鎌倉時代の「御成敗式目」(貞永式目)の制定で知られる3代執権・北条泰時(1183-1242)が創建した、鎌倉市大船の粟船山・常楽寺(注1)の本尊・阿弥陀三尊像から、制作時期とみられる「仁治三年(1242)六月十二日」の墨書が確認された。
泰時の出家(仁治3年5月9日)の33日後、死(仁治3年6月15日)の3日前にあたる。
三尊像は木造で、中央の阿弥陀如来座像は像高70cm、左右の観音・勢至菩薩像は同85cm前後。 作風に中国・宋の影響があり、鎌倉時代の仏師・定慶(注2)の作とみられるという。
これまで室町時代の作とされていたが、昨秋、山本勉・清泉女子大教授(日本彫刻史)が調査したところ、阿弥陀如来座像の台座内部に、僧侶の名や日付が書かれているのを確認した(注3)。 17日、市の文化財に指定された。
[参考:読売新聞、神奈川新聞]
(注1) 吾妻鏡に常楽寺に関することが下記のように記されている。
■嘉禎三年(1237)十二月大十三日庚寅。。右京兆(右京権大夫の唐名、北条泰時)爲室家(安保実員の女)母尼追福。於彼山内墳墓之傍。被建一梵宇(後の常楽寺)。今日有供養儀。導師莊嚴房律師行勇。匠作(修理権大夫の唐名、北条時房)。遠江守(北条朝時)令聽聞給。
■寛元々年(1243)六月大十五日庚申。天霽。故前武州禪室(北条泰時)周闋(2周忌)御佛事。於山内粟船御堂被修之。北條左親衛(北条經時時)并武衞(北条時頼)參給。遠江入道。前右馬權頭。武藏守以下人々群集。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪。讃衆十二口云々。此供。幽儀御在生之時。殊抽信心云々。
(注2) この時代、何人かの定慶がいるが、記事には、その定慶が特定して書かれていない。興福寺専属の仏師であり、運慶の父・康慶の弟子とみられる定慶ではなく、肥後(別当)定慶のことかもしれない。
近年、鎌倉明王院本堂の五大明王中、不動明王像が、嘉禎4年(1235年)4代将軍藤原頼経(1218-1256)の発願により肥後定慶が制作したものとわかった。
また、常楽寺の阿弥陀三尊像を作った年(1242年)に、肥後定慶は石龕寺(兵庫県)の金剛力士像(阿形・吽形)を制作している。阿形像内に「仁治三年三月二十一日始、四月十三日木造畢」、吽形像内に「仁治三年三月二十一日始、卯月(4月)十一日木造畢」、両像ともに「大仏師南方派肥後法橋定慶生年五十九」と墨書されている。[参考:日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第一期総目録 中央公論美術出版(2003/05)] 常楽寺の阿弥陀三尊像とは制作時期が近い。
(注3)墨書された文字が全て発表されていないのが残念である。
北条泰時、極楽往生の願い…阿弥陀像に墨書(読売新聞) - goo ニュース
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2009.6.6 八幡市・宝寿院 阿弥陀如来立像の胎内から「(泉州別当)定慶」作の墨書名発見
泰時の出家(仁治3年5月9日)の33日後、死(仁治3年6月15日)の3日前にあたる。
三尊像は木造で、中央の阿弥陀如来座像は像高70cm、左右の観音・勢至菩薩像は同85cm前後。 作風に中国・宋の影響があり、鎌倉時代の仏師・定慶(注2)の作とみられるという。
これまで室町時代の作とされていたが、昨秋、山本勉・清泉女子大教授(日本彫刻史)が調査したところ、阿弥陀如来座像の台座内部に、僧侶の名や日付が書かれているのを確認した(注3)。 17日、市の文化財に指定された。
[参考:読売新聞、神奈川新聞]
(注1) 吾妻鏡に常楽寺に関することが下記のように記されている。
■嘉禎三年(1237)十二月大十三日庚寅。。右京兆(右京権大夫の唐名、北条泰時)爲室家(安保実員の女)母尼追福。於彼山内墳墓之傍。被建一梵宇(後の常楽寺)。今日有供養儀。導師莊嚴房律師行勇。匠作(修理権大夫の唐名、北条時房)。遠江守(北条朝時)令聽聞給。
■寛元々年(1243)六月大十五日庚申。天霽。故前武州禪室(北条泰時)周闋(2周忌)御佛事。於山内粟船御堂被修之。北條左親衛(北条經時時)并武衞(北条時頼)參給。遠江入道。前右馬權頭。武藏守以下人々群集。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪。讃衆十二口云々。此供。幽儀御在生之時。殊抽信心云々。
