行動へも介入する。
プログラムではお菓子やコーヒーなども提供し、明るく受容的な雰囲気を重視し、ワークブックを用いて具体的にやめ方を学ぶ。
治療的な「場」が治療を促進すると言う考え方だ。
(東洋医学の外経絡・褥創のラップ療法みたく。)

現代社会においてギャンブルや買い物、リストカットやひきこもり、摂食障害、ボーダーラインパーソナリティ障害など依存症モデルとしてとらえることのできる精神疾患は多い。
嗜癖行動の行動変容にはマトリックスモデルのように場の力を利用したサポーテッド ピア サポート(Supported Peer Support)が鍵となる。

身体疾患でも多職種による継続的、多面的援助で心理的サポートを重視し行動変容を期待する藤沢町民病院の健康増進外来なども注目されているが、これもそういう時代の流れなのであろう。

香山リカ×勝間和代

2009年12月22日 | Weblog
精神科医etc.の香山リカと公認会計士etc.の勝間和代との対決が話題を呼んでいる。
AERA誌上では対談を行ったらしい。

どちらの著作も何冊か読んだことがあり、それぞれに共感できるところがあるのだが・・。

香山リカの「しがみつかない生き方」の帯にかかれた「勝間和代をめざさない。」というキャッチーなキャッチフレーズ(中の一章のタイトルでもある)が共感を呼ぶ人が多いらしくこの本は結構売れているという。
そして、勝間和代の近著、「やればできる」の帯には「香山リカさんの『しがみつかない生き方』を読み、正直、迷ってしまっているあなたに 読んでほしい」とあり正面から対決しているように見える。

もっともこの二人のよって立つスタンスが違うので議論はかみあわない。
ただお互いに利用しあっており、「Win-Win」でうまくやっているな。という感じ。


さて勝間和代のスタンス。

勝間和代の本は基本的には、現世利益をもとめるハウツー本、実用書、ビジネス書である。
カツマーと呼ばれる女性たちに支持されているらしい。
ポジティブシンキングを徹底し、自分軸を貫いてコミュニカティブであれば夢はかなうのですよ。そのための具体的な方法論はカクカクシカジカですよ。(インディ(ペンデント)な生き方をめざす。自分をGoogle化する。など)・・・・。
行動療法的ともいえる。
勝間和代は挫折をしてもめげることを知らず乗り越えてこられた強い人なのだろうか?
明確に方法論がのべらられておりノウハウを求めて読むにはいいが、押し付けがましさが多少うっとおしい。
心がつかれたときに癒しをもとめたり、生きる意味に迷ったときなどにはまったく役に立たない。
躁状態のとき向け。

そして香山リカのスタンス

香山リカの本は、心の平安をもとめるという意味で仏教の経典や哲学書に近い。
支持者はカヤマーと呼ばれはじめているらしい。
みんな、それぞれ背負っているものがあって、それぞれにがんばっている。
なるようにしかならないんだから、しがみつかず平凡で穏やかな「ふつうの幸せ」を手にしましょうよというスタンス。
香山リカとて社会的には成功者といえるのだろし、別に努力を否定しているわけではないのだが、精神科医として弱者に付き合ってきた経験からがんばりたくてもがんばれない人がいることも知っているのだろう。
香山リカのうつや貧困、ロストジェネレーションに関する言説はバランスが取れていると思う。
どうすべきという押し付けがましさはなく、全体に流れる「そのままでいいんだよ。」というメッセージにには癒される。
精神療法的と言える
ただエネルギーが有り余っていて何かをやりたい人が具体的なノウハウを得たいときには役立たない。
うつ状態のとき向け。

ま、それでも勝間和代の「インディな生き方」、香山リカの「しがみつかない生き方」のどちらも「他者に依存しすぎずに、個人として自律してしっかり生きていこう。」というというスタンスでは共通しており単に推奨するエネルギーレベルが違うだけのような気もする。
熱狂的な新興宗教と落ち着いた伝統宗教の差みたいな・・。

