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歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

羅州市・丁村古墳 一辺40mの栄山江流域最大級の古墳 (6C前半)を確認

2013年12月09日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は羅州市多侍面伏岩里蠶崖山西側にある丁村古墳(정촌고분、羅州市郷土文化遺産第13号)を発掘調査した結果、三国時代の栄山江流域では、これまでに確認された古墳の中で規模が最大であり、大型の方形古墳を発見したと発表した。
 古墳の規模は、短辺37.3m、長辺40.0m、墳丘残存高さ11.6m、復元高さ(推定)13m。 蜂の巣型古墳で、石室、石槨、甕棺になど計8基の埋葬施設が発見された。 封墳表面には葺石と墳丘の周囲には護石、そしてこれら石築施設を支持する長台石が封墳の北と西斜面で確認された。
[参考:2012.11.27聨合ニュース]
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蔚州・霊鷲寺址 2次学術発掘調査 寺域範囲確認

2013年10月17日 | 韓国の遺跡・古墳など
 蔚州・霊鷲寺(영축사)は蔚山広域市蔚州郡青良面粟里(울산 울주군 청량면 율리 822-1)に位置し、1998.10.19に蔚山広域市記念物第24号に指定されている。
 13世紀末に高麗の高僧一然(1206-1289)によって書かれた三国遺事によれば、新羅第31代神文王3年(683)に宰相・忠元公が建議して建てることになったという。
 昨年10月15日からの学術調査では、東西に配置した双塔(三層石塔)を中心として、その中心北側辺に金堂を配置したいわゆる双塔一金堂の典型的な統一新羅時代伽藍構造をした寺院と確認されている。
 蔚山博物館は、今月14日から3ヶ月間、霊鷲寺址2次学術発掘調査(寺域範囲調査)を実施すると発表した。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2012.12.31 蔚州・霊鷲寺址 典型的な統一新羅時代の伽藍配置である双塔一金堂式構造を確認

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韓国・全南羅州佳興里新興古墳 5世紀半ばの前方後円墳を確認

2013年10月08日 | 韓国の遺跡・古墳など
 大漢文化財研究院は8日、全南羅州佳興里新興古墳(나주 가흥리 신흥고분)を発掘調査した結果、これまでで最も古い5世紀半ばの前方後円墳(注1)であることを確認したと発表した。
 日本列島の墓様式である前方後円墳は栄山江流域を中心に国内で13基(注2)が確認されているが、その大部分は築造時期が6世紀始めとみられている。
 (注1) 最近、「前方後円形古墳」と書いていたが、今回は「前方後円墳」と書いている。
 (注2) 今年の初めに、康津永波里古墳が前方後円墳と発表されて、14基目のはずであったが。

 この古墳は墳丘長が30mに達するもので、丘陵を削り扁平にさせた後積み上げていた。 埋葬施設は横口式石槨構造で、被葬者は木柱で骨組を立てた後、石室に安置された。
 石槨から、鉄製大刀と鐵矛(鉄槍)、鉄斧、 サルポ(鏟、살포)などの鉄器類をはじめとして、多量の玉と短頚壷、碗(鉢), 棺釘(꺾쇠)と鎹(かすがい、꺾쇠)数十点などが収集された。
また周溝では、日本では埴輪と称する円筒形土器をはじめとして伽耶系器台, 短頸壺、碗、長卵形土器などが出土した。
 調査団は、5世紀に築造した横口式石槨墓(횡구식 석곽묘)は、栄山江流域では霊岩沃野里方台形古墳(全羅南道記念物84号)が唯一だったとして、今回の発見を重要視している。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2013.2.20 康津・永波里古墳 韓国で14番目の前方後円墳が見つかる
 2008.11.22 韓国の前方後円墳 海南龍頭里古墳を発掘調査 6世紀中頃築造
 2010.10.25 全南霊岩・沃野里方台形古墳 4本の木柱を立てて石室壁を築造した横口式石室墓(앞트기식 돌방무덤)を発見、埴輪も出土

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韓国全北南原市・斗洛里古墳群32号墳 5世紀後葉頃の金銅履物と獣帶鏡が出土

2013年08月12日 | 韓国の遺跡・古墳など
 全北大博物館は11日、全北南原市阿英面斗洛里古墳群(남원시 아영면 두락리 고분군)のうち32号墳を発掘調査した結果、墓が直径21mの楕円形の封墳であり、主石槨と副葬槨を別に設置した伽耶系古墳であると発表した。 出土した金銅履物と土器からみて築造時期は5世紀後葉頃とみられる。