(注2) この時代、何人かの定慶がいるが、記事には、その定慶が特定して書かれていない。興福寺専属の仏師であり、運慶の父・康慶の弟子とみられる定慶ではなく、肥後(別当)定慶のことかもしれない。
近年、鎌倉明王院本堂の五大明王中、不動明王像が、嘉禎4年(1235年)4代将軍藤原頼経(1218-1256)の発願により肥後定慶が制作したものとわかった。
また、常楽寺の阿弥陀三尊像を作った年(1242年)に、肥後定慶は石龕寺(兵庫県)の金剛力士像(阿形・吽形)を制作している。阿形像内に「仁治三年三月二十一日始、四月十三日木造畢」、吽形像内に「仁治三年三月二十一日始、卯月(4月)十一日木造畢」、両像ともに「大仏師南方派肥後法橋定慶生年五十九」と墨書されている。[参考:日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 第一期総目録 中央公論美術出版(2003/05)] 常楽寺の阿弥陀三尊像とは制作時期が近い。
(注3)墨書された文字が全て発表されていないのが残念である。
北条泰時、極楽往生の願い…阿弥陀像に墨書(読売新聞) - goo ニュース
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2009.6.6 八幡市・宝寿院 阿弥陀如来立像の胎内から「(泉州別当)定慶」作の墨書名発見
京都府埋蔵文化財調査研究センターは27日、八幡市美濃山荒坂の女谷・荒坂横穴群で、6世紀後半-7世紀前半の横穴8基を新たに発掘したと発表した。同横穴群は2002年までに50基の横穴を発掘しており、今回の調査で計58基となった。
新たに発掘した横穴(全長10-15m)は南北50mの範囲にあり、有力者の血縁集団が、1基につき3人以上埋葬されたと考えられる。
ひとつの横穴の最深部の玄室(幅1・3m、奥行き2・7m)から、副葬品として青銅鏡「瑞雲双鸞鏡(ずいうんそうらんきょう)」が出土したことから、平安時代前期に横穴が再利用されたとみている。
青銅鏡は、直径11・5cm、厚さ3mmで、雲の文様や想像上の鸞鳥(らんちょう)が刻まれている。大きさや材質から、中国の唐式鏡を模して奈良時代末に多く生産された国内産とみられる。
横穴群の700m南東には、古代寺院の美濃山廃寺跡がある。青銅鏡が出土した横穴から同寺と同じ種類の瓦が見つかっており、墓の造営集団の子孫が美濃山廃寺の建設にもかかわり、先祖の墓である横穴に追葬されたのではないかとみている。
現地説明会は30日午後2時から開かれる。
[参考:京都新聞、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター]
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2009.6.6 八幡市・宝寿院 阿弥陀如来立像の胎内から「定慶」作の墨書名発見
2008.12.3 八幡市・王塚古墳 前方後円墳
2008.7.6 八幡市・女郎花遺跡 現地説明会
2008.7.4 八幡市 女郎花遺跡 奈良-平安期の建物遺構出土 地元豪族の居館か
新たに発掘した横穴(全長10-15m)は南北50mの範囲にあり、有力者の血縁集団が、1基につき3人以上埋葬されたと考えられる。
ひとつの横穴の最深部の玄室(幅1・3m、奥行き2・7m)から、副葬品として青銅鏡「瑞雲双鸞鏡(ずいうんそうらんきょう)」が出土したことから、平安時代前期に横穴が再利用されたとみている。
青銅鏡は、直径11・5cm、厚さ3mmで、雲の文様や想像上の鸞鳥(らんちょう)が刻まれている。大きさや材質から、中国の唐式鏡を模して奈良時代末に多く生産された国内産とみられる。
横穴群の700m南東には、古代寺院の美濃山廃寺跡がある。青銅鏡が出土した横穴から同寺と同じ種類の瓦が見つかっており、墓の造営集団の子孫が美濃山廃寺の建設にもかかわり、先祖の墓である横穴に追葬されたのではないかとみている。
現地説明会は30日午後2時から開かれる。
[参考:京都新聞、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター]