香山リカが五木寛之との共著の「鬱の力」の中で指摘するように時代は熱狂的な「躁の時代」を経て、ゆっくりと衰退、成熟へ向かう「鬱の時代」へ移行しつつあるように思う。
勝間和代のハウツーは利用させてもらうとしても、時代はサステイナブル、スローがキーワードである。スタンスとしては香山リカのほうがこれからの時代向きだろう。

しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール (幻冬舎新書)
香山 リカ
幻冬舎

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断る力 (文春新書)
勝間 和代
文藝春秋

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とか言っていたら・・・・。2010年1月8日に共著で本を出版とか(↓)早っ。商売うまっ。

勝間さん、努力で幸せになれますか
勝間 和代,香山 リカ
朝日新聞出版

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障害受容再考

2009年12月21日 | Weblog
「障害受容再考」(田島明子著、三輪書店)という本を読んでみた。

自分も中途の身体障害の方や高次脳機能障害の方が抑うつ的になったり、世の中に居場所を見つけられなかったり、あげく自殺企図されてしまったりという経験もあり、いまは精神科で見えない障害の評価や支援のあり方をもとめてさまよっている。

自分も治療者が障害の受容(死の受容もそうですね。)をせまるのは、治療者が専門性を盾にして逃げている態度、あるいは価値観を押し付け、コントロールしようとする態度であり違和感は感じていた。

本書は作業療法士である田島明子氏がこれまでの「障害受容」をめぐる言説をまとめ、また当事者や治療者からの聞き取りを行い、そして思索した集大成の本だ。
いろいろ考えるヒントがつまっていた。

「ケアやリハビリテーションはリカバリーの手段に過ぎない。」とは私もふだんから言っていることである。
キュアが不可能な障害に関しては、治療者や支援者は共感しようと努め、ケアを提供し、寄り添うことしか出来ず、セルフヘルプグループやピアカウンセリングを通じた当事者同士のかかわりや居場所の発見こそがリカバリー(障害を自分の一部として位置づけ前向きに生きていくこと。あきらめ、開き直り。)には有効な手段だろうと思っていたが、この本の中ではそう単純なものでもないと指摘している。

確かに他の当事者との出会いは救いにはなるかもしれないが、その人がそれまでに生きてきた物語(あるいは自己肯定の場、重要な他者との関係)がそう簡単に再構築できるはずもない。

「時薬」と「人薬」が効果をあらわすのには時間もかかる。

また、いったん肯定的な自己像が形成されても、過去のスティグマ経験を思い起こさせる環境や言動がトリガーとなり再燃する可能性があることを聞き取りの例から述べているが、これは精神障害でしばしば経験することだ。

そうなってみて初めて経験するさまざまな体験世界、思い描いていた将来とのギャップ。未知なる他者である疾病や障害、失われたものを自分の物語の中にどう位置づけ、物語を書き換えていくことができるか。

再生のエネルギーは「障害受容」が見捨ててきた、内在的な障害感、そして内在、外在の交通可能性の中にこそあるのではないかと著者は述べ、「障害との自由」という言葉がよいのではないかと主張している。
「できないこと」は否定的価値か?と問い、能力の回復・改善の軸をはずしたリハビリテーションの可能性について言及しセラピストとクライアントが身体世界を旅するというたとえが出てくる。

この世界の意味はすべて体を介して生まれてくる。
体を考えることは自分自身を考えること。

なるほど治療者は体とこころの通訳、そして旅の同行者ともいえるかと思った。


障害受容再考―「障害受容」から「障害との自由」へ
 田島 明子
 三輪書店

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障害受容再考のレビューページ

祭りの最中の断酒会(断油会)・・COP15の予想された結末

2009年12月20日 | Weblog
近年の積雪量の減少によりスキーリゾートである信州白馬の関係者も毎年ヒヤヒヤしているそうだ。
ここ数日の積雪で白馬のスキー場は一安心といったところだろうか・・・。

