リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

★お知らせ★




思うところがあってFC2ブログに引っ越しました。 引越し先はこちらで新規の投稿はすべて引越し先のブログのみとなります。

長谷川和夫先生の講演会+シンポジウム

2011年02月27日 | Weblog
2月20日に大町市アプロードで長谷川式簡易知能スケールで有名な長谷川和夫氏の講演が開催された。
「認知症を地域で支えることは可能か?」というテーマでの講演とシンポジウム。
300人以上の市民があつまり認知症に関する関心の高さがうかがわれた。



講演の内容自体は目新しいものではなく、自分が池田町で話したものとそう内容は変わらないもののように思えたが、さすがは長谷川先生、醸し出す優しい言葉とオーラでが印象的なとても良い講演だった。
「~がとっても大切だと思うんですよ。」という声が心に響いた。

長谷川和夫先生は若い時は脳波や神経症が専門だったが、あるとき師匠から老人な痴呆の調査をする時の物差しを作れと言われて作成したのがHDS(長谷川式簡易知能スケール)の始まりだそうだ。
心理士さんたちとともにデータを集めて標準化した。

長谷川先生は痴呆から認知症への名称変更にも関わり、議論はオープンの委員会で行われ市民主体で決めた。

家族会としての国際会議を開催したときに河合隼雄氏から「物語を持って医療機関を訪ねるのに診断名だけを聞いて帰らされる。こんな診療ではいけない。患者や家族は、いろんなことが起こるだろうがとにかく一緒にみて行くからといってもらいたいのだ。」と言われたのが響いたそうだ。

長谷川先生らが認知症診療を手がけ始めた当時は薬も無く、介護保険もまだ無く医療で出来ることは少なかった。
診断して告知をしても本人や家族は先行きが不安だった。
週一回デイケアを大学病院で始めた。大学病院でディケアはすごいと思う。
そうすると知能以外の心の動きが刺激され全体き落ち着いた。
家族へはいつでも入院を保証したが、そうすると逆に入院を積極的に求めてくることはほとんどなかったそうだ。

家族は、一人で介護しようという考えは持たないように、認知症は決して恥ずかしいことではなく、助けを求めることが大切だそうだ。
アルツとわかったら早めに相談してもらえば今もアリセプトという薬もある。
(先生はアルツハイマー型認知症のことをアルツ、アルツとおっしゃっていた。)
アリセプトは10mgを投与して経過を見ることができる時代になったと。(このあたりはファイザーとエーザイの宣伝になっているな。)
そしてより根本治療に近い薬も開発が進んでいるのだと・・。

ここで、・・・新しい薬の名前が思い出せないというボケをかまされる。会場に笑いが・・・。

次のスライドの危険因子と緩和因子の話しはわかりやすい説明だとおもった。メモメモ_φ(._.



認知症の物忘れはどーんとまるごと抜け落ちちゃって約束も出来なくなるしここしかわからなくなる。
そこで認知症の人とのコミュニケーションは言葉自体よりも表情や感情が重要な役割を持つ。
ノンバーバルなものと感情をいれたフィーリング(右の脳)が相対的に優位になる。
つまり感情がよりセンシティブに伝わってしまう。
小さい子供と同様、聞くことを第一に、目をみて話す事が大切だそうだ

その人を中心としたパーソンセンタードケアが大事だが、いきなり完璧を目指すのではなく、それぞれの立場から出来るところから少しずつ始めることが大切だそうだ。

地域では認知症の人とのも主役の一人であり、暮らしに関わる商店、公共機関等の協力がかかせない。
きまった形というのはなく、地域地域であった仕組みを創る事か大切で、活発に活動している市民が地域支援マップをつくる事から始めるのもいいと杉並区の例を挙げて説明された。

