リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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精神障害者を支える病院と町の合同カンファレンス

2011年09月28日 | Weblog
病院と町の支援者の初の合同のカンファレンスが開催された。
病院側からは多職種のスタッフ、町からも福祉課や社協の職員、保健師などが参加。

病院が主催したテーマを絞った勉強会はこれまでに開催されたことはあったが、このような形でのカンファレンスははじめて。



「地域社会はまだまだ偏見が強く精神障害者を受け入れようとしてくれない。」「病院は大変で何するか分からない危険な人を無理に退院させようとする。」と言い合っても仕方がない。
お互いの顏の見える日常的なコミュニケーションと正確な情報交換がなければ、病院側は「地域は偏見が強いという偏見」から脱せられないし、地域側は「精神障害者は何するかわからないので怖いので退院させないでほしい。」というようになってしまうのは当然だ。

これでは何も変わらない。

「精神障害者」、「病院」、「地域」という漠然とした言葉では何も語れない。
「精神障害」といっても様々であり「障害」は、それぞれの当事者の個性的で歴史のある個人の一部をあらわすファクターでしかない。
そして支援者だけが精神障害をもちつつ地位で暮らす方のもとへ単独で訪問していくだけではなく、その人の行動範囲に出会う可能性のある、民生委員、近所の人、よく行く商店の人、病院職員・・・・などなどの理解と支援を広げ見守り型の支援をつくっていかなくてはならない。

また「地域」「病院」といってもいろんな考えや思いをもった個人の集合体だ。
まずは病院と地域の現場の支援者がケースワーカーのみを通じてやりとりするだけではなく、直接的にお互いに顏の見える関係になろう。
重度の精神障害を持つ方が地域の中で暮らしていく体制をつくるために地域に何が足りないのか?どのような支援が必要なのか?
困難ケースの検討などを通じて、精神障害の事やお互いの役割に関する理解を深めていこうというのがねらいだ。

高齢社会となり圧倒的に多い認知症に関しては、やっとそのような動きは広がってきており飯綱町など認知症の地域ケアで有名な地域も増えて来ている。
今後は発達障害や統合失調症などへの理解と支援もそれと同様に広がってほしい。

今回のケースは20~30年前ならずっと入院していたであろうくらいの重度の精神障害の方で、暴力や自傷行為などで何度も入院したこともある方である。
人の好き嫌いが激しくコミュニケーションも難しく自閉的ではあるが、なんとか自宅で生活されており日中は一人でゲームなどをして生活している。
ディケアにも馴染めず、町を歩くと、そのいでたちからどうしても目立ってしまい、子どもに危害を加えないかなどと怖がられ警察に通報されたりということもあった。
保健師さんも訪問をつづけ、メッセージをのこしたりして関係を作るのに苦労したそうだが、あるきっかけで話しが出来るようになった。
主治医や病棟看護師、ディケアのケースワーカなども数年間にわたり、本人の好むものを持っていったり、一緒に買い物にいったりと日参し、支援も受け入れてくれるようになり、支援者が訪ねると家に入れてくれる事も増えてきた。持続注射製剤も受け入れてくれるようになり、落ち着いてすぐ競るようになって来た。
ケア会議には民生委員さんも参加してくれるようになるなど少しずつではあるが状況は変化してきている。

ざっくばらんな意見交換ということで、今回のカンファレンスでは

「正直、怖いと思っていました。」
「子ども達に危害がくわわらないかと・・。」
「火をだしたり、何かあったらどうするのか?」
「本人の希望は?」
「家族の思いと、周囲の支援者や住人の思いにギャップがあるのでは?」
「家族への支援も必要なのでは?」
「小中学校で当事者が語る「心のバリアフリー事業」のような取り組みはないのか?」

などという声も聞かれた。

精神障害者とは「支援を受けること自体に、支援が必要な人」である。
まず、「支援を受け入れてもらえる関係になること。」、「そして一人で抱え込まず、チームで動くことができること。」
それが対人援助に関して素人と対人援助のプロとの違いである。
大変な人ほど、その人を通じて、ケア会議などでいろんな人が関わり繋がれる。

今回は病院が主催・企画したが、次回は町が主催して今後も年に3~4回、このような集まりを継続的に開催していこうということになった。
できたら、松川村や大町市、生坂村、安曇野市など近隣の市町村も合同で、ミニレクチャー、ケース検討、オープンディスカッション、アフターの4本立てで・・・。

佐久地域精神保健福祉関係者懇親会(これを母体にグループホームや作業所などを多数運営するNPOが産まれた)や佐久地域認知症老人を支える連絡会のように定期的な勉強会と飲み会を開催したり、メーリングリストをつくるなどに発展させていきたい。

ケア会議の技術
野中猛 他
中央法規出版

認知症の地域ケアと総合病院の精神科病床

2011年09月26日 | Weblog
最近は専ら福祉分野を取材され、「寝たきり老人のいる国、いない国」などの著作でも有名なジャーナリストの大熊由紀子氏の新聞記事がありました。
「認知症ケアは訪問診療で。精神科病院への入院はやめよう」という主旨には基本的には賛成です。
マンパワーの足りていない忙しい病院に入院する事で身体機能や認知機能が低下し生きる意欲やADLも低下することはよく経験します。
病院であれ、高齢者施設であれ、志が低く、ケアの質の低い施設に入れば、生きる力を失い認知症も悪化するのは当然でしょう。

認知症の方の精神科病床への入院はできるだけ避けられるべきものであることは確かです。

訪問診療では本人の生活の場、土俵におじゃましての診療であり、家族関係の隙間もよく見えます。自宅にあるさまざまな物を利用して本人の世界に入っていけますし、家族も連れてくることで一仕事ということもありません。
継続的に関わる事で、いよいよ看取りの時期もみえて来た終末期に自宅でやれる範囲でのケア(キュアを目指しやりすぎない)という選択肢がとりやすいなどのメリットもあります。
しかし弱体化する家族福祉と乏しい地域の公的福祉の資源で在宅で認知症の方をささえていくことは簡単ではありません。