ICPPなどの議論をみると人類の活動が地球環境に影響を与えており、化石燃料の使用にともなうCO2など温室効果ガスの増加が地球温暖化をおしすすめているという事実は間違いないように思える。
地球をひとつの生命体としてみるなら、その地球自体を破壊しつくし改変しようとする人類はがん細胞のようなものであろうか。
ビル・マッキベンの「自然の終焉」などでも指摘されているように本当の意味での自然はもはや存在しないのかもしれない。

世界の閣僚と約100カ国の首脳がコペンハーゲンに集まった国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は、迷走の末に全体会合で「コペンハーゲン合意」をまとめた。
しかし、温室効果ガスの削減に実効性を持つ新たな枠組みを構築することはできず先進諸国の足並みも乱れ、責任と義務をめぐり途上国と先進国が対立し合意点を見いだせずにいる。
この事態を放置すれば人類は自ら引き起こした地球環境の急激な変化についていけず、ごく近い将来に大変まずいことになることは明らかだが、有効な手を打てない。

状況はまるで遅れて帝国主義に参加した日本が、はじめて近代戦を経験した第一次世界大戦の痛手から戦争を二度と引き起こすまいとした国際協調の枠組み(国際連盟)から離れていった第二次世界大戦前の状況と同じ。
歴史は繰り返す。

まさにコモンズの悲劇であるが、これは人間の本能に根ざしたものであり解決はそうとう難しいだろうと思う。
今日明日の生活もわからないのに将来のことなんか考えられない、あるいは今の自分さえ贅沢できればそれでいい。
そういった状況の中でアメリカインディアンのように7代先の未来のことなんか考えらないということだろう。

自然の範囲内でつつましく暮らしていたイヌイットやアメリカインディアンなどの先住民族にしてもかつてのような生活を奪われ消費者に仕立て上げられてしまった。
そっと生活したい人たちも放置しておいてくれないのが西欧式のグローバリゼーションの恐ろしいところだ。
このパターンも19世紀末からの帝国主義と同じ。
幕末期、日本も鎖国は許してもらえなかった・・。

さて、ピークオイル(石油生産ピーク)はすでにむかえたという説もあるが、我々は人類史上はじめて体験した産業革命以来の化石燃料祭り(石油祭り)のまっただ中にいる。
石油文明とは大昔に地球に降り注いだ太陽エネルギーの蓄積である化石燃料をエネルギーとして利用した産業革命以来の大量生産大量消費という生活スタイルのことである。
これは自分自信でつくれるエネルギーの何百、何千倍のエネルギーを使って、体内外の環境をはじめ、あらゆるものを自分の思うようにコントロールしたいという欲望に根ざしたものである。
養老孟司流に言えば「脳化社会」であり、その実現を可能にしたのが石油などの化石燃料エネルギーであると言えよう。
そしてマイホームや自動車社会など20世紀のアメリカ型の生活がその典型であるが、その依存から脱却することが難しくなっている。
清貧の思想や、LOHASやスローライフなどがいわれるようにはなってはいるものの、エネルギーを大量につかった生活は麻薬のようなものでその生活に慣れるとそこから脱却するのは難しい。
放蕩息子が祖先から受けついた財産を使いまくり豪遊している姿に重なるだろう。
「わかっちゃいるけど、やめられない。」という構造の中で悪循環から脱却できない。

(年金問題や国の借金、クレジットカードのリボ払いなども目先の快楽を優先しとりあえず将来に負債をおっつけるという本能を利用したビジネスの仕組みである。おそろしや。)

小さなうちから消費者としてテレビCMなどを通じて良い消費者(奴隷)になるように洗脳され、甘やかされて王様としてそだてられる。
死や障害、病は巧妙に隠され、ひっそり処理される、自然の限界(死など)にうちひしがれる経験は乏しい。
結果、脳が先行したまま幼児的万能感のまま大人になり自分の体自体が自然の一部である(などの制約がある)ということなど忘れ去ってしまう。