まとめとして、「老いることは生きること。生きることは老いること。支え合う仕組みを作りましょう。」と言う言葉で閉めくくられた。

ここでの老いるということは、不自由さや障害を持つということかなぁ・・・。と思った。

続いて行われたシンポジウム。

介護保険の区分認定似関して認知症が十分に加味されていないとのアンケート結果。
認知症になったら現在の介護者は介護保険施設に行きたいという答えが最多。子供の所や専門病院には行きたくないとの答え。迷惑をかけたくないと。事業者が医療に望むものに対しての記載はほとんどなかった。医療に出来ることは少ないのだろうか?
そして認知症になったら子供の所には行きたくないと多くの人が答えていた。

知識が広まりシステムがチューンナップされてもタイムスタディベースの介護保険だとどうしても認知症は上手く包摂出来ないのは仕方が無いのだろうか?
包括支援センターの伊藤さんの話しも現場のニーズに即したものであった。
介護保険制度かは申請主義で支援が必要であっても手続きすら取れない人も増えているという。
しかし介護保険と両輪の柱で始まったはずの成年後見人制度は広まっていない。
本人には成年後見制度を「家庭裁判所にいろいろな手続きを手伝ってくれる人、大人の親代わりの様な人を決めてもらおうよ。」親族には「専門職のひとと役割りを分担しましょう。」と説明しているそうだ。

困っているときの福祉の窓口を一つに。という提案をされた。とにかくここへ電話しろというひとつの電話番号があったらということで包括支援センターの電話番号を紹介。

信濃毎日新聞の取材班の記者の発表。匿名報道が大前提だったのを実名報道にこだわった。「認知症のAさんではなくてAさんの認知症として伝えたい。」と取材をしたが記事に出来たのは一部だった。読者からは励まされたという声が多数あったそうだ。
認知症になって家族に迷惑をかけたくないという声が多数だが、迷惑をかけてもいい家族、それを支える地域を創らなければいけないのではないか。と主張された。

行政の方の話しとして、要介護度は上がっている。認知症が適切に評価される様になってきた。
施設ケア、居住福祉は不足しているが、増やせは保険料は上がる。皆さんの意見を伺いたい。とのこと。
悩ましい問題だ。

認知症の講演会やシンポジウムは毎週のようにあちこちで開催されているが、地域や障害を考えて行くテーマとしては、誰にとっても関係があり関心を引きやすいとても良いテーマだと思う。
認知症をきっかけにたの障害への理解も広まって行くと良いなと思う。

認知症ケアの心―ぬくもりの絆を創る
クリエーター情報なし
中央法規出版


長谷川先生の歩みと、今回の講演の内容を更に詳しくした様な内容の本です。

問題なのは無縁社会ではなく無援社会だろっ!

2011年02月13日 | Weblog
週末に放映されたNHKの無縁社会の特集番組。
昨年からシリーズで特集を組んでいるが、これほど、うさん臭く、突っ込みどころが満載の番組もめずらしい。
「無縁社会知っていますか?」と街頭インタビューしていた場面があったがそりゃ公共放送があれだけキャンペーンをはれば聞いたことぐらいはあるだろう。
「無縁社会」という自らがつくった漠然と不安を煽る言葉ありきの番組で、NHKはこの言葉を広めることで一体何を伝えたいのか最期まで分からなかった。


無縁社会
NHK「無縁社会プロジェクト」取材班
文藝春秋


人々は田舎にある古くからの因習や相互監視が嫌で、自由で豊かな生活に憧れ都会に出て来たのだろう。
自動車、スーパー、コンビニ、携帯電話、インターネット、賃貸住宅、派遣の仕事・・・。
縁が薄くても生きて行ける社会をつくってきた。
ノスタルジーに浸るのもよいが、無縁社会をエンジョイしている人もいるはずだ。

結果、人々はバラバラになってしまった。
いまの状況からいかに因習に縛られた旧来とは違った形で、どうあらたな縁を紡いでいくのか。
期待していたのはそういった提言だったがそれは皆無でひたすら暗いトーンで番組は進行した。