農村地域での認知症ケアの現場からすこし反論というか意見も述べさせていただきたいと思います。




たしかに、長期入院されていた精神疾患の方が地域移行したり高齢となり亡くなったりして空いた病床に、認知症の方をケアの質が介護福祉施設などとくらべても低いまま集めるだけ集めて生き残りを図っている精神科病院もあります。
民間病院のあまりに多すぎる精神科病床は精神障害者の隔離政策が産んだ、日本の精神医療の暗黒の歴史の結果です。



だからといって全ての精神科病院や精神科の病院医療を否定し、敵対する対立構造にしてしまっては変わるものも変わらないと思います。
そこで働くスタッフがみな高齢者の「生きがいや誇りを剥ぎ取る」悪意をもった極悪人なのでしょうか?
住みなれた環境で生活を支えるシステムを、どのように実現するかという過程において精神科病床とそこで働くスタッフに活躍してもらうという事や、病院から出て行って、地域に多様で質の高いケアを展開していくということはあり得ないでしょうか?

農山村などでは相当に進行した認知症でもそれがそれほどハンディとなることなく過ごされている方もいます。
また、もともとの性格に加えて、家族や周囲の理解や支援に恵まれ、認知症を抱えつつも人生の最後の期間を穏やかに経過させる事の出来るケースもあるでしょう。

しかし多くのケースではBPSDはそれほど甘くはありません。
アルツハイマー型認知症などの認知症を早期発見しても今のところ根治的な治療法はありませんし、認知症が進行し混乱期に入ると、加速しながら中核症状が進行しますから本人も家族もなれません。まるでジェットコースターのようです。その混乱や不安がBPSDとして表現されます。

福祉ネットワークの太田さんの番組も見ましたが、当事者活動をされ、あれだけ自分で認知症とむきあってこられ、家族や周囲の理解と支援のあった太田正博さんですらあれだけ混乱しているのです。
(「シリーズ 認知症と向きあう(1)太田正博さん いつまでも自分らしく」ハートネットビデオで10月5日までの限定公開。かなり衝撃の映像です。)

その場面に医療・福祉は先手先手で対応し、本人と家族に粘り強く、また見捨てる事なく寄り添うことが求められています。


また家族のだれかが要介護状態、特に認知症になると、それを支える家族も生活スタイルや生き方を変える事を迫られます。
親が認知症になり介護が必要な状況になるのは、多くは働き盛りや、定年直後の年代です。

地域の医療福祉資源を活用して在宅ケアでなんとか乗り切れる条件がととのっている人はまだいいでしょう。
しかしサポートに乏しい地域や、家族や介護者がいない人はどうなるのでしょうか。

在宅でのケアや環境調整、関わり方で落ち着かせるのが上策で、施設に入ったり入院したり薬物を使うのは悪という風潮があります。

しかし在宅至上主義では全ての人が幸福になれません。
在宅でできる医療だけなら良いのですが、認知症の方にも入院医療は必要な場面はかならずありまし、さまざまな事情から在宅医療がどうしても困難な方もいます。

警察の調べでは認知症で徘徊高齢者が行方不明になったり死亡したケースは全国で年間約900人件もあるといいます。
老年精神医学会の調査では認知症の運転者の6人に1人は事故を起こしているというデータもあります。

しかし訪問系のサービスはコマ切れのタイムケアで、介護者がいることが前提の介護保険制度ですからそれだけでなかなか支えきれるものではありません。特別養護老人ホームなどの施設やグループホームもまだまだ数も足りず、希望すればだれでもすぐに入れる状況にはありません。特に経済的に余裕のない層は・・。高い入居一時金を払って民間有料老人ホームに入居した方も、認知症がすすみケアしきれないと追い出されてしまうことだってあり得ます。
よっぽど貧困や虐待などの状況では養護老人ホーム、特別養護老人ホームに措置入所という事もありえますが・・・。

こういった状況の中、訪問診療で実際に経験したケースでは、家族がついていられない日に、家に外から鍵をかけたり実際に家の入り口にブロックやタイヤを積み上げて出られないようにしていた家もありました。認知症の高齢者の方が内側から鍵のあけられないホームに監禁されていたり、届け出制の民間ケアホームでベッドに拘束されているのが発覚した事もありました。


認知症の方を介護している家族だって社会の中で様々な役割を担った上で介護もおこなっている当事者です。
疲れた家族に介護されている認知症の方が幸せとは思えません。
介護に疲れた家族を救うという大義名分だって十分成り立ちます。

本人の意向を尊重し、それに寄り添うのは当然の事ですが、入院や施設ケアや薬物治療も、本人や家族が穏やかに過ごせるための一助として一概に否定すべきものではないと思います。

認知症の方の尊厳を維持しながら在宅で看ていく体制を行政がバックアップするには今以上の費用がかかるでしょう。予算やマンパワーの乏しい中で、やみくもに実行すると別の不幸が生じそうな危惧を覚えます。




介護者に自分が認知症になったらどこで生活したいかというアンケートをとると「施設に入りたい」という解答が一番多かったのです。

私は農村部の312床ののうち90床(閉鎖45床(うち高齢者15床)、開放45床)が精神科病床の中規模総合病院に勤務しています。
認知症疾患医療センターであり、認知症に関しても外来を中心に家族や地域の医療福祉職のあらゆる相談に乗っており、病院のキャッチメントエリアに関しては訪問診療、訪問看護も積極的におこなっています。
また近隣の施設や特養などにも訪問していますし、看護師をはじめとした病棟の多職種のスタッフも可能な限り担当患者の自宅へ訪問する機会を作るようにしています。

数少ない総合病院の精神科病床に診療圏としているエリア以外からも入院患者が多数おしよせ、病床は常時ほぼ満床で回しています。
地域で唯一の認知症疾患医療センターであり、本当に困っている人を断ると言う選択肢はありません。
しかし当地域は高齢者の介護施設が需要の割に比較的少なく施設側が利用者を選べるような状況のため、自前の老人保健施設などの高齢者施設をもたない当院のベッド運営は正直苦しい状況です。

