歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

福岡県みやこ町・京ケ辻遺跡 5世紀頃の須恵器製作工人の集落跡を発見

2011年12月16日 | Weblog
 九州歴史資料館(福岡県小郡市)は15日、京ケ辻遺跡(同県みやこ町有久)で、古墳時代中期(5世紀頃)に須恵器を作っていた「工人」のものとみられる集落跡が見つかったと発表した。 国内で須恵器が作られ始めた5世紀前半の工人集落跡が出土するのは九州初。
 見つかった集落は直径約100mの範囲に広がり、16棟の竪穴式住居跡、4棟の掘立柱高床倉庫跡、調理用の土師器など数百点とともに、高坏や壺など40点以上の須恵器が見つかった。 これらは、京ケ辻遺跡の北東約1kmにある居屋敷遺跡(いやしきいせき、同町徳永)の窯跡で1989年に見つかった須恵器と形や色合いがよく似ており、また窯跡と集落跡の距離が近いため、居屋敷遺跡で須恵器を作っていた技術者の集落の可能性が非常に高いとしている。
 また、京ケ辻遺跡にはかまどの跡があり、朝鮮半島の伽耶地方の遺跡と共通しているという。
[参考:西日本新聞、毎日新聞]
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橿原市東池尻町 「磐余池」候補地から堤や建物跡(6世紀後半)を発見

2011年12月16日 | Weblog
 橿原市教委が15日、同市東池尻町で日本書紀や万葉集に登場する「磐余池」とみられる人工池の堤の遺構と大型建物跡などが出土したと発表した。 日本書紀には、磐余池のほとりに用明天皇(?-587、在位585-587)が池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)を営んだとの記述があることから、宮殿の関連施設だった可能性もある。 これまで飛鳥時代(7世紀)より古い天皇の宮殿は確認されていなかった。
 一帯は藤原京跡の一角で、地形や「池」のつく地名の多いことなどから磐余池の候補地とされていた。 10月から市道拡幅工事に伴って発掘したところ、厚さ約1.4mの土を盛って斜面を整えた跡が見つかり、長さ81m、幅8m、高さ2mの堤跡を確認した。
 周辺の地形などから、堤は「へ」の字状に伸び、幅20~55m、高さ3m、長さ約330mと推定される。複数の谷の水を堰き止め、南北約600m、東西約700mの範囲に、手のひら形をした面積8万7500㎡の池を形成したらしい。 平安時代までは存在したとみられる。 川を堰き止めるダム式の人工池としては、狭山池(7世紀前半、大阪狭山市)が最古とされてきたが、さらに年代を遡り国内最古となる。
 さらに、堤の上で南北17.5m以上、東西4mの掘立て柱建物跡が出土した。 一緒に出土した土器から、6世紀後半ごろに建てられたとみられる。 堤と並行して築かれており、池を眺める用途だった可能性が高いとしている。
 磐余池は、天武天皇の第3皇子で、謀反を企てたとして686年に自害に追い込まれた大津皇子の辞世の句「ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」(万葉集3-416)に詠まれ、橿原市や隣の桜井市周辺にあったと考えられてきた。
 現地見学会は17日(土)午前9時から開かれる。
[参考:時事通信、朝日新聞、読売新聞、産経新聞]

 橿原市教委の現地見学会資料では、「大藤原京左京五条八坊の調査」としている。

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東京文京区 江戸時代、神田上水「白堀」水路跡遺構を発見

2011年12月15日 | Weblog

20011年12月19日 現地説明会にて。 写真上方の緩やかな湾曲状に石垣がきれいに並んでいるのが江戸時代後期の白堀の手前側の側面。向こう側(さらに上方)の側面は見つかっていない。

