佐賀市教委は5日、同市大和町梅野地区の神社「乙文殊宮」の参道と近くの嘉瀬川上流の中州で、佐賀城(古名は佐嘉城、1611年完成)の石垣を切り出しや加工をした作業跡を確認したと発表した。
「川上石切場」(仮称)の作業場跡は、麓の神社・乙文殊宮(おつもんじゅぐう、同市大和町上都渡城)から山頂に向かう登山道沿いで、花崗岩の巨石が約250mの間に15か所に点在していた。 石質を調べたところ、佐賀城の石垣に使われたものと一致した。 巨石には、「矢穴」(長さ、深さとも17~18cm)の溝があり、佐賀城石垣に見られる矢穴の跡と痕跡が同じだった。 石に打ち込んだ楔(くさび)を玄翁(げんのう、金槌)で叩き、運びやすい大きさに割っていたとみている。
佐賀藩の文書「勝茂公譜考補(かつしげこうふこうほ)」(慶長14年(1609))に、一帯を指す地名「川上」から石材を調達したとの記述があり、石材の供給拠点だったと判断した。
採石に残した刻印などから、同所から運び出された石は佐賀城の石垣だけでなく、同市の肥前国一宮である与止日女神社(よどひめじんじゃ)や取水施設・石井樋(いしいび)でも使われたとみられる。
[参考:2011.12.1&6佐賀新聞、2011.12.2朝日新聞、2011.12.5NHKニュース、2011.12.読売新聞]
「川上石切場」(仮称)の作業場跡は、麓の神社・乙文殊宮(おつもんじゅぐう、同市大和町上都渡城)から山頂に向かう登山道沿いで、花崗岩の巨石が約250mの間に15か所に点在していた。 石質を調べたところ、佐賀城の石垣に使われたものと一致した。 巨石には、「矢穴」(長さ、深さとも17~18cm)の溝があり、佐賀城石垣に見られる矢穴の跡と痕跡が同じだった。 石に打ち込んだ楔(くさび)を玄翁(げんのう、金槌)で叩き、運びやすい大きさに割っていたとみている。
佐賀藩の文書「勝茂公譜考補(かつしげこうふこうほ)」(慶長14年(1609))に、一帯を指す地名「川上」から石材を調達したとの記述があり、石材の供給拠点だったと判断した。
採石に残した刻印などから、同所から運び出された石は佐賀城の石垣だけでなく、同市の肥前国一宮である与止日女神社(よどひめじんじゃ)や取水施設・石井樋(いしいび)でも使われたとみられる。
[参考:2011.12.1&6佐賀新聞、2011.12.2朝日新聞、2011.12.5NHKニュース、2011.12.読売新聞]