 出土品は、金銅履物、青銅鏡(獸帶鏡)、土器類40点、鉄器類100点以上、馬の頭骨(祭祀用?)など
■金銅履物:打ち出し技法で菱形模様を表現しており、益山笠店里古墳、羅州新村里古墳出土他の百済金銅履物と類似する。
伽耶系古墳での金銅履物出土は初めて。
■青銅鏡: 直径約17.8cmで墓主人公の頭の上で発見された。 前面には朱漆と麻・木綿などの木質跡を確認。 全体的な形態、大きさ、突起、構造から武寧王陵出土獣帯鏡と似るという。 ただし、武寧王陵出土品より時期は30年ほど先んじる。
[参考:聨合ニュース]

備考)
金銅履物は日本では金銅製沓と呼ぶのが一般的か。
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慶州・金冠塚で出土した環頭大刀に「爾斯智王」銘文を確認

2013年07月03日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立中央博物館が3日、1921年に朝鮮総督府が発掘した新羅時代の積石木槨墳の慶州・金冠塚(금관총、5世紀中後半に築造)で出土した環頭大刀に「尒斯智王(爾斯智王=이사지왕)」という字が確認されたと発表した。
 環頭大刀を保存処理する過程で、鞘先金具(金銅)に銘文が刻まれていることを確認して、これを判読した結果「尒斯智王」という字を確認した。「尒」は「爾」の俗字で、爾斯智王となるが、三国史記と三国遺事に登場する新羅上古期王の中で誰に該当するかは明らかにすることができなかった。
 鞘先金具の裏面には「十」という数字あるいは記号が確認された。 さらに鞘口金具には「尒(爾)」という字が刻まれていた。
 また、国立慶州博物館が保管する金冠塚出土の他の環頭大刀でも「尒」、「八」、「十」という文字が確認されたと博物館は付け加えた。
[参考:聯合ニュース]

読み:爾斯智王=이사지왕=イサチ王
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1600年前の新羅騎馬武者の札甲を復元

2013年04月26日 | 韓国の遺跡・古墳など
 2009年に慶州チョクセム地区(경주 쪽샘지구)で発掘した1,600年前の新羅時代の札甲(비늘갑옷인 찰갑)が復元された。
 発掘した国立慶州文化財研究所は、29日午後2時に慶州市皇吾洞チョクセム地区の新羅古墳発掘調査現場で公開する。
 この鱗鎧は2009年3月、チョクセム地区の新羅古墳であるC地区10号木槨墓で馬甲と共に出土した。 墓築造年代は5世紀前半頃と推定される。研究所は収集した鉄片に対して部位別分離作業を通して、冑と頚甲、胴札、上膊(腕)札(臂甲)、腰札、裳札、脚(大腿甲・下腿甲)部分に鱗鎧が構成されていたことが分かった。
[参考:聯合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2009.6.3・慶州市チョクセム地区で5世紀前半頃新羅の完璧な鎧セットが出土
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慶北漆谷郡・観湖山城 6~7世紀に築造された石城を確認

2013年03月19日 | 韓国の遺跡・古墳など
 漆谷郡は14日、(財)ハンビット(한빛)文化財研究院に慶北漆谷郡若木面観湖里にある観湖山城(칠곡군 관호산성)の学術調査を依頼した結果、今回の調査で地表面真下に石で作った城壁が現れ、これまで土城と呼ばれていたが、6~7世紀に築造された石城と確認されたと発表した。
 観湖山城は、洛東江そばの丘にあり、全周1.8km、城壁一部を自然丘陵と絶壁を利用して作ったピーナッツ形状の城である。
 ほぼ同じ時期に作られた城は京畿 華城の党頂城(唐城、화성 당항성)、忠北忠州の南山城(충주 남산성)などがあり、また、同じ特徴を持った城は忠南公州の公山城(공주 공산성)、扶余の扶蘇山城(부여 부소산성)がある。
 専門家はこの城が、新羅が三国統一のために北進した時期に拠点とした治所城の役割をしたとみている。
[参考:2013.3.14 聯合ニュース]
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金海市・大成洞91号墳 韓国最古4世紀前半の「ローマン・グラス」が出土

