リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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当直明け

2006年08月09日 | Weblog
 当直明けは頭がぼーっと熱い感じがするし吐き気もする。お酒をのんだときのようだ。まず寝当直というわけにはいかないのだから、ちゃんと夜勤として認め、代休をいれてほしものだが、オフィシャルに代休や仮眠をとってもよいということにはなっていない。(罪の意識を感じさせられながら、それでも限界のときは、こっそりと仮眠をとることはある。)

 当直の当日や、翌日の業務になるべく支障をきたさないように、当直の曜日を調整するが、通常の業務以外に不定期に入ってくるのでどうしても余計な業務という感じになってしまう。36時間連続勤務は、非効率的だし、患者にとっても危険だし、体もつらく仕事も回らない。

 そんな体制でやっているのだから、救急外来や休日の外来は、翌朝まで待てない救急疾患の病態を見分け、つなぐという目的での運営が精一杯なのだが、そういった事情も一般にはあまり理解されていないようで夜間外来化した救急外来には患者が押し寄せてくる。

 どこかの社長の記者会見のように「オレは寝てないんだ!」といいたい気持ちをぐっと抑えて、そういった患者にも怒らせないような対応をするので精一杯。

「当直は毎回がロシアンルーレット(患者にとっても、医療者にとっても)」だという同僚もいるが、それでもなんとかヒポクラテスの言うDo not harm!であらねばとがんばらざるを得ない。

 どの専門科もオンコール体制になっていて呼べる体制にはなっており相当恵まれてはいるのだとは思うが。主訴ごとの見逃してはならない疾患、落とし穴のパターンや、救急対応の標準的なプロトコールを体に覚え、マニュアルとくびっきになり、コンサルトできる、コンサルトしやすい人が院内にいないか確かめる。できる検査はすべてやる。などなど・・、毎回が戦いだ。
 
 しかし疲れてくると自分の都合のいいように病態を解釈(いいわけ)してしまい、重大な見逃しをしているのではないかとはらはらする。危険な病態を頭の片隅で気づいてはいながら、「まさかね。大丈夫だよね。」と返してしまう。
もうやめたいのに付き合いでやめられず、だらだらと徹夜でマージャンをやっているときのようだ。そういうときはミエミエのところに振り込んでしまう。

 当直の翌朝は、眠く疲れた体に鞭打って、通常の業務に加え、入院させた患者さんのとりあえずの指示だし回診をし、他科や元の主治医に引継ぎ、指示出し、そして引き継ぐべき相手がいなければ自分で見なくてはならない。入院は平均2~3人だが、冬季など5人、10人と入院させたときは、翌日は通常の仕事どころではなくなる。

 こんなところこそシステムの問題で何とかできそうだが、会議での議論は課題を積み残したまま1回でおわってしまって結局、何もかわらない。どうやって変えていけばよいのか、その方法論がわからないのと、みな目の前の患者のことで忙しくリーダシップをとれる人がいないのだだ。

 救急隊(24時間勤務48時間休み)や看護師(日勤と夜勤の組み合わせによるシフト制)みたいに医師も完全シフト体制で動くERと救急ベッドが常時稼動し、そこからもっともその患者さんをみるのに合理的な主治医チームの元に適切なときに、適切に振り分けていくようなER型の救急体制がとれればよいのだが。そんなイニシアチブをとる人はいない。

 医療崩壊では先をすすんでいる遠方の地域、病院からも容赦なく患者が押し寄せる。「今日、○○病院にかかったのですが、やはり具合がわるくて・・・。」「普段は○○病院にかかりつけなのですが・・・」「○○医院では薬をもらっているだけです。」「入院を頼んどいたから行きなさいっていわれました。」という患者。
「当方には専門医がいないもので。」「小児科医は呼び出し体制なので。」 (こっちも呼び出し体制なんだよ!)「休日に入るのでよろしく」(とは書いていないが・・・そう読める紹介状。その場しのぎの適当なことばかりやってそれかよ。不安と苦労はわかるけど。)
しかもいつのまにかヘリコプターまで飛んでくるようになった。

医師なのだからそれが当たり前。といわれる。
シフトで動いている職種が、もうしわけなさそうに(?)帰っていくのを横目で見ながら。

だれもがみな通ってきた道なのだからと老いた医者からいわれる。
昔とは違うんだよ。すぐ訴えるの話になるんだから。

疲れていても、それをみせずにやるべきことをやるのがプロ。だといわれる。
それでミスがあったらだれが責任をとれるのか。

中堅の専門科の医者がぼろぼろになりながら、がんばっている姿をみせられる。
その人が倒れたら地域の医療はどうなってしまうのか考えている人はいるの?

疲れをしらず、次々と技や知識を習得し着実に成長し、バリバリと仕事をこなす同期の姿を見せつけられる。
魅力のなくなりつつあるこの場所に、いつまでいてくれるのだろうか。

The doctor is a way of life,to live it,or to leave it!といったのは蘭医のポンペだが、スーパーマン医師以外は立ち去るしかないのだろうか?

その地域で数少ない技術と免許をもっているものの責任か?
それならそれで、みんなで育て、それを最大限生かせるような体制がほしいもの。
いまは果たしてそういう状況なのか?

ここでは、なんとかしようという声はなんどもあがっても、議論をおこなっても精神論や愚痴でおわり、いつのまにかブラックホールに吸い込まれては立ち消えてしまうのだ。
 医師で社会や組織の構造的問題にまで切り込めるマネジメント能力やリーダーシップを持つものは稀だし、スーパーマン以上の存在でなければ、そもそも診療の片手間でそこまでやるのは不可能なのかもしれない。
 
 疲れやすく、すぐに注意力も判断力も落ちる頭と体で、さまざまなことに優先順位をつけながら、いろいろな仕事を段取りよくマルチにこなしことを求められる。不全感がぬぐえないまま最善をつくせたかどうか思い悩み、他人の不幸を思いやる感情的な揺さぶりに耐えるような感情労働をこなす。正解のない問いのはずなのに、失敗はますます許されなくなる。こんなことは自分には難しい。だから、自分は患者をみる直接みる医者はもうやめたほうがよいのかもしれないと思い始めている。

 高度医療などなくとも人類は滅びずに命をつないで来た。一度、近代医学のない社会(Where there is no doctor)へもどってみて医療の原点を考えるのも一案か。
意外と困らなかったりして・・・。(もっともプライマリヘルスケアと福祉が充実していればの話だけれども。)

 しかし医学はうまく使えばいい道具であることはまちがいない。要は使い方の問題であろうる。Tools for convivialityを活用して人類全てが幸福な世の中(Society for All)を築いていかなくてはとあらためて思う。