リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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リハビリテーションからリカバリーへ その9

2010年05月26日 | Weblog
そのころたまたま安曇病院から初期研修医が来ていて、一緒に当直をやったりした縁で安曇総合病院の精神科を知り安曇総合病院の精神科に移り研修をさせてもらうことになりました。

安曇病院精神科部門はさまざまな問題をかかえながらも、いろんな思いや技術を持った人があつまり、その上でチームとして医療をおこなっているのがいいなと思いました。

リカバリーと言う概念にであったのもこのころです。病気や障害がありながらも投げやりになるのではなく、それを含めて自分だといい意味で開き直っておもって生きていく。
リハビリテーションはリカバリーの手段だと知りました。

リカバリーを果たすためには、基本的には人薬、時薬しかなく、ピアとよばれる当事者同士の繋がりが一番効果的であること、そういったセルフヘルプグループやピアサポートを専門家として支援するというやり方がいいことを知りました。

今、自分は「よろず相談、かつ自分のもつリソースの全てを総動員、でも燃え尽きない。そしてなるべく当事者の自助の力を引き出す。セルフヘルプグループやピアサポートを専門家としてサポートする」というスタンスで診療をやっています。精神科医療における医師の役割は患者さんも、スタッフもそうですが黒子として目の前の人をいかに輝かせられるかが勝負です。そのための構造、環境調整がおもな仕事です。武器はネットワーク、チームワーク、フットワークです。

我以外皆師と思いながらやるのがいいみたいです。

一人で生きられないのも芸のうちという本がありますが、障がいをもちながら地域で堂々と行きていくということは、それだけ人の手助けをかりるということです。筋ジストロフィーを生き抜いた「こんな夜更けにバナナかよ」の鹿野はまさにそれを地でいっています。人の手助けをかりるということは、バラバラになってそれぞれが孤立した社会を紡ぐという力があることです。障がいがあるからこそ持ちうる視点といのがあります。

社会のバックエンドとなる医療の現場は、社会のニーズなどがその気になればもっともよく見える場所です。目の前の人に全力を尽くすことはもちろんですが、一方で社会へその見えたことを返していく運動的なものをあわせてやっていかないと精神的につづけられないと思います。
それは学会や論文などで専門家の間で共有することかもしれないし、社会にニーズがありながら地域にないものを作ることかもしれないし、声をあげて政策に反映していくことかもしれません。

自分は縁があって精神障害を中心とした世界に来ましたが保健所や、地域の作業所や学校などの教育機関、警察や救急隊、地域住民などいろんな人と協同します。家族の会を中心に立ち上げたNPOの手伝いをさせていただいき、やりがいと楽しさを感じています。

医師として、どんな対象の人たちと生きていくのか。がんの人たちなのか、○○病のひとなのか、○○村の人たちなのか、精神障がいをもつ人なのか・・・。社会のニーズと、自分のスキルと興味の重なるところ。つまりMustとWillとCanの3つの輪の重なるところ。

そして自分がどうしても譲れないところが自分のテーマです。

わからなければとりあえず手のつけられるところからやってみて・・・。疲れたときはときどき立ち止まりながら進路を変更しながら、自分のテーマをみつけ追求していきたいと思います。

【傑作】トーシツ版ツレうつ、わが家の母はビョーキです2

2010年05月23日 | Weblog
コミックエッセイというジャンルの、シンプルな絵で日常をつづるマンガが増えている。
その中でも精神疾患・障害についての日常が描かれたものもでてきた。

有名なのは「ツレがうつになりまして。」だ。
夫婦でうつ病を乗り越えて新しい人生を歩むと言う内容で、NHKでドラマ化もされ、うつ病という病気の一般市民への理解を促進した。

そんな流れの中で、「わが家の母はビョーキです」という本が出た。
統合失調症をトーシツと呼び、病気の内容や対応を明るく描いた作品だ。
精神疾患の中でも分かりにくい、また偏見も強い統合失調症についてのコミックエッセイとしてよくできていた。

そして最近、その「わが家の母はビョーキです」の2巻が1年半ぶりに出版された。
サブタイトルは「家族の絆編」

1巻に引き続き、よくぞここまで描いたというような内容。
さらにリアリティが増した筆致。
統合失調症は精神疾患の中でも非常にわかりにくい病気・障害である。
この本は家族の絆と統合失調症の悪化防止を鮮やかに描き、分かりやすく、当事者や当事者家族、支援者にとってもためになる内容だった。

ツレうつに続き、是非ともドラマ化もしてほしいと思う。
(相当演じるのは難しそうだが・・)

そして統合失調症のことについても市民の理解がすすみ、明るく語れる世の中になってほしいものである。

わが家の母はビョーキです
中村 ユキ
サンマーク出版


わが家の母はビョーキです 2 家族の絆編
中村 ユキ
サンマーク出版



そしてこっちは元祖精神病コミックエッセイ、ツレうつ。
文庫になり安くお求めいただけます。

ツレがうつになりまして。 (幻冬舎文庫)
細川 貂々
幻冬舎


その後のツレがうつになりまして。
細川 貂々
幻冬舎


※ ちなみにアルコール依存症に関しては西原理恵子の「毎日母さん」がオススメ。

リハビリテーションからリカバリーへ その8

2010年05月22日 | Weblog
しだいに消耗し、疲れているのに眠れなくなり、めまいや吐き気、不整脈、ものすごい肩の張りなど症状におそわれるようになりました。
自分の不作為ために患者に不利益を与えてはいけないと、なんとか病院に行っても半日かけてやっと病棟へたどり着き、そそくさと回診し、患者の前からも逃げるように立ち去る毎日であり、発作的に何かしでかしてしまいそうな衝動に繰り返し襲われていました。院内PHSがなるたびにビクビクしていましたた。

