歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

熊谷市・東善寺 快慶作の阿弥陀如来立像か

2019年02月26日 | Weblog
 熊谷市教育委員会は25日、曹洞宗・東善寺(熊谷市代町944)が所蔵する木造阿弥陀如来立像が、鎌倉時代の仏師・快慶が製作した可能性が高いことが分かったと発表した。
 平成29年11月、市史編纂のため市内の全仏像の調査中、東善寺で複数の仏像と一緒に箱に入っていた当像が、像の表情や衣文表現などが快慶に共通していたため、東京国立博物館に調査を依頼したところ、X線コンピューター断層撮影(CT)の結果、仏像の内部に古文書らしい折りたたまれた紙(高さ36cm、幅6・6cm、厚さ4cm)や髪の毛の束などがあることなどが分かった。
 像は高さ69cmで、材質は針葉樹系(ヒノキか?)。1本の木に全身を彫り出した後、分割し、内部を刳り貫いて接ぎ合わせる割矧造(わりはぎづくり)の技法が用いられていた。小さく秀麗な顔や腰高ですらりとした体形が快慶の作風に通じているという。
 当像は埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市大宮区)で開かれる特別展「東国の地獄極楽」(3月16日~5月6日)で展示される。
[参考:埼玉新聞、毎日新聞、産経新聞、読売新聞]

東善寺についての詳しいことは、なかなか調べきれなかったが、日本姓氏語源辞典、埼玉苗字辞典、新編武蔵風土記稿より、下記が推察される。
曹洞宗 代島山 東善寺 (旧、大里郡代村)
創建 慶長13年(1608)
開基 原島三郎義治(法名東善寺殿義応義治居士)・・・原島氏の祖先は丹治比姓にて、熊谷次郎直実が末流?
開山 叱洞長牛



県内初の快慶作の仏像か…熊谷・東善寺の阿弥陀如来立像、市が背景解明へ 年代や大きさなど謎多く

快慶の阿弥陀如来立像か 埼玉・熊谷の東善寺で発見


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 快慶



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京都市・醍醐寺 鎌倉時代初期の水晶に入った木造阿弥陀如来立像(小像)が見つかる

2018年10月16日 | Weblog
 京都市伏見区の醍醐寺で、蓮の蕾の形をした水晶(高さ10cm)に入った木造の阿弥陀仏(高さ約5・5cm、『水晶宝龕入り木造阿弥陀如来立像』)が見つかった。
 阿弥陀仏には金箔が施され、水晶の中に下から嵌め込まれて固定されている。
 鎌倉時代初め頃の作品とみられる。
 水晶に入った仏像は珍しく、快慶の工房で作られた可能性もあるという。
 12月10日まで醍醐寺霊宝館で公開されている。
[参考:共同通信、京都新聞、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]

2018.10.19
昨日、サントリー美術館の「醍醐寺展」を観てきました。
開館15分前に到着した時点で、20人程並んでいました。
一番最初に展示されていたのが、如意輪観音座像(重文)で優しいお顔に癒されます。
国宝の薬師如来および両脇侍像、快慶作不動明王坐像などたくさんの国宝、重要文化財が展示されていて見応えがありました。


水晶の中に阿弥陀像 快慶の工房の作品? 醍醐寺で発見

水晶に覆われた阿弥陀如来像公開…京都・醍醐寺

800年前の輝き、水晶に阿弥陀如来 京都・醍醐寺で初公開
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東京国立博物館 特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」を観てきました。H30.10.3

2018年10月03日 | Weblog
 東京国立博物館の特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」
 昨日が初日で、今日は2日目です。
 正門入口に朝9時に到着しました。2番目でした。
 まだ空いていますね。平成館3-4号室なので、通常の展示会の半分のスペースです。
 1時間かけてゆっくりと観ました。
 肥後定慶の作品はあまり見る機会がないので感激です。


 展示会場で唯一許された撮影ポイントである六観音菩薩像の「聖観音菩薩立像」。
 像高178cm 鎌倉時代・貞応三年(1224)
 肥後定慶(1184‐?)