それに気づくのは、極限に挑戦するアスリートや冒険家をのぞけば、身内や友人の死や、歳をとったり体が悲鳴を上げて病気になったり、障害を負ったりしたときであろう。

実は温暖化の問題にはシンプルな解決方法はある。
それは空手形などのイカサマがおきやすい排出権取引などの出口を管理する枠組みではなく入り口を押さえてしまうことだ。具体的にいうと油田や炭田を封印し化石燃料の使用に制約を加えコントロールしながら使うことだ。
人間はもともと様々な制約の中で生きていたのであるから、制約があれば経済活動は自然に縮小し温室効果ガスの排出も削減され省エネルギーの生活スタイルや技術の開発も推進される。
人体に例えるなら、がんに対する断食療法のようなものだ。

ところでそれを東西対立という社会情勢の中でやむを得ず強要された結果、エコロジストのパラダイスとなり注目されているカリブの小国がキューバだ。
そして、それを意識的にやろうとしているのがデンマークなどの北欧初諸国だろう。
いづれも小国ではあるが我々の目指すべき道筋を示していくれている。

それでは我が国はどういう態度をとるべきであろうか?
鳩山首相のいう2020年までに25%の温室効果ガスの削減するということは技術の進歩に期待するところももちろんあるだろうが、基本的には25%経済活動を縮小するということ、すなわち物質的に25%貧しくなるということを意味する。
これは「物質的な豊かさを捨て、Smart declineが果たせるか?その覚悟はあるか?」と言う問いに等しい。
キューバや北欧の例をみれば産業構造やライフスタイルを変化させるということで25%不幸になるということではないのではあるが。
しかしこのような先進的な態度を日本がとったということは辺境民族たる我が国の歴史上画期的なことであろう。
日本がすすんで貧しくなったところで世界的にみればその分、中国などが経済活動を拡大するだけで意味が無く日本がババをひかされているだけという考えもあろう。
それでも、地球は有限でいずれ石油や石炭はなくなるのだから先んじてその時代に対応しておくという意義はある。
資源の無い日本という国は国境を閉じてしまったら人口の4分の1程度、江戸時代と同じ3000万人程度しか養えないだろう。(技術の進歩を勘案すると6000万人くらいは養えるかもしれないが。)
いづれにしても海外との共存を計っていくことは必須の課題である。
しかしそのための途上国への経済支援は相当慎重にやらなければ目指すべき低炭素社会のためには逆効果になってしまう可能性が高い。
困難な課題だ。
これらの課題をいかにうまくやり遂げるかというのがコンクリートから人へという民主党政権に期待される内容だ。

さてCOP15の枠組みに最期まで抵抗したChildishなアメリカ帝国や後から来た中華帝国という2大大国は20世紀的思考から離れられていない。
これは帝国主義に遅れて参加した第二次世界大戦前の日本が自国優先の拡大政策という19世紀的思考にとらわれていたのと同様・・。
そして残念ながらこの2国はSelfishな態度という点ではこの19世紀的思考すらも引きずっている。

しかし考えてみれば甘えさせ依存させてくれる地球の自然の恵み(母なる自然)を利用し破壊する一方で自然災害やインフルエンザのパンデミックなどのような自然からの反撃(父なる自然)を受けながら、それを技術で克服しながら生きのびていくというのはもうアダムとイブ以来の人間の業のようなものである。

であるなら温暖化問題などの地球環境問題の解決はとっとと石油を使い尽くすか、または疫病のパンデミックなどの大規模自然災害などを経験することで自然の制約を思い知ること(底付き体験)しかないのかもしれないが・・。

チベットの高僧が言うように、環境問題はこころの問題でもある。社会は単にこころを反映したものにすぎない。
技術をコントロールすべき哲学が追いついていないか、忘れ去られているのが現代という時代であろう。
子供が火遊びをしているようなものだ。

変化への兆候は感じられるが今回の国際会議は、まだまだ皆が祭りの余韻に浮かれて酔いしれているさなかで、断酒会(断油会)をやるようなものだ。
そりゃうまくいくわけがない。
COP15の政治合意の結論を私はまったく驚かない。