小日向一・二丁目南遺跡
 東京都文京区小日向2丁目16-15の旧第五中学校(2009年閉校)跡地から、江戸時代に造られた神田上水の「白堀(しらほり)」とみられる遺構の一部が発見された。 文献に記述はあったが発見は初めて。
 神田上水は、三鷹市の井の頭池を水源に、文京区関口付近で取水し、当時の江戸市中に給水した。このうち白堀は、関口大洗堰(おおあらいぜき)から現在の小石川後楽園にあった水戸藩上屋敷までの開渠(蓋のない地上の水路)部分の約2kmで、1629年に完成した。
 今回発見されたのは、江戸後期のものとみられる長さ約30mで、深さは1m程度(注1)で、石垣で底と片方の側面が覆われていたが、もう片面が見つかっていないので幅は不明。 地形や史料などから約4~5mと推測されている。 側面には、30cm四方の石が縦三段に隙間なく積まれていた。
 また、約5m離れた場所からは江戸初期のものとみられる長さ約1mの遺構も見つかった。
 白堀は、「東京市史稿 上水編」には「小日向上水」として記録が残る。 明治9年(1876)に埋められ、現在の区道「巻石通り」となった。
 今回の調査で、白堀に使われた石が江戸城石垣と同じ伊豆石だったことが新たに判明した。 また、石を固定するため石段の下に敷く「胴木(どうぎ)」と呼ばれる木材が、非常に高品質だったことも裏付けられた。
 区は、白堀の一部を現地保存し、2015年に開業を予定する新しい福祉センターで、常設展示する調整を進めている。
 現地見学会が20日(火)午前10時~正午と午後1~3時に開かれる。

(注1)下流の水道橋駅付近で昭和62年から平成3年にかけて、暗渠部分の調査が行われ、幅、深さとも1・2~1・5m程度だったとみられる。


出土した石類。 江戸初期には伊豆石、江戸後期には房州石を使用したりしている。

[参考:2011.12.3読売新聞、2011.12.7産経新聞、2011.12.14東京新聞]
追記2011.12.21 
 20日の現地説明会にて撮影した写真をいくつか使用。若干の修正・追加を行った。

関連情報
 小日向神社
 神田上水と小石川上水の区別が難しい。
 神田上水は、小石川上水を前身とし、寛永年間(1624-1645)に開設されたとする。関口から水戸屋敷までも開渠の堀で、こちらの方は白堀または素堀と呼ばれ両岸には石垣が築かれた。
 江戸名所図会をみると、小石川上水(堀)の名を使用しており、絵には上水堀の左側は石垣が列をなしているのがわかる。反対側がどうなっているのかは見えない。


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雲南市・郡垣遺跡 1辺が45mの「コ」字形に配置の建物跡 旧大原郡家の政庁とほぼ断定

2011年12月14日 | Weblog
 雲南市教委が13日、旧大原郡家(ぐうけ)の可能性がある同市大東町仁和寺の郡垣遺跡(こおりがきいせき)で、全容を示す柱穴跡が新たに見つかったと発表した。 柱穴跡を結ぶと、長さ45mにおよぶ巨大な建物跡が「コ」の字型でつながり、中庭の配置とともに、奈良時代(8世紀頃)の郡役所の特徴を備える。
 11年度の調査では、北、東側の柱穴跡に加え、新たに南側で6つの柱穴跡を確認。 いずれも柱穴跡(直径約30cm)は2・7m間隔で3本ずつ、幅4・2mで2列平行に並んでいた。
 3方の建物はそれぞれ長さ45mとみられ、「コ」の字形(注1)につながり、中庭を形成していたと推測される。 建物跡が真北でなく、約30度ずれて斜め向きになっているため、8世紀前半までに建てられたとみられる。 8世紀以降の郡衙などは一般的に、方位を東西南北に合わせて建てられている。
 「出雲国風土記」(733年成立)に記された古代の役所・旧大原郡家の政庁にほぼ間違いないとみている。
 現地説明会が17日(土)午後1時30分からを開かれる。
[参考:山陰中央新報、2011.12.17読売新聞]

(注1) 北に本殿、その南側の左右に西殿、東殿が「コ」の字形に配置される。
過去の関連ニュース・情報
 201012.7郡垣遺跡 新たに建物跡3棟が出土
  一つの建物跡は、東西31m、南北4mと推定
 2010.3.27郡垣遺跡堀立柱建物跡3棟確認、官衙跡の可能性が高い
  平行に並んだ2棟に1棟が直角に隣接するL字形建物跡。中心となる建物は、長さが東西27m以上、南北幅約4・2m。
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大和郡山市、天理市・八条北遺跡 古代の幹線道路「下ツ道」が183mにわたって出土

