カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

拓朗亭

2010年10月21日 | 京都
「和解。」

同じ街の違う場所にこの店があった頃、カゲロウは、一度だけそこを訪れたことがあった。
一戸建ての密集した急な坂の途中にある一軒、それがその頃のこの店の立地で、外観にしても、よくある普通の大きさの一戸建て住宅を少し改良しただけ、そのように見えたものだった。

路上もひっそりとした、ある冬の晩、ひと気のなくなったその住宅街で、寒々とした雰囲気、そして実際にも冷えた空気の中、後に妻となる人と一緒に、ひとつは冷たい蕎麦、もうひとつは温かい蕎麦を、いつも行く蕎麦屋でそうするように、ひとつずつ注文し、そしてふたりで分けようと相談しつつ、初めて入ったその蕎麦屋であったが、思いがけずも、そのささやかな望みは、終ぞ遂げられることはなかった。

その店に、温かい出汁で客に出すための蕎麦、それが用意されていなかった、そういう訳ではない。
当時から、そこそこに名の知れた、こだわりの蕎麦屋らしく、お品書きには滔々と薀蓄が記されている。
あまりにそれがくどくて、結局どういう種類の蕎麦が提供できるのか、ちょっとわかりにくい、そういう本末転倒な不手際は、この手の店にはありがちなことではある。
ただ、その事はまだしも、本当に問題であったのは、そこに記されていた、その冊子の中で一際に無情な一文、温かい蕎麦、それは、初めて来店の客には提供しないとの旨、そのような意味合いの通告であった。

公然たる依怙贔屓、あるまじき作り手本位なその我儘、呆気にとられる。
常連に対する贔屓、それは、あっても仕方のない事ではあるが、それをルールとして明記するとは、客商売として、ちょっと勘違いが過ぎるのではなかろうか。

二十歳そこそこの若いカゲロウが、いくらか傲慢な性格であったとしても、そこは積み重ねられた知識、経験に裏付けされた確固とした自信がある、そういう訳ではなく、本格派と謳われる蕎麦屋の述べるその薀蓄に、迂闊に口を挿み、温かい蕎麦を所望し、一喝される危険をあえて冒す事などできる筈もなく、寒い夜に、冷たく量も少ないざる蕎麦を、ふたりさめざめと啜って、言葉もなく席を立ち、家路につく、そうするしか他はなかった。
別に客もおらず、かといって店主は、おとなしいが、どことなく不満気なふたりにかける言葉も見つからず、巡る季節も店内の雰囲気も、そのような寒々とした状況での食事。
戸外に佇む闇の深さを感じつつ、望みとは違う冷たい蕎麦、その質の良し悪しなど、言うまでもなく、わかるはずもない。

遠い昔、そんな事があったのを、カゲロウは蕎麦を食べるその時には、頭の片隅で、今でも時々思い出す。

勿論そんな思いをしてまで食べたい蕎麦など、この世に存在する訳もなく、その後、再びその場所に足を運ぶこともなかったのは、当然の事である。
その蕎麦屋が少し離れた場所に移転し、その界隈では一等地であろう、国道沿いのラーメン・チェーンの居抜きで入ったその時にも、未だ怒り心頭という訳ではなかったにしろ、あの頃の高飛車な姿勢は何だったのか、わざわざ目立つ地所に店を構えるその在り方、浅はかにして軽薄だとせせら笑う自分がどこかに居て、所謂わだかまりというものが、人の心から長く消え去るものではないその事を、誰に問われるまでもなく自ずから知ったものであった。

ただ、近隣の外食事情全般に思いを巡らすのであれば、この地域、そう言っては気の毒な対象も、もしかしたらあるのかもしれない、だが実際のところ、満足できる料理店、いささか不毛の土地ではある。
ある意味、魔の交差点とでも言うべきその地点に程近い、一見、好立地に見えるその一角も、何度も入れ替わり立ち代り大手飲食チェーンが居抜きでオープンしてはみるものの、結果、最終的に、ケンタッキー・フライドチキンが撤退したその後は更地になってしまい、もう誰も手をつけない、そのような土地柄であるのは、事実である。
そこから幾らかしか離れていないその場所に、この蕎麦屋は、何を思ったか、移転してきた。

あえて大通りに出て、マイナーだが気位の高い、そういう蕎麦屋としてではなく、あらゆる飲食店と同じ土俵に上がり、商売として、本気で勝負しようという心意気、そのようなものは、多少の反感は抱けども、否が応でも感じずにはいられない。
しかし、お互いの強情から疎遠になっていたその関係上、前を通れば必ず目に付く看板ではあるものの、すんなり入店しようという気にはなれないのも、実際である。
十年以上も経ち、移転してさえそのように言われるのは、ある面、お店にとって気の毒な事であるのかもしれない。
だが、おおよそ人の記憶、そして心というものは、そういうものであり、それは、今現在為している事柄、それも事によっては十年、それ以上経っても、そう都合良く周りの人々に忘れ去ってもらえるものではない、その事は、誰しもが肝に銘じておかなければならない。
おそらくそれは、間違いのない現実である。

それはともかく、驚いた事に、更には何を思ったか、この店舗に移ってから、歴とした蕎麦屋の看板を上げつつ、蕎麦屋として変わらぬ評判があるにもかかわらず、ちょっとあり得ない話ではあるが、カレーを提供しているという噂も聞く、この拓朗亭。
蕎麦とカレー、組み合わせとして、完全な邪道であるという印象は抱きつつも、嘗てあのこだわりで売った蕎麦屋が、如何にしてどのような心境の変化により、そのような事態になり、いや、むしろ陰険な言い方をすれば、陥ったと言っていい程の情況となり、そして、実は、それが最も大きな関心事であり、厚かましくも本心なのではあるが、その蕎麦屋で提供されるカレー、それは、実際のところ、旨いのかどうか、それが気にならないはずがない。