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 肥後定慶
 定慶
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奈良県三郷町・持聖院 一針薬師笠石仏に仏師・快慶を示す銘文 最初期の作品か

2013年09月02日 | Weblog
 奈良県三郷(さんごう)町の持聖院(じしょういん)(注1)にある鎌倉時代前期の薬師如来像の「一針薬師(ひとはりやくし)笠石仏」(町指定文化財)が、同時代を代表する仏師・快慶を示すとみられる銘文が刻まれていることがわかった。町教委などでつくる調査委員会が11月30日、岡山市の就実大学で行われる歴史シンポジウムで発表する。
(注1)貞慶(解脱上人(げだつしょうにん)、1155-1213)が開いたとされる惣持寺(そうじじ、廃寺)の子院。
 石仏は花崗岩の表面に彫られ、高さ、幅各約2m、厚さ25~30cm。薬師如来を中心に、左右に日光、月光両菩薩、周囲に十二神将の像を細い線で刻んでいる。
 笠のように上に載った石の裏側に銘文が刻まれており、造立にかかわった人物として、「アン(梵字)大工匠人(しょうじん)」の名があることがわかった。「巧匠アン阿弥陀仏」という法号は快慶の手がけた初期の作品で用いており、快慶を指す可能性が高いという。 快慶が石仏の作図にかかわったというこれまでの説を裏付けた形である。快慶が下図を書き、東大寺復興に携わった宋人石工が彫ったと考えられるという。
 石仏にはほかに、同院の前身の寺院を創建した鎌倉時代の高僧・貞慶が造立を発願したことや、「如月廿日(2月20日)」に誰かの一周忌にあわせて造られたことなどが記されていた。また、貞慶と親しかった僧侶・慶円(1140-1223)の伝記「三輪上人行状」(1255年、慶円の弟子・塔義が撰した)に貞慶の発願で快慶に依頼して薬師像を造立し寺院を建立したとの記述があり、一致する。
同じ時代の公家で、貞慶と親しかった九条兼実の長男・良通が1188年2月20日に22歳で亡くなっていることから、一周忌となる1189年に造られた可能性があるという。
2013年11月30日(土) 13:00~ 就実大学付属図書館で行われる歴史シンポジウムの中で発表される予定。
[参考:2013.9.2 読売新聞、朝日新聞、就実大学HP、海住山寺HP、2013.9.26 奈良新聞]

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 2008.8.12 東大寺南大門 石造獅子 中国の石材「梅園石」か
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愛知県美浜町・大御堂寺 阿弥陀如来立像が快慶作と判明

2011年12月04日 | Weblog
 富山大・松浦正昭教授が2日大阪市内で、愛知・美浜町の大御堂寺(おおみどうじ)に伝わる阿弥陀如来立像が快慶の作と分かったと発表した。
 像は寄木造りで、高さ79cm。左足を踏み出し、亡くなった人を迎える来迎(らいごう)形をしている。当初は金泥で仕上げられていた。同寺では作者不明のまま厨子に祀られていた。作者銘が残る岡山・東寿院の快慶作阿弥陀如来像と、特徴ある襟の形などを含め表現様式が一致し、快慶作と判断した。
 足ほぞには15世紀の修理の際に書かれた「親鸞上人御彫刻」との銘があり、X線調査では、その修理で胎内納入物が取り出された跡があった。 松浦教授は、納入物の記述内容を足ほぞに記録したものとし、親鸞(1173-1262)が願主となって師・法然(1133-1212)入滅の際に供養のために作った像と判断できるとしている。
 同像は5日から22日まで、大阪市中央区大阪丸紅ビル1階「文化力の旅ラウンジ」で公開される(有料)。
[参考:時事通信、産経新聞]

真言宗豊山派 鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)
愛知県知多郡美浜町野間東畠ケ50
 創建は天武天皇の時代(673-686)、開基は役小角と伝わる。
 同寺は「野間大坊(のまだいぼう)」と呼ばれ、寺がある美浜町野間(旧・野間庄)は源頼朝の父・義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。
そのため、源頼朝が訪れているほか以降、時の権力者から庇護を受けて現在に至っている。
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高野山金剛峯寺 執金剛神立像の中から「快慶」作示す墨書