自然の終焉―環境破壊の現在と近未来
  ビル マッキベン
 河出書房新社

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唯脳論 (ちくま学芸文庫)
  養老 孟司
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日本辺境論 (新潮新書)
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鳩山イニシアチブの真の狙いは?日経Ecolomy:連載コラムー4次元エコウオッチング(安井至)

ケア会議の本質

2009年12月18日 | Weblog
「カンファレンスはチーム医療の練習だ」とは私淑する野中猛先生の言葉ではあるが・・。

精神医療の分野でもケア会議の目的をはっきりさせないまま、ケースカンファレンスになにごとかの解決をもとめて貴重な時間をさいて集まったはいいが・・・。
「地域は、病院は、医者は・・・。」と理解を深めるどころか、お互い自分が苦労しているんだという思いを一方的にぶつけ、情報クレクレ合戦や悪者探しに終わってしまう。
お互いに後味は悪く前向きな方針や相互の理解は深まらない・・。
何のためのカンファレンス?
そんなことがたびたびある。

病棟などのカンファレンスもなぁなぁで、関わっている人が参加できなかったり、情報共有だけになってしまったり有効に活用できていない。
ケアマネジメントにおけるケア会議は目的をはっきりさせマネジメントのPDCAサイクル(Plan→ Do→ Check→ Actionのサイクル)の中に位置づけなければならない。
高齢者の介護保険制度のケアマネージャーにあたる人の仕事や報酬がきちんと制度化されていない障害者のケアマネジメント。チームが回らない状態では誰も担いたがらない・・。

そのことに関して、病院内外の壁や職種間の壁などやすやすと乗り越えてしまうメールなどのITを使った情報共有&カンファレンスのアイディアを仲間と話していたら・・・。

ケースワーカーが「それじゃ、ケースワーカー要らなくなりますね。」

「しかし、それが仕事なの?」と問うと・・。

「たしかに、双方と連絡をとって調整ということに多くのエネルギーを使っていますね。」
「あ、その分、ソーシャルワークにエネルギーを注げば良いのか・・。ソーシャルワーク苦手なんだよね。」

いやいや、情報共有のコストが下がった分、是非是非ケースマネジメントやソーシャルワークに力を注いでください・・。

ケア会議の技術
野中 猛,上原 久,高室 成幸
中央法規出版

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ケア会議評価尺度でケア会議の質や達成度を評価しよう・・・。またケア会議の質をあげるツールとして利用しよう。

病院内のICLS/JPTEC/JATEC デモ

2009年12月17日 | Weblog
北アルプスの麓の当地でも昨夜すこし雪がつもった。

本日は当直中だが今のところ落ち着いている。
そんなところで病院内でICLS(心肺蘇生のプロトコール)とJPTEC(病院前の外傷初期治療・評価のプロトコール)、,JATEC(病院での外傷の初期治療・評価のプロトコール)のデモンストレーションがあった。

取り仕切るのは先日JPTEC受講したばかりのA Ns.
本日の企画は彼女の熱意で実現したものだろう。

身内の事故の体験から、医療関係者にはできるだけ多く救急に理解を示してほしい。
そして、できればコースを受講して技術を身につけてチームで最善の救急医療を提供できるようになってほしいとの思いがひしひしと伝わってきた。

普段お世話になっている北アルプス広域の救急隊の方(+α)も勢揃いし、機材もそろえて力がはいっている。
ときどき熱演、ボケも入りながらも、バイクで事故った青年を救うべくテキパキと皆が動き流れるようなJPTECからJATECへと連携の一連のデモンストレーションだ。
ちゃんと救急車の音もありました。傷跡もムラージュしてありリアルだった。

