歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

蔚州・霊鷲寺址 典型的な統一新羅時代の伽藍配置である双塔一金堂式構造を確認

2012年12月31日 | 韓国の遺跡・古墳など
 蔚州・霊鷲寺(영축사)は蔚山広域市蔚州郡青良面粟里(울산 울주군 청량면 율리 822-1)に位置し、1998.10.19に蔚山広域市記念物第24号に指定されている。
 13世紀末に高麗の高僧一然(1206-1289)によって書かれた三国遺事によれば(注1)、新羅第31代神文王3年(683)に宰相・忠元公が建議して建てることになったという。
 (注1) 寺中古記云。新羅眞骨第三十一主神文王代。永淳二年癸未[本文云元年, 誤]。 宰相忠元公。萇山國[卽東萊縣。亦名萊山國](注2)。溫井(注3)沐浴。還城次。到屈井驛桐旨野駐歇。忽見一人放鷹而逐雉。雉飛過金岳。杳無蹤迹。聞鈴尋之。到屈井縣官北井邊。鷹坐樹上。雉在井中。水渾血色。雉開兩翅。抱二雛焉。鷹亦如相惻隱而不敢攫也。公見之惻然有感。卜問此地。云可立寺。歸京啓於王。移其縣於他所。創寺於其地。名靈鷲寺(注4)焉。
 (注2) 萇山國(=長山国、장산국) :釜山広域市東菜(동래)区の昔の地名。朝鮮王朝時代に現在の釜山広域市一帯を管轄する東莱府が置かれた。15世紀末に書かれた東国輿地勝覧(1481年編纂、1487年刊行)に東莱県についての説明があり、東莱温泉のことが触れられている。
 (注3) 温井=温泉。東菜温泉のことと思われる。
 (注4) 靈鷲寺: 「完訳 三国遺事(金思訳)」(1980 六興出版)などでは、慶尚北道迎日郡長鬐(장기)面(現・浦項市長鬐面)に比定しているが、今回の考古学発掘を通じて霊鷲山にあるこの寺址が靈鷲寺址であることが確実となった。

 蔚山博物館は10月15日から、霊鷲寺(영축사)址の学術発掘調査(注5)を行い、その結果、東西に配置した双塔(三層石塔)を中心として、その中心北側辺に金堂を配置したいわゆる双塔一金堂の典型的な統一新羅時代伽藍構造をした寺院と分かった。
 (注5) 霊鷲寺の範囲と規模、伽藍配置などを確認して、現場に崩れたまま放置された石塔を復元整備するための基礎資料確保のための調査
 東塔から西に43m離れた地点で西塔基壇部施設、東西両塔の中心から北(後方)10mに金堂跡を確認した。5間×5間 (16.4×16.4m)の大きさの正方形形状であった。
 東西両塔は、塔の領域を表示する地台石のある塔区が確認され、慶州・感恩寺址(감은사지)三層石塔と千軍里(천군리)三層石塔の様相と似ているとしている。 また、石を整え積み連結する方式などが、新羅地方寺院中でも寺格が高いことが分かるという。
 さらに金堂跡南(前方)約15mのところに、中門跡とみられる正面3間、側面1間(全長12.5m、幅3.8m)の積心施設を確認した。
 中門址積心施設の西の方の地点には、統一新羅時代亀趺(귀부、亀形碑石礎石)が東に頭を置いたまま位置する。 亀趺は慶州成徳王陵鬼趺(성덕왕릉 귀부)ととても似ているという。
 中門跡北側では、ある種の儀式のためにわざと埋めた鎮檀具(土器)2点が確認された。
 他に出土遺物には、8世紀頃の典型的な欧陽詢(注5)体字体を使った「物/般若/宗河」の文字刻んだ碑石片1点と統一新羅~高麗時代の大量の瓦類、統一新羅時代金銅仏像2点、石塔相輪部覆鉢片と宝輪片1点などがある。
 (注5)欧陽詢(おうよう じゅん、557 - 641)は、唐代の儒家、書家。字は信本。
 金銅仏の1点は、金堂跡本尊仏地台石から東に約1.3mの地点で発見され、幅3.2㎝、高さ7.3㎝。頭は素髪で肉髪が大きくて高く表現された。製作時期は9世紀初期とみられる。
 もう一点は東塔跡の北側地台石と下臺面石との空間で発見された。 幅2.3㎝、高さ5.9㎝で、胸などの一部分に金箔が残っていた。 やはり統一新羅時代後期作とみられる。 
 瓦類は、寺の名前「霊鷲」を刻んだものを初めてとして、「大官」、「三寶」、「三巴」のような文字を刻んだものも出土した。
[参考:2012.12.13聨合ニュース、「完訳 三国遺事(金思訳)」(1980 六興出版)]

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 安芸高田市・甲立古墳 第3... | トップ | 出雲大社神楽殿の大注連縄 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

韓国の遺跡・古墳など」カテゴリの最新記事