【2556】をもう少し深く考えてみたいと思い、加筆してみました。(^^;ゞ
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
■最終的には、以下のような結論になると思うのです。(^^;ゞ
★「自分」とは、宇宙(現実)に存在する唯一の意識。
★「自分」とは、「宇宙(現実・3次元)」を映している4次元の意識。
★すべての人間(生存には、関係ない)は、「宇宙(現実)」を映しているそれぞれの「意識」。
★「現実(宇宙)」とは、今の自分の「思い」。
★【「自分」とは、過去の「思い」を編集して生き続ける「思い」の連続性。
★「現実」とは、自分の「思い」の連続性が見ている「今の夢(幻想)」。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★すべては、『自分の「今の思い」』。 すべては、『私の心が、今、思っていること』。
と書いてみて、文章の意味が通じないことに気付きました。
「すべて」が、何を示すのかが不明であると思いました。 (^^;ゞ
「すべて」とは、何か?
「物質」のすべてか? 「宇宙」のすべてか? 「存在」のすべてか? 「意識」のすべてか?
「すべて」とは、何か?
「すべて」の実態を、言葉で定義できないことが判りました。
同様に、『「宇宙」とは何か?』を、言葉で厳密に定義することも出来ません。(^^;ゞ
★それで、『すべては、自分の「今の思い」』という言葉を、
【人間は、「あらゆる物事」を、『自分の思い』で編集して生きている】と書き換えてみました。
★「あらゆる物事」とは、自分の心が捉えた「あらゆる物事」ですから、「純粋な客観的事実」とは異なる場合があります。
私たちは、外界の「あらゆる物事(事象)」を「自分の心」で編集して生きています。
★「自分」とは、自分の過去の「思い」を編集して生きている「瞬々の思い」の連続です。
★存在していると思われるのは「肉体」です。 肉体の「存在感」は、確かにあります。(*^_^*)
しかし、存在と存在感は違います。
★「思い」や「考え」は、存在しているのでしょうか?
「思われること」、「認識されること」によって、
「存在や事象が、明らかになる」という意味では、
言葉による認識が、「存在すること」の根拠にもなり得ますが、(^^;ゞ
それはどこまでいっても、「存在感」の観察でしかありません。
「存在とは何か?」の説明にはなっていません。
「私が存在すること」と、「物が存在する」と私が思うことは、まったく別の次元の話です。
『「存在」とは何か?』 『存在とは、どのような形式なのか?』については、洞察できていません。
「存在」と、「存在感」は別のことですし、
「存在」と「生存」も、自分に起きていることなのか、他に起きていることなのかによって、
話の次元が異なります。(^^;ゞ
★「存在のリアルさ」とは、何なのでしょうか?
「存在のリアルさ」も、「自分の思い」のなかの「存在のリアルさ」でしかありません。
「存在のリアルさ」は、自分の心を満たし、「一体感」(恋愛・食・音楽など)を感じさせます。(^^;ゞ
★「他人の思い」には、圧倒的な存在感があります。
それは、「他人の思い」は、自分の「共感」によってしか理解できないからです。
「他人の思い」を理解することは、「共感」のできる自分の経験なくしては不可能です。
★「肉体」は、「肉体」と思われることによって、「肉体」です。
物質と思えは物質であり、食料と思えば食料であり、遺体と思えば遺体です。(^^;ゞ
「言葉(思い)で、どう捉えるのかという判断」があるだけです。(*^_^*)
★この肉体が、「自分」というわけではないのです!
「真の自分」は、この肉体に付随している意識(自意識)です。
「自分のこの肉体」という表現の、「この肉体の、真の所有者」は、何者なのでしょうか?
「神(全体性・グレートサムシング・空)」と呼ぶことが出来るかも知れません。(^^;ゞ
「名前がつく以前のこの意識」は、何者なのでしょうか? 誰なのでしょうか?
この肉体に宿っている「自分」は、何者なのでしょうか?