自分にまとわりつくすべてのものがうっとうしく、世の不幸はすべて自分が原因であるのではないかと思っていました。

自分ではどうしようもない調子の波、能力の偏りにも気づきました。
病棟の都合で患者の病室が移動していたりするとパニックになったり患者の名前が覚えられなかったり、カルテやサマリーがどうしても書けず患者やリハビリ科のスタッフが入れ替わり立ち替わりくる診察室や病棟で混乱したりしていました。

夕方は頭痛がして診察室でぐったりとしていました。

すすめられて心療内科に受診しうつの薬をとっかえひっかえ出してもらいましたが、余計に変な感じでした。

上司に、「もう無理です。リハビリ科はやめます。休ませてください。」といったら「ワシだって当直もやるようになった。他の後期研修医がまわってくる9月まで無理だ。」といわれてしまい、それから自分か、患者か上司を殺してしまうと・・・思えば毎日、かなり異常な精神状態でした。
突然道路の真ん中でひっくり返ってみたり、どうかなってしまいそうでした。

危なっかしくてみてられんと患者さんを引き受けてくれた同僚や先輩、「何かする前に電話しろよ。」といってくれた先輩がいてありがたかったです。

そして同期の後期研修医がリハビリ科にローテートしてくるのを待ち、地域ケア科に移らせてもらっいました。

それから半年は重い体を引きずりながら病院に向かい、負荷を減らした状態で訪問診療や老人保健施設中心の業務に関わらせてもらうなかで、たくましく地域で生き、そして旅立っていく患者さんに癒されていきました。

それでも医師をつづけていくことにも自信がなくなり、メンタルヘルスやうつ、心理学、発達障害、経営学、哲学などの本を読みまくり、自分や自分を取り巻く状況がなんとなくわかってきました。

そして少しずつ周りのものを整理して、多少は自分のできないこと、苦手なことは他人に任せられるようになってきたかなぁ?

いわなくっちゃあ、世の中変わらない。

2010年05月22日 | Weblog
てとてと作業所やグループホームを運営するNPO法人なかまとの井澤泉理事長のお話を伺った。

なかまと(孤独にならず)手と手と(双方向で)をたずさえて歩もう、との願いから法人名、事業所名をつけたそうだ。

自分が聞きたかった話しであるが、せっかくなのでいろんな人にきてもらって勉強会形式にした。
勉強会にはいろんな立場の方、25人くらいの方が参加してくださった。

なかまとは平成13年にグループホームを白樺の家の業務委託により運営開始。
もともと白樺の家という自閉症者生活施設を運営る信濃の郷による業務委託からはじまった。
しかし親の会の活動は自分の子供の指定席のために頑張って活動し、親としては指定席を買ったつもりになる。
結果、新たに加わる人には寄付をもとめたりということになりがち。

市民社会では当事者を抜きに周囲だけきめてはならない。
そういうしがらみとは無縁でやりたいと、平成15年にNPOとして独立したそうだ。

そしてさらにグループホームを2カ所開設。
宅幼老所や、認知症対応型グループホーム、はたらき支援センターなども次々と開設し事業展開している。

今では約40名の職員。
グループホームは知的と精神あわせて計4カ所で、定員は19人(知的15人、精神4人)
作業所は2カ所あわせて60名を受け入れている。
グループホームを開設する際には世話人を全国に募集をしてIターンの夫婦に来てもらったりするそうだ。
まったくの素人だったりするようだが、世話人会を毎月開き燃え尽きないようにしているようだ。

グループホームも万能ではない。
グループホームでは施設のような大きな管理はないが、小さな決まり事やルールなどの管理は多い。
そして小さな雑事は多い。
メンバーの相性などもありなかなか大変なようだ。

今回はNPOで事業を展開するにあたってのお役所との交渉のコツをいくつか教えていただいた。
前例に従うのが役所だから前例を作る。
単純な間違いをあえて挿入し、ご指導をあおぎ労をねぎらう。
などなどがポイント。

しかし役所の縦割り行政や硬直化した姿勢、不作為にはまったく不満だという。
社会福祉法人は優遇されてNPOは同じことをやっていても課税されるなどおかしなことがたくさんある。


(てとてと松川共同作業所)


作業所での就労に関しては、工賃の高い物は下請けに出さず安い物を下請けに出すために工賃倍増は構造的に難しい。
こんなのやってられないと言う気持ちが一般就労へのモチベーションになると半ば自嘲的に言う。

障害者雇用としては法定雇用率として55人に1人は障害者を雇わなければならないという制度があるがなかなか推進されない。
現制度で上手くいっていないのだから一般就労が難しければ就労の場を作っていく必要がある。
大企業に関しては特例子会社という制度があるが、中小企業に関しては各企業が出資して会社をつくりそこで障害者を雇用するというのがいいのではないかと主張。

自立支援法から障がい者総合福祉法へとあらたな福祉の仕組みが検討されている今こそ主張しないとまた困った仕組みができてしまう。

いわなくっちゃあ、世の中変わらない。
まったくその通り。声を上げ行動していこう。


リハビリテーションからリカバリーへ その7

2010年05月21日 | Weblog
自分がいてもいなくても変わらないような立場の回復期リハ病棟の専従医としてのアイデンティティに悩みました。

まわりからみると相当落ち込んでいるように見えたのでしょう。
いろいろな人が声をかけてくれました。

あるベテランのリハのセラピストには「先生は設計士でおれらは職人なんだよ。いい設計図をかいてくれなきゃ」とか。
自分の役割に悩んでいた自分にとってこのたとえは一番腑に落ちました。
しかしそれは難しいことでした。

関西の某大学のリハビリの教授は「ケースワーカーに成り下がってはいけない。医師として出来ることをしなくては。」といいました。
その一方で日本福祉大学の近藤克則先生は「診断書のかけるケースワーカーで全然いいんじゃない?」と言ってくれました。
別のリハビリ科の先生は「リハ医は看取りをやっちゃいけないよ。システムを作り責任を負うのが仕事。」だよといいました。
東京のリハ病院の院長先生は「やりたいとおもっていたことじゃなくても、必要なことで、たまたまやる人がいないからやるというのもあるよな。主治医として関わると同時にリハビリのシステムに責任を負うという役目もあるよな・・。」
といってくれました。