2011年10月22日 | Weblog
 和歌山県高野町の高野山霊宝館は21日、高野山真言宗・総本山金剛峯寺所蔵の「執金剛神立像(しゅこんごうしんりゅうぞう)」の中から銘文が見つかり、鎌倉時代の仏師・快慶の作と確認したと発表した。
 執金剛神立像はヒノキの寄せ木造りで高さ149cm。 首の内側に快慶が用いた墨書の銘文「アン(梵字)阿弥陀佛」を発見した。
 一対の「深沙大将立像(じんじゃたいしょうりゅうぞう)」(高さ142cm)も快慶作とみられるという。
[参考:読売新聞、共同通信、毎日新聞、産経新聞]

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 2009.6.11 京都市・泉涌寺・悲田院 宝冠阿弥陀如来座像が快慶作の可能性
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大津市・西教寺 観音菩薩立像の足ほぞに「法橋行快」の墨書

2011年07月15日 | Weblog
 大津市歴史博物館は15日、同市坂本5丁目の西教寺(注1)の木造阿弥陀三尊像の一つ「観音菩薩立像」(像高59cm)に、鎌倉時代の仏師快慶の弟子だった行快の名前が墨書されていたことが分かったと発表した。 現存する行快の名前が記された仏像では最古という。 三尊像のうち阿弥陀如来立像(像高81cm)も作風から行快作とみられという。
 仏像の足を台座に挿す「足ほぞ」と呼ばれる部分に「巧匠 法橋(注2)行快」と記されていた。法橋は僧侶の位だが、仏師にも与えられた。 行快が法橋の地位にあったとみられる時期から1216〜27年に作られたとみられる。
 行快の仏像は今月20日から大津市歴史博物館常設展示で展示される。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、NHK大津]

(注1) 天台真盛宗総本山 戒光山兼法勝西教寺: 聖徳太子の創建と伝わるが、定かでない。
(注2) 法橋、法眼と位が上がるが、法眼は1227頃に授かっている。

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 2010.11.10 河内長野市・金剛寺 不動明王坐像の胎内から墨書が見つかり、行快作と判明
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益田市・医光寺 釈迦如来坐像が、前身の寺が創建された頃の制作であることを確認

2011年04月21日 | Weblog
釈迦如来坐像(伝・崇観寺本尊)の内部から墨書の銘文を発見
 雪舟(1420-1506)ゆかりの医光寺が所蔵し開山堂に安置している釈迦如来坐像(木造、高さ約70cm)が、前身の寺・崇観寺(すうかんじ)が創建された頃の制作であることが、県立石見美術館(同市有明町)の調査で確認された。
 釈迦如来坐像は医光寺の前身・崇観寺の本尊だったとされている像で、背中部分の内側に銘文が墨で書き付けられていた。
 応安4年(1371年)に、大仏師法橋広成が制作。 由来や、この地を治めた施主(第11代益田家当主・益田兼見)の名前があった。材料は、檜か針葉樹とみられる。
 鎌倉時代から南北朝時代の仏像、薬師如来像ほか、釈迦如来座像、弘法大師座像を展示した特別展「速報 医光寺の仏像」が、同美術館で4月20日から始まった。6月20日まで。
[参考:読売新聞、山陰中央新報、益田市HP、島根県芸術文化センター「グラントワ」HP]



臨済宗東福寺派 瀧蔵山 医光寺 (島根県益田市染羽町4-29)
 現・医光寺の西方に、貞治2年(1363) 斎藤長者妻直山妙超を開基、龍門士源を開山(注1)として創建された天台宗崇観寺の塔頭を前身とすると伝わる。
(注1) 龍門士源は東福寺一世・聖一国師(1202-1280)の法孫士顔の嫡子と云われるが不明。
 益田市のHPでは、第7代住職が雪舟(1420-1506)としている。
 17代益田宗兼(?-1544)によって医光寺を現在地に建立した。 その後、崇観寺は衰退し、さらに寺堂の消失によって医光寺と合併した。
 本尊は薬師如来像。 安阿弥(快慶の号)の作と伝えられる。