2011年12月14日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が13日、同県大和郡山、天理両市にまたがる八条北遺跡の西名阪自動車道郡山インターの南西側で、藤原京と平城京を結ぶ古代の幹線道路「下ツ道(しもつみち)」の東西の側溝が西側183m(幅1.2~1.8m、深さ20~50cm)、東側120m(幅7~11m、深さ1.4~2m)にわたって見つかったと発表した。 検出例としては過去最長。
 下ツ道は奈良盆地中央を南北に貫き、藤原京西側と平城京北側を結ぶ約23kmで、日本書紀や過去の調査から7世紀に整備されたとされる。 側溝はこれまで数十カ所確認されており、溝は8世紀ごろ掘削され、都が京都に移った9世紀以降は自然に埋没し水田になったとしている。
 東西の溝の中心から測定すると調査地での下ツ道の路面幅は約19mと判明した。
 また、東側溝は平城京造営時に資材を運ぶ運河として使われたとみられ、祭祀用の銅鈴1点や土馬(いば)10点などのほかに8世紀に捨てられたとみられるウマやウシの骨約120点を含む遺物数千点も出土した。
 現地説明会は18日(日)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]

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2007.8.2 奈良市・平城京跡 古代の幹線道路「下ツ道」は7世紀初頭に整備か
 奈良県立橿原考古学研究所は1日、奈良市三条大路3丁目で藤原京と平城京を結んだ古代の幹線道路「下ツ道」の側溝跡(長さ6m、幅2m、深さ1m)が見つかったと発表した。出土した須恵器から7世紀初めに造られたとみられ、推古天皇(在位592~628年)の時代だった可能性のあることが分かったとしている。
 東の側溝跡の底に密着した状態で須恵器の杯蓋(つきぶた、直径13cm)が出土した。周辺に7世紀初めの遺構がないことなどから、他の場所から混入した可能性は低いとみられる。
 下ツ道は、並行する中ツ道、上ツ道とともに、平城京付近と藤原京付近を南北に結んだ約23kmの直線道路(道幅は23.4m)で7世紀中ごろの斉明朝に飛鳥から北に向かって整備されたとする説が有力だったが、それより30~40年前の推古朝に、直線の計画道路が奈良盆地全体を南北に貫いていた可能性が高くなった。
 下ツ道は、日本書紀の壬申の乱(672年)の記述の中で「上中下道」として初めて登場。 「上ツ道」「中ツ道」とともに、古代国家によって計画的に整備されたとみられ、日本書紀の「難波より京に至るまでに大道を置く」(613年)や「処々の大道を修治(おさ)む」(653年)などの記事から成立年代が推定されてきた。 年代特定に結びつく考古遺物が出土したのは初めて。 しかし、出土したのは1点のみであるため、疑問視する意見も出ている。 
[参考:共同通信、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞]
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福岡県太宰府市・大宰府条坊跡遺跡 大宰府「客館」跡と発表

2011年12月13日 | Weblog
 太宰府市教委は12日、政庁から南に延びる「朱雀大路」の東側(同市朱雀3)で発掘中の西鉄操車場跡地の大宰府条坊跡遺跡について、古代文献に登場する奈良時代から平安時代初期にかけて外国使節を宿泊させた、大宰府「客館」跡の可能性が高いと発表した。
 遺跡から新たに、錫と銅の合金「佐波理」製の食器3点、「奈良三彩」2点、漆器1点が出土した。 東大寺正倉院の宝物に見られるような高級食器類がまとまって出土し、遺跡の重要性が裏付けられたとしている。
 佐波理は新羅伝来とされ、これまでに同遺跡では匙(さじ)など2点が見つかっている。 新たに見つかった3点のうち、鋺とみられる1点は3枚重なった破片で出土し、当時の保管状況が類推できるという。 奈良三彩は同遺跡では初の出土となった。
 一連の調査では、大宰府政庁跡の建物に匹敵する長さ約30m、幅約8mの大型建物跡も見つかっている。
 大宰府の外交施設は、博多湾沿岸にも「鴻臚館(こうろかん)」(福岡市中央区)があり、本遺跡との役割分担など興味があるところ。
[参考:西日本新聞、毎西新聞]

■「日本書紀」に、筑紫・大郡と小郡が設けられていたことが記されており、小郡が「客館」に対応する可能性がある。
 天武天皇二年(673)十一月壬申廿一日 饗高麗邯子。新羅薩儒等於筑紫大郡。賜祿各有差。
 持統三年(689)六月乙巳廿四日 於筑紫小郡設新羅弔使金道那等。賜物各有差。
■「続日本紀」には、「客館」と2ヵ所記されるが、こちらは平城京内の施設の可能性が高い。
 天平四年(732)十月癸酉・辛未朔三日 始置造客館司。
 天平十二年(740)正月丙辰廿九日 遣使就客館。贈渤海大使忠武將軍胥要徳從二位。首領无位己閼棄蒙從五位下。并賻調布一百十五端。庸布六十段。
■ほかに、平安時代成立の「延喜式」などに大宰府の客館の記述がみられる。

