■「他人を救う」は、言葉(概念)です。(^^;ゞ
「他人」も「救う」も、単なる言葉です。
「他人」や「救う」という言葉に一対一で対応する事柄など、事実として存在しないのです。
ですから「他人を救えるのか?」という問い自体が、意味の無いことなのです。(^^;ゞ
他人に対する「私の不遜の思い」の表れなのです。(^^;ゞ
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■それぞれの人はそれぞれに、ご自分の人生の経験をされています。
「自分の経験」と「他人の経験」は比較は出来ないのです。
自分の経験は実感であり、他人の経験は「想像(概念・思い)」です。
「自分の人生の主人公は自分」なのであり、「自分の経験」があるだけなのです。
気付けば、自分は「我即神也」という真理を生きていたのです。(^^;ゞ
気付くにしろ気付かないにしろ、誰でもが「我即神也」という真理を生きているのです。(*^_^*)
自分の想念で「他人」や「事象」を比較して、思い煩うことは一人相撲です。
■そういう中にあっての「私の思い」は、
「どうぞ、誰もが思い煩って苦しみませんように!」ということです。
これが「世界中から寄せられている日本への祈りのメッセージ」なのです。
この心(思い)は、誰でも持っている慈悲心(本心)です。
そしてこれが、「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉の意味なのです。
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■以前にも書きましたが、
誰もが「神」なのですから、「その方(他人)は、いつ救われるのか?」などと私が詮索して考えること自体が、
「私の不遜な心(思い煩い)」の表れなのです。
その方(他人さま)は、神なのですから、時期が来たら必ず救われる(悟る)のです。
今救われていないだけ、今悟っていないだけなのです。
いつ気付くのかは、その方の人生の計画にゆだねられているのです。
その方はご自分の人生の計画の途中なのです。
「悟り・気づき」は、今世でなくても良いのです。
それくらい壮大な「人類の生命の歴史の進化の一部」を、私たちは生きているのです。(*^_^*)