 写真の一番前に建つのは、医光寺総門。そばに立つ説明板には、下記のように記されている。(2002年12月撮影)
医光寺総門
                           指定 昭和三十四年九月一日
 医光寺総門は高麗門の形式で屋根は切妻造り、本瓦葺き、正面の屋根は中央部を高くし、両側を一段低くした段違いの屋根となっている。高麗門は扉筋(とびらすじ)の二本の本柱と背後の二本の控柱(ひかえばしら)からなるが、他に門のごとく本柱、控柱でひとつの屋根を支えるのではなく、本柱通りに妻破風(つまはふ)屋根を架、それと直角に控柱通りに一段低い切妻屋根を載せた門で、屋根の平面はΠ形になり近世の城郭の門に用いられた。
 この門は、益田市の拠城七尾城の大手門を移築したものと伝えられている。十七世紀後半に屋根を改めたといわれ、冠木(かぶらき)に据えた蟇股(かえるまた)や妻飾(つまかざり)の板蟇股に近世の技法がみられる。また、昭和40年にも修理が行われている。
 構造、意匠と簡素であるが、本柱、冠木ともに太く、その豪壮な構えは威容であり、戦国末期の高麗門の姿を今にとどめている。
                           益田市教育委員会


過去の関連ニュースおよび情報 
 2008.11.20 益田市・三宅御土居跡 遺構発見可能性高まる


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善光寺の阿弥陀如来立像 快慶の工房で制作との見解

2010年08月13日 | Weblog
 善光寺(長野市)の「阿弥陀如来立像」の大規模な修復調査が終了し、担当の東京芸大の籔内佐斗司教授は12日、鎌倉時代を代表する仏師・快慶が存命中に、快慶の工房で制作した可能性が高い」として部分によって彫り方に違いがあることから、「弟子たちが分業して作った」との見解を示した。
 仏像は7月から、同寺史料館で公開されている。
[参考:信濃毎日新聞、中日新聞]

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 2009.4.1善光寺の阿弥陀如来立像 快慶作とは断定できずも、係わったことは確か
 2008.11.26善光寺の阿弥陀如来立像 快慶作か 東京芸大が本格調査
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京都市・泉涌寺・悲田院 宝冠阿弥陀如来座像が快慶作の可能性

2009年06月11日 | Weblog
 泉涌寺の塔頭・悲田院(同市東区)が所蔵する「宝冠(ほうかん)阿弥陀如来座像」が、鎌倉時代前期の仏師・快慶の作である可能性が高いことが、大津市歴史博物館の調査で10日までに分かった。
 座像はヒノキ材で高さ72cm、幅49cm。きりりとした目や理知的な表情など、快慶の特徴的な作風が見られ、同院では古くから「快慶作」との伝承が残っていた。
 ファイバースコープで胎内を撮影したところ、頭部に快慶の作品であることを示す墨書の銘文「アン(梵字)阿弥陀」と、5人の弟子の銘文が記されていた。これらの墨書は、醍醐寺(同市伏見区)の木造不動明王座像や石山寺(大津市)の木造大日如来座像など、快慶が手掛けた他の仏像でも確認されている。
 特別展は10月10日から11月23日まで、同博物館で行われる。同仏像の展示は10月25日まで。
[参考:京都新聞]

 快慶作の現存する2番目の作品である醍醐寺三宝院弥勒菩薩坐像(建久3年・1192)からは作品に「巧匠アン(梵字)阿弥陀仏」と銘記されるようになる。安阿弥陀仏とも称し、その理知的、絵画的で繊細な作風は「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれる。
 この銘記は快慶が法橋の僧位になる建仁3年(1203年)まで続く。

過去の関連ニュース・情報
 八幡市・宝寿院・阿弥陀如来立像
 長野市・善光寺・阿弥陀如来立像(2)
 長野市・善光寺・阿弥陀如来立像(1)
 甲賀市・玉桂寺木造阿弥陀如来像
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八幡市・宝寿院 阿弥陀如来立像の胎内から「定慶」作の墨書名発見