なるほどー・・。

出身大学のリハビリ科の先生も学会で食事にさそってくださり相談にのっていただきました。
高次脳機能障害の方ついての相談では「もうすこし、薬物療法も工夫できるんじゃない?」とアドバイスをいただきました。

初期のときの総合心療科の指導医だった先生は、佐久に来た時にはるばる時間をつくっていただき
「やりたいことに近いことなんだけどまだ早すぎだったね。後期研修医のやることじゃないよね。」といっていただきました。

北海道でお世話になった先生も佐久病院の見学がてら来てくださり、「一つの病院でずっといるのもおかしいよ。北海道へこない。」などと心配していただきました。

ところで意地になってつづけていた内科系の正当直というのは、初期研修医のコンサルテーションを受けながら、各科の上級医にコンサルテーションし、嫌みを言われながら病棟に入院を頼み、入院することになった患者さんの指示出しをします。

そして、翌朝はほとんど眠れずぼーっとした頭で各専門家の先生に頼みにいくのですが捕まらなかったり引き受け手がなかったら自分で見て、というような危険かつひどい状態で、一晩で10人を入院させるはめになったと言う後期研修医もいてさすがに問題になりました。

これはやってられんと後期研修医があつまり、改善案をだして上層部に提出し、取り決めがなされ当直の回数は増えましたが、負担はやや減りました。

自分も改革には情熱をもってやりましたが、あの時は気分が高揚して今考えると軽躁状態だったのではないかとおもいます。

妙に高揚しており、ちょっと不思議な気分でした。

リハビリテーションからリカバリーへ その6

2010年05月18日 | Weblog
一方で、回復期リハ病棟では入院中の一時の付き合いとなり退院後は生活をみることができず、自分たちのやったことがよかったのかどうか分からないことにフラストレーションがたまりました。
また病棟には在院日数の制限があり、リハビリのゴールを達成し期間がすぎた患者さんや家族へも退院を迫らなければならないのですが、自宅復帰の条件がととのわず、なかなか退院できない患者さんもいました。
 
そのころ上司とは関係がすっかりこじれてしまい病棟に関しては任せてもらえず、かといって助けてもらえず、顔を合わすと萎縮してしまいとても相談することもできませんでした。

普段は顔をあわすこともなくなった上司が突然「何をやっているんだ、おれならもっと早く退院させられているぞ。」という言葉をあびせかけてきたりして、そして私がいかに仕事ができていないかを文章や電話で繰り返し言われたりして落ち込みました。

また多職種のカンファレンスはやるけれど、他にいる主治医の扱いははっきりしておらずそれは主治医には伝わらなかったり、頭部外傷やくも膜下出血の高次脳機能障害と呼ばれる人たちの退院後の生活、とくに住む場所や仕事がないが地域にどんな資源があるのか分からない。

MSWの同僚と頭を悩ましました。

また山のようなアリバイの書類を作らなければならないのですがこれは自分にとってもっとも苦手なことでした。

チームをうまくまとめることができず、どうしていいかわからなくなってきました。
そんななかで、脊髄損傷で入院した方に自殺企図をされてしまったり、若い脳卒中の方が居場所を見つけられずうつになってしまったり、ICUなどでの治療がこじれて合併症で長引いたり後遺症がのこったりで病院とトラブルになりかかっている複数の患者や家族のアグレッションの矢面にたったり・・・。

そんな余裕がない状態で面談中、理不尽に迫られ患者さんに対して思わず手が出そうになり、「ちょっと失礼」と部屋を出てトイレで壁を蹴り足の骨にひびが入り一ヶ月くらい痛ませていました。

そんなことが重なってジワジワと疲弊していきました。

佐久総合病院・病院祭に行ってきました。

2010年05月16日 | Weblog
小満祭という東信地区最大の店のでるお祭りと一体化した佐久病院祭に行って来た。
佐久を巣立ったOB,OGもこの日にはわりと佐久病院に集まるみたいだ。
自分にとっても古巣だからいろいろ懐かしい知り合いにも会う。



まつりの屋台がならび、歌声や鼓笛隊の音が鳴り響き、恒例の植木市も開催される。

奥に見える建物が佐久総合病院。
看板もボロボロでもはや廃墟にしかみえない限界建造物だ。



普段はさびれた感じが隠せない臼田の町も、この日ばかりはいろんな団体がいろんな出し物をだしてにぎやか。
ミニ鉄道も走っていた。鉄道は小さくてもいいねぇ。



近くの酒蔵「橘倉(きつくら)酒造」も内部を解放。
即売や抽選会をやっていた。
なかなかいい雰囲気。
御天領だった臼田は歴史のあるわりと立派な古い建物ものこる町。
もし若月俊一と佐久病院が大河ドラマや映画になりたくさんの人が臼田に訪れていたら、この酒蔵も立派な観光地になっただろうに。
丁寧に修景を繰り返していけば小布施のような展開もあったかもしれない・・・。
いやいやこれからか?
なにせ農村医療のメッカなのだから。

若月俊一と佐久病院は司馬遼太郎氏の「街道をゆく」には少しでてくるが長編小説にしてくれていたらと夢想。
同時代人だったために難しかったのか。
ならば南木佳士氏に若月俊一と佐久病院をテーマにした長編小説をあらためて期待したい。




病院祭は例年、歴史と未来の2本立てのメインテーマに医療トピックス館(各科、部門の展示)などが脇を固める。

今年は若月俊一の生誕100周年ということで、メインテーマは若月記念館だ。
若月俊一は自分にとって松下幸之助と福沢諭吉に並んで尊敬する人である。
優れた実践家であるところが何よりすばらしい。



