リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

★お知らせ★




思うところがあってFC2ブログに引っ越しました。 引越し先はこちらで新規の投稿はすべて引越し先のブログのみとなります。

加藤周一講演会、佐久の草笛

2006年08月20日 | Weblog
(長文注意)
 今回、佐久病院と信濃毎日新聞、佐久医師会が主催した市民対象の講演会が行われた。
 誰かが講演会を企画する際には、受講者に伝えたい何らかの意図(メッセージ)がある。何かを変えたいと願っている。そうでなければ講演料を払ってまで講師をよんで苦労して企画して講演会などを行うわけがない。今回の講演会の企画者にはどのような意図があったのだろうか?


  恥ずかしながら加藤周一氏のことをあまり自分は知らなかったのだが、東大理Ⅲ出の医師でありながら文学者、評論家として活躍する相当の文化人らしい。「~でしょう?」という淡々と染み入るような話し方がとても印象的な老人であった。サブタイトルの「佐久の草笛」はどうでもよくて、講演会の内容を一言で言うと「医療者には市民を育てる役割がある。」ということだったとおもう。それは自分の常々考えていたことと共通していた。講演では市民をキーワードに、社会と医療関係者の関係を3つにわけて説明していた。 (カッコ内斜体字部はといぴの注)

******************************************************

①市民としての医療関係者が社会に対してどういう態度をとるべきか?  

  日本では長い間、社会の支配者と被支配者との関係は一方的であった。江戸時代は自由に行動する支配者と、ただ支配者の言うことに従うという臣民という関係性であった。それは憲法が制定された明治天皇の世になっても基本的には変わらず、天皇には大きな自由が与えられていた。

  終戦後はその関係性は変わったであろうか?少なくとも臣民から国民となった。(本当は国という意味の入っていないPeople(人民)であるべき。)国民には、たくさんの権利があり、政府を批判できる。しかし政治過程に国民がどういう風に参加するかで国民には2種類にわかれる。政治過程に参加する人と参加しない人である。積極的に政治過程に参加する人を市民という。その市民がおこなう政治形態の全体が民主主義の実態であり、国民であることは民主主義の必要条件に過ぎず、十分条件は参加する国民(=市民)でないと実効がない。  

(日本に本当の意味での市民がどれだけいるのか?一身独立して国家独立するということは明治期から福沢諭吉が主張してきたこと。しかし日本の民主主義の成熟は遅れている。サラリーマンの給与からの税金天引きを制度化し、納税負担感を持たせなくした官僚のずるさもその一因。野口悠紀夫氏が主張するサラリーマン法人などはその状況を打破し自立した市民を作る鍵となる方法と考える。)


  民主主義社会において人権は保障されなくてはならず、生存権は人権の中心概念である。

(生存権:憲法に明記された健康で文化的な最低限度の生活というアレである。医療福祉の現場で、医療者、医療や福祉を頼って生きざるを得ない人の生存権が脅かされている現状がある。⇒障害者管理法


 個人の自由とは他人や社会に対して特別害を与えない限り何をしようが自由ということである。人民には知る権利、自由がある。政府が何をしているか知ることができないと政治に参加できない。知る権利が行使できなければ「われわれの政府」といえない。新聞やテレビなどのメディアは何が国内でおこっているか知らせる権利があるとともに義務がある。知ることができなければ批判することができない。批判することができなければ参加できない。参加できなければ市民は成り立たない。そして権利は行使しなくては無いのと同じである。  

(知らしむべからず依らしむべし、という態度は医療、行政などに染み付いている態度である。まず情報公開が民主化の第一歩。私の敬愛する逢坂誠二元ニセコ町長が北海道ニセコ町がやったこともここからであった。若月俊一が佐久でやってきたこともそうだっただろう。)

 また犯罪というのも自由意志でないと罪にならない。だれかに強制されてやった絶対服従というのは絶対に自由が無い。つまり法的に無責任になる。これが近代法の原則である。(丸山真男)

