歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

盛岡市・石森山 本誓寺

2011年12月04日 | 盛岡
せきしんざん ちょうげんいん? ほんせいじ
真宗大谷派 石森山 重願院 本誓寺 (盛岡市名須川町3-16)
木造阿弥陀如来立像、木造親鸞上人坐像、木造聖徳太子立像が盛岡市指定文化財となっている。 また「ホンセイジシダレ」(桜)は盛岡市指定記念物である。

左は本誓寺本堂、 右は本堂前の説明板

 本堂の前に立つ説明版には、下記のように記されている。
 『本誓寺  真宗 大谷派
 浄土真宗の教えをひろめる親鸞聖人(1173-1262)の弟子は百人も数えるが、その中の主な弟子たちのことを書いたものに「親鸞門侶交名牒」とよばれるものがある。 その十番目に奥州和賀郡一柏(ひとつかしわ)(注1)の是信房(ぜしんぼう)(注2)の名がある。
 親鸞聖人が常陸稲田におられた時、奥州の人たちが弥陀の本願の教えに救われるようにとの念を深くして、当 開基の是信房に命じ、その任にあたらせた。 その時、お別れを惜しむと親鸞聖人は「後の世の記念に残す面影は弥陀たのむ身のたよりともなれ」とうたわれ、御自身肖像を彫りまた、阿弥陀如来の尊像の両側に南無阿弥陀仏と書かれた=名体不離の本尊=を是信房に与えられた。 時は建保三年(1215)であった。
 その後是信房は一寺を紫波郡彦部村松田に創建(注3)、石森山重願院本誓寺と称しておよそ52年(注4)、大いにこの道をひろめられ、そのため、聖人より光明本一幅を与えられるが、文永三年(1266)十月十四日86才で亡くなる。(注5)
 寛永十二年(1635)十六世の賢勝が南岩手郡米内(よない)村に本誓寺を移し(注6)、かわりに正養寺(注7)を彦部に建て、弟の慶正に寺祖の墳墓を護らせる。嘉永三年(1850)、二十五世の是伝が寺祖の墳墓を村内三ッ割に移して現在に至る。親鸞聖人の教えをはじめて奥州へ伝えてから七百年余りになるが、近世末期までは五十六の末寺を数え当本誓寺には、初期教団としての宝物も数多く蔵されている。
 なお本誓寺宝物には「御真影」「光明本尊」「名体不離本尊」それに「光明攝取本尊」が伝わっている。』

(注1) 岩手県東和賀郡笹間村、現在花巻市中笹間。 法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌特別展『法然と上人』(2011.10.25~12.4 於:東京国立博物館)で展示されている、『親鸞聖人惣御門弟等光明』(滋賀県光照寺・明照寺とも)に「是信(セシン) オ〃 ワカ」と書かれている。 是信(房) 奥州 和賀のことである。
(注2) 是心房とも書かれる。 三位源頼政(1104-1180)の曾孫宗房説、吉田(大納言藤原)信明(しげあき)説があるが、寺伝では吉田信明(1181-1266)説をとる。
(注3) 彦部村松田の「松田」が不明。 是信房の墓がある紫波郡紫波町彦部字石ヶ森に草庵を創ったか、もしくは、後に石森山弘願院正養寺と改号した場所に創ったかが考えられる。 いずれにしても、山号の「石森山」は字名・石ヶ森からとったと思われる。 創建当初、彦部村を領していたのは、藤原秀郷を祖とする河村氏一族である。 『吾妻鏡』に、
■文治五年(1189)八月大十二日己亥。一昨日(阿津賀志山)合戰之時。千鶴丸若少之齢而入敵陣。發矢及度々。又名謁云。河村千鶴丸云々。二品始令聞其号給。仍御感之餘。今日於船迫驛。被尋仰其父。小童爲山城權守秀高四男之由申之。依之。於御前俄加首服。号河村四郎秀。加冠加々美次郎長也。此秀者。去治承四年。石橋合戰之時。兄義秀令与景親謀叛之後。牢篭之處。母〔二品官女。号京極局。〕相計而暫隱其号。置休所之傍。而今度御進發之日。稱譜第之勇士。企慇懃吹舉之間候御共。忽顯兵略。即開佳運者也。晩景令着多賀國府給。(略)
 とあり、河村千鶴丸(13歳)が先陣を切って活躍をしたことが記されている。 頼朝は、千鶴丸が、(河村)山城権守秀高の子であることを知り、目前で元服式を行い、河村四郎秀清と名付けた。 秀清の母は、頼朝の官女、京極局である。
■文治五年(1189)九月小四日辛酉。着御于志波郡。(略)今日。二品令陣于陣岡蜂杜給。(略)
 とあり、源頼朝が志和(紫波)郡に着き、陣ケ岡蜂杜(じんがおかはちもり)に陣を敷いた。
■文治五年(1189)九月小九日丙寅。鶴岡八幡宮臨時祭也。流鏑馬已下如例。今日。二品猶逗留蜂杜。而其近邊有寺。名曰高水寺。是爲 稱徳天皇(764-770)勅願。諸國被安置一丈觀自在菩薩像之隨一也。(略)
とあり、この日、蜂社に逗留したことと、近くに称徳天皇(764-770)の勅願した高水寺があることが記されている。 本誓寺近辺の情報が多少知ることができる。 先の河村秀清が、戦功により紫波郡の北上川東側を領有して、斯波氏が奥州管領に任じられる建武2年(1335)頃まで領有し続けたとも考えられるが、勢力的には小さくなっていった可能性もある。
また、天武天皇の第一子・高市親王の後裔・高階惟章(1053-1107)を祖とする彦部氏の歴史によると、惟章は武士として下野国佐久山館(栃木県太田原市)に下向、そして、惟章の娘と奥州征伐途上の源義家との間に生まれた惟頼(1089~1140)が高階姓を継ぎ、惟頼は奥州検断職を命ぜられ、いわきに赴任し、惟頼の後、数代この地で過ごし光朝(1216~77)の代に、奥州斯波郡彦部郷に移りこの地を領有して土地名をもって彦部姓を名乗ったとしている。[参考:彦部家屋敷HPより]
惟頼が陸奥国菊多郡彦部郷大高(現在のいわき市勿来町大高)に居を構え、大高冠者と呼ばれたのを始めとして、光朝までの間に大高、滝口、窪田、彦部姓を名乗っている。 そのうち大高、窪田、彦部は当時の菊多郡(現勿来町)にあった地名でしかも直線距離で1kmほどのところにある。 それから考えると、彦部のもともとの地は現・勿来町にあり、そこから彦部氏が紫波町に移り彦部という名前ができたということも考えられるがいかがであろうか。
(注4) 本誓寺の創建が建保三年(1215)、その52年後の文永三年(1266)に亡くなったことを意味している。 『親鸞聖人正統伝』では寛喜3年(1231)に建立としている。
(注5) 石森山上(彦部字石ヶ森)に葬るとしている。是信房の墓(御廟)があるところ。
(注6) 南岩手郡米内村(現、盛岡市名須川町)に移る前に、1580年代の天正年中に彦部から対岸の二日町(紫波町二日町北七久保)に移転している。一説では、天正十二年(1584)に野火による堂宇消失と高水寺城主「斯波詮直」の招聘により現在地(二日町)に移るとしている。
(注7) 石森山正養寺 (紫波郡紫波町彦部川前110)
 寛永十二年(1635)本誓寺十六世賢勝が南岩手郡米内村に本誓寺を移し、代わりに昔、本誓寺があった彦部に弘願院正養寺を建て、弟の慶正に寺祖の墳墓を護らせる。嘉永三年(1850)、二十五世是伝が寺祖の墳墓を米内村三ッ割に移して現在に至る。
 正養寺には、南北朝期のものとみられる板碑2基と400年以上前のものとみられる彦部氏の墓と伝えられている古碑が残っているという。