2013年03月10日 | 韓国の遺跡・古墳など
 金海市は8日、4世紀前半(西暦340年前後)に築造された金官伽耶王級墓である大成洞91号墳(대성동91호분)で、長さ約5㎝のガラス瓶の破片(注1)が出土したと発表した。 大成洞古墳群7次学術発掘調査時(平成24年6月4日~9月26日)に出土した。
 これまで、国内で最も古いローマン・グラスは5世紀前半慶州月城路 カ-13号墳(경주 월성로 가13호분)で出土(注2)したものだった。 大成洞91号古墳出土品はこれより70年ほど遡る。
 発掘した金海市大成洞古墳博物館は、出土したこのガラスの破片を国立金海博物館の協力を受けて国立中央博物館保存科学チームでガラスの成分を分析した。
 その結果ガラス破片の化学組成がローマン・グラス(로만 글라스)とほとんど一致することが判った。
 博物館発掘チームはローマン・グラスが金銅製遺物らと共に中国の前燕を経て入ってきたと推定している。
[参考:聯合ニュース]

(注1) 鳳首瓶?の取っ手の部分
(注2) 「ローマ文化王国―新羅」(由水常雄著、新潮社2005年5月改訂新版)に書かれている波状文杯(復元推定:波高12.5cm、口径11.8cm、5世紀)と思われるが、金冠塚の波状文台付き杯(5世紀)や皇南洞第98号南墳の波状文網目文杯(4世紀末~世紀前半)と共通する技法と意匠感覚によって作られた作品であるが、製作年代は、それらよりもやや降るであろうとしている。

過去の関連ニュース・情報
2012.9.16 大成洞古墳群88号墳と91号墳のその後
 91号墳墓は4世紀第2四半期築造と見られ、龍文金銅辻金具、金銅鈴など慕容鮮卑系の遺物が出土した。
2012.8.9大成洞古墳群 4世紀の木槨墓2基を発見 うち1基は鮮卑族との交流を示す遺物が出土

2012.9.8 三次市・松ヶ迫矢谷遺跡 3世紀前半の方形周溝墓から出土したガラス玉はローマ帝国産か
2012.6.22 長岡京市・宇津久志1号墳 副葬品として出土していた重層ガラス玉が古代ローマ製

キーワード
로만 글라스 ローマン・グラス ローマガラス Roman Glass 
유리 琉璃 ガラス 
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康津・永波里古墳 韓国で14番目の前方後円墳が見つかる

2013年02月20日 | 韓国の遺跡・古墳など
 民族文化遺産研究院は20日、これまで全南霊岩と海南など栄山江流域で13基が発見された古代日本の墓様式「前方後円墳」が康津・永波里でも発見されたと発表した。
 今回発見された康津永波里古墳(강진 영파리 고분)は、平面形状は前方後円型で、長軸は東-西方向で、方形部を東側に、円形部を西側に置いている。 古墳の規模は残存全長が67mで、円形部直径38m、円形部高さ7mである。方形部は流失が激しくて正確な規模の把握し難いが、現在の規模は連結部幅20m、方形部長さ27mだ。
 民族文化遺産研究院は永波里古墳とともに月南寺址を併せて、康津地域の古代社会を明らかにする必要があるとしている。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2008.11.22 韓国の前方後円墳 海南龍頭里古墳を発掘調査 6世紀中頃築造
 2012.12.4康津郡・月南寺址 高麗時代創建と伝わる以前の百済時代(6~7世紀)の瓦が出土

追記 2013.10.11
 2013.6.11付け韓国の康津日報に、5月26日に京都と大阪の学者10人ほどが、当古墳を見学に訪れたと報じている。6世紀初めに築造されたようである。
 名前が出ているのはお二方。コメントが書かれていた。
滋賀県立大学田中俊明教授: 「康津で日本式古墳の形の前方後円墳が発見されたのは、6世紀初めに康津と日本の間に多くの交流があったことを証明する。 海洋交流が活発だった両国は、多くの文化を与えあっていたことだろう。」
 大阪文化財研究所岡村勝行副所長は「6世紀初め、百済と日本の多くの交流をしたら日本の陶工たちがこちらに来て、埴輪を作ることもあっただろうし、ここの人々が日本に渡って来て製作技術を学んだこともあっただろう。」
 