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.6 太宰府市・大宰府条坊跡 新羅・佐波理製の匙が出土
 2009.2.19 大宰府条坊から、大きな建物跡2棟が出土
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慶応の敷地、旧・田安徳川邸跡地(三田)から、「文明開化」の文字が記された皿が出土

2011年12月11日 | Weblog
 明治初期に、「文明開化」の文字を記した小皿が、東京・三田の慶応大学中等部敷地内で出土した、との昨夕のニュースは、読売新聞だけの報道であったようだ。
 慶応がこの種の品を作った記録はないが、「文明開化」は慶応義塾の創設者・福沢諭吉が最初に使った言葉だけに、歴史の因縁を感じさせる発見としている。
 Wikipediaによると、「『文明開化』という言葉は、福沢諭吉が『文明論之概略』(明治8年(1875))の中で、civilizationの訳語として使ったのが始まりである。」としているが、福沢諭吉の『学問のすすめ』三編(明治6年(1873)12月出版)で既に、使用している。
■ 国は同等なる事
(略) 今世界中を見渡すに,文明開化とて,文字も武備も盛んにして富強なる国あり,或は蛮野未開とて,文武ともに不行届にして貧弱なる国あり。(略)

 小皿は直径11cmで瀬戸美濃系の磁器で、慶応大が2009~10年に行った発掘調査で、明治半ば頃に埋まったとみられるゴミ穴などから計2点見つかっている。 調査地は1875年(明治8年)には田安徳川家の邸宅になっており、大正元年(1912)まで同家の敷地。 慶応の所有となるのは戦後なので、小皿は同家で使用されていたものと考えられるという。
 徳川宗家16代当主・徳川家達の弟である田安徳川家第9代当主徳川達孝(さとたか、1865-1941)が三田に邸宅(港区三田2丁目)を構えていたというから、この場所であろう。
[参考:読売新聞]
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宮城県山元町・内手遺跡 県内2例目の横口式木炭窯が見つかる

2011年12月09日 | Weblog
 宮城県教委は8日、亘理郡山元町浅生原の内手遺跡で、奈良・平安時代の「横口式木炭窯」1基と「地下式窖窯跡」7基の計8基の炭窯跡が見つかったと発表した。 製鉄の際に使用する木炭を生産した区域と考えられるとしている。 横口式木炭窯は、西日本での発見例が多く、県内では利府町の硯沢窯跡に次いで2例目となった。
 今回見つかった横口式木炭窯の焼成室は長さ3.8m、幅1.2mで、横口が3カ所あった。
 炭窯跡の東側約100mの地点では多量の鉄屑が確認されているため、内手遺跡が製鉄関連遺跡と推定している。 古代の福島県相馬地方では大規模な製鉄が行われ、大量の炭が使われており、相馬地方の製鉄遺跡群が山元町まで広がっていたとみられる。
 現地説明会が11日(日)午前10時半から開かれる。
[参考:河北新報、宮城県HP]

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 硯沢窯跡

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津市・多気北畠氏遺跡 城下町の存在を示す石列が見つかる

2011年12月09日 | Weblog
 津市教委は、室町時代から戦国時代にかけ、伊勢国司の北畠氏が本拠地とした津市美杉町上多気(たげ)六田地区の多気北畠氏遺跡から、城下町の存在を示す石列が見つかったと発表した。
 10月からの調査で、館跡の100m東の地中から、直径50cm前後の石が8mにわたり並んでいるのが見つかった。過去の調査で向かい側にも並行する石列が確認されており、館から城下町を東西に貫く目抜き通りがあったと推定されるという。北畠氏が計画的に城下町を築こうと整備を進めていたとみられるとしている。
 北畠氏は九代240年にわたって南伊勢を治め、山あいの美杉町多気地域を拠点とした。北畠氏滅亡後の江戸時代に描かれた城下絵図には、町家などが立ち並ぶ大規模な城下町が記されているが、他に確かな資料がなく存在が裏付けられていなかった。
 現地説明会は10日午後1時半から開かれる。 館跡がある北畠神社に集合。
[参考:中日新聞、伊勢新聞]