 以上、本殿前の『説明版』、さらに『盛岡の寺院/盛岡仏教会1995』をみても寺の歴史はかなり簡略化されている。
 インターネットに公開されている『真宗 石森山 本誓寺』のしおりがある。この本誓寺は紫波郡二日町新田郡山(現・紫波郡紫波町二日町北久保)で、区別しやすいように郡山・本誓寺と呼んでいる。それに対して盛岡市名須川にある本誓寺を盛岡・本誓寺。さらに、最初に開かれた彦部郷石ケ森の本誓寺を彦部・本誓寺と区別すると、それらの関係と歴史は複雑である。さらに、郡山・本誓寺のすぐ北にあった慈運山永光寺、そして彦部・本誓寺を改号した石森山弘願院正養寺を加えての説明が必要となるだろうが、ここでは省略する。
 ただ、郡山・本誓寺と盛岡・本誓寺は同じ山号寺号で「真宗大谷派 石森山 本誓寺」であるが、現在、郡山・本誓寺は本山(東本願寺)直末寺院となった。


 本堂の横に、赤いオダマキが咲いていた。愛らしい。(6月10日撮影)

追記 2014.1.6
幕末の本誓寺
慶応4年2月(1868年3月)、新政府は東北を平定するため、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)を組織した。総督・九条道孝一行は6月3日盛岡に入り、一行の宿舎は寺院が当てられた。 本誓寺には九条殿本陣が置かれた。24日、秋田へ向って発ったというから、3週間ほどの駐屯であった。
当時の本堂は明治30年に類焼し、大正7年に再建された。
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愛知県美浜町・大御堂寺 阿弥陀如来立像が快慶作と判明

2011年12月04日 | Weblog
 富山大・松浦正昭教授が2日大阪市内で、愛知・美浜町の大御堂寺(おおみどうじ)に伝わる阿弥陀如来立像が快慶の作と分かったと発表した。
 像は寄木造りで、高さ79cm。左足を踏み出し、亡くなった人を迎える来迎(らいごう)形をしている。当初は金泥で仕上げられていた。同寺では作者不明のまま厨子に祀られていた。作者銘が残る岡山・東寿院の快慶作阿弥陀如来像と、特徴ある襟の形などを含め表現様式が一致し、快慶作と判断した。
 足ほぞには15世紀の修理の際に書かれた「親鸞上人御彫刻」との銘があり、X線調査では、その修理で胎内納入物が取り出された跡があった。 松浦教授は、納入物の記述内容を足ほぞに記録したものとし、親鸞(1173-1262)が願主となって師・法然(1133-1212)入滅の際に供養のために作った像と判断できるとしている。
 同像は5日から22日まで、大阪市中央区大阪丸紅ビル1階「文化力の旅ラウンジ」で公開される(有料)。
[参考:時事通信、産経新聞]

真言宗豊山派 鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)
愛知県知多郡美浜町野間東畠ケ50
 創建は天武天皇の時代(673-686)、開基は役小角と伝わる。
 同寺は「野間大坊(のまだいぼう)」と呼ばれ、寺がある美浜町野間(旧・野間庄)は源頼朝の父・義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。
そのため、源頼朝が訪れているほか以降、時の権力者から庇護を受けて現在に至っている。
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