冒頭に紹介されたTweetはNHKの自作自演の疑いが濃厚であることが無惨にも晒された。まぁ捨てアカウントを使ったのかもしれないが、せっかくTwitterを使っているのにそれでは縁は出来ない。

番組内で紹介されていた、縁をつくるために近所の掃除をはじめた男性。
「誰も声をかけてくれない。」というが、自分から挨拶をすればいいのに・・。
子供に声をかけて、そだてたカブトムシをプレゼントとかしていた。
そりゃ立派だ。

自分の部屋をニコニコ動画で中継し反応を読み上げさす男性。(ネコビデオ氏)
なるほどたしかに孤独死はありえないかもね。

居酒屋でPCを前に一人で飲み会をする女性。
なんで、わざわざ。家でやればいいのに。

暗い部屋の中にPCの明かりだけが光っている画面を見せるなどネットを使った縁作りには悪意があるのではないかと思うほど否定的。
討論で「ネットの縁は本当の縁じゃない」と言っていたおばちゃんもいたが・・・。
袖すり合うも他生の縁なのに、ネットで関わりをもつなんて立派な縁だと思うが。

大きく広がりつつあるソーシャルネットワークシステムなどの紹介もなし。
エジプトであれだけのムーブメントを巻き起こしたというのに・・。
そもそもネット上のソーシャルメディアと地域コミュニティは対立するものでも無関係なものでもないのだが・・。
実名主義のFacebookなどはリアルな人間関係とシンクロしているのだぞ。

無援社会の行く末を再現した映像は酷かった。
職場でも「代わりはいる」といわれ、脳梗塞で倒れた母親も施設にも入れない。
介護しつつ悲惨な生活になっていく・・・。
これも問題なのは無縁より無援。
将来のを予測してつくった映像というが、これは現状の問題

後半の議論は雇用問題が中心になっていた。

高校卒業後パチンコ屋に正規で就職し涙を流して喜ぶ母子家庭の母娘。
これには泣けてくる。
高校を中退になった茶髪ピアスの少年。
これで彼は高校との縁も失った・・・。とのナレーション。

ここで問題なのは無縁ではなく無援だ。孤独ではなく孤立だろう。
無縁社会だの言っている暇があれば社会保障や教育、雇用、貧困問題に対して正面から向かい合えば良い。

働き盛りに広がる無縁社会ということで、「働く」というつながりを失うことで縁が切れることが強調されていた
「人はつながりの中に自分の存在や役割を感じられて初めて生きていける」などとセンセーショナルな煽りだが、これも筋違い。
仕事を通じて自己実現など望むべくも無い非正規雇用の非人間的な扱いが問題なのであって無縁とは関係がない。
不安定な非正規雇用ほど、賃金も社会保障も乏しく、現状では生きていくために働くだけで精一杯で、縁をつくれない人も多いのだ。

「自己有用感」ってやたら主張していた人もいたが・・。
それを逆手にとられて安い賃金でつかわれているNPOのスタッフやボランティア、介護職などの対人援助職も問題だろう。
いいかげん雇用と生存保障を分けて考えることは出来ないのだろうか?

そうすれば仕事だけに縁を求めなくてもよくなるだろう・・。
生存におびえること無く、家族との生活や地域社会、その他、それぞれの分野で縁を気づいて行ける様な社会。
そこにネットをどう活かすかというような方向に議論がいけば面白かったのだが・・。

やはり人間関係という縁も含めて、湯浅誠氏らの主張する「溜め」という概念のもとに貧困を論じるのが有用だと思う。

家庭福祉、企業福祉があてに出来ない今、個人ベースの福祉、最低限のセーフティネットをどうつくるべきなのかというのが本質のはずだ。個人的に考えつく解決は、相続税100%、ベーシックインカム、寄付税制改革、教育無償化・・。などである。

