*ロンドンの有能トレーダー「ロンドンの鯨」の取引赤字、70億$。管理欠陥罰金9億$超、
サブプライム関連不正案件、130億$、マドフ詐欺事件、管理欠陥罰金などこのほかにも、それぞれの案件の関係者からの訴訟事件など、不死身のダイモンと呼ばれたモーガンチェースのダイモン氏は今後、どうなるか、とりあえず、行政による個人追求は市内、と言うことでマドフ事件を終えた、ダイモン勝利の声もあるが、まだわからない、
JPモルガン・チェースが首都ワシントンで初めて取締役会を開く――。ニューヨーク・タイムズ日曜版(7月19日)1面の記事が波紋を呼んだのは、「エマニュエル大統領首席補佐官が、特別ゲストとして同席するとみられる」という一言が添えられていたからだ。
ウォールストリートの勝ち組〔AFPBB News〕
未曾有の金融危機に直面しても、米金融大手で唯一、四半期ベースの最終赤字を計上していないJPモルガン。嵐吹き荒れる中で、証券5位ベアー・スターンズ、貯蓄貸付組合(S&L)大手ワシントン・ミューチュアルといった巨大な破綻金融機関を絶妙なタイミングで吸収する離れ業を演じた。やっかみ半分で「金融当局と親密」とウワサが絶えなかっただけに、報道には「やっぱり」との声が広がった。
しかも記事は、「ガイトナー財務長官も出席を要請されたが利益相反の観点から断った」こともスッパ抜いた。だんまりを決め込んだJPモルガン広報とは対照的に、慌てたのはホワイトハウスだ。報道内容の確認を求めるメディアに対して即日、「首席補佐官も出席しない」と釈明に追われる羽目になった。
サンディ・ワイルの参謀役
大型買収を重ねたJPモルガンの総資産は、リスク資産の圧縮で漸減傾向だが、6月末時点で約2兆ドル(約190兆円)に上る。米銀最大手バンク・オブ・アメリカの後塵を拝してはいるが、4―6月期に最高益を達成して勢いづくゴールドマン・サックスの8900億ドル(約85兆円)をはるかにしのぐ。既に公的資金250億ドル(約2兆4000億円)を完済し、不良債権比率が米銀大手4社中最低を誇る優等生ぶりも際立っている。
その優良銀行を率いるのが、ジェームス・ダイモン会長兼最高経営責任者(CEO、53歳)だ。ロマンスグレーの頭髪をトレードマークに、やや垂れ気味の目で微笑む同会長には「ジェイミー」の愛称がハマる。しかし、甘いマスクの裏には、金融界で辛酸をなめながらも生き残り、今まさに頂点を極めんとする野心を秘めた別の顔がある。
ギリシャ系の祖父を持つダイモン氏は、敏腕証券ブローカーだった父の元に生まれ、弱肉強食を地でいくウォール街で多感な少年時代を過ごした。ハーバード・ビジネススクールでMBA(経営学修士)を取得後、父を通じてサンフォード(サンディー)・ワイル氏(後のシティグループ会長兼CEO)に商才を見出され、同氏の参謀役として実績を積んでいった。
ところが1998年、保険大手トラベラーズを率いるワイル氏が、銀行持ち株会社シティコープとの統合を目指す中で、2人の蜜月に暗雲がかかる。ワイル氏の後継候補だったダイモン氏が旧シティコープ幹部らと対立。ワイル氏は腹心を切り捨てる形で、合併両社の融和を図り、13年にわたる二人三脚体制は幕を閉じた。
州議時代のオバマ氏と運命の出会い
シティグループを放逐されたダイモン氏は不遇をかこち、2000年3月に米銀5位(当時)の商業銀行バンクワンのCEOに転じた。同行本店はイリノイ州シカゴ。ウォール街の権力闘争に敗れたダイモン氏は、文字通り「都落ち」したわけだ。ところがシカゴの街は、傷心のダイモン氏に、復活ののろしを上げるための種火を渡した。
ダイモン、バンクワンのCEOに就任,JPMチェースにバンクワンを売却、
バンク・ワン
バンク・ワン(Bank One Corporation)は、1998年にバンク・ワン・オブ・オハイオとファースト・シカゴ・NBDが合併して誕生した。