  さて、選挙、人民が自由を行使して政府をコントロールする合法的で強力な手段でありその結果は議会での議席の配分、ひいては政策決定にあわられる。

 しかし市民が政府、政治的権力をコントロールする手段はこれが唯一ではない。 選挙以外に議会外的手段という合法的な手段がいくつかある。
 ひとつは裁判所。もうひとつはマスメディア。メディアは強力な武器であり選挙にも影響する。それから労働組合。組合員の利益に反すると判断すれば非業(ストライキ)という合法的な手段で圧力を加えることができる。

(医療従事者も窮状を世に訴えるためには、救急外来などを残してストをやるべきではないか。ドイツやイタリアでは当たり前のようにやっている。アメリカで医者がストをしたときは死亡が減ったという報告もあるらしいし・・・。個人レベルでの対抗の立ち去り型サボタージュではなく、冗談ではなく全国的なストを考えても良いと思う。しかし医師を束ねることは相当難しそう。)

 しかし、裁判所、市民が満足できるような判断をださず、メディア、さまざまな要因があって市民の声を反映せず、組合にはそれだけの強い力が無い場合、最後に残っている手段として市民運動がある。ビラを配ったりデモをしたりというアレである。自分も9条の会という会をつくって仲間とともに市民運動を行っている。

(実際、医者というより市民活動家といったほうが良いような医師もたくさんいる。メーデーなど病院の労組も毎年行進はやっているがあまり盛り上がらないようである。そもそも医師はほとんど参加していない。)

② 医療関係者であるからこそでてくる社会とのかかわり方とは?  

 医療に関係して医者には特別なものの考え方、表現というものがある。医療では病気を予防することもあるが、病気になれば治療する。できれば病気を治してしまいたいと考え、完全に除けなくても苦痛が減るようにできないか。それが持続的にできれば望ましいができなければ一時的にでもできないか? と考える。

 また重要な考え方に根治治療と対症療法というのがあるが、これは日常の表現ではない。
 根本治療とはどこに原因があるか突き止めてそれを除こうとする。そして対症療法とは病気の一つのあらわれとしての症状に対して薬などをもちいて抑えるというものである。原則としては根本療法のほうが良いに決まっている。どういう原因か突き止めるために診断学が発展し症状を分析して検査をおこない病気の原因を突き詰めてきた。
  この2つことを医者はまったく別のこととして区別するというのが非常に重要となる。

 この考え方をメタファーとして社会での問題を理解し対応するために使える。(例、中国での日本企業の建物の野ガラスを割るなど反日行動など)  

(あらゆることを対症療法だけで先延ばしにしてきたのがここ数十年の日本といえるだろう。根治療法を行うには要素還元的な演繹法とともにシステム思考もとても有効。国際保健、公衆衛生、環境医学などはまさに医学の一分野でもある。)

 さて「薬が効くとはどういう意味か?」という問いに対する答えで日本国民は二分される。医療関係者、医療関係者のほとんど即答できるだろう。しかし非医療関係者、日本国民の90%は答えられないだろう。これは非常に不都合なことである。小学校からこの問いが答えられられるように教育すべきだ。  

(雨の日の保健体育ではなくて、医学をきちんとした学校で教える教科として、組み入れたらどうかというのが私のかねてからの主張である。そうすればみんな自分の体と健康に対して主治医になれる。スペシャルな技術は専門家の力を借りればよい。
ただただ地域での生や病、老いや死を丁寧に支え、つむいでいくだけでも次の世代への教育効果というのは相当大きいだろう。そういう思いで医療をやっていきたい・・。死や病、老いや障害を病院や施設に預けっぱなしというのではあまりに悲しい。)


 医療関係者は「同じような病気、状態の人をあつめて2つのグループにわけて薬を使った群にわけて与え、観察したら、飲んだ人のほうが統計的有意差をもって望んだ効果をえられた」ということであると言うだろう。
 一方、非医療者は「自分の親父が飲めばたちどころによくなった。この薬は効きます」というように答えるだろう。しかし、これは無意味なことである。
こういった医療者関係者が、職業的につかっている頭の使い方を医療の領域から外に出て応用することは無駄なことではない。 