その上で高齢者や障害者をどう包摂していくかというのは誰にとっても関係のある問題だから、それを地域づくりに結びつけて地域を紡ぎ縁を結んで行けば良い。

それにしてもNHKは「無縁社会」で何を訴えたかったのだろうか。

在宅医療と介護の連携と大町市の医療の未来

2011年02月07日 | Weblog
大町市で「NPO法人在宅ケアをささえる診療所・市民全国ネットワーク」が主催する、イベントがあった。
医療や福祉に携わる人や大町市民もたくさん来ていた。

基調講演は黒岩卓夫の「在宅医療と介護の連携ー在宅医療の現代的課題を通して」だった。

黒岩卓夫先生は大町市八坂出身で、ゆきぐに大和総合病院(大和医療福祉センター)をつくり育て若月賞も受賞している医師だ。
これまでに何度かご講演は拝聴したことがある。

他の地域で良さそうな実践があれば、すぐに取り込んでやっていくフットワークの軽さが黒岩流。
地域医療のバイブルの一つ「地域医療冒険」を読めばわかるが、なんでも楽しそうにやっている様子が実に印象的だ。
元祖、トムソーヤ方式だ。
全国的にも「地域医療研究会」や「大町市でNPO法人在宅ケアをささえる診療所・市民全国ネットワーク」の中心として病院間、診療所間のネットワークをつくり政策決定にも提言をおこなっている。

いまは萌気会という民間の団体で二つの診療所を核に、介護福祉施設やケアホーム、ディサービス、宅老所、旅館、入浴施設などを運営している。
来年度からは委託を受けての認定こども園まで開設するそうだ。
地域ニーズをかなえるべく何でもやり手広く活動している。
グループ全体で200人近くの雇用を産み、売り上げは年10億円。すごい・・。

どこでも、これだけのムーブメントを起こせるのはやはり黒岩先生の器だとおもった。

在宅医療(ケア)は不治の病のケアや老いと死への心の救済などにおいて大きな役割を果たすことが期待されており、高度医療、急性期医療以外は何でも出来るが、介護と一緒にやるのが大前提。
在宅医療支援診療所は一日も休み無く365日オンコール。
病院とおなじだ。
問題は開業医にもこの覚悟があるか、ネットワークが組んで協業できるかということ。

2次医療圏の中で、標準的な医療をうける権利を保障するために、在宅シフトと選択と集中がもとめられている時代。
地域の医療再編の中で新潟県内の病院も統廃合で厚生連に移管されたりということもあるようだが、ゆきぐに大和総合病院は市立のままでがんばっている。総合をとってゆきぐに大和病院として、さらなるダウンサイジングを図って行く方向だそうだ。
これも時代を反映している。

また活動の一環として地域医療学校を主催し、学校や病院、地域の中で出前(アウトリーチ)で対話や教育を行っている。
市民一人ひとりのレベルを底上げし、医療を正しく適切に使うようになることも大切。
そうなってくると、まさに一人ひとりが医療資源だという。
そういった活動もまた、医療従事者の大切な仕事だ。

その後、牛越大町市長と大町市民病院の外科の高木先生が大町市の高齢者医療介護の現状と大町病院の現状を報告した。
大町市は日本の平均より先に産業が衰退し人口も減少し、程度こそ違え北海道の夕張市と重なる。

牛越大町市長は政治家にしては医療福祉のことをよく勉強しているし分かっている人かなと感じた。
リアリティがないのは現場の人ではないので仕様がないが・・。
黒岩先生のところにも見学に行ったそうである。

大町病院の高木先生も活動的で、ズバズバものを言う。
でも在宅医療はやってないじゃん・・・。
組織にこういう人は必要だ。高木先生が院長になればいいのにとおもった。っていうかここまでいっていいんかい?
自由な立場からモノを言えなくなるからそれは嫌だそうだが・・。