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2009.6.6 八幡市・宝寿院 阿弥陀如来立像の胎内から「定慶」作の墨書名発見
2008.12.3 八幡市・王塚古墳 前方後円墳
2008.7.6 八幡市・女郎花遺跡 現地説明会
2008.7.4 八幡市 女郎花遺跡 奈良-平安期の建物遺構出土 地元豪族の居館か
八幡市教委が5日、同市美濃山大塚にある浄土宗・宝寿院の本尊・阿弥陀如来立像の内部から、文暦2年(1235)に「泉州別当定慶」が制作したとの墨書銘が見つかったと発表した。
像はヒノキ材で、高さ77.5cm(2尺5寸)。修理で見つかった銘文に「泉州別当定慶造也」と書かれていた。「泉州別当」は肩書の一種で、運慶らと連なる慶派仏師の1人とみられるという。
理知的な表情や着衣の表現が快慶の作品に似ており、いわゆる「安阿弥様」(あんなみよう)の像である。
これまで存在が確認されている3人の「定慶」のうち2人は活動年代が異なり、同時期の「肥後別当定慶」とは作風が異なるため、市教委は第4の定慶がいたとみている。
宝寿院は、江戸中期の享保19(1734)年に開拓された美濃山に、明治36年(1903)年開設。それ以前も集落の会所に仏像があった記録はあるが、鎌倉時代の仏像が伝わった経緯は不明という。
阿弥陀如来立像は、木津川市山城町の府山城郷土資料館で常設展示されている。
[参考:京都新聞、毎日新聞、京都府HP→文教課]
これまでの3人の定慶
①大仏師法師定慶(生没年不詳)12世紀後半の慶派仏師。康慶の弟子とされる。春日定慶とも称される
作品:興福寺東金堂の、維摩居士、梵天、帝釈天、金剛力士など。
②肥後別当定慶(1184? - 1256?)鎌倉時代の仏師。慶派、康慶の弟子といわれる。運慶の次男・康運との説もある。
作品:大報恩寺の六観音像、鞍馬寺の聖観音菩薩など。
③越前法橋・定慶(鎌倉後期)
伝存作品はないが、法隆寺新堂の日光・月光菩薩像などの修理に従事したことが知られる。
王塚古墳の隣にある宝寿院には王塚古墳の碑文(考古学者・濱田耕作氏、別称浜田青陵の書)が立てられている。
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2008.12.3美濃山王塚古墳
2008.7.6女郎花遺跡
2008.7.4女郎花遺跡
像はヒノキ材で、高さ77.5cm(2尺5寸)。修理で見つかった銘文に「泉州別当定慶造也」と書かれていた。「泉州別当」は肩書の一種で、運慶らと連なる慶派仏師の1人とみられるという。
理知的な表情や着衣の表現が快慶の作品に似ており、いわゆる「安阿弥様」(あんなみよう)の像である。
これまで存在が確認されている3人の「定慶」のうち2人は活動年代が異なり、同時期の「肥後別当定慶」とは作風が異なるため、市教委は第4の定慶がいたとみている。
宝寿院は、江戸中期の享保19(1734)年に開拓された美濃山に、明治36年(1903)年開設。それ以前も集落の会所に仏像があった記録はあるが、鎌倉時代の仏像が伝わった経緯は不明という。
阿弥陀如来立像は、木津川市山城町の府山城郷土資料館で常設展示されている。
[参考:京都新聞、毎日新聞、京都府HP→文教課]
これまでの3人の定慶
①大仏師法師定慶(生没年不詳)12世紀後半の慶派仏師。康慶の弟子とされる。春日定慶とも称される
作品:興福寺東金堂の、維摩居士、梵天、帝釈天、金剛力士など。
②肥後別当定慶(1184? - 1256?)鎌倉時代の仏師。慶派、康慶の弟子といわれる。運慶の次男・康運との説もある。
作品:大報恩寺の六観音像、鞍馬寺の聖観音菩薩など。
③越前法橋・定慶(鎌倉後期)
伝存作品はないが、法隆寺新堂の日光・月光菩薩像などの修理に従事したことが知られる。
王塚古墳の隣にある宝寿院には王塚古墳の碑文(考古学者・濱田耕作氏、別称浜田青陵の書)が立てられている。
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2008.12.3美濃山王塚古墳
2008.7.6女郎花遺跡
2008.7.4女郎花遺跡