(医学は統計学を基礎としているのだが、非医療者は感情で動く。EBここに医療者と非医療者のギャップがある。ギャップを埋めるのも医療者の医療者の仕事。健康講和や演劇などでもいいだろうし、病院祭などもそのよいきっかけとなる。臨床の現場でEBMとNBMが注目されているのもそのギャップをいかに埋めるかということであろう。
 自分の将来を考えるにジャーナリストなども医師の職場としてありかもしれない。二木立や近藤克則のように、学者でもいいかもしれない。行政の道に進むのもいいかもしれない。いづれにしろ一つの軸足を医療に、もう一つを社会において活動したい。)


  さて、価値には体系があり、ある価値は別の価値を前提とする。そしてすべての価値体系の前提となるのは生命、すなわち生きているということである。生命の否定は死であり死と生は相互に排除的である。つまり生きていれば死んでいない、死んでいれば生きていない。そして死はどういう価値の前提にならない。  

 医療関係者は職業上、生と死に立ち会うことが多く生命という普遍的な価値に毎日向き合っている。救えるものなら救いたいと毎日死と戦っている。

  しかし世の中には政府により合法的された死が2つある。一つは死刑であり、一つは戦争である。これらは生死をあつかう医療問題と関係が無いことは無く、医療者が死刑と戦争に反対の立場をとる人が多いのは当然である。

  生きているということそれ自体、全ての重みをささげるほどの価値をもっており、われわれの持つ知識の範囲を超えている。生とは何か?死とは何か?とは古くから問われ続けてきたことであるが、ほんのわずかしかわかっていない。
そのときにとる態度はどうあるべきだろうか?  

 ひとつはわかっていないんだから(無価値なのかもしれないから)場合によっては殺してもいいんじゃないかという態度。自分自身の生命には価値があるが他人の生命にはどんな価値があるかわからないから、殺してもいいというのは傲慢不遜な態度でこれは絶対的な差別である。

  もうひとつは、わかっていないんだから、どんなに尊いものかわからないから殺してはいけないという態度。こういた生命尊重主義は差別を消すように作用するはずだ。  

(医師であり漫画家である手塚治虫はまさに、ずっとこのことを訴えてきた。戦争反対と生命への尊厳が、あらゆる手塚作品の中心テーマである。)

 この態度は教育に非常に良く似ている。教育は個人の将来を決定する。義務教育はだれにも普遍的になされなくてはならないし、高等教育も望めば誰にでもひらかれていなくてはならない。しかし教育とその効果に対する知識というのはわずかであり、わからないんだから望めばみんなに教育を与えなくてはいけない。
医療も同じ。望めばだれにでも開かれていなくてはならない。

(教育と医療は良く似ている。
どちらもミッションサポートとエンパワメントという意味では同じ。若月はどちらも愛だというだろう。民主主義の成熟した北欧などはまさにそのような政策をとっている。)

  医療関係者は教育関係者と連携するべきで、憲法9条の2項をまもったほうがいい。平等をまもったほうがいい。

③ そのうえで両者がどういう関係をもつか?  

 医者は専門職だから医者以外にはわからない便利で共通の言葉がある。戦後しばらくまでは医師はドイツ語のすこし混じった日本語、すなわち医者語をしゃべっていた。それは患者や一般の人にわからないもので昔はそれでも仕方が無いという態度だった。

  いまでは英語になってインフォームドコンセントなどとというようになった。これは「これからする処置はどれだけの危険と利益があるか説明し、患者がわかって合意した上でやる」ということだが、医者と患者の間で言葉が通じないとインフォームドコンセントにならない。相手にわからなかったら言わないのと同じである。

 ただ、医者の中には2ヶ国語をはなせる人もいる。医者用語とその地域で話されている方言も含めた日本語の2つである。この2つを話せる場合には問題が解決できるが、そうでない場合は通訳が必要となる。 

この部分は、まさに8月17日のエントリーで述べたこと。通訳とはどのような人のことを言うのだろうか?生活も含めその人や地域を見っめ続けている地域の主治医ならばその役割を担えるだろうか?医療技術の利用をマネジメントでき、幸福をもたらすことができるだろうか?)

