カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

丸太町十二段家

2010年10月30日 | 京都
「普段使いのすゝめ。」

旅行者、観光の方、それだけで、何時もいっぱいのイメージがある、京都、丸太町通りの十二段家。

こちらのお店の、1,050円で提供される「すずしろ」というメニュー、それは、世間で言うところの、出汁巻き定食、そのものであり、出汁巻き、お漬物、ご飯、赤出汁、そして、お茶、内容は、それだけです。
お茶とご飯は、おかわり自由、そうは言っても、地味なメニューである、その事に、変わりはありません。
普通に言えば、到底ご馳走とは言い難い、普段戴く程度のお昼ご飯、それ以上でもそれ以下でもない、そんな内容。

正直、わざわざ外食で、所謂そのような、社食、学食的なメニューを戴こうという気には、なかなかなりません。
その上、観光客で何時もいっぱいという事になると、まずその気になれないというのが、この場所ならばいつでも行ける、そういう処に住まう者の実際でした。

前を通りながら、ああ、また少し人が待ってる感じだなぁ、と思いつつ、いつも通り過ぎていたのですが、先日、申込みの通った御所見学のついでに、ついに立ち寄ってみました。

運良くタイミングが合ったようで、空いていた一席に待たずに通され、とても幸先が良い。
給仕の若い男性は、こちらが恐縮してしまう程の低姿勢で、おそらく何があっても許せてしまうだろう、入店当初からそう思わせる謙虚さです。

先ずは、赤出汁、流石です。
非常に程良い、全く過ぎたところがありません。

ご飯は、お櫃に装われていて、実質、茶碗二杯半程度の盛りでしょうか。
自分の手で茶碗に装った感じ、少し柔らかめかと思えたのですが、実際口に含んでみると、一粒一粒が瑞々しいながらも独立していて、型崩れし、塊になってしまったりと、そのような事はありません。
ご飯が好きだと公言する人の多くの好みは、硬めである、その事実を思うと、柔らかい、なのに、旨いとしか言い様がないであろう、こちらのご飯、それは案外、特殊であるような、そんな気さえいたします。

お漬物は数種、例えばこれと同じだけの品数を、錦市場で揃えて、戴こう、そう思うのならば、ちょっとした金額になるのは必然で、この各々の味わいを、一度の食事で戴ける、それは意外と、外食であっても、ありそうでない、そんな内容なのかもしれません。
ただ、お漬物とはいえ、そのどれもが予想外に癖がなく、あっさりしたもので、如何にも深く漬かった、ある種の異臭を放つ代物を期待される、そのような方には、少々物足りない風味であるのかも知れません。

そして、出汁巻きは、始めは一切れ、何もかけずに戴きます。
正にこれこそ、何も言う事はありません、勿論、良い意味で。
さらに一切れ、少し醤油を滴らし、戴きます。
これも良いですな、醤油がよく馴染みます。
そしてまた、何もかけずに戴きます。
やはり、醤油がなくとも、良いですな。
では、お漬物と一緒に、戴きます。
お漬物と出汁巻きの味がしますな。
と、その内に無くなります。

さて、いよいよお茶漬けです。
ご飯の上に、少しお漬物を載せて、お茶をかけます。
お漬物を中心に、ざっとご飯をかき込みますと、少々お漬物の風味が中途半端になって、ぼやけてしまっているようです。
こちらのお茶漬け、どうやら、お茶とご飯だけで味わう、それがよろしいようです。
お茶漬けは少しにして、やはり普通に、ご飯をお供で戴く、そういう事にしましょう。

ご飯が美味しくて、お供は少しで済んでしまうので、必然的にご飯をたくさん食べてしまいます。
おかわり自由なんですが、お腹の容量は無限ではありません、限界は必然的にやってきます。
物分り良く、ふたりでお櫃に一杯だけ、おかわりを戴きました。

給仕の男性は、非常に良いタイミングで、差し出がましくなく、おかわりを促してくれます。
なんと感じの良い方でしょうか。
途中、電話があって、無理な予約を入れようとするその客にも、準備の必要な「しゃぶしゃぶ」以外のメニューでは、予約は受けられない旨を、実に丁寧に、優しく諭しておられます。
店主に代われと電話口で言ったのであろうその客は、はたして無礼な予約を勝ち得たのでしょうか。
最終的にどのような結論であったのか、それは定かではありませんが、是非とも却下されている事を望みます。

そして、このような誠実を絵に描いたような実質的なお店では、例えば、連れてきた子供が泣き止まない、そのような事があるならば、夫婦の内のひとりが、一旦外に連れ出す、そのくらいのマナーは、心得ていてもらいたいものです。
いくら誠実で気の付く給仕さんでも、そこまでは面倒見切れません。

最後、お会計を済ませ、お店の扉をくぐるその時には、正直、経験したことがない、そのくらいの誠実さで、お礼の土下座をしていただけます。
あまりの低姿勢に、こちらまで土下座したい、そのような気持ちになる、それ程の土下座です。
引き合いに出すならば、三条京阪駅前に有る「土下座像」、一見したところ、お侍ゆえか、ここ十二段家の給仕さんに比べれば、まだまだ頭が高い。
勿論、お礼の意味での土下座なので、そんな風情は無くて然りなのではありますが、人間、卑屈にならずして、ここまで心から人に頭を下げられるものなのでしょうか。
例えば、外回り営業で少々嫌な思いをしたその時でも、少し時間を取ってこちらで食事を戴き、その給仕さんの、あまりの礼儀正しさに接すれば、色んな意味で、たちどころに心が晴れる、そんなような事も、無きにしも非ず。
人間、そのような示唆が本当に必要な状況というのは、偶の旅行で浮かれてるような、そんな特別な時ではなく、日常的な、そのような場合であるようにも思えます。

最後に、現金な話で何なんですが、千円程度のお代金でここまでしてもらう、それは、本当に恐縮してしまう出来事です、こちらとしても。
たとえ料理抜きにして、その土下座、それだけでも、充分に千円の値打ちがあります。
常日頃からそのような接待を望んでいるという訳では勿論なく、人の土下座を金で買うような物言いになり、大変心苦しいのですが、実際、どのような仕組みによって、然したる対価もなく、しかしそれでも人が卑屈にならずに、ここまで美しく謙虚で在れるのか、自分の心の内に問うてみても、非常に興味の湧くところではあります。

全国から観光客が大挙して訪れる、ある意味、権威であるこの十二段家、しかしその権威というものが、いかにして、敬意、それをも含んだ名声と成り得たのか。
それは、行けばわかる、言うまでもなく、お料理、それだけの事ではありますまい。
そして、現在進行形で、権威であり続ける今も、変わらぬのであろうその低姿勢、おそらく人に敬意を持たれ、同時に親しまれ続ける、そう在るためのヒント、それが、このお店の在り方には、存分にある。
そのように思う次第であります。

とはいえ、実際には、お店によっては、そのような類の事、それすらも、何万円かのお代に含まれている、そうなのだろうとは思いますが、本当のところ。