 「歴史を支配被支配の概念で解釈する必要はない。過去の二国の交流を踏まえて、今日の二つの地域がより良い交流をしたらそれはまさに歴史ではないか。」と結んでいる。

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全北長水郡・三峰里古墳群 伽耶時代6世紀頃築造の3号墳から馬具類など出土

2013年02月20日 | 韓国の遺跡・古墳など
 全州文化遺産研究院は19日、三国時代の古墳26基が密集した長水郡三峰里古墳群(장수군 삼봉리고분군)中、直径約21mの3号墳を発掘調査し、墓構造を確認して馬具類をはじめとする多くの遺物を収集したと発表した。
 3号墳は長楕円形の封土墳墓で、墓中央に主石槨1基(長さ4.9m)を中心に周囲に石槨墓6基と土壙墓1基があることが確認された。
 短頚壷3点、長頚壷1点、鉢形土器1点などの土器類と馬轡、輪鐙、鞍橋、具2点、雲珠等の馬具と馬具装飾類、大刀と小刀、鉄鏃、鉄鎌、鉄矛、鉄斧などの武器類、木棺に使った鎹と金製輪などが出土した。
[参考:聨合ニュース、全北中央新聞]

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新安郡・上苔島 6世紀中後半~7世紀の大規模百済共同墓地を発掘

2013年02月14日 | 韓国の遺跡・古墳など
 馬韓文化研究院は13日、上苔島(상태도)北側、上台西里一帯の古墳遺跡に対する発掘調査と精密地表調査結果、6世紀中後半~7世紀にわたって作られた百済時代の墓38基を確認したと発表した。
 全南地方百済古墳遺跡中では最高の密集度を見せるとしている。
 6基の古墳を発掘調査した結果、全て石室墳であった。 石室が巨大な天井石を使用して自然岩盤を最大限に利用している点などから独特の構造を見せるが、百済中央で使用した石室形式を忠実に従おうとしたという点が注目される。
 これら石室内部では盗掘のために、遺物がほとんど残っていないが、形土器や小さい壷、棺釘、葬式を執り行う時に犠牲として使ったとみられる牛の歯などが収集された。 最近になり、百済墓から動物骨が時々確認される。
[参考:聨合ニュース]

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蔚州・霊鷲寺址 典型的な統一新羅時代の伽藍配置である双塔一金堂式構造を確認

2012年12月31日 | 韓国の遺跡・古墳など
 蔚州・霊鷲寺(영축사)は蔚山広域市蔚州郡青良面粟里(울산 울주군 청량면 율리 822-1)に位置し、1998.10.19に蔚山広域市記念物第24号に指定されている。
 13世紀末に高麗の高僧一然(1206-1289)によって書かれた三国遺事によれば(注1)、新羅第31代神文王3年(683)に宰相・忠元公が建議して建てることになったという。
 (注1) 寺中古記云。新羅眞骨第三十一主神文王代。永淳二年癸未[本文云元年, 誤]。 宰相忠元公。萇山國[卽東萊縣。亦名萊山國](注2)。溫井(注3)沐浴。還城次。到屈井驛桐旨野駐歇。忽見一人放鷹而逐雉。雉飛過金岳。杳無蹤迹。聞鈴尋之。到屈井縣官北井邊。鷹坐樹上。雉在井中。水渾血色。雉開兩翅。抱二雛焉。鷹亦如相惻隱而不敢攫也。公見之惻然有感。卜問此地。云可立寺。歸京啓於王。移其縣於他所。創寺於其地。名靈鷲寺(注4)焉。
 (注2) 萇山國(=長山国、장산국) :釜山広域市東菜(동래)区の昔の地名。朝鮮王朝時代に現在の釜山広域市一帯を管轄する東莱府が置かれた。15世紀末に書かれた東国輿地勝覧(1481年編纂、1487年刊行)に東莱県についての説明があり、東莱温泉のことが触れられている。
 (注3) 温井=温泉。東菜温泉のことと思われる。
 (注4) 靈鷲寺: 「完訳 三国遺事(金思訳)」(1980 六興出版)などでは、慶尚北道迎日郡長鬐(장기)面(現・浦項市長鬐面)に比定しているが、今回の考古学発掘を通じて霊鷲山にあるこの寺址が靈鷲寺址であることが確実となった。