ハリボテの人形をつかって昔の手術の様子を展示。
マスクにエーテルを垂らすエーテル麻酔での開腹術。
幕末にタイムとリップして手術したJINみたいだ・・。



保健講話などで使われた人形劇の人形。なかなかユーモラス。
佐久病院には昔のいろんな映像や写真、資料が残されている。
若月と佐久病院記念館は恒久的なものがあってもいいと思う。




もう一つのメインテーマは将来計画。
新病院の計画が平成25年の完成を目指して具体的に着々とすすんでいることをアピール。
いい加減使い古された「再構築」という言葉は今回はなし。
新病棟は4階建て、雪の結晶型のようだ。(別名刑務所型)
北海道大学恵迪寮(けいてきりょう)を彷彿させる形だな。





院長が隣の浅間病院の院長を招いて対談しているのが画期的だった何でも質問コーナー。
この場には各科医長がそろっているのが恒例だ。



一般市民にむけて後期研修医が糖尿病について説明していた。
ルックスも爽やかで話し方も上手で内容も分かりやすかった。



地域の作業所やディケアなどのブースで創作物の販売。
佐久病院のディケアのスタッフと安曇病院の病院内の就労支援事業が話題になった。
信濃毎日新聞で記事になったので佐久病院の人もみんな知ってくれている。
「どうして佐久では出来ないのかとハンカチ噛んでみんなで悔しがっていましたよ。」とディのPSWさん。
就労支援をやっているOTさんとは「人事課よりも院長にアプローチした方がよいだろう。」とか、農業就労についてのディスカッション。



そこで買った手作りのアクリル毛糸のハタキ。
400円なり(手間を考えれば激安)・・・。
車の常備用とすれば高級車みたい。
なかなかの出来でこれは作れば売り物になりそう。



地域のいろんな団体がパネル、ブースをだしておりどんな活動をしているのかがすぐ聞ける。
こういう機会にいろんなコラボレーションもうまれるだろう。

というわけで病院祭楽しんできました。

安曇総合病院 精神科・心療内科「家族の会」

2010年05月15日 | Weblog
安曇病院に通院したりディケアを利用されている方の家族の会で少しお話しをさせてもらった。

 →資料はこちら

家族会に参加されるのは統合失調症や自閉症などの当事者を自宅で支えている家族だ。
ほぼ決まったメンバーなので覚悟を決めて精神保健福祉の分野で何かやろうと思ってくれている家族が多い。

安曇病院の最近のとりくみや、法制度の行方、精神障害のとらえ方などを話させていただいた。
今のトレンドとしてピアサポートやべてるやACTの話もしたが、その中で家族の方から「クッキングハウス」という団体の話が出た。
ウェブサイトを見てみると当事者と支援者で精力的に活動している団体のようだ。
やっぱりクッキングが中心だよね・・・。

ほたか野の花の発展の方向性としてもアリだな・・。

家族の方から池田町でも代表の方に話をしてもらいたいというリクエストもでたので、安曇病院の病院祭に講演などで当地にお呼びすることが出来ないか画策してみよう。

当事者研究方式のSSTやACT方式などのリクエストもあり、病院としても当地で出来る形でやっていくことが必要だと感じた。

リハビリテーションからリカバリーへ その5

2010年05月13日 | Weblog
その後、当初の予定通りリハビリテーション科の後期研修をはじめました。
リハビリテーション科では障害の見方とか、車いすで地域で暮らす人たちの会とか参加させてもらったり、ずいぶんいろいろ教えられました。機能障害が治る状態ではないけれども少しでもいいADL、そしてQOLを目指して当事者と協力しながら当事者の生活を支えるなんて、これは、まさに医療の役目だなと。
そんな研修をおこないながら川上村の診療所に週1回いかせてもらったり、在宅の訪問診療をさせてもらったり、総合外来や救急外来にもでて充実していました・・・。

そのうちに同僚がローテーション研修にでたためリハビリテーション科は上司と二人きりなりました。
医師になって4年目のころ、診療報酬が改訂により療養型病床を回復期リハビリテーション病棟に転換しなければ病院としても大赤字になるという話しになりました。
専従医が必要とのことで、だれも他にやれる人がいなかったので訪問診療や診療所、精神科や内科でのローテート研修をあきらめ、専従医として手をあげました。

病棟の立ち上げのメンバーで、いくつかの回復期リハ病棟に見学に行き、その後も個人的にもいくつかの回復期リハ病棟を見学に行きました。みんなで病院の出口のエンジンで農村型の総合病院でのリハモデルを確立するんだと張り切っていました。
当時、多職種のカンファレンスは行われるようになっていたものの、リハ出しとか、下ろすとかいうことばで動線の悪い病棟で数少ないエレベーターをまちながら手間ひまかけて訓練室への送迎をするけど実際に訓練になるのはわずかな時間になったり、リハのスタッフは病棟担当にはなっておらず、カルテもリハだけ別になっていて、病棟のスタッフと情報共有はできておらず、ケースワーカーは医療相談室、リハビリのスタッフはリハ室、病棟は病棟に、医師は医局にというタコつぼに引きこもっている状態でした。
その状態の改善は後期研修医が主張しても「そうだね。」と聞き流されるくらいで変わるものでもありませんでした。
上司にしてもも、リハビリのスタッフが起立歩行の量の確保よりもプラットフォームの上でのファシリテーションを重視するのを快く思わないながらも「それを指摘すれば自分がやめなければならない。」とスタッフと積極的にディスカッションすること無く及び腰でした。

回復期リハビリテーション病棟はリハが中心の人を多くの職種が張り付き共働してADLの向上と自宅復帰を目指す専門病棟にあつめて実績を示して、多職種協働というやり方を病院全体に示すのが役割だと思っていました。