2009年06月06日 | Weblog
 八幡市教委が5日、同市美濃山大塚にある浄土宗・宝寿院の本尊・阿弥陀如来立像の内部から、文暦2年(1235)に「泉州別当定慶」が制作したとの墨書銘が見つかったと発表した。
 像はヒノキ材で、高さ77.5cm(2尺5寸)。修理で見つかった銘文に「泉州別当定慶造也」と書かれていた。「泉州別当」は肩書の一種で、運慶らと連なる慶派仏師の1人とみられるという。
 理知的な表情や着衣の表現が快慶の作品に似ており、いわゆる「安阿弥様」(あんなみよう)の像である。 
 これまで存在が確認されている3人の「定慶」のうち2人は活動年代が異なり、同時期の「肥後別当定慶」とは作風が異なるため、市教委は第4の定慶がいたとみている。
 宝寿院は、江戸中期の享保19(1734)年に開拓された美濃山に、明治36年(1903)年開設。それ以前も集落の会所に仏像があった記録はあるが、鎌倉時代の仏像が伝わった経緯は不明という。
 阿弥陀如来立像は、木津川市山城町の府山城郷土資料館で常設展示されている。
[参考:京都新聞、毎日新聞、京都府HP→文教課]

 これまでの3人の定慶
①大仏師法師定慶(生没年不詳)12世紀後半の慶派仏師。康慶の弟子とされる。春日定慶とも称される
 作品:興福寺東金堂の、維摩居士、梵天、帝釈天、金剛力士など。
②肥後別当定慶(1184? - 1256?)鎌倉時代の仏師。慶派、康慶の弟子といわれる。運慶の次男・康運との説もある。
 作品:大報恩寺の六観音像、鞍馬寺の聖観音菩薩など。
③越前法橋・定慶(鎌倉後期)
 伝存作品はないが、法隆寺新堂の日光・月光菩薩像などの修理に従事したことが知られる。

 王塚古墳の隣にある宝寿院には王塚古墳の碑文(考古学者・濱田耕作氏、別称浜田青陵の書)が立てられている。
 
過去の関連ニュース・情報
 2008.12.3美濃山王塚古墳
 2008.7.6女郎花遺跡
 2008.7.4女郎花遺跡


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善光寺の阿弥陀如来立像 快慶作とは断定できずも、係わったことは確か

2009年04月01日 | Weblog
 長野市の善光寺史料館で所蔵する阿弥陀如来立像が、鎌倉時代の仏師・快慶作の可能性が高いとみられ、昨年11月26日東京芸術大に運ばれ、立像の内部などを本格的に調査が行われたが、調査を担当した籔内佐斗司・東京芸大大学院教授(文化財保存学)31日、快慶作とは断定できないが、快慶がかかわっていることはほぼ間違いないと結果を発表した。
 快慶の真作とされる像の多くには、足裏の突起部分や像内に作者名を示す「銘文」が残されているが、今回の調査では確認されなかった。ただ、1本の木を割り、中を空洞にした上でつなぎ合わせる「割矧(わりはぎ)」と呼ばれる構造などが快慶の中期の作風と酷似しているという。
 立像内部に縦58cm、横31cmの紙が巻かれて入っていたことが判明。「定快(じょうかい)」「南無阿弥陀仏」などと記された墨書が発見されたが、作者銘ではなく、造立にかかわった僧侶の名前の可能性が高いという。また、立像が1716年頃、善光寺大本願から信濃町の寺に移され、大正以降に善光寺に戻ったことも、信濃町で見つかった古文書で判明した。
 快慶の弟子で「定快」という人物は確認できなかったが、定快の銘文がある仏像が東京都青梅市の寺にあることが分かった。青梅市の像は稚拙で作風が違うため、定快は絵を描いた僧の名前ではないかとしている。
 如来立像は調査の際に、指などの暫定的な修復を施して31日に寺に戻った。
 御開帳期間中(5日~5月31日)、寺史料館で展示される。その後は再び東京芸大に移送し、来年3月までさらに全面解体をして修復、再調査する予定。
[参考:毎日新聞、読売新聞、共同通信、産経新聞]
過去の記事
 2009.11.22
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善光寺の阿弥陀如来立像 快慶作か 東京芸大が本格調査 