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 多気北畠氏遺跡
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大崎市・新田柵跡推定地 南東端とみられる大溝跡が見つかる

2011年12月09日 | Weblog
 大崎市教委は8日、奈良時代前半に造営された古代城柵の一つ「新田柵(にいたのさく)跡推定地」(同市田尻)の南東端と思われる大溝(区画溝)の跡を見つけたと発表した。 大溝は防御壁の土を盛るために掘った跡で、大溝の隣に土を突き固めた築地塀や土塁を作り、水を貯めた大溝と合わせ北方の蝦夷勢力に備えた防御遺構という。
 大溝は上部幅4.5m、下部の幅2.7m、深さ2mの逆台形で長さ約100m。 遺跡の外郭南辺の一部とみられる。 ただ、今回は土塁や築地塀跡の確認には至らなかった。
 これまでの調査と合わせ遺跡は小丘陵の尾根沿いに南辺900m、西辺900m、北辺1500m、東辺推定1500m(未確認)にわたって区画したとみられる。
 「新田柵推定地」は「続日本紀」天平9年(737)4月14日戊午の条に、「遣陸奧持節大使從三位藤原朝臣麻呂等(略)、判官正六位上大伴宿祢美濃麻呂鎭新田柵。(略)」と記されている新田柵に比定されるが、中心部が未発見で「推定地」にとどまっている。
 現地説明会が11日(日)午前10時半から開かれる。
[参考:毎日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 新田柵
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熊本県玉名市・塚原遺跡 1~3世紀の環濠集落跡が見つかる

2011年12月09日 | Weblog
 玉名市教委文化課は8日、塚原遺跡(同市岱明町野口塚原)で、弥生時代中後期(1~3世紀)の環濠集落跡と大型の竪穴建物跡などを発掘したと発表した。 古い海岸線のそばで、近くには装飾品のゴホウラ貝製貝輪が出土した「年の神遺跡」(支石墓)もあり、海上交易の中継拠点の集落とみている。 菊池川下流域の環濠集落跡は初めての発見という。
 出土したのは、住居・建物跡23軒分やV字形の溝(幅約5m、深さ約2・2m)、甕棺墓4基など。 溝は形状や位置から集落を守る機能を持ち、一帯が環濠集落だったとみられる。
 住居跡は円形や四角形で、直径11mの円形の竪穴建物跡は、弥生中後期としては九州最大級。
 弥生遺跡の南側からは、古墳時代前期(4世紀)の集落跡と、古墳時代中期(5世紀)北部九州に多い石棺系石室を持つ円墳、南北朝時代(14世紀後半)の溝や建物跡なども見つかった。
一般公開は10日(土)午前10時-午後4時に行われる。 午前10時と午後1時に説明がある。
[参考:熊本日日新聞、西日本新聞、読売新聞、朝日新聞]
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淡路市・横入遺跡 1世紀の大規模環濠が見つかる

2011年12月09日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館が7日、淡路市志筑(しづき)の「横入遺跡」(よこいりいせき)で、弥生時代中期(1世紀)の集落の環濠とみられる溝(幅0・7m、深さ0・4m、長さ32m)が見つかったと発表した。 昨年確認された分と合わせて長さ68mになり、40m四方の集落を囲んでいたとみられる。 本来の環濠の幅は約2mと推定される。 淡路島で弥生時代の環濠跡が見つかったのは洲本市の安乎間所遺跡(あいがまどころいせき)に次いで2例目となる。
 また、古墳時代中期(5世紀)の土坑4基(直径0.5~0.7m、深さ0.4~0.7m)も確認された。 3基は等間隔で並び、祭祀用とみられる土師器の甕や壺、鉢、高杯などが据えられていた。
 現地説明会が10日(土)午後1時30分から開かれる。
[参考:読売新聞、朝日新聞]

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 横入遺跡の詳しい場所が調べきれない。 志筑川河口近くの沖積地に立地され、藤原宮の複弁八葉蓮華文軒丸瓦と同じ笵を使って作られた淡路島で最古の寺院である志筑廃寺(奈良~平安時代)が北側近くにあるようだ。