認知症を中心とした老年期のエリアは45床の閉鎖病棟の一角に15床あり、他のエリアと完全に分けられているわけでなく緩やかにつながっています。(しきりはありますが、スタッフが開け閉めして必要に応じて患者も出入りしています。)
リストカットを繰り返している思春期の子が老年期のエリアで過ごしたり、認知症の方が一般のエリアに散歩にいったりしています。

なるべく自由に動いてもらうのは良いのですが、転倒骨折や誤嚥、窒息などリスクも高くスタッフは大変です。
地方の病院で認知症病棟、思春期病棟、依存症病棟とわけるだけの患者、リソースがないということもありますが、多様性を確保することが、癒しや気づきの多い環境につながると考えているからです。
病棟では様々なレクリエーションや音楽療法、回想法などもおこなわれており、にぎやかです。家族や地域の医療福祉職も頻繁に出入りしています。
生きる力を取り戻してもらうために「あなたは大切な人で生きている価値がある。」というメッセージにあふれる環境を心がけています。

さまざまな事情から長期になってしまう方もいますが、たいていは2ヶ月程度で退院します。

介護が破綻し、家族が虐待に至ったり、拒食などのセルフネグレクトが見られたり、徘徊がどうしようもなかったり、家族へのあてつけのような行動化(家に火をつけようとする)などでどうしようもなくなって緊急入院となることがあります。
また他院へ入院中に入院継続が困難で(だまされて)転院してくる方もいます。
介護保険施設のショートスティなどでBPSDへの対応も含め機敏に動ければ良いのでしょうが、医師が必要性をみとめれば入院できる医療(一番融通の効く福祉ともいえます。)のように素早い対応はなかなか難しいケースが多いです。
緊急ショートを使ったとしてもBPSDが激しければマンパワーが乏しく薬物治療と言う選択肢ももたない施設のスタッフも支えきれず、あちこちの施設を転々とした後に当院に入院となるケースもあります。

また身体的治療が優先され、治療中はじっとしている事が求められている一般の病棟ではスタッフの少ない夜間帯などにせん妄や不穏がでるとあっさりと抑制されてしまうことも多いです。
しかし精神科病棟ではスタッフの苦労のもとほとんど抑制せずにみており、他の認知症をもつ患者さんもいるゆったりとした雰囲気の精神科の病棟に移るだけで落ち着いてくることも多いのです。
(逆に精神科病床の方が自由に出入りができない閉鎖病棟という環境もありますが、精神保健福祉法という厳しい法律に基づいて運営されているので簡単には抑制などできないのです。)
一方で総合病院ですので身体合併症をもつ認知症の方の肺炎や尿路感染などの感染症も内科医の連携のもとみていますし、時には手術出しをしたり、人口呼吸器もつかったり、といったこともあります。
病棟では身体のリハビリや口腔ケア、NSTなどのチームも積極的に関わっています。

こういった環境の中で家族と一時期はなれ、病院のスタッフに大切にされ、家族も余裕ができ、やっとそこからショートスティや訪問系のサービスを受け入れる体制がつくれたことで在宅での生活継続が可能となるケースも多いです。

ただ、こういった病棟があることで他の病棟や施設がなんでもお任せになってしまうというジレンマがあります。
混乱し大変な状態の高齢者をお願いされて受けたのにもかかわらず、落ち着いても介護施設には「精神科に入院していたような高齢者は・・・。」と断られたりします。
同じ院内の医師や看護師からも精神科入院中の患者さんは「認知症だから痛いんじゃないの?」といわれたり、「こんな人みられません。はやく引き取ってください。」といわれたりということが続き病棟のスタッフも悔し涙を流すことも稀ではありません。
そういった安易な隔離や収容を許すことなく、認知症やその他の精神障がいを持つ人を地域で支える体制をつくるために、一例一例を丁寧に関わるとともに、様々な活動をしています。

一例として、もともと大変なわがままで若い時からクレーマーとしても地域で有名だった方で、ケアマネが常に呼び出され介護保険外のあらゆるニーズに応えてきた方が、多発脳梗塞もあり、いよいよADLが低下して来たケースがあります。
脳血管性認知症と、それにともなう慢性的な尿閉(残尿)によりせん妄が出現し、介護職や他の利用者に相手を選んで無茶難題をふりかけ暴力や暴言を繰り返し、個室でないと対応できないのですが、夜間に寂しがりいわゆる「純粋ナースコール」がやまらず、とてもみていく事ができないと地域の幾つもの施設から拒否され入院となりました。
泌尿器科で評価をおこない、本人を説得し尿道留置カテーテルをいれたことで夜間のせん妄は改善しました。
保護者としての一人息子に代わり、後見人を立て、地域の施設の現場のスタッフに集まってもらい、本人にも参加してもらいカンファレンスをおこない、医学的な問題がでたり、施設スタッフが疲れた時は病院でレスパイトするということを保障することで地域みんなでみていこうという雰囲気になりました。
こういう最後まで自分を通す負けない方を、地域で支えぬく事を通じて、地域でケアにかかわる人がつながれますしスタッフは鍛えられます。

また、透析治療をおこなっており、認知症でてきて転倒し頭部外傷によりせん妄が遷延し、診療圏を越えたエリアから入院された方もいました。激しい記憶障害とせん妄がみられた通過症候群を乗り切りなんとか自宅近くの病院に転院してきました。
透析をしている認知症の方のケアというのも全国的に大きな問題です。
当院では幸いに病院の隣に特養があり、そこのスタッフがショートスティや入所者の送迎をボランティアでおこないニーズに応えてれていたのですが、特養がはなれば場所に移転するために今後どうするか問題になっています。