2008年11月26日 | Weblog
 善光寺が所蔵する阿弥陀如来立像が快慶の作品である可能性が高いとして、東京芸大で詳しい調査を実施することになり、26日、立像の搬出作業が行われたという。大きめできれいな写真が貼付されています。
善光寺の仏像、快慶作か=東京芸大で調査へ-長野(時事通信) - goo ニュース

[11/21掲載分]
 長野市の善光寺は21日、寺の史料館で所蔵する阿弥陀如来立像が、鎌倉時代の仏師、快慶の作品である可能性が高まったと発表した。26日に東京芸術大に運び、立像の内部などを本格的に調査する。
 立像は木製で高さ高さ98・5cm。台座と光背を含めると194.4cmになる。鎌倉期の仏像の特徴である玉眼(ぎょくがん)が施され、漆箔と金泥が塗られている。
 立像は廃寺などから持ち込まれた「客仏」との見方もあるが、安置された年代とも経緯は不明。明治時代の廃仏毀釈の際の可能性が高い。現在の同郡中条村で「南無阿弥陀仏」の声が聞こえた土の中を掘った際にこの仏像が出現した、との言い伝えもあるという。
 当初は善光寺本堂一角の部屋に保管されていたが、03年の前回御開帳の際に寺史料館に移された。
 善光寺は、立像のルーツを調べるよう同寺で仏像の保存修復を手掛けている東京芸大の籔内佐斗司(やぶうちさとし)教授に依頼。今年9月に阿弥陀如来立像の立体写真を撮影した。
 1本の木を割り、中をくりぬいた上でつなぎあわせる「割矧(わりはぎ)」と呼ばれる組み方や、肩の曲線などが、快慶の他の作品と極めて似ていることがわかったという。
 外観などから「快慶が13世紀初めに制作した東大寺俊乗堂(しゅんじょうどう)の阿弥陀如来立像(重要文化財)や、浄土寺(兵庫県小野市)の国宝・阿弥陀三尊立像などと形状や大きさが酷似している。仏像の襟周りの衣の造形から、快慶の第2期の作例に分類できる」と指摘。銘文は確認されていないが、腹部や背部に隠されている可能性もあるとして、エックス線撮影を含めた詳細な調査を進める。
 籔内教授は「銘文がなくても、快慶の基準作例に限りなく近い造形的特徴を有していることが証明されれば、貴重なものになる」としている。
 台座裏には、江戸時代の文化12(1815)年に現在の上水内郡信濃町の中村六左右衛門が修復した-との説明書きがあり、修復時に台座や金箔などが加えられた可能性があるという。
 善光寺白蓮(びゃくれん)坊の若麻績(わかおみ)敏隆・営繕局次長が、この仏像は快慶の作品に似ていると考え、今年夏に籔内教授に相談したことが調査のきっかけになった。善光寺事務局は「来春の御開帳までに快慶作と確認し、御開帳期間中に参拝客に公開したい」と話している。
[参考:読売新聞、信濃毎日新聞、毎日新聞、中日新聞、朝日新聞]

快慶作か、善光寺の阿弥陀如来立像…東京芸大が本格調査(読売新聞) - goo ニュース

【快慶】 
 運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師。運慶とともに制作したとされる東大寺南大門(奈良市)の金剛力士像は国宝。浄土寺(兵庫県小野市)の阿弥陀三尊立像も国宝になっている。
 端正な顔立ちや繊細な造形が特徴。高さ1m前後の3尺阿弥陀如来立像を多く残している。
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信楽町・玉桂寺 木造阿弥陀如来像を京都・知恩院に安置へ