そのためには病院全体の勉強会をしたり、情報共有のためにリハの電子カルテやシステムを検討したり、結局予算もなかったのでデーターベース更新で小額の予算をとりシステム科とともにデーターベースをサーバー上に置く電子システムを作ったりしました。
夜な夜な開発に熱中し、おかげでファイルメーカーはだいたい使いこなせるようになりました。(小さな病院の電子カルテシステムくらいなら作れるくらい。)

アリバイ的な書類をつくるのにエネルギーを注ぐならそういうのをササッとすませられる仕組みをつくって、大事なことにエネルギーを注ぐベキだと思います。そのために開発に力を注ぐのは間違ってはいないのでしょううが・・。
院内のサブシステムをファイルメーカーで作るのは優れた方法だと思っていますが・・・。
(鹿教湯病院などはそれでやっている。)

しかし本来の仕事を差し置いて、おそらくやりすぎてしまったんでしょうね。
情報共有がすすむと仕事が奪われると感じたのでしょうか?上司の心証は複雑なものがあったのだとおもいます。

リハビリテーションからリカバリーへ その4

2010年05月12日 | Weblog
胃腸科では内視鏡診断治療の最先端の技術や学問的姿勢はすごいなと思いながらも、一方で根治の望めない癌のひとたちがアメニティもあまり良くない古い病棟でずっといるのをみて、こりゃ許せん。なんとかならないかなと思いました。

佐久病院で学んだことは

「とにかく住民、患者のもとへ出て行け、生活をしれ。いって何が必要なのか考えろ。」
「住民とともに考えろ!そのためには演説をするな!劇がいい。」
「地域の有象無象との格闘技。そのためには男芸者にもなれ。」

変な病院ですね。

そして初期研修をおこなううちに、高齢者や難病の人、障害者をささえる医療をしたい、そのためにプライマリケアとリハビリテーションと緩和ケアを身につけて地域診療所へ出ようと思うようになりました。
地道な医療実践は地域づくりにもつながると考えまずリハビリテーション科を後期研修医の進路として選びました。
 
その前に初期の2年目の最期から後期の初めにかけて内視鏡スクリーニングと緩和ケアをやりたいとおもってもう一度胃腸科を回らせてもらいました。地域医療やるなら内視鏡くらいできなきゃいけないと軽い気持ちでおもっていました。
でもこの胃腸科は全国から内視鏡診断と手術の修行にくるようなところです。
そもそも胃腸科に緩和ケアをやりたくてまわる人なんていないようで、どうも当てが外れたようになり、上手くいかなくなり、緩和ケアも内視鏡も、何も出来なくなってしまいました。
自分は足場を固めながら地道に確実にというのがどうも苦手なようです。「二兎追うものは一兎も得ず。」でした。

同じ時に回っていた同期が、内視鏡や腹部超音波検査もちゃくちゃくとマスターし、仕事もテキパキとスマートに業務をこなして行くのをみて本当に落ち込みました。
小さい頃から持っていたアトピーはひどくなるし、それまで外科の時なんかも平気だったラッテクスには感さするし・・・。
精神的にも不安定で身の置き所のない状態になりました。

ちょうどそのころ祖父と祖母にがんが見つかり、どちらも1ヶ月くらいの入院で亡くなりました。
結局、その科の研修を中断して少し休みをいただき、亡くなる直前の祖母と1週間くらい過ごしました。
いったん仕事に戻り亡くなってからお葬式となりましたが、

「スランプだねぇ。」といわれたのが祖母と交わした最期の会話です。

やりたいことと、自分ができることが違ったり・・・。
もとめられていることが違ったり・・・。
能力がたりなかったり。

そして何か変だなとおもったときは、「いったん立ち止まって十分休んでから考える。いろいろな人に相談してみる。」ことが重要なのですが、意外とこれが難しいものです。

リハビリテーションからリカバリーへ その3

2010年05月10日 | Weblog
初期研修をどこでするかはかなりまよったのですが、結局縁のあった佐久病院でさせていただくことにしました。

全国から集まった研修医がたくさんいるの佐久病院ではくじでローテーションの順番や内科系のどの科を回るのかを決めるのですが最初は胃腸科でした。
地域医療をとおもって佐久病院に行ったのに、佐久病院の胃腸科と言えば世界最先端の早期癌の内視鏡による診断と治療をやっているグループであり、そんなことは全然知らなかったのでおどろきの連続でした。

内視鏡の見学などの一方で癌の化学療法や緩和医療をおこなっている消化器癌のターミナルの人なんかにもかかわらせていただきました。

看護師さんだった患者さんにはかわいがられ、採血をさせてもらったりルートをとらしせてもらったり、いろいろ教わりました。

研修が始まって1ヶ月目の頃、認知症のあるお婆ちゃんが食べては吐くという主訴で入院してきまして担当になりました。精査の結果、胃がんによる幽門閉塞がみつかりました。
しかしステントや手術による治療はちょっと難しそうだということになりました。
しかし廊下にあるきだして帰りたい帰りたいと言います。家族もそれなら返してやりたいと言いい、ケースワーカーさんと、在宅部門の先生とかかいろんな人に相談したら、あれよあれよという間に家に帰れることになりました。
嫁と娘が交代で見るような体制で在宅ケアのセッティングが整いました。地域ケア科の先生と往診を行い、補助栄養を少しだけ食べたりしながら帰ってからちょうど1週間くらいで亡くなりました。
朝、指導医と一緒に看取りにいったんですが、孫たちが口紅つけたり、皆で着替えさせたりして・・・。

「おばあちゃん、派手すぎるよなんて笑え声がおきたりして。」

家族の人には「先生、いい勉強をしたね。」なんていわれて・・・。
それが自分の最初の看取りでした。
医師としての自分の原点になっています。

(つづく)

発達障害児の思春期と二次障害予防のシナリオ

2010年05月09日 | Weblog
信州発達障害研究会に行ってきた。今回で96回目だそうだ。
私が行くのは5回目。
個々最近は決まって塩尻のレザンホールで行われているが毎回結構な人数があつまる。
今回も中ホールが、ほぼ埋まっていた。300人は来ていただろう。
常連さんもいるのだろう。