身体的、精神的に落ち着いたにもかかわらず、病棟から退院できず残っている認知症の方をみると、家族がいないかあるいは見ていく力が無く虐待、介護放棄のような状態になっている状態の方がほとんどです。
BPSDが落ち着いたところで、そういったかたはお金もなく有料老人ホームなどに入れるわけも無く、民間の施設には避けられ、公的な特養の入所判定は在宅で頑張っている方が優先となりいつまでも退院できません。
(措置で入所できる事はありますが・・)
認知症の方が落ち着いて過ごせるグループホームなどは当地にはまだまだ不足しています。
新しくグループホームができたり特養が増床されても、在宅でそれなりに落ち着いて生活がおくれていた方が「選ばれて」入っていきます。
行き場が無く病棟の住人となった方は、いい雰囲気をつくってくれています。
しかし本当は病院以外の地域資源でもっとしっかり支えるべき方だと思います。

しかし収容するだけの病床は病院のやる医療ではありません。
収容するのではなく、地域のケアをしっかりと支援し、認知症を含む精神障害を抱える方やその家族の生活を支えていくには手間もお金もエネルギーもかかります。

精神科の病床、特に、総合病院の精神科病床は、バラバラの福祉サービスに乗れなかったり医療を上手に受ける事ができない方、医療から排除された方を断る事無く引き受けています。
総合病院精神科の病床には様々な機能を持たせることができますのであらゆるニーズで依頼が来ます。
しかし精神科病床は民間の単科(精神科)のみの病床が圧倒的に多く、総合病院の精神科病床の意義を唱えるには数が小なすぎまたその余裕もないため診療報酬に反映されません。
そのため不採算部門となりがちで病院経営を成り立たせるために、縮小あるいは廃止するところが増えています。
数少ない絶滅危惧種となった総合病院精神科病床ですが、そこのスタッフは医療・福祉のフロントラインそしてバックエンドを引き受けている自負で働いています。
しかし、これはスタッフのギリギリのモチベーションに支えられていますので、モラール(志気)が低下し、大変な患者を選んで避けるようになればあっという間に機能しなくなるでしょう。
そういうところが増えれば、患者を選ばずに引き受けている病院がますます大変になります。
(救急医療などでみられる状況と同様の事がおこります。)
そういった病床がなくなれば、連鎖的に病床や施設が立ち行かなくなり認知症の地域のケアの体制は回らなくなるでしょう。

貧困化がすすむ現在において我が国では、どれだけの覚悟をもって認知症にとりくむことが出来るのでしょうか。
もっといえば認知症を含む障害をもつ人が社会の一員として参加できる社会にどうかえていくか・・。
それが今、問われているのだと思います。

乏しい医療福祉の予算の中で認知症の方が本人の望む生活を続けていけるような制度も体制も、多様な住居もまだまだ不十分です。
悲劇をなくすためには高齢者、認知症ケアに十分なコストをかけ、地域ケアの体制をつくり、福祉施設、介護施設などがレベルアップさせ、質の低い精神科病院から解体し、その人的リソースを地域に向けていく方向にもっていくしかないと思います。
ニーズが高まる総合病院精神科については公の責任において、より強化する必要があるでしょう。

増え続ける高齢者を支えるためには、日本には住み替えという習慣はあまりまりませんが、自宅での生活継続にこだわりすぎず、それが出来ない人でも次善の策として見慣れた景色、方言のとびかう地域の中で、出来れば交通の便の良く病院や商店にも近い町の中心に、自宅でも施設でもない多様な居住福祉を多数展開し、「緩やかな集住」を推進していくことがどうしても必要となってくると思います。




認知症の講演会には人が集まります。それだけ関心が高いという事がうかがえます。
当院でも地域で認知症の講演会(社協職員などとともに寸劇をしたりしています。)や勉強会、シンポジウムなどを頻回におこなっています。



「認知症とはこういう障害で、こういう心理です。誰にでもなりえます。
これから増えます。こんな例もあります。認知症は怖くありません。
認知症の人を理解し尊重し、住みなれた環境で生活を支えるシステムを作りましょう。」

とさんざん言っても、必ず参加者からは

「認知症になるのが怖い。ならないようにするにはどうすれば良いのですか?」

という質問がでます。まだまだ道のりは遠いなと思います。

今後は、さらに当事者や家族にも語ってもらう機会をつくっていきたいと考えています。



不器用で、医療や支援を受けること自体に支援が必要な人を対象にしているのが精神医療です。
統合失調症や気分障害、依存症などで混乱する当事者や家族を支えて来た経験は認知症の方や家族、福祉職のケアやサポートにも活きることでしょう。
私たちにできることは、鈍くならずに、でもめげずに、まっとうで丁寧な、投げ出さない当事者に寄り添う医療や福祉を提供する事です。
数も多く身近になった認知症の方を理解し支援していく事で地域社会の雰囲気が変わり、それ以外の精神障害(発達障害や統合失調症など)への理解も深まり、だれもが産まれきてよかったと感じ、まぁ良い人生だったと死んでいける社会にしていきたいというのが私たちのやろうとしていることでもあります。

「医療は黒子」には賛成です。「精神医療は精神医療無きを期す。」と思っています。

でもまだまだ黒子になりきれない地域社会の実情があります。

被災地支援で感じたこと。(大北医師会報の原稿)

2011年09月25日 | Weblog
平成23年4月24日から27日まで安曇総合病院のこころのケアチームの一員として宮城県石巻市に被災地支援に行かせていただいた。日常の業務をやりくりして、病院に残った人にも負担かけて編成したチームだが、たかだか実質の活動日が2日間で何か出来たとも思わない。これまでの大規模災害の経験を元に厚生労働省と県が作成した長野県内の精神科をもつ病院がリレー方式で多職種からなるチームを派遣するという枠組みの一部として動いただけである。いち早く被災地に駆けつけ支援体制の道筋をつけた人、そして今に至るまで継続的な支援を行っている個人や団体には敬意を表する。それでも外部の元気な人がたとえ単発で短期間であれ被災地を訪れることは意味があると思った。実際に被災地を見て、被災者に寄り添うことで「一人ではないよ。」というメッセージを伝えることが出来るからだ。