2008年10月01日 | Weblog
 滋賀県甲賀市信楽町の玉桂寺(ぎょっけいじ)に安置される木造阿弥陀如来像(重文)は浄土宗の宗祖・法然(1133~1212)の高弟、源智(げんち)(1183-1238年)が、法然を供養するために作らせたとされる。この仏像を法然の廟所がある知恩院(京都市東山区)に法然八百年忌(2011年)を前に安置する計画が進んでおり、玉桂寺と知恩院を含む全国の浄土宗寺院をまとめる宗教法人「浄土宗」(宗務庁、東山区)が検討している。
 この仏像は高さ約1mで、1979年の調査で、法然が亡くなって約11カ月後の1212(建暦2)年12月24日付の源智の願文が胎内から見つかった。
 法然の思想が、自力の行(ぎょう)を励み、この世で悟りを開くことを目指す「聖道門(しょうどうもん)」から、阿弥陀を信じて念仏し、あの世で悟りを開こうとする「浄土門」に転換したことなどが記されている。
[9/30 京都新聞]

玉桂寺 (高野山真言宗・秋葉山十輪院玉桂寺)
 寺伝によれば淳仁天皇が平城宮から仮御所として造営した離宮「保良宮」跡(761-762)に空海が開いたというが確証はない。[参考:玉桂寺HP]

玉桂寺・木造阿弥陀如来像(重文)
 鎌倉時代・建暦2年(1212)作。像高98.6cm。
 本像は、昭和49年(1974)5月、文化庁・県教育委員会による文化財調査の際、鎌倉時代初期の仏師快慶の作風を伝える、安阿弥様(あんなみよう)の阿弥陀像として評価された。その後、昭和52年にX線写真撮影により、体内に納入品があることが確認された。翌年(1978)県指定文化財に指定され、さらにその翌年(1979)に像の解体が行われ、金箔が張られた内ぐり部から、14件の結縁交名(けちえんきょうみょう)が発見された。結縁交名には、同時に納入されていた「建暦2年12月24日 沙門源智敬白」と記された造像願文から、法然の弟子である源智上人が建暦2年(1212)に亡くなった法然の一周忌に際して三尺の弥陀像を造立し、像内に4万6千人の姓名を収め、極楽往生を願ったと記されていた。作風は快慶風であるが、作者は快慶本人ではなく弟子筋の仏師と推定される。昭和56年(1981)重要文化財に指定された。[参考:甲賀市HP、浄土宗HP]
 玉桂寺のHPでは、快慶の作のままになっている。行快作との説もある。

源智上人(1183~1238)
 鎌倉時代前期の浄土宗の僧。父は平師盛。
 法然が亡くなるまで18年間随侍し、法然の亡くなる直前に『一枚起請文(きしょうもん)』を授けられた。文暦元年(1234)知恩院を再興する一方で、百万遍知恩寺の基礎を築いた。著書に『選択要決』、『御臨終日記』(醐醍本所収)、『一期物語』(同)がある。[参考:浄土宗HP]

■2011.1.25 追記 その後の玉桂寺蔵・木造阿弥陀如来像(重文)
2011.1.25 京都市・知恩院 800年ぶり師弟対面・法然(御影)と源智発願の阿弥陀如来立像

2010.2.3 宗教法人浄土宗 (浄土宗宗務庁:京都府京都市、東山区) が1日、高野山真言宗・玉桂寺 (甲賀市信楽町) 所蔵の源智上人ゆかりの木造阿弥陀如来立像 (重文) を有償で浄土宗へ譲渡されたことが発表された。
当面は佛教大学の宗教文化ミュージアムで保管・研究され、2011年3月に京都国立博物館で開催されるの「法然展」に出展される。 [参考:2010.2.3ぐるっと京都、2010.2.1京都新聞]

2010.2.2 浄土宗は、高野山真言宗玉桂寺(滋賀県甲賀市信楽町)所蔵の源智上人ゆかりの木造阿弥陀如来立像(重文)の請来を受け、2月1日午前、玉桂寺で里見法雄浄土宗宗務総長導師により遷座式(仏像等の安置場所を移す際に行う儀式)を行った。
 今回の遷座は、法然上人の800回忌を迎えるのを機に、関係者と協議を進め、本年1月18日に玉桂寺から浄土宗に所有権を移す契約を締結したことにより執り行ったもの。[参照:浄土宗HP]
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