歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

佐賀市 佐賀城石垣の石切場跡を発見

2011年12月06日 | Weblog
 佐賀市教委は5日、同市大和町梅野地区の神社「乙文殊宮」の参道と近くの嘉瀬川上流の中州で、佐賀城(古名は佐嘉城、1611年完成)の石垣を切り出しや加工をした作業跡を確認したと発表した。
 「川上石切場」(仮称)の作業場跡は、麓の神社・乙文殊宮(おつもんじゅぐう、同市大和町上都渡城)から山頂に向かう登山道沿いで、花崗岩の巨石が約250mの間に15か所に点在していた。 石質を調べたところ、佐賀城の石垣に使われたものと一致した。 巨石には、「矢穴」(長さ、深さとも17~18cm)の溝があり、佐賀城石垣に見られる矢穴の跡と痕跡が同じだった。 石に打ち込んだ楔(くさび)を玄翁(げんのう、金槌)で叩き、運びやすい大きさに割っていたとみている。
 佐賀藩の文書「勝茂公譜考補(かつしげこうふこうほ)」(慶長14年(1609))に、一帯を指す地名「川上」から石材を調達したとの記述があり、石材の供給拠点だったと判断した。
 採石に残した刻印などから、同所から運び出された石は佐賀城の石垣だけでなく、同市の肥前国一宮である与止日女神社(よどひめじんじゃ)や取水施設・石井樋(いしいび)でも使われたとみられる。
[参考:2011.12.1&6佐賀新聞、2011.12.2朝日新聞、2011.12.5NHKニュース、2011.12.読売新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良市・東大寺 東面僧房の礎石と石列が出土

2011年12月06日 | Weblog
 奈良市埋蔵文化財調査センターが5日、東大寺大仏殿の北側で、鎌倉時代に再建され500年以上前に焼け落ちたとされる東面の僧房の3つの礎石が見つかったと発表した。 奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、大仏殿、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂を東・西と北の3方向でコの字形に取り囲んでいたとされ、東面で僧房の礎石が確認されたのは初めて。
 今回の調査で、約3.9m間隔で東西に並ぶ礎石(幅約1.4m、高さ約40cm)とその南側に平行に並ぶ石列が出土し、石列は僧房基壇の南端を示すとされる。正倉院に残る奈良時代の古図と柱の位置が一致したという。古図によると、僧房の規模は南北約130m、東西約240m。 礎石間の柱間は西側が通路、東側は壁だったことも分かった。
 遺構は鎌倉時代の再建時のものとみられる、奈良時代創建時の規模を受け継いでいることから、僧房の変遷を知る上で貴重な遺構という。
 また、講堂と大仏殿の間は、少なくとも平安時代後期まで、深い谷だったことが確認され、東大寺造営期の大仏鋳造に関連するとみられる銅屑や大量の木炭などとともに、「大安寺式」軒瓦や表に「□守 受鞴 一口」、裏に「九月九日」と記された奈良時代の木簡なども出土した。 これらごみの上に土をかぶせて整地していたことも分かった。
 現地説明会は8日(木)午前10時から開かれる。
[参考:産経新聞、共同通信、日経新聞、毎日放送、毎日新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする