カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

Lucci

2011年10月29日 | 大阪
「昇段、可能店。」

そのニュアンス、雰囲気が掴めるかどうか、それが何かを理解する時に、最も重要なことであると、個人的には感じている。

それは何に限らず、勿論、料理であっても同様のことで、食べるだけの身であればいざ知らず、作る側の身になってみれば、その曖昧な能力の有無が、結局、最も重要で、調理の詳細、そのような類のものは、後の経験によって幾らでも補完され得るが、その味覚的美とでもいうべきものは、おそらくは、少なくとも、ある一定の幼少時を過ぎれば、後天的には最期まで身につくことはないと、世間の諸々を見ていてカゲロウは感じるワケである。

旨いも不味いもその感じ方というものは、結局は個々人、各々の嗜好であると、そのような逃げ口上を、この期に及んで述べたところで、何になるであろう。
そんな言い訳に左右されることのない、絶対音感ならぬ、絶対味覚とでも言い得るものを、このルッチの若きシェフは、持っている、そう感じさせる風味が、彼の料理にはあるワケである。

ランチのパスタ、その選択可能な二種類は、全く別の風味でありながら、どちらも同じく、非常に高いレベルの旨さ、そう言い得る風味があると、あくまで、大まかに、味覚的雰囲気として感じさせるものが、其処にはあるのだ。
つまり此処では、何を食べてもそのレベル、もしくはこのレベル以上の旨さであろうこと、それは、おおよそ間違いのないことであろう。
それは、当たり前のことのように思えるのかもしれないが、実際、現実には、そうでもない場合が、実は世の中、おおよそでもある。

そして一聴、逆のように感じられる定義なのかも知れないが、例えば、数字を頼りにするような、マニュアル的な調理しか出来ないシェフに、安定した旨さの料理を作り続けることは、きっと出来ないであろう、それが真実のように、カゲロウには思える。
大切なのは、常に勘であり、そのニュアンスの把握、その匙加減なのである。

その勘を、持てる者と持たざる者、その差違というものも、事細かに定義すれば、やって出来ないこともないであろう、だが、そんなことは、ハッキリ言って時間の無駄である。
天才を持つ者は、当然それに向いている、持たない者は、向いていない、別の仕事を探した方が無難である、只それだけのことであると、こういう味わいに出会うと、思わざるを得ない。

店の造りは至ってシンプルで、悪く言えば、この料理の風味がなければ、それ以外の要素で集客するには、ちょっと厳しいのではないかと思わせる、その程度の雰囲気ではある。

実際、料理など、レンジでチンでありながら、それでも客足の途絶えない店というのも、世の中にはごまんとあるワケで、雰囲気のみで客から金を取ることも、そんな御店の在り方、世の常套手段のひとつであるのは言うまでもない。
だが、だからといって、その手の魅力というのが、あらゆる御店にとって必須要素であるのかといえば、それは勿論そうでもなく、突出して料理に自信があるからこそ、そういう余計な華々しさは必要ない、むしろ邪魔なくらいであるという、そんな男っぽいポリシーすら、この店は漂わせている、そうとさえ言い得るのかもしれない。

だが、ただ、ひと言、その男っぽさが裏目に出ているかのような実際、店の表に停められた店員のものであろうスクーター、ナンバーが捲れ上がった、如何にもなその風体、そのデリカシーのなさに象徴されるものは、それがどのような商売であれ、あらゆる意味でマイナスにしか作用しない要素であることに、この天才的味覚を持つ、若く礼儀正しきシェフは、早々に自覚的になるべきであろう。

Lucci イタリアン / 池田駅
昼総合点★★★★ 4.0