たとえば、田舎のおばあさんが東京帝国大学の付属病院を受診するとして。門を入っただけで圧迫感がある。そこに先生が来て、インフォームされても嫌とはいえない。それが正当な手続きだといっても無理がある。本当のインフォームでないと、コンセントの意味がないということに医者の側も注意する必要がある。

 それから患者の負担をなるべく少なくすることが大事で、患者は弱者であるからお金の力で医療の内容が変わるのでは良くない。悪い意味でのアメリカ型になってはいけない。アメリカの医学は水準が高いが、立場の弱い人、貧乏な人への対策は遅れている。制度がよく組織されているとはとてもいえない。患者の負担率を高めると貧乏な人には痛い。経済的負担能力によって医療内容が変わらないようにすることが大事だ。  

(社会共通資本である医療を市場経済におけるサービスの一形態とみなしたところがそもそもの誤りのはじまりである。はいったとたんにコンビニがありコーヒーの香りの漂う病院(高知医療センター、亀田総合病院、聖路加国際病院など)は確かにすばらしいし、うらやましいが、そもそも何のための医療かというところをまちがってはいけない。
 アメリカよりも北欧型を横目で見ながら、充実した社会関係資本を基盤としたアジア型の医療福祉モデルを作っていく必要がある。)


  医療者にお願いしたいのは市民運動を助けていただきたいということ。市民としての医者、職業人としての医師として一般国民、教育との連帯しなくてはならない。これまで話してきたように医療者は他の職業の人よりその活動においてものごとの理解において有利な点がある。ことに地方の医者、ただ医療関係だけではなく土地のコミュニティの中で知恵のある人でありうるならそうである。19世紀末のフランスの田舎の医者。それはコミュニティの全体をちょっとはなれて客観的に、正確に理解している人であり、戦いを仲裁したり裁いたりする田舎の医者がモーパッサンの短編小説では良く出てくる。日本でもそういう医師はいた。  

(確かに、生命と社会に対する教育、そして実践をおこなっていきた医師には独自の視点、役割、すなわち使命があるだろう。モーパッサン読んでみたい・・・。山本周五郎も赤ひげに医療とは「貧困と無知との戦い」と言わせている。
加藤周一老の期待にこたえられるかどうかはわからないが・・・・。)


 専門医がどんどん発達するなかで医学の研究を前にすすめていける人ではないかもしれないが、今知られている医学の知識を上手に使う医者もいる。

(川上武氏は医療技術を医療技術自体と医療技術システムに分けて考えている。地域ごとでの技術をいかに利用するかという医療技術システムは、国ごと、地域ごとで考えるべき文化といえるだろう。)

 そういう医者が憲法9条をまもることを賛同することのできるような人を増やしてほしい。
(では⇒9条の会オフィシャルサイト
 *******************************************************

 当直のため中座しなくてはならずこういう講演会では一番興味深い質疑応答に参加できなかったのが残念。診療所医師や院長、副院長、市民がこの話にどんな反応を示したのかが非常に気にかかる。 「地域医療とは運動であり、病院や診療所、医療者は市民を育て自治を呼び覚ます装置、触媒である。」というのが私が日ごろ主張するところであるが加藤周一も同じようなことを言っていると感じた。若月俊一ならそこにエリート、ヴナロード、愛、ヒューマニティという言葉をからめていうに違いない。福沢諭吉の「一身独立して国家独立」するというのも同じことなのだろう。宮沢賢治や内村鑑三は「人を大事にして、育てることが重要」と主張している。自分や家族、地域への愛情をもつことのできる人を育てることから、自ら考え行動する人(市民)が生まれる。かつて大学の後輩が「市民医学の確立」が必要と話していたことがあるが、いまあらためて考えるとそれはまさにこういうことだったのかもしれない。