★「自分の今の思い」を感じ味わっているのは、この「名前のない自分」であることに、今、気付きました。(^^;ゞ
そして、恐ろしく不思議な感じ(笑)を味わっています。(^^;ゞ
なぜなら、その意識の中には、『自分という意識』がないからです。
「自分」を「自分」と思っている者(意識)は、何者なのでしょうか?
「思っている」のですから、「物」でなくて「意識(者)」だと思うのです。
『大いなる意識』と名付けられるかも知れません。(^^;ゞ
★人間が、「自分」を思考の対象として、客体化できるのは、何故なのでしょうか?
「自分」を「自分」と思っている「この意識」は、いったい誰なのでしょうか? 何なのでしょうか?
★「この意識」は、宇宙にとって、「唯一の意識」なのですから、その不思議さには、驚かされます。(^^;ゞ
★しかも、「この意識」は、「今だけに在る」のですから、さらに「驚き」です。
★「この意識」は、「普遍的な意識」なのかも知れません?
★「この意識」は、「私個人(自分個人)の意識」なのでしょうか?
★「この意識(自分の今の思い)」を経験しているのは、「唯一の自分」です。 そして同時に、
すべての人々が、この「唯一の自分(=神)」という気付きの可能性を秘めています。
これが、「人間という存在の本質」だと思うのです。(^^;ゞ
★「宇宙」に存在するのは、「唯一の自分(意識)」なのですから、善悪や正誤に関係なく、
「意識が神」だと思うのです。
「宇宙は、唯一の自分」というのは、人間の構造的な事実ですから、
誰でもが、事実として「神」なのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
上の文章を書いていて気付いたのですが、(^^;ゞ
■「この肉体」というのは、とても不思議な物だと思いました。(^^;ゞ
何が、どんな意図で結集して、この総合体(肉体)になっているのでしょうか?
なぜ、この形なのでしょうか?
■「この意識」も不思議です。
「これって何?」っていう感じです。(^^;ゞ
「何」をもくろんで、こんなもの(意識)が、今の自分の中にあり、
「自分とは何?」など問うているのでしょうか?
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
■最終的には、以下のような結論になると思うのです。(^^;ゞ
★「自分」とは、宇宙(現実)に存在する唯一の意識。
★「自分」とは、「宇宙(現実・3次元)」を映している4次元の意識。
★すべての人間(生存には、関係ない)は、「宇宙(現実)」を映しているそれぞれの「意識」。
★「現実(宇宙)」とは、今の自分の「思い」。
★【「自分」とは、過去の「思い」を編集して生き続ける「思い」の連続性。
★「現実」とは、自分の「思い」の連続性が見ている「今の夢(幻想)」。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★すべては、『自分の「今の思い」』。 すべては、『私の心が、今、思っていること』。
と書いてみて、文章の意味が通じないことに気付きました。
「すべて」が、何を示すのかが不明であると思いました。 (^^;ゞ
「すべて」とは、何か?
「物質」のすべてか? 「宇宙」のすべてか? 「存在」のすべてか? 「意識」のすべてか?
「すべて」とは、何か?
「すべて」の実態を、言葉で定義できないことが判りました。
同様に、『「宇宙」とは何か?』を、言葉で厳密に定義することも出来ません。(^^;ゞ
★それで、『すべては、自分の「今の思い」』という言葉を、
【人間は、「あらゆる物事」を、『自分の思い』で編集して生きている】と書き換えてみました。
★「あらゆる物事」とは、自分の心が捉えた「あらゆる物事」ですから、「純粋な客観的事実」とは異なる場合があります。
私たちは、外界の「あらゆる物事(事象)」を「自分の心」で編集して生きています。
★「自分」とは、自分の過去の「思い」を編集して生きている「瞬々の思い」の連続です。
★存在していると思われるのは「肉体」です。 肉体の「存在感」は、確かにあります。(*^_^*)
しかし、存在と存在感は違います。
★「思い」や「考え」は、存在しているのでしょうか?