訪れたのは災害発生から49日を迎える直前で、地震と津波の被害は甚大であったが、すでに自衛隊、行政職員や医療従事者、さまざまなインフラ業者などが全国から来て被災地支援、復興支援に入っており、仙台から石巻に続く道路は朝晩、渋滞し、市内はむしろ活気があった。支援物資もいきわたりはじめ、仮設住宅の建設がすすんでいた。われわれに期待されていたのは被災により機能の低下した保険医療福祉のシステムを少しでもカバーすること、具体的には、地区の保健師と前のチームからの申し送りを受けて活動し、担当する地区の避難所や自宅をめぐり精神障害をもつ方を訪問診療し、また被災者や支援者の不眠や不安などの精神症状を中心とした医療相談をおこなうことであった。よろず相談、かつ自分のあるいは周囲の資源を総動員で支援に望んだ。

地域の人の自治で運営され支援者や物資も乏しい小規模な避難所もあれば、あちこちから見ず知らずの被災者が集められた大規模な避難所もあった。大規模な避難所はまるで病棟であり行政の人、外部からボランティアで来た医療職や介護職と被災者が協力しながら生活し自助グループ的な雰囲気をつくっていた。

お金や頼れる身内のある人は避難所を脱し避難所の統廃合も始まっていたが、障害や貧困などで普段から弱い立場の人が取り残されていた。被災者は長引く避難所生活のストレスがつのり、身内の死や失われたものの大きさを自覚させられ、先の見えない不安に襲われていた。悲惨な現場に居合わせた衝撃、自宅や家族、これまでの生活を奪われたショック、障害をもつ兄弟や認知症の親や幼い子どもをもつ家族の避難所での困窮と不安などなど一人一人の方のお話を伺っていると切実な苦しみとニーズを痛感する。しかし傾聴し、持参した薬をわずかばかり処方し、それを現地の保健師などにお伝えすることしかできなかった。大災害の衝撃から被災者が回復していくにはまだまだ時間もかかるだろう。原発の事故の被害はいまだに進行形である。

栄村でも松本でも地震はおきた。大北では災害への備えはどうなのだろうか。災害はかならずやってくるが被害を減らすことは出来る。災害時にもっとも被害や影響を受けるのは弱者である。差別や排除、格差などを解消し、社会的脆弱性の克服していくことが災害に強い地域社会をつくる。東北の被災者を忘れず支援を継続することももちろんだが、被災地で肌で感じたことをもとに、私たちの地域でも防災、減災のための活動を急がなければならない。

食べることと生きること。

2011年09月22日 | Weblog
松本で開催された在宅ケアを支える診療所市民全国ネットワーク、第17回全国の集いinしんしゅう2011の2日目は並列で並んだ企画が多すぎて他のセッションにも出たかったのだが、結局一日「お口づくし」だった。

午前中は全国にネットワークが広がる山梨お口とコミュニケーションの会の「ふるふる」一座のシンポジウム。
テーマは「食べることと生きること」
古屋先生の絶妙な進行で期待通りのエキサイティングかつモチベーティブな内容だった。

小川滋彦先生の「胃ろう」の話しでは「胃ろうがあるからこそ落ち着いて経口摂取へのチャレンジがつづけられる。」ということを再認識した。
いつぞやの学会でNSTのリーダーの東口先生と、摂食嚥下リハで有名な藤島先生が、胃ろうをつくるべきか激論を交わしていたのを思い出した。
重要な点は胃ろうはゴールではなく、最後まで経口摂取への挑戦をあきらめてはいけない。

「胃ろうはトラウマであり、病院においてその存在を肯定されない場合がある。」
家族からも見捨てられコミュニケーションがとれない(ように思える)老人をかかえる病棟のスタッフはモチベーションも下がる。
しかし在宅では寝たきりになって意思表示が出来ない状態になっても家族などの中の「関係性の中で生きている」。
これは太田仁史先生の言う「存在役割」のことだとおもった。
まさに尊厳だろう。

山梨の誇るカリスマ歯科衛生士の牛山先生の被災地支援の話しで印象に残ったのは

「仕事や役割は自分でみつける。気付いた事は何でもやる」(掃除でも何でも)
みんながパンパンな被災地では迷惑にならない行動。
どんな状況でも相手を受容して、それから伝えること・・。(被災者でも他の支援者でも)
現場に会わせた方法で。たくさん言ってもダメ。1つか2つで・・。
継続的な支援を。マイナスがプラスになる支援を。

などなど、これらは被災地に限らず日々の現場でもそのままあてはまる教訓と思った。
「よろず相談かつ自分の全てを総動員」という対人援助の原点を再確認した。

小山珠美さんの急性期病院でも摂食へのアグレッシブな挑戦の話しだった。

「急性期から口をきれいにして、身体を起こして(離床)、抑制を外して、栄養管理をして、一刻も早く口から食べる!単なる廃用症候群や合併症予防に留まることなく、経口摂取による早期リハを実践しその成果を示す」というミッションを突き詰めて継続、実践し超急性期から、そこまでやれるんだという仕組みと文化を作り上げてきた実践には改めて感服した。
二木立→石川誠らの急性期リハと同様の流れが、お口の分野でもおこなわれてきているということなのだろう。
紹介されたナイチンゲールの「看護覚え書き」もあらためて読み込んでみたい。
(映画、「看護覚え書き」もあるのね。)

栄養士でありケアマネでもある奥村圭子さんは、被災地に行った経験を、しみじみと語られ熱い想いと苦悩がつたわってきた。
在宅の場面での訪問栄養指導は実に有益であり、当地でも栄養士に活躍してもらうようにしていきたいと思った。