三重県伊賀市上野丸之内の上野城跡(国史跡)の第16次発掘調査を進めている同市教委は24日、藤堂高虎以前の伊賀藩主・筒井定次が16世紀後半に築いたとみられる土塁を発掘したことを発表した。筒井氏時代の遺構が見つかったのは初めてで、土塁の工法は同時代のものでは全国でも珍しいという。
筒井時代の土塁は、昭和初期に天守閣が再建された伊賀上野城の東側で、上野城跡の南西部にある高虎時代の石垣から、2・7m~1・5m内側で発掘された。大きさは幅7・3m、高さ2・4mで、三段に積んだ「腰巻(こしまき)石垣」の上に、粘土と砂を交互に叩き固めた「版築」と呼ばれる工法で壁状に土を積み上げ、外壁にあたる部分には泥炭と呼ばれる装飾を厚さ60cmにわたって重ねた跡があった。その表面には、漆喰で「化粧」が施されたと推察されるという。
腰巻石垣は南北に築かれ、長さ7・3m、幅1・6m、高さ90cm。藤堂藩時代の17世紀前半に再構築された石垣の1・5~2・7m東側で見つかり、壊されず、土で埋められていた。使用されている石は藤堂時代のものと比べて小さく、技術も未熟さがうかがえる。しかし、南端の石は角に置くことを意識したことが分かり、すき間に小石を詰めて強度を保つ工夫もみられる。
筒井氏は天正13(1585)年に大和郡山(奈良県)から伊賀に移封した武将。この時代の築城は、土塁を積み上げた上に塀を立てる工法が一般的とされ、同市教委によると、今回のように石垣から丁寧に塀部分を工作したのは全国でも珍しいという。
上野城跡の発掘調査は平成12年度から着手。城代家老屋敷跡の調査などに取り組んでおり、昨年度から屋敷北西部にある今回の石垣を発掘調査している。
現地説明会は9月28日、午前10~11時に現地で実施される。問合せは市教委生涯学習課(0595・22・9681)。
[参考:産経新聞、毎日新聞、朝日新聞]
上野城
平山城跡で、別名白鳳城、伊賀上野城。武庫と永倉が現存する。
天正13年(1585年)、大和郡山から移ってきて伊賀を拝領した筒井定次により、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡に築城された。天守は三層であったといわれるが、史料は残っていない。
慶長13年(1608年)、徳川家康の命により改易されられた。その後伊予・宇和島から藤堂高虎の持ち城(本拠地は伊勢国・津城)となり、城の大改修が行われた。
改修は豊臣討伐に備えて濠を深く、石垣も高くした(約30m)。南には二ノ丸も構築し、天守の位置は西側に移動し、層塔型の五層天守を建設したが、竣工をひかえた慶長17年(1612年)に嵐のため天守は倒壊。その後再建されることはなかった。
文政8年(1825)藤堂高猷が最後の城主となり、1871年に廃城となる。
筒井定次(1562~1615)
慈明寺順国の嫡男として生まれる。筒井順慶に子が無かったため養嗣子となる。
筒井氏は大神神社の神官・大神氏の一族と言われている。
織田信長の死後(1582)は羽柴秀吉の家臣となり、大坂城へ人質として赴いた。天正12年(1584)、順慶の死により家督を相続。そして同年の小牧・長久手の戦いをはじめ、四国征伐、九州征伐、朝鮮出兵など秀吉が行なった戦いに従った。しかしながら、減封され伊賀上野に移封された。このことは秀吉から信用されなかったためにとられた左遷ではないかと考えられるようになった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後、徳川家康から所領を安堵された。しかし慶長13年(1608年)、幕命により突如として改易され、ここに大名としての筒井氏は滅亡した。
改易の理由については、領国における悪政、酒色に耽溺した、キリシタンであったあるいは便宜を加えたなど、数々の理由が挙げられているが、最近では筒井氏も豊臣氏恩顧の大名であり、さらに伊賀という大坂近郊の要地を支配していたために危険視した幕府による陰謀ではないかとされている。
定次は改易された後、その身柄は鳥居忠政のもとに預けられることとなるが、慶長20年(1615年)大坂の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、自害を命じられた。定次の子・筒井順定も自害した。
その後、順慶の養子になっていた定慶が跡を継ぎ、大和郡山1万石を与えられたが、大坂夏の陣で城を攻められ切腹したため、大名としての筒井氏は滅亡した。