「思われること」、「認識されること」によって、
「存在や事象が、明らかになる」という意味では、
言葉による認識が、「存在すること」の根拠にもなり得ますが、(^^;ゞ
それはどこまでいっても、「存在感」の観察でしかありません。
「存在とは何か?」の説明にはなっていません。
「私が存在すること」と、「物が存在する」と私が思うことは、まったく別の次元の話です。
『「存在」とは何か?』 『存在とは、どのような形式なのか?』については、洞察できていません。
「存在」と、「存在感」は別のことですし、
「存在」と「生存」も、自分に起きていることなのか、他に起きていることなのかによって、
話の次元が異なります。(^^;ゞ
★「存在のリアルさ」とは、何なのでしょうか?
「存在のリアルさ」も、「自分の思い」のなかの「存在のリアルさ」でしかありません。
「存在のリアルさ」は、自分の心を満たし、「一体感」(恋愛・食・音楽など)を感じさせます。(^^;ゞ
★「他人の思い」には、圧倒的な存在感があります。
それは、「他人の思い」は、自分の「共感」によってしか理解できないからです。
「他人の思い」を理解することは、「共感」のできる自分の経験なくしては不可能です。
★「肉体」は、「肉体」と思われることによって、「肉体」です。
物質と思えは物質であり、食料と思えば食料であり、遺体と思えば遺体です。(^^;ゞ
「言葉(思い)で、どう捉えるのかという判断」があるだけです。(*^_^*)
★この肉体が、「自分」というわけではないのです!
「真の自分」は、この肉体に付随している意識(自意識)です。
「自分のこの肉体」という表現の、「この肉体の、真の所有者」は、何者なのでしょうか?
「神(全体性・グレートサムシング・空)」と呼ぶことが出来るかも知れません。(^^;ゞ
「名前がつく以前のこの意識」は、何者なのでしょうか? 誰なのでしょうか?
この肉体に宿っている「自分」は、何者なのでしょうか?
★「自分の今の思い」を感じ味わっているのは、この「名前のない自分」であることに、今、気付きました。(^^;ゞ
そして、恐ろしく不思議な感じ(笑)を味わっています。(^^;ゞ
なぜなら、その意識の中には、『自分という意識』がないからです。
「自分」を「自分」と思っている者(意識)は、何者なのでしょうか?
「思っている」のですから、「物」でなくて「意識(者)」だと思うのです。
『大いなる意識』と名付けられるかも知れません。(^^;ゞ
★人間が、「自分」を思考の対象として、客体化できるのは、何故なのでしょうか?
「自分」を「自分」と思っている「この意識」は、いったい誰なのでしょうか? 何なのでしょうか?
★「この意識」は、宇宙にとって、「唯一の意識」なのですから、その不思議さには、驚かされます。(^^;ゞ
★しかも、「この意識」は、「今だけに在る」のですから、さらに「驚き」です。
★「この意識」は、「普遍的な意識」なのかも知れません?
★「この意識」は、「私個人(自分個人)の意識」なのでしょうか?
★「この意識(自分の今の思い)」を経験しているのは、「唯一の自分」です。 そして同時に、
すべての人々が、この「唯一の自分(=神)」という気付きの可能性を秘めています。
これが、「人間という存在の本質」だと思うのです。(^^;ゞ
★「宇宙」に存在するのは、「唯一の自分(意識)」なのですから、善悪や正誤に関係なく、
「意識が神」だと思うのです。
「宇宙は、唯一の自分」というのは、人間の構造的な事実ですから、
誰でもが、事実として「神」なのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
上の文章を書いていて気付いたのですが、(^^;ゞ
■「この肉体」というのは、とても不思議な物だと思いました。(^^;ゞ
何が、どんな意図で結集して、この総合体(肉体)になっているのでしょうか?
なぜ、この形なのでしょうか?
■「この意識」も不思議です。
「これって何?」っていう感じです。(^^;ゞ
「何」をもくろんで、こんなもの(意識)が、今の自分の中にあり、
「自分とは何?」など問うているのでしょうか?