座長を務めさせていただいた午後のセッションでは小笠原正先生の口腔内の所見と歯科連携のポイント、松尾浩一郎先生のVFやVEの動画をフル活用したユーモアあふれるレクチャーであり、歯科分野についての基礎知識も乏しかった自分いははじめて聞くことも多かった。いままでは口の中のことは全然見ていなかったなぁと反省した。
口腔内や摂食・嚥下に関して、いくつも新たな視点をもつことができた。

摂食障害とは「食べられないのに食べている。食べられるのに食べていない。」ということ。
「食べられないのに食べている。」というのは窒息や誤嚥などに繫がる。
もっとも蒟蒻ゼリーがだめで、餅はいいというのは歴史の長さと文化の違いだけ・・・。
胃ろうなどが作られてしまったため「食べられるのに食べていない。」ケースもあまりにも多い。

詳細な観察やスクリーニング、VE(嚥下内視鏡)やVF(嚥下造影)などもツールとして使って、病態や刻々と変化する状況に応じてアセスメントをしっかりすることが大切だ。

歯科医師が摂食嚥下に関わるようになったり歯学部の教育に取り入れられるようになったのはまだ最近の事のようだ。
口腔内も見られて触れる、歯科衛生士や歯科医師がもっと摂食嚥下分野へ参加してくれれば心強い。

松尾先生らともメーリングリストを作りたいという話しをした。
長野県内でも地域医療の現場をつなぐ多職種のネットワークを紡いでいきたい。
そしてこのような機会を通じて、全国で地域ごとでネットワークを組んでレベルの高いケアを共創していければ良いと思う。

障害者制度改革のシンポジウム

2011年09月21日 | Weblog
松本で2011年9月17~18日と開催された在宅ケアを支える診療所・市民ネットワークのしんしゅう大会に参加した。
近くにいるという事で今回は実行委員として一部の企画のお手伝いもさせていただいた。

多職種での雑多なテーマのコンベンションは面白い。
ただ欲張りすぎて同時に並列で進行する企画が多すぎて一部にしか参加できないのは残念だった。
メーリングリストのオフ会に参加したり、佐久病院のかつての同僚に会えたりしてとても楽しかった。

「弱者、障害者への関わり」というのは自分のテーマなので、初日は全国初の障害者差別禁止条例を制定した堂本暁子元千葉県知事らの障害者制度改革のシンポジウムに参加した。堂本暁子さんと東俊裕さんの力強いはなしは実に刺激的だった。

数年前に松川村でおこなわれた、千葉での条例づくりに携わった野沢和弘(産經新聞記者)さんの講演をおききして以来、堂本さんのお話も是非聞いてみたいとおもっていた。

堂本暁子さんはジャーナリストを30年、国会議員を12年、千葉県知事を8年間勤められた。
選挙のときも、県知事になってからも県内を歩いて歩いて歩き回った。条例へむけた集会にはのべ3万人もあつまった。

最近は東日本大震災の被災地におもむき、主体であるはずの個人が置き去りにされている災害復興計画に対して物申している。




以下、内容に関して印象にのこったところをピックアップして列挙する。

**************************************************

被災地の避難所で苦労していたのは高齢者や障害者である。
「差別や排除、格差などの解消が災害に強い社会をつくる。」と確信した。
減災で重要なのはソフト対策。社会的脆弱性の克服である。

社会の進展とともに障害のあるひとが守れなくなっている・・。

「理不尽な理由で辛く悲しい思いをしている人はいないか。」

しかし、いくら理不尽な想いをしてもそれが差別とおもわないから、聞いても当事者も差別はないと言う。
国が何が差別か社会のルールとして具体的にしめしモノサシをつくることの必要がある。

(セクハラもそう。昔からあったのですがそれがハラスメントと認識されていなかった。湯浅誠さんらの訴えている貧困の問題もそうだろう。「溜め」をどう評価するか。憲法25条の生存権「健康で文化的な最低限度の生活」をどう保障するかということに関わる根源的な問題だ。)

千葉県でいろんな障害の当事者があつまり議論をかさねた。
「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」
難産だったが、議会には障害者の当事者や家族が連日詰めかけて成立させた。

「しかし法律を書く事は簡単なのだがプロセスが大事で、法律は政治家、県民、有権者に育てられてできていく。
法律も条例も一人ひとりが参加して自分のものだと思いをもてばもつほど活用される。」
と強調されていた。

子どもも高齢者も障害者も男も女もみんながそれぞれの持ち味を出し合っての地域づくり。
この条例は法的拘束力をもつ国と国との約束である障害者権利条約の批准をめざした一里塚で大きな前進だといえる。

障害者には社会を変える力がある。
・・千葉県のようなムーブメントが全国で巻き起これば社会は変わるとおもった。



「Nothing about us without us」
「私たち抜きに私たちの事をきめるな」

という当事者運動の流れ。

法律の制定でも、日々の支援でも本当に実感して心がけているつもりですが気付かず悪気なく押し付けたり勝手に決めたりしている事は多いだろう。

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内閣府障がい者制度改革推進本部担当室長として行政の中心で活躍されている東俊裕さんのお話も刺激的だった。




「障害」に関して医学モデルから社会モデルへの大転換がもとめられている。

つまり

「本人が悪いから、かわいそうだから、国の余力の範囲でたすけてやれ」
「医学、教育、リハで本人にどうアプローチするか」

というスタンスから

「社会に参加できるような仕組みをつくるのが国の仕事」
「社会をどうかえるか」

というスタンスへの転換だ。
障がい者総合福祉法もこういったスタンスで検討されている。

 →障害者総合福祉法のゆくえ(福岡寿死の講演)

これまでの施策はきわめて「医学モデル」的だった。
しかしこれからは「思いやり」だけではなく「人権」ということを考えなければならない。

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この話しを聞いて考えたのは医師の役割だ。
医師はいまのところ有限な医療福祉資源をトリアージ(レーショニング)する役割を本来的に担わされている。
だれに医療を配分するのか、支援の必要な障害者ということを誰が判定するのか・・。
救急医療の場面のみならず、休業の診断書や、手帳や年金の申請などのときには常に悩む。
どうしてこの人がこれだけの支援をうけているのに、こちらの人は受けられないのだろう・・・。という不条理はいつも感じている。
こういった問題意識から「医学モデルから社会モデルへの転換にあたって医師の役割は?」
いう趣旨の質問させていただいた。