定次流以外の他の筒井氏一族は東大寺住職や奉行や旗本などとして存続した。
筒井時代の土塁は、昭和初期に天守閣が再建された伊賀上野城の東側で、上野城跡の南西部にある高虎時代の石垣から、2・7m~1・5m内側で発掘された。大きさは幅7・3m、高さ2・4mで、三段に積んだ「腰巻(こしまき)石垣」の上に、粘土と砂を交互に叩き固めた「版築」と呼ばれる工法で壁状に土を積み上げ、外壁にあたる部分には泥炭と呼ばれる装飾を厚さ60cmにわたって重ねた跡があった。その表面には、漆喰で「化粧」が施されたと推察されるという。
腰巻石垣は南北に築かれ、長さ7・3m、幅1・6m、高さ90cm。藤堂藩時代の17世紀前半に再構築された石垣の1・5~2・7m東側で見つかり、壊されず、土で埋められていた。使用されている石は藤堂時代のものと比べて小さく、技術も未熟さがうかがえる。しかし、南端の石は角に置くことを意識したことが分かり、すき間に小石を詰めて強度を保つ工夫もみられる。
筒井氏は天正13(1585)年に大和郡山(奈良県)から伊賀に移封した武将。この時代の築城は、土塁を積み上げた上に塀を立てる工法が一般的とされ、同市教委によると、今回のように石垣から丁寧に塀部分を工作したのは全国でも珍しいという。
上野城跡の発掘調査は平成12年度から着手。城代家老屋敷跡の調査などに取り組んでおり、昨年度から屋敷北西部にある今回の石垣を発掘調査している。
現地説明会は9月28日、午前10~11時に現地で実施される。問合せは市教委生涯学習課(0595・22・9681)。
[参考:産経新聞、毎日新聞、朝日新聞]
上野城
平山城跡で、別名白鳳城、伊賀上野城。武庫と永倉が現存する。
天正13年(1585年)、大和郡山から移ってきて伊賀を拝領した筒井定次により、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡に築城された。天守は三層であったといわれるが、史料は残っていない。
慶長13年(1608年)、徳川家康の命により改易されられた。その後伊予・宇和島から藤堂高虎の持ち城(本拠地は伊勢国・津城)となり、城の大改修が行われた。
改修は豊臣討伐に備えて濠を深く、石垣も高くした(約30m)。南には二ノ丸も構築し、天守の位置は西側に移動し、層塔型の五層天守を建設したが、竣工をひかえた慶長17年(1612年)に嵐のため天守は倒壊。その後再建されることはなかった。
文政8年(1825)藤堂高猷が最後の城主となり、1871年に廃城となる。
筒井定次(1562~1615)
慈明寺順国の嫡男として生まれる。筒井順慶に子が無かったため養嗣子となる。
筒井氏は大神神社の神官・大神氏の一族と言われている。
織田信長の死後(1582)は羽柴秀吉の家臣となり、大坂城へ人質として赴いた。天正12年(1584)、順慶の死により家督を相続。そして同年の小牧・長久手の戦いをはじめ、四国征伐、九州征伐、朝鮮出兵など秀吉が行なった戦いに従った。しかしながら、減封され伊賀上野に移封された。このことは秀吉から信用されなかったためにとられた左遷ではないかと考えられるようになった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後、徳川家康から所領を安堵された。しかし慶長13年(1608年)、幕命により突如として改易され、ここに大名としての筒井氏は滅亡した。
改易の理由については、領国における悪政、酒色に耽溺した、キリシタンであったあるいは便宜を加えたなど、数々の理由が挙げられているが、最近では筒井氏も豊臣氏恩顧の大名であり、さらに伊賀という大坂近郊の要地を支配していたために危険視した幕府による陰謀ではないかとされている。
定次は改易された後、その身柄は鳥居忠政のもとに預けられることとなるが、慶長20年(1615年)大坂の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、自害を命じられた。定次の子・筒井順定も自害した。
その後、順慶の養子になっていた定慶が跡を継ぎ、大和郡山1万石を与えられたが、大坂夏の陣で城を攻められ切腹したため、大名としての筒井氏は滅亡した。
定次流以外の他の筒井氏一族は東大寺住職や奉行や旗本などとして存続した。