 蔚山博物館は10月15日から、霊鷲寺(영축사)址の学術発掘調査(注5)を行い、その結果、東西に配置した双塔(三層石塔)を中心として、その中心北側辺に金堂を配置したいわゆる双塔一金堂の典型的な統一新羅時代伽藍構造をした寺院と分かった。
 (注5) 霊鷲寺の範囲と規模、伽藍配置などを確認して、現場に崩れたまま放置された石塔を復元整備するための基礎資料確保のための調査
 東塔から西に43m離れた地点で西塔基壇部施設、東西両塔の中心から北(後方)10mに金堂跡を確認した。5間×5間 (16.4×16.4m)の大きさの正方形形状であった。
 東西両塔は、塔の領域を表示する地台石のある塔区が確認され、慶州・感恩寺址(감은사지)三層石塔と千軍里(천군리)三層石塔の様相と似ているとしている。 また、石を整え積み連結する方式などが、新羅地方寺院中でも寺格が高いことが分かるという。
 さらに金堂跡南(前方)約15mのところに、中門跡とみられる正面3間、側面1間(全長12.5m、幅3.8m)の積心施設を確認した。
 中門址積心施設の西の方の地点には、統一新羅時代亀趺(귀부、亀形碑石礎石)が東に頭を置いたまま位置する。 亀趺は慶州成徳王陵鬼趺(성덕왕릉 귀부)ととても似ているという。
 中門跡北側では、ある種の儀式のためにわざと埋めた鎮檀具(土器)2点が確認された。
 他に出土遺物には、8世紀頃の典型的な欧陽詢(注5)体字体を使った「物/般若/宗河」の文字刻んだ碑石片1点と統一新羅~高麗時代の大量の瓦類、統一新羅時代金銅仏像2点、石塔相輪部覆鉢片と宝輪片1点などがある。
 (注5)欧陽詢(おうよう じゅん、557 - 641)は、唐代の儒家、書家。字は信本。
 金銅仏の1点は、金堂跡本尊仏地台石から東に約1.3mの地点で発見され、幅3.2㎝、高さ7.3㎝。頭は素髪で肉髪が大きくて高く表現された。製作時期は9世紀初期とみられる。
 もう一点は東塔跡の北側地台石と下臺面石との空間で発見された。 幅2.3㎝、高さ5.9㎝で、胸などの一部分に金箔が残っていた。 やはり統一新羅時代後期作とみられる。 
 瓦類は、寺の名前「霊鷲」を刻んだものを初めてとして、「大官」、「三寶」、「三巴」のような文字を刻んだものも出土した。
[参考:2012.12.13聨合ニュース、「完訳 三国遺事(金思訳)」(1980 六興出版)]

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京畿義王市・円通寺は世宗妃・昭憲王后の願刹

2012年12月19日 | 韓国の遺跡・古墳など
 京畿道義王市(注1)清渓洞清渓山の中腹に跡だけが残った円通寺(원통사)という寺(注2)は、朝鮮第4代世宗(1397-1450)の昭憲王后沈氏(1395-1446)が発願して重創した朝鮮王室の願刹であった。
(注1)2007年に儀旺市から義王市に改称
(注2)ソウルの南にあり、漢江を越えて約15kmの距離。清渓山(標高618m)の中腹、南西斜面にある。
 水原大博物館は11日、義王文化院の依頼で行った円通寺址の調査過程で、このような事実を裏付ける決定的な文献記録と考古学遺物を同時に発見したと発表した。
 文献記録は、朝鮮前期代の文臣であり世祖時代の高僧・慧覚尊者信眉(1403-1480)の弟である金守温(1409-1481)文集の『拭疣集』で、昭憲王后が発願して重創し、それを再び彼女の末の息子・永膺大君(1434-67)がより一層大きく重創した事実を記録した『円通菴重創記』である。
 この重創期によれば、円通寺は昭憲王后が君主世宗の萬壽無彊(ばんじゅむきょう)を祈願して内需司に命を下して、洪煕乙巳(注3)、すなわち、世宗7年(1425)に僧侶海幢を代表に選んで重創したという。 この時、南向の仏殿(注4)を中心にその両側(東西)に禅堂と僧堂を建てた。
(注3)洪熙(こうき)の年号は、明朝第4代洪熙皇帝(1378-1425)の在位期間1424-1425に当るもの。
(注4)1425年に重創する前の建物はこの仏堂があるが、他には不明。
 その後、世宗11年(1429)に応真殿を建てたこと、さらに、昭憲王后死後には世宗と王后の間の8番目息子であり首陽大君世祖(1417-1468)の弟である永膺大君(1434-1467)が、龍門寺住持出身である大禅師戒眼を招聘して寺刹容貌を大々的に一新して世祖8年(1462) 8月には落成式を記念して大規模法会を開いたことなどが記されている。 これからみて、円通寺は昭憲王后の願刹に間違いないとしている。