バンク・ワン・オブ・オハイオは、オハイオ州地盤だったシティ・ナショナル・バンク・オブ・コロンバス=オハイオを中心とした地元銀行の持株会社として設立されたファースト・バンクグループ・オブ・オハイオが前身である。ファースト・バンクグループがバンク・ワンと社名を変更したのに合わせて、傘下の銀行も合併しバンク・ワンとなった。他の州へ業務を拡大し、銀行を買収する際も、常にバンク・ワンの名称を用い続けた。
NBDとの合併後は業績が悪化し、祖父の代からバンク・ワンの頭取を務めてきたオーナーのジョン・B・マッコイは退任を余儀なくされた。代わってシティグループから転身したジェミー・ディモンが頭取に就任、改革を進めた上でJPMチェースに自社を売却するとともに、JPMチェースのCEOに就任した。
共和党支持が大勢を占める米金融界にあって、ダイモン…以下有料
たとえ政府と合意できたとしても、同社はまだ、中国での雇用慣行からクレジットカード事業に至るまで、様々な問題で非難に直面する。
会長兼CEOのジェイミー・ダイモン氏は、かつてウォール街で最もダイナミックでカリスマ性が高い経営者として称えられたが、収益性の高い強固な銀行を経営しているにもかかわらず、悪い理由でスポットライトを浴びている。
何がうまくいかなかったのか? ある銀行幹部が言うように、単にJPモルガンの順番なのだろうか? この幹部は「誰もが規制当局に鼻を折られなくてはならず、JPモルガンはまだ貶められていなかった」と話している。これは都合のいい説明であり、確かに一理ある。銀行の規制当局と州検事総長は、罰金だけでなく、公の償いも求めるからだ。だが、ダイモン氏はJPモルガンを必要以上に当局の標的にしてしまい、JPモルガンの投資家と評判に大きな代償をもたらした。
ダイモン氏の指揮下で大きくなったJPモルガン
まず、ダイモン氏はJPモルガンを大きくした。同社に対する申し立てや訴状の長さと幅広さは、批判的な向きでさえエンロン流のならず者集団とは見ていない銀行にしてはケタ外れだ。一部の規則に従わず、リスク管理とコンプライアンス(法令順守)の統制に不備があったが、失敗したのはJPモルガンだけではなかった。他社と違うのは、2兆3000億ドルの資産を持つJPモルガンは、最も規模が大きく、事業の幅が広い銀行だということだ。
チェース・マンハッタン*ロックフェラー系?
チェース・マンハッタン・バンク(The Chase Manhattan Bank)は、1955年にバンク・オブ・マンハッタンがチェース・ナショナル・バンクを買収して発足した。
1958年には、クレジットカード『バンカメリカード』が発明された。これは後の1976年にVISAカードに変わる。 その影響を受けて2年後1960年アメリカ・ニューヨーク州にあるチェースマンハッタン銀行が、バンカメリカードと競争するため、MasterChargeを発明した。 また、その2年後1962年に、現在のMasterCardにブランド名を変更現在に至る。
バンク・オブ・マンハッタンは1799年の創立で、JPMチェースの前身企業中最古の歴史をもつ。かつて水道事業者だったマンハッタン社を、アーロン・バーが銀行に転換させた。現在のJPMチェースのロゴは前身のチェース・マンハッタンのものであり、そしてさらに前身のバンク・オブ・マンハッタンのものであるが、かつての水道事業に因んで、木製水道管の断面が図案化されている。
1970年代から1980年代にかけてはデイヴィッド・ロックフェラーが頭取を務める。この頃は債券・株式市場、シンジケートローンからクレジットカード、住宅ローンに至るまで、幅広い分野で高い業績を誇る名門銀行だった。1990年代に入ると不動産市場低迷の影響を受けてかつての地位を失い、1996年、ケミカルに合併された。