公演中に手を上げてもらった様子では、教員1/3、当事者家族1/3、その他1/3くらだろうか?
病気ではないのだから当然とはいえ、医療現場の関係者は少ない。
しかし精神医療の現場でも発達障害は重要であり医療関係者こそもっと参加してもいいのにと思ってしまう。

発達障害に関しては医療関係者よりも教育関係者のほうがよっぽどよく勉強しているのではないか。
もっともいまだに「甘えているだけ、わがままなだけ」という先生もいるにはいるが・・・。

また当事者の親が多いのは発達障害の親も熱心にならざるを得ないところがあるのだろう。
会場では一緒に仕事をさせてもらったこともある高校の養護の先生なんかとも会った。



今回の講師は小栗正先生。
医療少年院や法務省などでご活躍され、いまは特別支援ネットの代表。
グループで高校への発達障害の支援のために巡回相談されている方だそうだ。
ピシッとスーツを着込んでいるが、痩せ身でカールした髪で飄々とした雰囲気。
身振り手振りをまじえて、話し方もどことなくユーモラスな方で思わずひきつけられてしまう。
今日からでもすぐにでも使える具体的な手法が盛りだくさんでとてもわかりやすいお話だった。

相談事業をしていて高校ではじめて見つかる発達障害というのも高校の種類によっていろいろだそうで、進学校ではきれいな高機能自閉症やアスペルガー症候群の子が見つかるという。
それは日本では勉強が出来ていれば友人がいなくても、別にその子を批判しないという雰囲気があるので問題とされずそのままきているからだそうだ。(うーん、思いあたる。)
しかし勉強はよく出来て大学まではなんとかやれても社会に出たらその日にずっこけてしまいそうな子達だ。
一方、勉強があまり好きでない生徒さんたちの行っている高校は、より大変で発達障害の徴候があっても知的なハンディキャップが何の支援もなく放置されていたりということもある。
定時制の高校などは進路指導の先生が困り果てて相談があったところ、中程度の知的障害で手帳就労が必要なレベルということもあるという。

このあたりの事情は臨床現場の実感としてよくわかる。

今の日本では高校生の15から18歳くらいの子が学校と言うフレームを外れるとサポートがなくなってしまい、ある意味子供を地獄に突き落とすようなことになってしまう。
だから非行のある方が、義務教育でないからといって中退してしまうとその後がないので非常に慎重にならざるを得ないという。


この辺りは本当に深刻だ。
日本の教育現場の貧しさの象徴のような気がする。プロフェショナル仕事の流儀で熱血な定時制高校の先生が描かれていたがああいう先生にあたれば幸運。あたらなければ退学、非行・・。とバッドシナリオに流れ込んでしまうだろう。
フリースクール、バイパス校などいろいろあるにはあるが一部の通信制高校など高校卒業資格をちらつかせた貧困ビジネスのようなものまであるようだ。
30歳くらいまでになんとか自立の道筋、シナリオをうまく描ければ良いのだが・・。医療や福祉もかかわり家族も含めて丁寧なサポートが必要だろう。

さて、具体的な約束やソーシャルスキルの支援についての話がいろいろあったが、サポート(支援)とセラピー(治療)を取り違えてはいけないということは強調されていた。
カウンセリングや精神分析などのセラピーは1対1の関係で少し子供返り(退行)させた、何を行っても許される関係で自己表現を促すのが典型だ。しかし1対1の人間関係とは実はあまり社会的なものではない。(恋愛くらいではっきり行ってアブノーマル)
濃密な対人関係スキルなどを学習させようとするのではなく、挨拶や頼む、謝るなどの基本的なスキルを、それが必要とされる場で練習すると言うことが大切で、その際具体的かつ生産的であることがポイントだそうだ。
本当はサポートが必要な人にセラピーを行うと、退行させてしまい、個別指導が孤立指導になって引きこもってしまうという。
「うつ病」の症状を持っているかどうかがセラピーの適応の分かれ目だが、もし迷うのであればサポートからということだそうだ。

そのサポートの方法だが、経験だけでは身につけにくいのが発達障害だから積極的に、スモールステップにわけて教えることが必要。
例えば盗癖に関しても盗んだとみるか、借用行動のエラーと見るかで指導の内容がまるで変わってしまうという。
盗んだと見れば道徳的指導や心理学的意味を解釈することが必要となるが、無断借用ならば、借りるものが出来るものと出来ないものの分別、頼む練習、断られたときの対応。借りられたときのお礼。ちゃんと返すこと、などをスモールステップで練習するというアプローチになる。
盗んだのか無断借用かなんてことは神様でないとわからないことであり、であるならばより具体的なほうを選んだ方がベターで子供に与える侵襲性が少ない。

そして今回のテーマでもある「約束を守る練習」についてはより詳しくお話しくださった。
紙に書く、相互完結的、新鮮さを失わないように期間を定める。
ご褒美やペナルティ、イエローカードやレッドカードなどを取り入れる。
敗者復活戦いれる。ご褒美は子供に聞く。などのコツがある。
約束を破るのをまっているようにペナルティというのはうまくいかず、うまく行っているときは約束ゲームをしているような雰囲気になるという。
そもそも子供たちはルールは遊びの中で学習するのだから、ルールを守ることの面白さを学ぶというのが大事だという。

また、こだわりに関して・・。

「学校には行かないことに決めた。」
「○○君がいるから教室にはいかない。」
「小学○生のときに先生に無理やり食べさせられたから給食はたべない。」

などのこだわりが自閉症で問題となることがある。

しかし、こだわりは軽いパニックのことがあり、周囲からはわがままに見える。
説諭されても眼前の状況は変化せず、小さいパニックが累積して大パニックにいたる。
これは教師の敗北・・・。