個人的な休みの日が、その店の定休日と被っていた、それもあって、なかなかに縁が見い出せなかったのではあるが、先日、やっとと言うべきか、営業日、近隣に別口の所用もあり、十年ぶり以上に、少々気まずかった、移転前と同じ名のこの店を、今現在は妻となった、以前と同じくその人とふたり、訪れてみようという事になった。

少々身構えつつ入ったその店内は、きちんとリフォームされ、清潔感はあるものの、チェーン店の居抜きの間取り、イメージ、そのままである。

蕎麦屋としても、どちらかと言えば、少々強気な価格設定のその中に、他の蕎麦メニューの多くよりも安い、千円以下という価格帯で、そのカレーは提供されている。
その事には、あえて意図があり、そこにはある種の覚悟を感じさせる。
例えば、家族で食事に出掛ける場合、蕎麦を食べたいお父さんがいても、大概の子供というものは、一緒にぼそぼそと、ざる蕎麦など食べたくはない。
だが、そういう時に、その同じ店に、もしカレーがあれば、何とか家族揃って来る、そんな事も、出来なくはない。
例えば、ふたり連れの内、ひとりだけが蕎麦を食べたい、そんな場合でも、もうひとりのためにカレーが用意されていると、そういう訳である。
この店に訪れてもいいと思う人、その底辺の拡大、このカレーの存在は、間違いなくそれに貢献するであろう。
そうして、何度も訪れるその内に、いつものカレーではなく蕎麦を食べてみようという年代に子供は育ち、その子もいずれ大人になる。
そして、このカレーのある変わった蕎麦屋は、蕎麦好きの大人が、まだ蕎麦の魅力に気付いていない自分の子供を連れて来る事が出来る、稀有な店、そのようになる。
それでいいのではないか。

ただ、このカレー、やはりこだわりの人の作るカレーというべきなのであろう、一般的な普通のカレーとは、全くもって言い難い。
名前はチキン・カレー。
勿論、具材にチキンの塊が入っているので、その意味合いを除けば、名前的には、ただのカレー、それのみの表記である。
しかしながら、外見は勿論の事、食感、その風味、ちょっと他にはないカレーであるというのが実際で、味覚的な辛味は然程ないにもかかわらず、顔面からじわりと汗が染み出てくるスパイスの効き具合である。
舌触り、ザラザラとしていそうな外見とは裏腹に、小粒ながらも立体的な粗挽きの何かが、柔らかく抵抗なく咀嚼できるのが、少々意外ではある。
その粗挽きの何かが何なのか、今ひとつ理解及ばず、変わっているなと思いつつ食べ終わったその後には、次回もう一度試してみたいという欲求に駆られる事、必至である。
更にご飯に言及するならば、蕎麦の実が配合されている。
食感だけでは、ちょっと米と区別がつかない柔らかさを持つその実は、外見上は明らかに米とは別の柄である。
他で見たことのない雑穀米であり、意外と食べるのに違和感がないというのが、比較的好ましい。

そして、言うまでもなく、蕎麦は当然のこと、旨い。
何の抵抗もなく、喉を滑っていく。
ある程度以上の蕎麦の出来に、文句など付けようもなく、そこから先は、個人の好みの問題なのであって、その質に優劣などというものは存在しない。
それがあると思っているのであれば、それこそが、いただく側の傲慢とでも言うべきものであろう。

しかし、そして更にと言うべきか、これは完全に行き過ぎなのではあるが、蕎麦サラダなどというものまでもが、カレーの付け合せに提供される。
洋風のドレッシングで和えてある蕎麦、それが普通に言って、何に近い風味であるのかといえば、マヨネーズであるのは、薄味ながら絶句ものである。
何があったのか、少々壊れ気味と言っても過言ではない、蕎麦に対する価値観の変化であると思わざるを得ない。
ただ、以前の場所で営業していた、如何にも凝り固まった何かにがんじがらめになり、可愛気のなかったあの頃と比べ、破れかぶれではあるのかもしれない、けれども、ここには以前の場所にはなかったユーモアがある。
邪道はどこまで行っても邪道ではあるが、それを恥じる事はない、胸を張って邪道であると言い切れば、それでよい。
これらを食し、その有様を見て、何故か、このお店の味方ででもあるかのように、そういうふうに感じないこともないというのは、我ながら不思議ですらある。

いずれにせよ、もうここまで行くと、笑わざるを得ない。
以前の仕打ちで、少々不機嫌になっていた自分が馬鹿々々しい、そのくらいの、拘りのなさ、嘗ての頑なさ、その放棄である。
実際には、お品書きには、その昔の片鱗が見え隠れしないではないものの、なんだかんだ言いながら、錯乱しつつもサービス精神旺盛に、そこまでやってくれる、そうなのであれば、以前の事は水に流そう、でも、その蕎麦サラダだけは止めた方がいいよ、そう助言したくなる、そのくらいの大らかな気持ちにさせられてしまう。

そんなこんなで、何となく気まずかった、そんな人と、特に謝罪のやり取りや、明確な反省の意思表示があった訳でもなく、逆に小難しい対話で更に拗れるでもなく、今現在の在り方、そして内なる笑いによって、全てがうやむやの内に和解した。
そのようにして満足してしまうのは、お互いにとって、都合の良すぎる話なのであろうか。

いや、世の中、こんな成り行きも、たまにはあっていい、そうに違いない。