 考古遺物としては、「洪煕」という年代を刻んだ瓦が発見された。「洪熙」は1425年の1年だけ使用された中国明国年号であり、この年はまさに金守溫の円通庵重創記で記している昭憲王后が円通庵を創建し始めたその年である。 2001年に世宗大博物館が円通寺址の地表調査を実施したことがあり、この時、「洪○」という銘文瓦が収集されたが、今回の調査で「洪煕」という字だったことが確認された。

 王室願刹として繁栄した円通庵が朝鮮中期以後に編纂された『新東国輿地勝覧』(1530編纂)では円通寺の名前が見られないことから、これ以前のある時期に廃寺になったとみられると推定される。
[参考:: 聨合ニュースほか]
 備考:記事の内容に腑に落ちない部分もあり、また、円通菴重創記の原文がわからないので、推定をまじえてまとめてみた。

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韓国江原道寧越郡・興教寺(世達寺)址 弓裔が出家した地、統一新羅末の瓦類が多量に出土

2012年12月16日 | 韓国の遺跡・古墳など
 中部考古学研究所は14日、興教寺(흥교사)場所に対する発掘調査を実施した結果、寺刹関連建物跡約10棟をはじめとする統一新羅時代から高麗時代瓦の破片と鴟尾(望瓦)、青磁片などの遺物を多量に収集したと発表した。
 興教寺は三国史記弓裔列伝によれば、王の側室の子として生まれた弓裔(궁예、857/861?-918)は、王の殺害命令を受けたが、乳母の助けで慶州を脱出し、この地域の実力者、箕萱(기훤)に寄託する前まで僧侶として生活した寺刹である。 興教寺は高麗時代の名前であり弓裔当時には世達寺(세달사)といった。
 世達寺あるいは興教寺は、その正確な位置が分からなかったが2004年文化遺跡分布地図を作成する過程で初めてその場所が分かり始めた。 特に今年5月26日にはその区域中で「興教」という字が書かれた高麗末あるいは朝鮮初期瓦が発見され、位置が事実上確定した。
 調査団は、統一新羅末期あるいは高麗初期に寺勢が大きかったことが窺える建物跡と遺物を確認し、さらに朝鮮時代建物跡も確認することによって興教寺が朝鮮時代に重修された可能性があるとしている。
[参考:聨合ニュース]
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韓国江原道江陵市・崛山寺址 僧房と茶室跡や「天慶」銘文瓦が見つかる

2012年12月15日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立中原文化財研究所は12日、江原道江陵市の崛山寺址(굴산사서、史跡448号)に対する発掘調査結果、僧房と茶室跡や、遼国(916-1125)の年号の一つである「天慶三年」(1113)が刻まれた銘文瓦を発見したと発表した。
 江原地域の伝統的な暖房施設である大型コクル(코클、ペチカの一種)とみられる下部構造が見つかった。
 一角から、竈(かまど)、小型鉄製釜、青銅鉢、青磁片などが出土し、茶室あるいは茶道と関連した施設と推定される。
 「天慶」は遼国最後の皇帝である天祚帝(てんそてい,1075-1128)が1111~1120年まで使った年号だ。この年号の銘文瓦は崛山寺近隣の襄陽・陳田寺(양양 진전사)で発見されたことがあり、二つの寺刹が同じ1113年に重修されたことを知らせる資料となった。
 また、遼国年号を使った遺物が発見されることにより、高麗と遼国間の活発な交流関係などが今一度現れた。
[参考:聯合ニュース]

 西暦1113年、中国の北宋では政和三年、遼は高麗と北宋の間の土地を分断する形で領有していた。この時代、高麗は遼に服属していたことがうかがえる。また、襄陽・陳田寺では「天徳」以外に「大徳」、「成化三年」の銘文瓦が出土しており、「大徳」は中国元代の1297-1307の年号、「成化三年」は中国明代1467の年号である。

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