明確な応えは得られなかったが、医師は役割として目の前の個人に寄り添い、医学モデルからのアプローチ(キュア、リハビリ)も考えつつ、個人や地域のエゴ、社会の理不尽、不条理とも闘っていかなければならない重要なポジションにいるのだとあらためて感じた。

できることから少しずつ手をつけ、ジワジワと前進していくしかない。

条例のある街―障害のある人もない人も暮らしやすい時代に
野沢和弘
ぶどう社


ブレーメンの挑戦~新福祉論が目指すまちづくり~
クリエーター情報なし
ぎょうせい

発達障害者支援の現状(いま)

2011年09月10日 | Weblog
2011年9月3日に筑北村「とくら」で恒例の信州精神医療交流会が開催された。

これは長野県内の病院や精神科診療所医師や看護師、行政の保健師、施設の職員など現場で精神医療を実践している人たちを中心に信州精神医療交流会という30年間続いている集まりである。
毎年2月と9月に年2回ほどその時々のテーマで集まり勉強会や近況報告や情報交換をしている。第2部、食事会(飲み会)と第3部(宿泊、飲み会)まである。(次回は2012年2月25日、安曇野ビレッジで予定。スピーカー、テーマ、参加者募集)
毎回楽しみに参加している常連メンバーもいれば新しく参加される人もいる。

職域や職種にかかわらず精神医療福祉に関わる人ならだれでも参加できるゆるい集まりだ。

実は精神医療の周辺には職種、職域ごと、テーマごとでこういった小さな勉強会、交流会というのは実に多い。
このような場をもちグループスーパーバイズを続けていないと熱い想いはあっても理不尽な事も多い現場で燃え尽きてしまって続けていけないからというのもあるからだろうか・・。

今回はのテーマとして、「発達障がいへの支援」にしたいという希望があり、スピーカーとして安曇野市穂高で「ふりはた子どもの輝き相談所」の降旗志郎、多鶴子先生ご夫妻にお願いした。
実は当初は長野県の行政組織の中で働いていらっしゃる日詰正文先生にスピーカーをお願いしていたのだが、都合で来られなくなったので、降旗先生ご夫妻に急遽お声がけしたところ快くお引き受けいただいたという経緯がある。
(参考エントリー:発達障害親子ディキャンプ


降旗志郎先生、多鶴子先生は日常の診療でも患者さんのことなどでもお世話になっている先生だ。
警察でのカウンリングや、県立こども病院でのリハビリテーション、カウンセリングに携わられ、大学での教育、不登校、非行の少年のカウンセリングに関わる一方で、信州発達障害研究会、高機能広汎性発達障害の会などをコーディネイトしてこられた。
2000年からこども病院を独立され、安曇野市穂高に「ふりはた子どもの輝き相談所」を開設されてそこを拠点に活動されている。
臨床心理士というと個人療法が中心と言うイメージがあったが、それだけにとどまらず社会やシステムに対しても働きかけを積極的に続けているところがすばらしい。

今回のサブタイトルは「マスコミの協力と大いなるフットワークと少々のヘッドワークと打出の小槌」。

降旗先生は実際の現場で感じた問題意識を解決すべく、コミュニティ心理学の考えをもとに、上位システム(発達障害支援法などの成立、教育制度への働きかけ)、中位システム(人材育成、啓発活動)、下位システム(すべての子供に介入に寄り添う、子育て支援、スクールカウンセリング、SST、親への集団カウンセリング)全てにバランスよく活動をおこなっている。
幼小の連携、小中の連携は徐々にできるようになってきているが、中高の連携などはまだまだこれからだという。
スペシャルな発達特性を持つ子の教育や職業選択は、幅広くいろいろな選択肢を持たせて進学してから絞り込んでいく(ボトムアップ、ステップアップ方式)よりは、最低限のソーシャルスキルを身につけ、支援があれば嗜好や適正に応じた将来の職業を想定してそれから逆算して必要なスキルを身につけていくような考え方(トップダウン、バックキャスティング方式)の方が上手くいくという事だ。
そうしないとPDD特有の高い能力がつぶされてしまう。
これはストレングスに着目した障害者就労支援のIPS方式に通じる考え方といえるだろう。

新聞社などのマスコミも巻き込み、予算を集めて本を配って啓発したり、定期的に勉強会を開催したり、塩尻市で全ての子供対象にモデル的に介入し個別教育を検討したり、政治へも切り込んでいったり、実際に当事者と親の会を組織し継続的に活動してこられたりまさに地道で着実な「実践」を続けてこられその成果も次々と出始めている。

私も何回も参加させていただいた事のある信州発達障害研究会はもうすぐ100回を迎える。
全国で様々な実践をされている講師を招き、毎回、当事者、当事者家族、教育関係者、医療関係者などが多数参加している。

いろんな人を巻き込んで世の中を動かしていくという点ではまさに運動だし、どんな人でも参加し発現し生きていける場を作っているという点ではまさに活動だと思った。

また多鶴子先生は理事としてNPO「パルパル中南信親子お楽しみ会」を主催、運営されてきた。
私も臨床で発達障害の方の支援に関わるようになり、個人レベルで発達障害の支援をすることの限界を感じていたので昨年活動を見学させていただいた。
(参考エントリー:アスペルガーの会(通称パルパル)へ参加