またその子のこだわりを周囲がこだわると余計強化してししまう。
つまり受容、反論、励ましなどをしてはこだわりの片棒を担ぐことになってしまう。

こだわりを軽くするためには視点を移すことがよいという。
具体的には、昭和天皇のように「あっ、そう」と聞き流し
「ところで・・・」とこちらの視点を提示する。
そして、いったん視点は未来に持っていくといい。

例えば、「ところで高校は?」などと・・・。
「行きたい」と子供が正論をはいたときこそ傾聴し、そのために今何が必要かと現在へ舞い戻る。

あ、このやり方は自分でも、認知行動両方的にも使えるな・・・。

んで、「高校に行くことは考えてない。きめてない。」という子には「おぅ、迷っていることはすばらしいぜっ。」
「何もしてほしくない。」という子には「慎重な態度と言うのはすばらしいぜっ」
と肯定的フィードバックをおこなうそうだ。
永遠不滅のこだわりはなく、ときどきケロリとするからややこしいのだそうだ。

それから、保護者との対応。まさに今トラブルっていますというときにどうするか・・。
「教師を変えてくれ、A君とB君を別の学校に」などと無理難題を言って来ることもあるがこれはメタファー(たとえ話)の暴走。
今トラブっています。というのに「仲良くしましょう。」というのは「馬鹿にするな」ということになってしまう。
「学校には問題はないんですか!」という話になる。防衛規制、否認のメカニズムがはたらくしごく正常な心理だ。
しかし本心では保護者は後ろめたさを感じている。
そこで愛情というファクターをだしても不毛だという。
支援者が子供との信頼関係ができているかどうかが大事で、子供の代弁者として子供と同じ側から保護者の方を振り返るスタンスがよいという。

究極の支援は動機付けであり、外向的なADHDの子はみんなから注目されるようなことは俄然やる気が出るし、内向的なPDDの子は自分の好きな分やのマニアックな話題で目がきらきらする。そういうところから取っ掛かりをつくって関わっていくのがいいようだ。

すぐに実践できる、具体的かつ生産的なヒントがいっぱいの公演内容だった。
(ここにまとめたのはほんの一部です。)

今回いけなかった方も小栗先生の許可を得て公演内容はDVDに録画して希望者にはなんらかの形で手に入るようにすると信州発達障害研究会の降旗代表。
是非どうぞ。

発達障害児の思春期と二次障害予防のシナリオ
小栗 正幸
ぎょうせい

リハビリテーションからリカバリーへ その2

2010年05月07日 | Weblog
ところで、私は自然やアウトドアが好きで、星空や野鳥、野の花などの自然を体験しに北海道内あちこちにいくようなサークルに所属していました。

夏山に登山、海や湿地などに探鳥会、暗いところに星をみに観望会に行くほか、こどもたちに自然を解説したり、農村部の集落で地域の子供たちを招いて定期的に星をみる会みたいなのを開いたりしました。
夏合宿としては北海道の廃校となった公民館を借りて2週間くらい過ごし、そこの過疎地の地域の人たちと途絶えていた夏祭りを復活させたりといった活動をしていました。

そんな地域づくりみたいなことと医師という仕事をつなげられないかなというのが漠然とあって、医師というスキルとポジションをもっていれば、自分なんかでも農業とか漁業とか、自然の近くで働くカッコいい人たちの近くでいられてお役に立てるのかなと思うようになりました。

そして医療の中でも地域づくりと一体となった地域医療というジャンルを知り、これはある意味クリエイティブなベンチャーワークで相当面白そうだなと思うようになりました。
現場を見るべくいろいろなつてをつかい、あちこちの診療所などに見学に出かけました。

昨年若月賞を授賞された夕張希望の杜の村上智彦先生がつくってきた北海道の国保瀬棚診療所にも行くチャンスがありました。そこでは村上先生を中心として看護やリハスタッフ、薬剤師などコメディカルや行政の人が活き活きと働いている様子とチームワークのよさに目を見張りました。

また、地域医療、農村医療といえばということで、佐久病院とその関連の診療所に実習にいかせていただきました。
長野市でおこなわれた富山方式の宅老所の講演会に連れて行ってもらい、長野県内で高齢者医療福祉に疑問をもっている人たちがNPOなどで宅老所などを立ち上げようと言う熱気であふれていました。
県知事になったばかりの田中康夫がそういった取り組みにお金をつけるという制作を打ち出していたこともあり熱気にあふれていました。長野あついなと思いました。

佐久病院には実習には2回行きましたが同時期に実習に来ていた学生同士で飲みにいったりもしました。
学生でありながらNGOを主催している人、公衆衛生の大学院へ行っている人などなど、いろんなことを考えているやつがいて彼らと一緒に研修したいなと思いました。

(つづく)

リハビリテーションからリカバリーへ その1

2010年05月06日 | Weblog
医師という存在とは何か・・。
医療とはなにか。というのは自分の中でずっと抱えている疑問です。
長崎で医学を教えたポンペ先生はこんなことをおっしゃっておられます。

「Doctor is a way of life.To live it or to leave it.」

医師というのは生き方の問題だ。覚悟して医師として生きるか、さもなければ去れ。ポンペ先生・・。
厳しいですね。

しかし医師になることよりも、医師であり続けることの方が難しいと感じます。
では医師であるとはどういうことなのでしょうか?

