リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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発達障害(発達凸凹)の講演会

2008年05月11日 | Weblog
発達障害がブームだ。
あなたも発達障害、わたしも発達障害♪
おたくの子供はどうでしょう?

ブームに乗り遅れてはいけないと、職場の同僚と、塩尻で行われた発達障害の講演会に出かけた。

講師はあいち小児保健医療総合センターの杉山登志郎先生。
タイトルは「発達障害の理解と対応」
参加費は2000円。

信州発達障害研究会が主催の講演会はなんと91回目らしい。

各所に宣伝をしていたようで、医療関係者もいるがむしろ、当事者の親や学校関係者が多かったようだ。3時間にわたる盛りだくさんな講演であったが、いろいろ新たな気づきもあった。

講演は、子供とくに発達障害を抱える子供は弱者であり、弱者を守る物は文化装置である。というところから始まった。

発達障害という概念は凸凹を見極め個別の支援ニードの有無を判定するために使われるべきである。
そして発達障害というよりも発達凸凹(でこぼこ)といった方がよいのではという提言。これには強く賛成できた。

まぁ、凸凹があるのはあたりまで同じような人間を均質に量産しようとする教育(社会)の方がおかしいのだ。
しかし無駄な苦労せずにすむように社会適応のために最低限(これが難しくなっている)必要なソーシャルスキルは身につけておいてほしい。それこそが教育だろう。

対策の話では、「そういえば自分も中学から大学まで教員の目の前のADHD席(唾とび席)が好きだったなぁ、あれは適応行動だったんだんだな」と納得。

講演は、一般的な話から不登校や引きこもり、司法、親子の関係、生物学的なことなど話は多岐に及んだが、特に興味深かったのは発達障害と虐待との関係の考察。

発達障害は虐待のハイリスクであることはよく知られた事実だが、発達性トラウマ障害、とくに幼児期からの反応性愛着障害によっても多動や自閉のような症状は引き起こされる。過覚醒状態による多動、易刺激性、感情コントロール不全、解離による防衛反応の結末だ。虐待と発達障害がニワトリとタマゴのような関係になる場合もある。しかし虐待によるもののの場合は解離症状がある点が鑑別点になり、可逆的であるとのことだ。

しかし、さらに考察をすると、自閉症者の体験的世界は、知覚過敏性、不意打ち、秩序なき世界、忘れることが不得意、虐待を受けやすい。自閉症の体験世界をしらずに強引なことをすると、二次障害に悩まされ、後々タイムスリップ、フラッシュバック(→青年期パニック)がおこるから早期発見の早期介入はやはり必要だろう。

最後のまとめとして、谷間である凹の部分に対する特別支援教育は始まったが、凸に対するギフテッドへの教育はまだまだ遅れていると主張。
特に高機能PDDは様々な機能の代償として天才的な能力を持つ場合が多いが、一握りの天才によって社会が益をうけることはまれではなく、教育の原点に戻ってSEM(Schoolwide enrichment model,全項教育モデル)という発想(全ての子供に適応できる特別支援教育)が求められている。

「特別支援教育は日本を救う」としめくくった。

パチパチパチ

凸凹があるのは当たり前。
ブームを超え、発達障害という言葉自体を死語にしてしまうことが最終目標。
Society for all!ユニバーサル社会の実現に向けてがんばるぞぃ。


次回は
 7月12日(土曜日) 13:00~16:00
 塩尻レザンホール 村瀬嘉代子先生

次次回は
 9月14日(日曜日) 13:00~16:00
 塩尻レザンホール ニキ・リンコ先生!
 

ブームに乗り遅れないように、当直や当番を蹴散らして参加するぜ。

精神医療

2008年05月04日 | Weblog
アリバイ作りのような、もっともらしい医療につかれ果てた。
仕事との患者さんとの距離の取り方がわからず消耗してしまった。
肉体的、精神的に限界だった。
セルフケアの方法もわからず、ラインケアのない中で燃え尽きてしまった。

いろいろ考えた末医療の原点を求めて、佐久病院を離れ精神医療の現場に来て1ヶ月がたった。
精神医学、精神病院改革を志すものには、一般社会の革命を志して挫折したもの、あるいは中途で革命に失望したものが多いという。(分裂病と人類 中井久夫)

今思うと、ここへ至るのも必然だったような気がする。

精神科というのは究極のニーズの科だ。
リハビリテーション以上に。
視点を低くして、人間を、社会を観察するにはうってつけの場所ではないか。

精神医療も、生物学的視点から診断し、薬物などを利用して治療というモデルを相手にして、生体と環境のせめぎ合いを相手にするところは間違いなく医療の一分野である。

そしたし精神疾患は、なおるものばかりではないから障害、しかも見えない障害を相手にする。
家族や会社、社会といったシステムへアプローチする。
いわゆる社会療法だが、そういった社会運動的な側面もある。

外来、病棟、訪問、ディケア、地域での活動にいたるまで幅広い。

他の科がみることを拒む、どんな困った人でも、「それもありか。」といったん受け入れる。
その上で、振り回されず、プロフェショナルとしての距離を保つ。
こちらからは捨てることない。
治療者がしっかりとした座標軸になって、その人がこれまで生きてきた時間、いま生きている空間のなかで物語を作り、よりよいあり方をともに探る。

さまざまな職種がそれぞれの立場から関わる。
そのなかで医師の立ち位置は、身体管理ができる、遺伝子から社会制度までいちばん全体が見渡せる。
最終責任が取れる(とらされる)ので、診断や、入院や、薬や侵襲的な手技などの道具が使えるというところだろうか。
多くの職種が関わり、障害を相手にし、他の専門科を含め、あらゆるリソースを動員する。

さて精神医療の周辺には精神医療を利用しながら生きている人たちがいる。
精神医療ユーザーということばもあるように主体的に利用している人から仕方なく利用している人まで様々だ。
しかし、あくまで道具として利用しているというスタンスが他の医療分野以上にはっきりしている。

精神医療はリハビリテーションと同じく医療のアプリケーションというよりはOSに組み込まれるべきものであると思う。