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草津市・宮前遺跡 11世紀の青銅製八稜鏡が出土

2011年12月09日 | Weblog
 草津市教委が8日、弥生~鎌倉時代の集落遺跡「宮前遺跡」(同市川原町)で、掘立柱建物跡の柱穴から、平安後期(11世紀)の青銅製の「八稜鏡(はちりょうきょう)」(直径9cm、厚さ0・25~0・3cm。重さは106g)が出土したと発表した。 鏡面を上にした状態で見つかった。県内では栗東、大津、東近江各市内で出土例があるが、草津市内では初めて。 また、建物跡の柱穴から見つかったのは県内初という。
 成分分析の結果、銅と鉛が多く、光沢を生む錫ほとんど検出されなかったため、実用品ではなく、祭祀に作られたとみられる。
 また、鏡が建物の柱を抜き取ったあとに埋められたとみられることから、建物を取り壊したあとの地鎮祭祀に使われたのではないかとみている。
 13~25日の午前9時~午後5時、草津市立草津宿街道交流館(草津)で公開される。
 17日午前10時、同11時半に発掘担当者による説明会がある。
[参考:読売新聞、産経新聞、NHK大津放送局]
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京都市中京区・平安京右京三条一坊六町跡 墨書土器が出土し、右大臣・藤原良相の邸宅跡「百花亭」と判明

2011年12月09日 | Weblog
 佛教大と京都市埋蔵文化財研究所は8日、平安京右京三条一坊六町に当たる場所(中京区西ノ京星池町17番地59他)の発掘現場で「三条院釣殿高坏(つりどのたかつき)」と墨書された土器が見つかり、平安前期の右大臣・藤原良相(よしみ、813-867)の邸宅「西三条第(百花亭)」跡と確定したと発表した。 鎌倉時代の「拾芥抄(しゅうがいしょう)」によると、発掘区域は平安時代の右大臣藤原良相の邸宅「西三条」に該当する。
 今回の発掘で9世紀の池跡(南北約24m、東西18m)や池に面した建物、溝が見つかり、池底から墨書土器が出土した。 百花亭は良相の姉で、第54代仁明天皇(810-850)女御、文徳天皇(827-858)の母だった藤原順子(のぶこ、809-871)が約1年間滞在したことが「日本三代実録」の記録にあり、墨書には皇族の滞在場所を示す「院」の文字を使用したと見られる。 5月に同じ現場で百花亭とみられる遺構が見つかっていたが、百花亭は史料により、位置について諸説あり特定できなかった。 今回、墨書の発見により、裏付けられた。
 三代実録によると、貞観八年(866)年に清和天皇(850-881)が藤原良相邸を花見で訪れ、集まった文人が「賦百花亭詩」と詩を作り宴をあげている。
 ほかに、高級な輸入陶磁器や墨書土器、水晶、櫛、碁石などが多数出土した。
 現地説明会が10日(土)午前10時~正午と午後1時~3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.5.27京都市中京区・平安京右京三条一坊六町跡 「百花亭」建物跡?が出土
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大田市・庵寺古墳群 古墳時代前期の古墳が13基見つかる

2011年12月08日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは7日、大田市仁摩町大国の庵寺古墳群(あんでらこふんぐん)から、標高60~70mの丘陵の尾根部分に約80mにわたって一列に並んだ古墳時代前期(4世紀頃)の古墳13基が見つかったと発表した。
 発見された13基のうち形の判明したものは、いずれ一辺が約5~10mの方墳。 埋葬施設は石棺5基、木棺3基、壺棺1基など多岐にわたる。 古墳からは、鉄鎌や鉄刀、刀子など各種鉄器やガラス小玉、滑石製臼玉など十数点の副葬品が出土した。 鉄器、あるいは既に同時期の1B号墳古墳から前漢時代の八禽鏡が見つかったことから、仁摩平野を治めていた首長やその一族が葬られていたと考えられると分析している。 古墳時代前期の古墳群では石見地方最大級。
 現地説明会が10日(土)午前10時から正午まで開かれる。
[参考:産経新聞、読売新聞、中国新聞、山陰中央テレビ、島根県埋蔵文化財調査センターHP]

2011.9.10 追記
 12月10日(土)10:00から開催予定の庵寺古墳群の現地説明会については、現地に至る通路が悪天候により危険な状態となったため、山頂部での現地公開は中止となった。
 なお、遺跡付近の駐車場プレハブにおける遺物展示会は予定どおり行うとのこと。
[参考:島根県HP]

過去の関連ニュース・情報
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