アスペルガー症候群、高機能広汎性発達障害の子どもを対象とし、だいたい月に1回(年10回)開催され、当事者に1対1で学生などのボランティアがつき体操や料理などの活動をし対人関係やソーシャルスキルを学び、その間に親にはグループカウンセリングをおこなう。
当事者や家族にとって知識やスキルを身につけ仲間意識をそだて心の居場所になっていた。
大学の教員や保母、医療職、現場の教師なども参加し繋がりを増やし技術や知識を共有し広める場にもなっていた。
ニーズに応えるために8年間にわたり様々な活動をしてきたこの団体も公的な支援の乏しさ、運営の負担、新たな課題などに対して対応しきれなくなり安定した運営が困難となった事で残念ながら今年一旦解散することにしたそうだ。
当初は小さな子供だった参加者が年を重ねるに連れて大きくなり、それにともない就労や高等教育などの新しい課題もでてきた。
助成金も得るためには新規のメニューを企画する必要が増えており、それにともなう事務や運営の苦労も多かったようだ。

発達障害の家族や当事者の集まりというのは、他にも松本や大町、塩尻などでもあり、組織されるようになっているがなかなか続かない。
これは知的障害の親が覚悟を決めて子供が小さい時から集まり活動するのに対して、広汎生発達障害は発達がアンバランスで社会性の障害もかかえ、その親も集団での活動が苦手な事も多いこともあるからだろう。
統合失調症や双極性障害など精神病の親も、子供がまさに社会にでていこうとする思春期に発症する疾病、障害であるためになかなか家族の集まりなどの組織は難しい。
本当はこういったところに医療や教育職の専門家や公的セクターの人が積極的に支援してもり立てていかなくてはならないのだろうが・・。
小さな組織を運営していくことの苦労は自分もNPOの「ほたか野の花」に少しではあるが関わらせていただいているので、その大変さは何となく分かる。会費や助成金など資金面での苦労。医療や教育分野の学生などのボランティアスタッフに年間通じて集めて参加してもらうことの苦労、多くは理事長の熱意で運営され、一人に負担がかかり、その理事長が燃え尽きると続けられなくなるというNPOは多いようだ。

精神科医療の現場からは、発達障害という視点がなかった時代から、徐々にそのような見方もされるようになってきた歴史的な経緯や、孫や親戚の子どももそうだと言われた、自分もそうかもしれない、教育現場での温度差もあり教員も病んでいる人も多い、医療のスタッフにも発達障害をもちながら働いている人もいる、などなど様々な意見も出た。

最近に也発達障害が増えて来たと言われる理由として、発達障害という見方が広がって来たということと、幼少時からソーシャルスキルを身につける場も減っている事、第一次産業や、自営業、製造業などの職人的な仕事が減り、高機能自閉症などの発達特性の人には生きづらい世の中になって来た事もあるだろうという。

しかしディスカッションを通じて職種や時代はことなっても個人に丁寧に寄り添いつつ、一方で社会にも働きかけるという臨床のスタンスは変わらないのだと感じた。

発達障害の知識や支援技術も定まって来た。それぞれの発達特性に応じた教育や医療、支援がなされ、それぞれの才能をめいいっぱい開花させることのできるようにしたい。
ていねいな教育で二次障害や非行、犯罪に走る子どもが減り、特殊な才能が見いだされて社会で活躍できる。
それは公の利益にもかなう事だ。
そのためには教育や医療にはもっともっとお金もエネルギーをかけるべきだろう。しっかり投資をすればもとのとれる分野だ。
これらのことをチームワーク、フットワーク、ネットワークで実現していきたいとおもった。

アルコール依存症者の自助グループの現状

2011年09月03日 | Weblog
依存症(アルコール、薬物、摂食障害、ギャンブルなど)の回復に最も有効な手段は当事者の自助グループだ。

依存症のため健康や仕事、人間関係などを失い、アル中のろくでなしというスティグマのために余計に素面ではいられずまた飲んでしまうという悪循環から脱するためには、当事者が集まり仲間どおしで助け合い支え合う場が必要だ。

しかし残念ながら地域の断酒会やAA(アルコホリック・アノニマス、匿名のアルコール依存症者のグループ)が維持できず次々と消滅しつつある。
依存症の背景に発達障害や気分障害、統合失調症などをかかえた方も多く、断酒会などのグループにはうまくとけ込めない方も増えているのも原因の一つだろう。
以前のように入院してアルコールのリハビリテーションのプログラムに参加し、退院してからは断酒会に繋ぐといういわゆる「久里浜方式」にはまる典型的なアルコール依存症者はめっきり少なくなった。(それでもニーズはあるが。)

あちこちに断酒会やAA、その他様々なの自助グループがある都市部なら、本人にあった自助グループにめぐり会える可能性が高いが、過疎地の地方ではなかなか困難だ。
人間関係に不器用なためグループの中での人間関係が上手くいかなくなり、それが嫌でいけなくなってしまう人も多い。
そういう意味で専門家がサポートにまわって良い雰囲気になるように支援したセルフヘルプグループやピアカウンセリングには意義があるのだろう。(サポーテッドピアサポートというそうだ。)
そういったこともうけて病院のアルコールリハビリテーションプログラムでも卒業生が外来受診のついでなどに参加する事を推奨している。

安曇総合病院の診療圏でも豊科の断酒会はまだ盛んでだそうだが、白馬村の断酒会は消滅し、池田町の断酒会も中心となっていた方が引退され、残されたメンバーでは県断連(長野県断酒会連合)の会費も払うのも困難な状況で、長野や松本の大会に代表をおくる事も困難な状態となり、「断酒会」は消滅した。アルコール依存症の方は障害年金や生活保護もなかなか受けられないなど経済的にも厳しく、飲酒運転や事故などで免許を失って地方での移動の足がない方も多いのだ。
それでも病院のアルコールリハビリテーションプログラムに協力し(入院中の患者が院外の断酒会にでかけることをすすめ、スタッフ付き添いで出かけている。)、地元の断酒仲間の集まれる場をつくろうと「有志の会」として細々と続けている。

地域によっては保健所や市町村保健師が中心となり「酒害者クラブ」を運営しているところもある。
医療者や行政はこういったセルフヘルプグループの活動を、もう少し裏に表に積極的に支援することが求められていると思う。