正直、かっこいいですわ。

病院各所で働くスタッフも一連の医療を担うチームの一員である救急隊員への見方も変わったのではないだろうか。

当地は交通事故だスキーだパラグライダーの事故だの外傷の救急患者もわりと多い地域柄。
松本の高度救命救急センターまで30分以上はかかる。

助けなければ命もある。
Preventable trauma deathを減らすためにやれることはちゃんとやる。
救急外来に出ている以上バトンを渡されるインホスピタルの側の自分もちゃっとちゃんとやらにゃーいかんなと思いを新たにした。

精神科の病棟でも院内急変や転倒転落、暴力などもあり得ますし・・。
パニックになっても体はちゃんとちゃっと勝手に動くようにしとかなきゃね。



テキパキと指示をだすH Ns.
突然指名されて挿管するH医師。院内のICLSの魁。



病院と連絡をとるA救命士。



院内各部署からあつまった観客の皆様。



バックボード、脊髄損傷はあるものとして・・。
はずすときは慎重に。そのままCTもレントゲンも撮れます。とN隊長。


介護中の3人に2人が神経過敏・・そりゃそうだろうよ。

2009年12月16日 | Weblog
本日の新聞記事より

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介護中の3人に2人が神経過敏 厚労省調査、ストレス顕著か (共同通信 12月16日)

 団塊世代を含む53~62歳の中で、3年以上にわたり親などの介護を続けている人は、約3人中2人が自分を「神経過敏だ」と感じるなど、精神状態の不安定を訴える割合が高いことが15日、厚生労働省の調査で分かった。
 厚労省社会統計課は「介護期間が長いほどストレスが大きい実態が顕著に出たのでは」と分析している。
 調査は、2005年10月末時点で50~59歳だった男女を追跡し、年1回調査票を回収。4回目の今回は昨年11月、約3万人を対象に実施した。
 それによると、05年以降「ずっと介護をしている」と答えたのは2・6%。このうち自分の精神状態について、過去1カ月間に「神経過敏と感じた」のは64・7%で、ずっと介護をしていない人(45・9%)、介護をして1年以内の人(57・0%)の回答割合をいずれも上回った。
 また「気分が沈み込んだ」と答えたのは57・1%(ずっと介護をしていない人40・9%)、「何をするのも骨折り」としたのは55・5%(同41・7%)、「絶望的だ」と感じたことがあったのは35・1%(同23・5%)だった。

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介護者のストレス、うつというのは大きな問題だ。

社会の貧困化がすすみ家族福祉が期待できず障がい者を行政や医療で支えるケースが増えている。
ややもすると悲しいことだが病院側と行政担当者の押し付け合いのような形になることもまれではない。
その大変さを考えると逆に家族が担っている社会的・心理的な役割というのがよくみえる。

介護の社会化とはいうものの、現行の介護保険や自立支援法は家族福祉を含み資産とし家族に介護者がいることが前程の制度である・・・。

優先順位の問題ではあろうが、現実的に「みろ!」といってもいかんともしがたいシチュエーションというのも相当ある。

結局、退院の話になるとあれこれ理由を付けて逃げ回る家族も相当多い。
みるコストと逃げ回るコストを比べたときに逃げ回るコストの方が小さいと判断すれば当然そうなる。今度は追い回す方が疲れ果てて燃え尽きたり諦めたり・・・。なんとも不毛な争いである。

あるいは兄弟や家族の中で弱い立場のものに押し付けられたりする。(嫁など)
しかしサポート体制がつくれないまま周囲が追い込むと、介護者がうつになったり、倒れたり、あるいは虐待につながったりする。

それでも在宅や地域で暮らすなんでどだい無理だ・・・。とは言いたくはない。
施設に押し込めるでも、家族に押し付けるでもないもう少しましな道はあるはずだ。

(善意の人への押しつけ)→((ケアするひとのケア)する人のケア)する人のケア)・・・→ (ケアしケアされる)ネットワーク

というのは自分のテーマの1つでもある。
目指すべきは「誰一人として孤立させない社会(Society for all)」ということであろう。

貧困化、少子高齢化を迎え、この問題から目をそらさずに、この国の社会保障を含めた医療福祉の仕組みを根本的なところから見直す必要がある。