ところで私のうちは家業が医業だといってもいいようなところで親戚にも医者が多く、自分も医者になるのが当然みたいな雰囲気がありました。母方の祖父は江戸時代からの医師だったそうです。
あまのじゃくな自分は医師にはなんかなるものかというのに抵抗がありました。
1985年の筑波科学博のときに送った2000年の自分宛ての手紙には「医師になるか国際機関で働きたい」などと書いてありました。

そうはいっても医学部以外にいく度胸もなく、大学は出来るだけ遠くへということで北の島(海外)の大学にいくのがささやかな抵抗でした。

それでも医学部にはいってからも、臨床じゃなくて、免疫の研究者になるんだとか、公衆衛生官になるんだとか、行政職にいくんだとか、国際保健協力もいいな、とかフラフラしておりました・・・。
・・今考えると、そうとう恵まれた立場ですよね。健康や能力、経済的な心配をすることもなく・・・。
まぁ今考えると幸せな悩みです。
大学に行きたくても経済的な問題でいけない人もいるのですから。

で、自分が何をやりたいのか分からなくて、「決まってしまえばあとはガムシャラにやるだけなのに。」なんて思って焦っていました。

やはり隣の芝は青く見えるもので、就職して社会にでていく友人や、理学部をでて医学部の大学院生としてマシーンのように研究して論文を書いたりしている友人の話を聞いて自分は何が出来るのだろうと焦ったりしました。

根は欲張りなので医学生と言う恵まれた身分を利用していろんなことをやりました。
基礎医学の研究室に出入りしてみたり、タイへ国際協力のスタディツアーを企画して行ってみたり。
厚生労働省の医系技官や公衆衛生の道にすすむ医学生を発掘しようと言う狙いの「社会医学セミナー(at 佐渡島)」というのにでてみたりしました。

つづく

「医師・村上智彦の闘い」

2010年05月02日 | Weblog

医師・村上智彦の闘い―夕張希望のまちづくりへ

川本 敏郎

時事通信出版局

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「医師・村上智彦の闘い(夕張希望のまちづくりへ)」という本を読んだ。

ジャーナリストの川本敏郎氏が村上智彦先生とその仲間たちの軌跡を描いたルポルタージュだ。

ご存知のように村上智彦先生は夕張という財政破綻した街で、自治体の限界、住民のエゴ、地域間格差、少子高齢化などと闘い挑戦し続ける村上先生は広く知られるようになった当代のエースである。(俺的平成の龍馬ランキングでは毎年上位をキープしつづけている。)

そんな村上智彦先生は自分にとってメンターでありロールモデル(の一人)であった。
北海道で進路に悩む医学生だったころ、地域での診療所医療というジャンルを知り、医学生と言う立場を利用していろいろなツテをつかってあちこちの診療所に見学に出かけた。
北海道地域医療振興財団という組織の企画するインターンシップでたまたま配属されたのが、チーム村上が作り上げつつあった国保瀬棚診療所であった。

ちょうど介護保険制度が始まり、医療と福祉の連携が行われるようになってきたころで、コメディカルや行政の人も含め、活き活きと働いている様子とチームワークのよさ、それから村上先生のフットワークの軽さに驚いた。

自分はそんな医療を目の当たりにし、地域医療にあこがれ、目標として来た。
そして佐久総合病院で初期研修にはいる前にもう一度瀬棚をおとづれたり、自分の能力や進路のことで挫折しかけた時に励まされたり節目節目で元気をもらっている。

メディアの使い方が抜群の村上先生たちのその後の活躍(肺炎球菌ワクチンの助成や、合併に伴う行政との葛藤と別れ、それから夕張での挑戦の様子)はテレビの特集番組やさまざまな記事、医療者のネットワークから絶えず聞こえてきた。

村上先生たちの活躍は自分の医師としての成長の時期とも重なっており、本の中には知っている人もたくさんでてきて面白く読むことが出来た。特に瀬棚を去るくだり、それから夕張へ行くくだり・・・。このあたりはどんな小説よりも面白かった。

この本では村上先生の師匠筋にあたる北海道の厚岸病院で長年働かれたあと自治医科大学地域医療学講座の教授となられた五十嵐正紘先生や、藤沢町民病院の佐藤元美先生のことについても詳しく述べられている。(お得な本である。)
自分もこのお二方とは講演会などでお話を聴く機会もあり、その著作や、その弟子筋の人たちの行動を取り込むことで自分の中にもしっかり取り込まれている。

自分も北海道に戻り地域医療をやるつもりだったが、縁あって信州にとどまり精神医療の方へ軸足を移している。
しかし「地域づくり、皆が生きていてよかったと思える社会づくり。」という目標では、まったく同じ方向を向いていると信じている。

村上智彦先生は官に頼らずわずか2年で最先端の医療福祉連携モデルをつくったことが評価されて、昨年第18回の若月賞を受診した。自分にとっては若月先生につらなる師匠筋(主に佐久病院関係)と、村上先生の師匠筋(主に自治医科大学関係)の2つの師匠筋が重なった瞬間だ。

そしてそのときの授賞者の二人、村上智彦先生と湯浅誠さん(なんと俺的平成の龍馬ランキングのトップ2!)が交流会の会場で「いる場所はちがうけど、同じことやっているんだよな。」と話していたのを聞き勇気づけられた。

医師・村上智彦が戦って来たものは何だろう。

若月俊一が佐久に来た頃、住民は医療の利用の仕方がわからず、「気づかず型」「がまん型」の潜在疾病が問題になった。そして、だれもが医療にかかれるように国民健康保険ができた。感染症や癌など医療が絶大な効果をあげてきた。
まさに「村でびょうきとたたかう」であった。

しかし人々は長生きするようになり、難病や老化に基づく疾患、治らない疾患が主になった。
保険や医療があるのがあたりまえになり、幻想をあたえてきたツケが来て、住民は医療に依存するようになった。
老いや死や障害はあってはならないものとして忌み嫌われた。

そんな状態のまま高齢社会を迎え、病気から障害へ、たたかう医療から支える医療へ医療の主戦場が移りキュアからケアへのパラダイムシフトが急務となった。
地域医療とは早川一光先生の言葉を借りると「住民から知らず知らずのうちに取り上げてしまった医療を住民のもとに返す運動」だ。

その運動は地域づくりの運動や、公を大切にする心を取り戻す運動にも繋がる。
その大きな流れの中に私たちはいる。

この本に書かれていることはそんな大きな流れの中の、ある一人の男を中心にしたノンフィクションである。