大町市の衰退、人口減少と少子高齢化と病院の危機はセットで考えなければならないと主張。
住民との対話を重ね、ニーズを把握するとともに、住民に一人ひとりに行政や病院任せではない行動をとるように促している。
病院としても「とりあえず断らない。」ことを目指しているそうである。
そして来年度、第一回の病院際を開催するそうだ。すごい。

もっとも二人の口から10km弱南にあるお隣の安曇総合病院との連携・協業の話しがちっとも出てこないのはちょっと不満である。。
大町市でのシンポジウムだからかもしれないが、ここに安曇病院からの人をいれないのはいかにもバランスが悪いと思った。
専門外だからと断られた救急車を受けたり(それを言うなら、こっちも専門外である。)、夜に体合併症をもつ認知症の患者を救急車で転院搬送されるのを受ける立場としてはね、・・。

お互い様なところもあるし、安曇病院は認知症疾患医療センターだからしかたないのだろうが・・・。

病院間の現場レベルでのコミュニケーションがもっととる必要があるのだろうということでは高木先生や大町病院のケースワーカーとも一致した見解。
さっそく交流を企画することとしよう。

経営母体は違うが同じ地域の医療を支える病院どおし、急性期をどっちがやるかとか、地域医療の補助金や、がん拠点病院をとるかどうかなんて政治で競っていないでどれだけ地域のニーズに応えるか臨床現場で目の前の患者をまじめに、丁寧にみるかということで競えばいいのだと思う。
どっちが急性期でどちらが慢性期か担うかなんていってもしかたがない。実践を見て、それを決めるのは市民だし。
もっともニーズは言い出せば切りがないけど、人口規模的にがん拠点や高度なインターベンションをともなう救急処置(心カテや開頭手etc.)を最期まで緊急対応するのはどちらも難しいと思う。
3次救急は初期診断治療をして松本に搬送することしかできないだろう。

午後は分科会だったが地域ケア総合研究所の武重さんの話しがよかった。

武重さんは、行政組織や、恵仁会など医療介護分野で実践されてきた方だが、今は組織から飛び出し自由な立場から提言をしている。
いろいろ提言があったが地域という言葉の使われ方が曖昧なのが問題だという。

認知症の人をささえるために「地域」は中学校区では大きすぎ、隣組や自治会レベルの地域でないと役に立たない。
猫の死体や水路の石を行政に電話して片付けてくれという態度が、肥大化した行政組織を産んだ。

大きなシステムの話しも良いが、だれがやるんですか?と聞かれたら「私たちがやる。」気づいた人が、やるしかかい。
自治会などでは必ず反対者はでるが、反対者を気を使っている余裕は無い。
最初から行政や銀行を頼らず、まず地域の賛同者が出資して初期投資を抑え、出資型(NPO,株式会社、生活協同組合)で運営し、自給自足に近い形で実践。必要と認められたら行政支援を受ける。

この部分では寄付税制の改革が望まれるな。


専門分野には民間並みに人件費を払うが、生活支援分野は有償ボランティアで、そのかわり自分が支援が必要な状態となったら支えてもらう。定年前後の世代を地域再生のための人材として活用。

乙女平の「おもいやり乙女平」では実際にそういう形でやっているそうだが、非課税の優遇を受けているはずの社会福祉法人(地方も名士が多い)から妨害をうけたりもしているそう。

全国的には「やねだん」が有名で、武重さんも近々見学に行くそうだが、見学費は15000円だそう。(1500円の菓子折りじゃなくて。)それだけとっても見学者があつまるのがすごいなと思う。したたかだが、それも事業の収益になる。行政に頼らないと言うのはそういうことなんだなぁと・・・。

地域再生は大学の先生や官僚がどうこう言うよりも、山間地の限界集落や、高齢化が一気に進む都市部の団地などの実践から始まる。そしてそういうところから学ぶしかないという。

全国各地でそういう動きが巻き起こっている。

変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから
清水 義晴,小山 直
太郎次郎社